2014年05月28日

障害者介護とともに生きる恩人の、ひとつのくぎり

お世話になっている方のお母さんがなくなられ、
隠岐の島であった葬儀にでかける。

わたしが介護の仕事をはじめたのは、
そのひととであえたことがきっかけになっている。
自分がこれからどう生きていけばいいのかわからなかったとき、
たまたまそのひとがおられる共同作業所で仕事をえることができた。
33歳と、年齢だけはいっちょまえでも
まともに仕事をつづけたことがないわたしに、
そのひとは仕事のやり方とたのしさをおしえてくれ、
自分への自信をとりもどすことができた。

1990年代には、共同作業所という名前の介護事業所が
日本中につくられていた。
社会福祉法人が経営する施設だけではぜんぜん数がたりず、
かといって厚生省(当時)はそれ以上の施設をふやすことに消極的だった。
そんな状況のなか、活動の場からはじきだされた障害者のいきさきとして、
無認可の作業所をつくるのがおもな方法となっていた。
無認可とは、文字どおり公的にはみとめられていない事業所のことで、
行政としては自分たちが依頼していないのに、
かってにつくって活動している、という位置づけをしていた。
あなたたちがすきでやっているのだから、
わたしたちにはお金をだす義務はありませんよ、ということだ。

わたしがすむ町は、20人規模の作業所に、
年間の運営費として570万円の補助をだしていた。
20人も利用者がいれば、職員は5人は必要であり、
そんな施設を570万円でやれ、というのがはじめから無理なはなしだ。
いいとこ2ヶ月分だろうか。でも、その条件をのむしかない。
不足する運営費を確保するために、バザーを企画したり、
後援会を組織することがどうしても必要となり、
日中は、障害者といっしょに廃油せっけんなどをつくり、
夕方からは運営費かせぎの活動を、というのがあたりまえになっていた。
障害特性についての専門的な知識をえるよりも、
バザーや映画会の企画・実行がおもな仕事になっている。
いいことではないが、当時としては
そうやって仕事をつづけるしか方法がないとおもっていた。

しかし、いつまでもそうやって運営費づくりにエネルギーをむけていては、
組織として、また職員たちの体力もつづかなくなっていく。
わたしがつとめてから3年目に、その作業所は法人化をめざすことになり、
それはそれでたいへんな事務仕事をこなしながら、
立派な法人施設をつくりあげた。

これらをすべて、そのひとが中心なってやってきた。
そのひとひとりではできなかったかもしれないが、
そのひとがいなければぜったいにできなかった仕事だ。
職員や運営委員たちをまとめ、理事会を組織し、
資金の調達や設計・施行にも目をくばる。

そうやって、やっとのことでたちあげた法人施設なのに、
そのひとは3年目にやめてしまった。
わたしもべつの理由から、ほぼおなじときに退職したこともあり、
そのあといっしょにあたらしい事業所をはじめることになる。

そうやって、ずっといっしょに仕事をつづけてきた恩人が、
きょうは喪主となってあいさつをした。
自分や家族のことよりも、ずっと仕事を中心に
エネルギーをそそいできたひとなので、
お母さんよりなが生きできたのが、
いちばんの親孝行におもえた。
りっぱな仕事をいまもつづけているむすこが、
お母さんはきっとほこらしかったことだろう。
そういう生きかたをえらんできたひとが
家族や親族にかこまれて
またべつの顔をみせている。
お母さんがなくなったことで、どんな気もちの整理をされたのだろう。

わたしは介護に情熱をかたむけるよりも、
自分の生活を大切にするダメな支援者となってしまったが、
そのひとはいまも仕事にからめとられた生活をつづけ、
どんな支援がもとめられているかをいつもかんがえつづけている。
いまさらぬけるわけにはいかず、
ここまできたら、このままつきぬけていくしかないようにみえる。
そのひとと、事業所の将来について、
わたしにできるのは、もうみまもりだけだ。

posted by カルピス at 22:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする