きのうのブログに「梅ぼしをつけた」なんて
ちょっとえらそうにかいたけど、
まえから自分の家事能力がどの程度のものなのか 気になっていた。
そうじはするし、配偶者と交代で、週に3〜4回の夕食をつくる。
洗濯は、洗濯機にいれればやってくれるのだから、
まったく抵抗がなく、はれた日に洗濯ものをほすのはすきなくらいだ。
こういう人間は、客観的にみて、どう評価できるだろう。
梅棹忠夫さんが『妻無用論』のなかで
「今後の結婚生活というものは、
社会的に同質化した男と女との共同生活、というようなところに、
しだいに接近してゆくのではないだろうか。
それはもう、夫と妻という、社会的にあいことなるものの
相補的関係というようなことではない。
女は、妻であることを必要としない。
そして、男もまた、夫であることを必要としないのである」
とのべている。
いよいよわたしの時代がくるのだろうか。
タネあかしをすると、『妻無用論』がかかれたのは1959年なのだから、
わたしが家事力を発揮するには、生まれるのがすこしおそかったようだ。
『妻無用論』というと ずいぶん過激な提案にきこえ、
女性たちの気もちを逆なでしそうだ。
じっさい、発表した当時は 女性たちにたいへん不評だったという。
しかし、『妻無用論』で梅棹さんがいいたかったのは、
女性は家事労働のにない手という 妻の立場にしがみつかず、
社会にでて自分の能力を発揮すればいい、というものだ。
妻としての本分をつくせ、よりも、
ほんとうの意味で女性の側にたつかんがえ方といえる。
マキで炊事するわけではないし、洗濯機や掃除機もある。
家事労働は、むかしとはくらべようもないほどすくなくなったのだから、
いつまでも夫に依存する妻という役割はおかしくないか、という異議もうしたてだ。
『妻無用論』の発表以来、どれだけこのかんがえ方がひろまったといえるだろう。
先日の東京都議会でのセクハラヤジ事件をみればわかるように、
いまもまだ女性への性的差別は根づよく、
女性が男性とおなじ条件ではたらける環境になっていない。
また、妻であり夫であるという固定的な役割分担も
人々の意識のふかいところでいきのびている。
50年まえにくらべ 世のなかはますます便利になり、
スーパーやコンビニで調理ずみの料理をいくらでもかえる。
夫が、男であることにあぐらをかかないかぎり、
家事労働は いまやだれでもうけもつことができる。
もっとも梅棹さんは、『妻無用論』で 家事の分担をうったえているのではない。
やらずにすむ家事は、やらない、
やらなければならないのなら、できるだけ手をぬく。
そのうえで、妻だから家事をしなければならないのは
おかしいというとらえ方だ。
そうした意味からは、わたしの梅ぼしづくりなんて、
べつにいばれることではなく、
ただたんに趣味的な家事として 手間をたのしんでいるだけだ。
いまの時代にくらすなら、家事能力のとぼしさは、
ぜんぜん問題とならない。かわりにやってくれる店がいくらでもある。
いくらわたしの家事能力がすぐれていても、異性としての魅力とはならず、
そんなことよりも大切なのは経済力であることを
女性たちはちゃんと理解している。
50年もまえに、梅棹さんは妻が無用となるながれを予測していた。
これは、そうあるべき、という梅棹さんのねがいではない。
世界の文明を観察してきた梅棹さんにとって、
夫に依存しない生き方へのうつりかわりは必然だったのだ。
日本はいまもなお「『妻無用論』においついていないようにみえるが、
それはみかけだけであって、女性たちの内面では、
着実に妻であることへの否定がすすんでいる。
少子化も、そのあらわれのひとつだろう。
家事は、できないよりもできたほうがいいけど、
いまは、家事力がなくても自立できる ありがたい時代となった。
自立度がたかければ、べつに梅ぼしをつけれなくても生活にはこまらない。
自立度に、男も女も関係ない。
2014年06月30日
2014年06月29日
ささやかながら勤勉にすごした きょうのまとめ(のようなもの)
・ミゾそうじ
きょうは地区のミゾそうじがある日。
7時からなのに、目がさめたのは7時20分をすぎていた。
おおいそぎできがえをすませ、
はじめから参加していたような顔をして
そうじをしているひとたちのなかにまぎれこむ。
もっとも、おおぜいの手が必要なほど ゴミはないのだ。
ミゾのふたをはぐっても、わずかなドロをかきあげるだけだし、
草だってそんなにはえてない。
それでもご近所さんたちは、テキパキといそがしそうにうごいている。
いったいなにをそんなにやることがあるのか いつも不思議だ。
地区の行事や保育園のあつまりなど、
たいして作業量がないのに人数は必要以上にそろっている場面がわたしは苦手で、
きょうみたいに時間をもてあまして ウロウロすることになる。
大人らしくご近所さんと気らくにつきあえない。
・たてす・・・ハチとの共存
あつい日になりそうだったので、
ホームセンターでかっておいた「たてす」をとりつける。
玄関よこにはじっこをむすぼうとすると、
すこしうえでハチが巣をつくっていることに気づいた。
まだちいさな巣で、数匹のハチがなにやらあわただしくうごいている。
ミゾそうじとちがい、こっちはほんとうにいそがしそうだ。
ハエやカはためらわずにたたくのに、
ハチになるとなんだかかわいそうで
殺虫剤をかけたり、巣をこわしたりできない。
おたがいになかよくすごしましょうと、
ハチたちを刺激しないようにそっとうごく。
ハチも玄関さきに巣をつくってもうしわけないという自覚があるみたいで、
わたしが作業をはじめたのをかんじると、
全員が身をかたくして巣にはりつき、異常事態をやりすごそうとする。
自分たちのなわばりを主張し、ちかづくものを容赦なく攻撃するのではなく、
ハチのほうも共存共栄の路線をえらんでくれた。
おかげでたてすのとりつけはつつがなくおわり、
夏の準備がひとつまたすすんだ。
・梅ぼしをつける
この時期の行事として、梅ぼしをしこむ。
「梅ぼし」なんていうとめんどくさそうだけど、
じっさいにやってみれば すごくかんたんだ。
ゆうべ水につけておいた梅をザルにあけ、
かわいたところで20%の塩をまぶして容器にいれるだけ。
毎年5キロの梅をつけこんでいたけど、
あまるようになったので、3キロにする。
おもしは、おもいほうがよくつかるので、
3キロの梅にたいし6キロのおもしをのせる。
きょうの作業はそれだけで、
こんなかんたんなことでもひとつ仕事をおえると
勤勉に日常をすごしている気がしてくる。
・プール
きょうはプールへでかける日だ。でもなんだかからだがおもい。
さっきまでいっしょにひるねをしていたピピをみると、
まだベッドのうえでまるくなっている。
ひょっとすると、ああやってやすんでいるピピのほうが ただしいのではないか、
オレは休憩をとるのが ヘタなのではないかとおもえてくる。
脳は、いろんなことをいってなまけようとするのだ。
じっくりかんがえるとトレーニングなんかできなくなるので、
脳のうったえはきかなかったことにして、予定どおりプールへ。
およぎだせば、なんとかなるのだ。
脳のいうことをきかなくてよかった。
・ブックオフ
プールのかえりにブックオフへ。
プールでの練習がうまくいき、気分がよかったのでより道がしたくなった。
100円の本ばかり7冊をえらぶ。
家にあるような気がする本もあるが、100円だとあまり気にならない。
・Wカップ 決勝トーナメント ブラジル対チリ
Wカップはいよいよ決勝トーナメントにはいり、
毎日2試合ずつおこなわれる。
この試合は、PKであぶなくブラジルがチリをしりぞけた試合だ。
もし逆の結果だったらどうなっていたのか、
想像できないぐらいブラジルチームは
自国開催のプレッシャーにさらされている。
つぎはコロンビアと、それにかっても準決勝はたぶんドイツが相手なので、
優勝への道はまだまだけわしい。
・まとめ(のようなもの)
きょうのうごきを項目としてあげると すごくいそがしそうだけど、
じっさいはそれぞれのうごきに たいして時間をかけているわけではない。
それにしても、これだけ活動がうまるのは
わたしのスケジュールとしてはきわめてめずらしい。
あしたからの仕事に影響がでなければいいけど。
きょうは地区のミゾそうじがある日。
7時からなのに、目がさめたのは7時20分をすぎていた。
おおいそぎできがえをすませ、
はじめから参加していたような顔をして
そうじをしているひとたちのなかにまぎれこむ。
もっとも、おおぜいの手が必要なほど ゴミはないのだ。
ミゾのふたをはぐっても、わずかなドロをかきあげるだけだし、
草だってそんなにはえてない。
それでもご近所さんたちは、テキパキといそがしそうにうごいている。
いったいなにをそんなにやることがあるのか いつも不思議だ。
地区の行事や保育園のあつまりなど、
たいして作業量がないのに人数は必要以上にそろっている場面がわたしは苦手で、
きょうみたいに時間をもてあまして ウロウロすることになる。
大人らしくご近所さんと気らくにつきあえない。
・たてす・・・ハチとの共存
あつい日になりそうだったので、
ホームセンターでかっておいた「たてす」をとりつける。
玄関よこにはじっこをむすぼうとすると、
すこしうえでハチが巣をつくっていることに気づいた。
まだちいさな巣で、数匹のハチがなにやらあわただしくうごいている。
ミゾそうじとちがい、こっちはほんとうにいそがしそうだ。
ハエやカはためらわずにたたくのに、
ハチになるとなんだかかわいそうで
殺虫剤をかけたり、巣をこわしたりできない。
おたがいになかよくすごしましょうと、
ハチたちを刺激しないようにそっとうごく。
ハチも玄関さきに巣をつくってもうしわけないという自覚があるみたいで、
わたしが作業をはじめたのをかんじると、
全員が身をかたくして巣にはりつき、異常事態をやりすごそうとする。
自分たちのなわばりを主張し、ちかづくものを容赦なく攻撃するのではなく、
ハチのほうも共存共栄の路線をえらんでくれた。
おかげでたてすのとりつけはつつがなくおわり、
夏の準備がひとつまたすすんだ。
・梅ぼしをつける
この時期の行事として、梅ぼしをしこむ。
「梅ぼし」なんていうとめんどくさそうだけど、
じっさいにやってみれば すごくかんたんだ。
ゆうべ水につけておいた梅をザルにあけ、
かわいたところで20%の塩をまぶして容器にいれるだけ。
毎年5キロの梅をつけこんでいたけど、
あまるようになったので、3キロにする。
おもしは、おもいほうがよくつかるので、
3キロの梅にたいし6キロのおもしをのせる。
きょうの作業はそれだけで、
こんなかんたんなことでもひとつ仕事をおえると
勤勉に日常をすごしている気がしてくる。
・プール
きょうはプールへでかける日だ。でもなんだかからだがおもい。
さっきまでいっしょにひるねをしていたピピをみると、
まだベッドのうえでまるくなっている。
ひょっとすると、ああやってやすんでいるピピのほうが ただしいのではないか、
オレは休憩をとるのが ヘタなのではないかとおもえてくる。
脳は、いろんなことをいってなまけようとするのだ。
じっくりかんがえるとトレーニングなんかできなくなるので、
脳のうったえはきかなかったことにして、予定どおりプールへ。
およぎだせば、なんとかなるのだ。
脳のいうことをきかなくてよかった。
・ブックオフ
プールのかえりにブックオフへ。
プールでの練習がうまくいき、気分がよかったのでより道がしたくなった。
100円の本ばかり7冊をえらぶ。
家にあるような気がする本もあるが、100円だとあまり気にならない。
・Wカップ 決勝トーナメント ブラジル対チリ
Wカップはいよいよ決勝トーナメントにはいり、
毎日2試合ずつおこなわれる。
この試合は、PKであぶなくブラジルがチリをしりぞけた試合だ。
もし逆の結果だったらどうなっていたのか、
想像できないぐらいブラジルチームは
自国開催のプレッシャーにさらされている。
つぎはコロンビアと、それにかっても準決勝はたぶんドイツが相手なので、
優勝への道はまだまだけわしい。
・まとめ(のようなもの)
きょうのうごきを項目としてあげると すごくいそがしそうだけど、
じっさいはそれぞれのうごきに たいして時間をかけているわけではない。
それにしても、これだけ活動がうまるのは
わたしのスケジュールとしてはきわめてめずらしい。
あしたからの仕事に影響がでなければいいけど。
2014年06月28日
『医療にたかるな』(村上智彦)夕張再建にとりくむ村上さんのたたかい
『医療にたかるな』(村上智彦・新潮新書)
夕張市の財政破綻があきらかになった2006年、
夕張市総合病院は退職者が続出し、崩壊寸前となる。
その病院を2007年からひきついだのが著者の村上さんだ。
村上さんは、夕張市の財政破綻はけして特殊な事情ではなく、
日本の縮図として 日本の将来をかんがえるのに
夕張市ほど適した町はないととらえている。
「地域経済の疲弊、少子高齢化、過疎化、教育問題、大衆迎合政治、
住民の依存体質・・・(中略)
夕張で起こっている問題は、近い将来、
必ず日本各地でも起こることになるでしょう」
この本は、夕張市再建にむけた村上さんのたたかいの記録だ。
「『敵』は、いずれもちょっとしたごまかしの積み重ねによって作られてきた
”日本社会の仕組み”そのものだった」という。
夕張市民にわたしがイメージしていたのは、
いいかげんな財政をほっておいた責任がゼロではないにしろ、
財政破綻による被害者であり、かわいそうなひとたちというものだった。
しかし、村上さんによると
夕張市民は市にたかりつづけ、
自分たちはできるだけ負担しないでおいて、権利ばかりをもとめた。
その結果が財政破綻であり、
おなじことはほかの町でいくらでもおこりえる。
「夕張が破綻したとき、市の職員は350人もいました。
日本の市役所職員の平均人数は、人口1000人あたり7.8人です。
人口1万2000人の夕張市では94人になります。
つまり市役所職員が平均より250人以上も多かったことになります。
しかも、1人当たりの年収が平均700〜800万円とバカ高かった(中略)
夕張市は、観光事業の失敗よりも、
市職員の人件費によって破綻に追い込まれたといっても過言ではありません」
「財政破綻をきっかけにゴミの分別がルール化され、
粗大ゴミが有料となった時も、診察を受けに来た女性が
『もう夕張では生活していけない』と泣き出したことがありました。
私が呆れて『他の地域では当たり前のことですよ』
といったら、びっくりしていました。
『以前は払っていなかった』『夕張市の対応が悪い』
などという言い訳は世間では通用しません。
家賃や治療費を払わないのは、ただの犯罪です。
他の地域の人が普通にやっていることを、
夕張のひとはやらなかったから破綻したのです。
夕張の人は、『破綻の犠牲者』ではなく、『破綻させた張本人』なのです」
「品の良い高齢の女性が涙ながらに訴えます。
『破綻前は子供たちに本の読み聞かせをやっていたのですが、
財政破綻で図書館が閉鎖されてしまったので、
それも出来なくなってしまいました』
いかがでしょうか。このような話を聞くと、
おそらく多くの方が
『彼女こそは”破綻の犠牲者”として扱ってもいいのでは』
と思うのではないでしょうか。
しかし、私は彼女の話を聞いても全く同情できませんでした。
『本当に読み聞かせをやりたいのでしたら、
図書館が無くてもできるんじゃないですか。
どうして、場所を探してやろうとしないのですか。
あなたたちはそうやって何でも人任せにしてきて、
自分たちでやらなかったから
破綻したのではないですか』」
「リスクと向き合う」として
「もちろん高齢者の行動にはリスクが伴いますから、
たとえば自宅で高齢患者の面倒をみろと言われたら、
身内の方も不安を感じると思います。
よく家族の方からも『何かあったらどうするんだ?』
と言われますが、そんな時、私はこう答えます。
『必ず何かあります。あなたのお父さんは
たぶんあなたより先に亡くなります』
多くの方が、その言葉から何かを感じ取ってくださるように思います」
高齢化がすすむ日本において、
これまでどおりに「医療にたか」っていては、
夕張市以外の町でも おなじような財政破綻をまねくだろう。
「『ささえる医療』をやっていく中で、
金もうけをしようと取り組んでいる人は、
なぜが途中でうまく行かなくなって脱落していきました。
結局、生き残って成果をあげているスタッフは、
この町が好きだから町づくりを支えていきたい、
町の将来を支えるための人材を育てていきたい、
そしてこの町で死んでいきたい、
そう思っている人たちだけなのです。
『そんな奇特な人材は、そうそういない』
と思う方もいるかもしれません。(中略)
そのような人材のいない地域は潰れていくしかないというのが
私の考えです。
ただ、人間そう捨てたものではないということも
一応申し上げておきます」
村上さんは本のおわりで
「私はこの国にはまだ希望があると信じています」
とむすばれている。
今回は、ほとんど本書からのぬきがきになってしまった。
村上さんのたたかいは、それだけの迫力があり、
こうしたかたちでの紹介がいちばんいいとおもった。
自分がすむ地域は、自分たちでまもるしかないことを肝にめいじたい。
夕張市の財政破綻があきらかになった2006年、
夕張市総合病院は退職者が続出し、崩壊寸前となる。
その病院を2007年からひきついだのが著者の村上さんだ。
村上さんは、夕張市の財政破綻はけして特殊な事情ではなく、
日本の縮図として 日本の将来をかんがえるのに
夕張市ほど適した町はないととらえている。
「地域経済の疲弊、少子高齢化、過疎化、教育問題、大衆迎合政治、
住民の依存体質・・・(中略)
夕張で起こっている問題は、近い将来、
必ず日本各地でも起こることになるでしょう」
この本は、夕張市再建にむけた村上さんのたたかいの記録だ。
「『敵』は、いずれもちょっとしたごまかしの積み重ねによって作られてきた
”日本社会の仕組み”そのものだった」という。
夕張市民にわたしがイメージしていたのは、
いいかげんな財政をほっておいた責任がゼロではないにしろ、
財政破綻による被害者であり、かわいそうなひとたちというものだった。
しかし、村上さんによると
夕張市民は市にたかりつづけ、
自分たちはできるだけ負担しないでおいて、権利ばかりをもとめた。
その結果が財政破綻であり、
おなじことはほかの町でいくらでもおこりえる。
「夕張が破綻したとき、市の職員は350人もいました。
日本の市役所職員の平均人数は、人口1000人あたり7.8人です。
人口1万2000人の夕張市では94人になります。
つまり市役所職員が平均より250人以上も多かったことになります。
しかも、1人当たりの年収が平均700〜800万円とバカ高かった(中略)
夕張市は、観光事業の失敗よりも、
市職員の人件費によって破綻に追い込まれたといっても過言ではありません」
「財政破綻をきっかけにゴミの分別がルール化され、
粗大ゴミが有料となった時も、診察を受けに来た女性が
『もう夕張では生活していけない』と泣き出したことがありました。
私が呆れて『他の地域では当たり前のことですよ』
といったら、びっくりしていました。
『以前は払っていなかった』『夕張市の対応が悪い』
などという言い訳は世間では通用しません。
家賃や治療費を払わないのは、ただの犯罪です。
他の地域の人が普通にやっていることを、
夕張のひとはやらなかったから破綻したのです。
夕張の人は、『破綻の犠牲者』ではなく、『破綻させた張本人』なのです」
「品の良い高齢の女性が涙ながらに訴えます。
『破綻前は子供たちに本の読み聞かせをやっていたのですが、
財政破綻で図書館が閉鎖されてしまったので、
それも出来なくなってしまいました』
いかがでしょうか。このような話を聞くと、
おそらく多くの方が
『彼女こそは”破綻の犠牲者”として扱ってもいいのでは』
と思うのではないでしょうか。
しかし、私は彼女の話を聞いても全く同情できませんでした。
『本当に読み聞かせをやりたいのでしたら、
図書館が無くてもできるんじゃないですか。
どうして、場所を探してやろうとしないのですか。
あなたたちはそうやって何でも人任せにしてきて、
自分たちでやらなかったから
破綻したのではないですか』」
「リスクと向き合う」として
「もちろん高齢者の行動にはリスクが伴いますから、
たとえば自宅で高齢患者の面倒をみろと言われたら、
身内の方も不安を感じると思います。
よく家族の方からも『何かあったらどうするんだ?』
と言われますが、そんな時、私はこう答えます。
『必ず何かあります。あなたのお父さんは
たぶんあなたより先に亡くなります』
多くの方が、その言葉から何かを感じ取ってくださるように思います」
高齢化がすすむ日本において、
これまでどおりに「医療にたか」っていては、
夕張市以外の町でも おなじような財政破綻をまねくだろう。
「『ささえる医療』をやっていく中で、
金もうけをしようと取り組んでいる人は、
なぜが途中でうまく行かなくなって脱落していきました。
結局、生き残って成果をあげているスタッフは、
この町が好きだから町づくりを支えていきたい、
町の将来を支えるための人材を育てていきたい、
そしてこの町で死んでいきたい、
そう思っている人たちだけなのです。
『そんな奇特な人材は、そうそういない』
と思う方もいるかもしれません。(中略)
そのような人材のいない地域は潰れていくしかないというのが
私の考えです。
ただ、人間そう捨てたものではないということも
一応申し上げておきます」
村上さんは本のおわりで
「私はこの国にはまだ希望があると信じています」
とむすばれている。
今回は、ほとんど本書からのぬきがきになってしまった。
村上さんのたたかいは、それだけの迫力があり、
こうしたかたちでの紹介がいちばんいいとおもった。
自分がすむ地域は、自分たちでまもるしかないことを肝にめいじたい。
2014年06月27日
「パスポートがいらない外国のような、別世界」隠岐へでかけたくなった
隠岐諸島の魅力にひきつけられたひとたちによる
「移住者奮闘」が朝日新聞の島根版にのっていた。
なかでもわたしがひかれたのは
西ノ島町観光協会職員のニコラ=ジョーンズさんによる
「隠岐はパスポートがいらない外国のような、別世界ですよ」
という発言だ。
こんなちかくに、外国のような別世界があったなんて。
ジョーンズさんはニュージーランド出身の女性で、
仕事でおとずれた西ノ島が気にいって うつりすんだという。
なにが彼女のこころをとらえたのだろう。
なにかと外国旅行にいきたくなるわたしは、
では、外国でなにがしたいかというと、
つきつめてみれば異文化での非日常体験だ。
べつに飛行機にのりたいわけでも、
イミグレーションにならんで
パスポートにスタンプをおしてほしいわけでもない。
外国へいったという気になれば、
何割かは目的をはたしたことになる。
外国へいけば、たしかにそこは異文化の地かもしれないが、
2泊3日でソウルやグアムにいくのと、
おなじ日程で隠岐へいくのとをくらべると、
どちらがより「異文化」で「非日常」かとかんがえれば、
そう簡単にいいきれないのではないか。
いま隠岐はジオパークでうりだしており、
地質学的、生態学的に、世界でもめずらしい自然がみられるという。
みかたによっては、ものすごくお得に
不思議な世界を体験できる地域かもしれない。
なんちゃって旅行の達人なら、たとえとなり町へのおでかけでも、
「プチ旅行」にできるかもしれないけど、
わたしには隠岐くらいの距離が
国内海外旅行の候補地にふさわしそうだ。
隠岐はなんといってもフェリーで2時間半かかる島なのだから。
ブラジルでのWカップをみてもわかるように、
何時間飛行機にのってもおなじ国内、という国もあるわけで、
2時間半のフェリーがとくに貧弱な移動とはきめつけられない。
外国旅行のかわりに隠岐へ、を強調すると 残念な気もしてくるので、
そこはあまりふかくかんがえず、
さらっと、外国旅行的に「異文化」と「非日常」をたのしむ機会ととらえよう。
ニコラ=ジョーンズさんの記事をよんでから、
西ノ島への旅行が運命的なであいにおもえてきた。
なにかご縁があったのだろう。
とはいえ、梅雨どきや夏のあつさはにがてなので、
秋をまってでかけることにする。
こういうことは、日記や手帳、それにこうしたブログにかいてしまうと
実行しやすい。
「Wカップ残念でした旅行」の企画として、
わたしには必然なであいだった。
「移住者奮闘」が朝日新聞の島根版にのっていた。
なかでもわたしがひかれたのは
西ノ島町観光協会職員のニコラ=ジョーンズさんによる
「隠岐はパスポートがいらない外国のような、別世界ですよ」
という発言だ。
こんなちかくに、外国のような別世界があったなんて。
ジョーンズさんはニュージーランド出身の女性で、
仕事でおとずれた西ノ島が気にいって うつりすんだという。
なにが彼女のこころをとらえたのだろう。
なにかと外国旅行にいきたくなるわたしは、
では、外国でなにがしたいかというと、
つきつめてみれば異文化での非日常体験だ。
べつに飛行機にのりたいわけでも、
イミグレーションにならんで
パスポートにスタンプをおしてほしいわけでもない。
外国へいったという気になれば、
何割かは目的をはたしたことになる。
外国へいけば、たしかにそこは異文化の地かもしれないが、
2泊3日でソウルやグアムにいくのと、
おなじ日程で隠岐へいくのとをくらべると、
どちらがより「異文化」で「非日常」かとかんがえれば、
そう簡単にいいきれないのではないか。
いま隠岐はジオパークでうりだしており、
地質学的、生態学的に、世界でもめずらしい自然がみられるという。
みかたによっては、ものすごくお得に
不思議な世界を体験できる地域かもしれない。
なんちゃって旅行の達人なら、たとえとなり町へのおでかけでも、
「プチ旅行」にできるかもしれないけど、
わたしには隠岐くらいの距離が
国内海外旅行の候補地にふさわしそうだ。
隠岐はなんといってもフェリーで2時間半かかる島なのだから。
ブラジルでのWカップをみてもわかるように、
何時間飛行機にのってもおなじ国内、という国もあるわけで、
2時間半のフェリーがとくに貧弱な移動とはきめつけられない。
外国旅行のかわりに隠岐へ、を強調すると 残念な気もしてくるので、
そこはあまりふかくかんがえず、
さらっと、外国旅行的に「異文化」と「非日常」をたのしむ機会ととらえよう。
ニコラ=ジョーンズさんの記事をよんでから、
西ノ島への旅行が運命的なであいにおもえてきた。
なにかご縁があったのだろう。
とはいえ、梅雨どきや夏のあつさはにがてなので、
秋をまってでかけることにする。
こういうことは、日記や手帳、それにこうしたブログにかいてしまうと
実行しやすい。
「Wカップ残念でした旅行」の企画として、
わたしには必然なであいだった。
2014年06月26日
いまさらながら『マディソン郡の橋』 わたしもロバート=キンケイドの年齢に
50歳をこえたいま、
ときどき頭にうかんでくるのが『マディソン郡の橋』だ。
とくに不倫願望がつよいわけではなく(たぶん)、
そんな歳になったことをかみしめる中年おとこの感慨だろう。
たしかロバート=キンケイドは52歳という設定で、
フランチェスカは45歳だった。
年齢にこだわる必要はないと、よくいわれるものの、
生物としての人間は、年齢からのがれられないのもまた事実で、
この作品はこの年齢設定なくしてかたれない。
そして、わたしはいま、ロバート=キンケイドの年齢にたっしたのだ。
この作品は映画化もされており、
ネットをみると原作よりも映画についての記事が目につく。
イーストウッドやメリル=ストリープの演技について、
また、中年の不倫がどうしたというはなしだ。
映画をとったときのイーストウッドは65歳であり、
原作のイメージとはどうしてもずれがある。
不倫願望はないといいながら、ちなみに
渡辺淳一氏の『失楽園』をみると、男が55歳で女が38歳になっている。
これはまあ、渡辺淳一氏のこのみと願望を反映しているだけで、
リアリティをもとめるわたしとしては
『マディソン郡の橋』の年齢設定に軍配をあげる。
20年まえ、わたしが介護事業所につとめはじめた年に、
小説の『マディソン郡の橋』がベストセラーになっていた。
すぐよむようにと、上司からこの本をわたされ、
仕事がいそがしくなかったわたしはスルスルっとよんだ。
まだわかかったせいで、内容をふかく理解できなかったのだろう。
印象にのこっているのは、ロバート=キンケイドが
「わたしは肉をたべないのだ」といったことと、
ドアをそっとしめるという描写。
ドアのほうは、あんがい記憶が映画とゴッチャになっているかもしれない。
「まるでわたしみたいだ」、と当時のわたしはずうずうしくおもった。
客観的にみると、にているのはほっそりとしたからだつきだけなのに、
作中のロバート=キンケイドを自分にかさねたのだ。
ネコをおもわせる身のこなし、みたいな描写があったような気がする
(これもふたしか)。
デリカシーのないそこらへんの男たちとはちがい、
わたしがこころがけている生活習慣そのものではないか。
肝心の、フランチェスカとの恋愛についてはあまりおぼえていない。
52歳のキンケイドも、45歳のフランチェスカも
あのときは、まだずっとさきの年齢だった。
52歳になったいまは、さすがに中年の現実をわきまえている。
人生にはかぎりがあり、健康も体力もわかいころと まるでちがってくる。
どっちみち、いつかは死ぬんだから、みたいな達観もめばえてきた。
ロバート=キンケイドの晩年は、孤独だったようで、
わたしもこれからその年代をむかえることになる。
自分がフランチェスカにあえるかどうかなんてかんがえない。
ただ、もしもフランチェスカにあえたときに、
相手にあたいするだけの人間でありたいとおもう。
プロポーションの維持だけではなく、
そのためにわたしはいまもネコのような身のこなしだし、
あいかわらず肉は・・・たべているか。
すくなくとも、ドアはそっとしめる。
ときどき頭にうかんでくるのが『マディソン郡の橋』だ。
とくに不倫願望がつよいわけではなく(たぶん)、
そんな歳になったことをかみしめる中年おとこの感慨だろう。
たしかロバート=キンケイドは52歳という設定で、
フランチェスカは45歳だった。
年齢にこだわる必要はないと、よくいわれるものの、
生物としての人間は、年齢からのがれられないのもまた事実で、
この作品はこの年齢設定なくしてかたれない。
そして、わたしはいま、ロバート=キンケイドの年齢にたっしたのだ。
この作品は映画化もされており、
ネットをみると原作よりも映画についての記事が目につく。
イーストウッドやメリル=ストリープの演技について、
また、中年の不倫がどうしたというはなしだ。
映画をとったときのイーストウッドは65歳であり、
原作のイメージとはどうしてもずれがある。
不倫願望はないといいながら、ちなみに
渡辺淳一氏の『失楽園』をみると、男が55歳で女が38歳になっている。
これはまあ、渡辺淳一氏のこのみと願望を反映しているだけで、
リアリティをもとめるわたしとしては
『マディソン郡の橋』の年齢設定に軍配をあげる。
20年まえ、わたしが介護事業所につとめはじめた年に、
小説の『マディソン郡の橋』がベストセラーになっていた。
すぐよむようにと、上司からこの本をわたされ、
仕事がいそがしくなかったわたしはスルスルっとよんだ。
まだわかかったせいで、内容をふかく理解できなかったのだろう。
印象にのこっているのは、ロバート=キンケイドが
「わたしは肉をたべないのだ」といったことと、
ドアをそっとしめるという描写。
ドアのほうは、あんがい記憶が映画とゴッチャになっているかもしれない。
「まるでわたしみたいだ」、と当時のわたしはずうずうしくおもった。
客観的にみると、にているのはほっそりとしたからだつきだけなのに、
作中のロバート=キンケイドを自分にかさねたのだ。
ネコをおもわせる身のこなし、みたいな描写があったような気がする
(これもふたしか)。
デリカシーのないそこらへんの男たちとはちがい、
わたしがこころがけている生活習慣そのものではないか。
肝心の、フランチェスカとの恋愛についてはあまりおぼえていない。
52歳のキンケイドも、45歳のフランチェスカも
あのときは、まだずっとさきの年齢だった。
52歳になったいまは、さすがに中年の現実をわきまえている。
人生にはかぎりがあり、健康も体力もわかいころと まるでちがってくる。
どっちみち、いつかは死ぬんだから、みたいな達観もめばえてきた。
ロバート=キンケイドの晩年は、孤独だったようで、
わたしもこれからその年代をむかえることになる。
自分がフランチェスカにあえるかどうかなんてかんがえない。
ただ、もしもフランチェスカにあえたときに、
相手にあたいするだけの人間でありたいとおもう。
プロポーションの維持だけではなく、
そのためにわたしはいまもネコのような身のこなしだし、
あいかわらず肉は・・・たべているか。
すくなくとも、ドアはそっとしめる。
2014年06月25日
コロンビア戦に1-4の完敗 選手たちの健闘をたたえる
Wカップ グループC 3試合目のコロンビア戦。
1-4の完敗だった。
これが日本の実力であることがよくわかった。
ザッケローニ監督は、ボランチに青山をはじめて起用する。
たてへのパスがよくはいり、いい仕事ができた。
長谷部もよくボールにからんだし、
全員がまえにでる姿勢をしめしてくれた。
それでもかてない。
先発メンバーを8人いれかえてきたコロンビアは、
後半からロドリゲスをはいってきた。
それからはずっとコロンビアが試合をうまくすすめる。
日本にせめさせておいて、スキをついてのカウンター。
ロドリゲスは格のちがいをみせつけた。
彼にボールがはいるとどうにもならないかんじ。
日本は苦労してシュートまでもっていき、それをきめきれないのに、
コロンビアはゴールまえにせまると簡単にゴールをきめる。
日本はたてつづけに失点をかさね、結局1-4となにもさせてもらえなかった。
うらの試合では、ギリシャがコートジボワールに2-1でかっている。
いちどおいつかれながらも、PKをきめてかちきったようだ。
わずかしかない可能性をいかし、
ギリシャがスルッとグループリーグをぬけてしまった。
シナリオでは、日本がこれをするはずだったのだ。
ギリシャがコートジボワールにかってくれたおかげで、
お膳だてはととのっていた。あとは、コロンビアにかつだけだった。
試合後のインタビューで、選手たちはまだ気もちの整理がつかず
ショックをひきずっている。
香川は決定的な仕事をすることができず、呆然としていたし、
得点をきめた岡崎ですら「もうしわけなかった」「くやしい」をくりかえす。
この大会にはいるまえ、日本が日本らしいサッカーをしてまけるのであれば
うけいれる、とわたしはかいた。
グループリーグの3試合は、日本が全力をだせたとはおもわないけれど、
日本のよさがけされたのも、こういう大会ではよくあることだ。
2敗1分におわったのが、いまの実力だと うけとめるしかないだろう。
ほかのグループでは、これまでにスペイン・イングランド、そしてイタリアが
グループで敗退している。
それらの優勝候補の国でも、決勝トーナメントが保証されているわけではない。
4年をかけてつみあげてきた大会が、とうとうおわってしまった。
自分たちのサッカーを もとめるだけではかてないことがはっきりしたこの大会。
日本はどう総括し、これからにつなげていくだろう。
いまはまず、23人にはえらばれなかった選手もふくめ、
選手たち全員の健闘をたたえたい。
おおくの選手がこの大会を目標に4年間をすごし、
代表チームにちからをあたえてくれた。
これからも、ほんとうにつよい日本代表をつくりあげていってほしい。
グループリーグ敗退はくやしい結果だが、
それをうけいれて、まえにすすむしかない。
1-4の完敗だった。
これが日本の実力であることがよくわかった。
ザッケローニ監督は、ボランチに青山をはじめて起用する。
たてへのパスがよくはいり、いい仕事ができた。
長谷部もよくボールにからんだし、
全員がまえにでる姿勢をしめしてくれた。
それでもかてない。
先発メンバーを8人いれかえてきたコロンビアは、
後半からロドリゲスをはいってきた。
それからはずっとコロンビアが試合をうまくすすめる。
日本にせめさせておいて、スキをついてのカウンター。
ロドリゲスは格のちがいをみせつけた。
彼にボールがはいるとどうにもならないかんじ。
日本は苦労してシュートまでもっていき、それをきめきれないのに、
コロンビアはゴールまえにせまると簡単にゴールをきめる。
日本はたてつづけに失点をかさね、結局1-4となにもさせてもらえなかった。
うらの試合では、ギリシャがコートジボワールに2-1でかっている。
いちどおいつかれながらも、PKをきめてかちきったようだ。
わずかしかない可能性をいかし、
ギリシャがスルッとグループリーグをぬけてしまった。
シナリオでは、日本がこれをするはずだったのだ。
ギリシャがコートジボワールにかってくれたおかげで、
お膳だてはととのっていた。あとは、コロンビアにかつだけだった。
試合後のインタビューで、選手たちはまだ気もちの整理がつかず
ショックをひきずっている。
香川は決定的な仕事をすることができず、呆然としていたし、
得点をきめた岡崎ですら「もうしわけなかった」「くやしい」をくりかえす。
この大会にはいるまえ、日本が日本らしいサッカーをしてまけるのであれば
うけいれる、とわたしはかいた。
グループリーグの3試合は、日本が全力をだせたとはおもわないけれど、
日本のよさがけされたのも、こういう大会ではよくあることだ。
2敗1分におわったのが、いまの実力だと うけとめるしかないだろう。
ほかのグループでは、これまでにスペイン・イングランド、そしてイタリアが
グループで敗退している。
それらの優勝候補の国でも、決勝トーナメントが保証されているわけではない。
4年をかけてつみあげてきた大会が、とうとうおわってしまった。
自分たちのサッカーを もとめるだけではかてないことがはっきりしたこの大会。
日本はどう総括し、これからにつなげていくだろう。
いまはまず、23人にはえらばれなかった選手もふくめ、
選手たち全員の健闘をたたえたい。
おおくの選手がこの大会を目標に4年間をすごし、
代表チームにちからをあたえてくれた。
これからも、ほんとうにつよい日本代表をつくりあげていってほしい。
グループリーグ敗退はくやしい結果だが、
それをうけいれて、まえにすすむしかない。
2014年06月24日
「医療・介護改革法」の成立 『三重苦』」にどう対応していくか
20日の記事で朝日新聞が「医療・介護改革法」の成立をつたえていた。
「患者や要介護者の急増で制度がもたなくなる恐れがあり、
サービスや負担を大きく見直す」というものだ。
以前から、2025年問題(団塊の世代が高齢者に)の重大さは指摘されており、
ようやく具体的な対応にむけて腰をあげたのだ。
「高齢者の急増、支え手世代の減少、財政難の『三重苦』」にどう対応していくか。
これまでののやり方をそのままつづけるのが
無理なことはわかっていた。
しかし、なぜかこれまで政策に反映されてこなかった。
危機感がリアルにうけとめられてなかったのだろう。
先日よんだ藻谷浩介さんの『しなやかな日本列島のつくりかた』(新潮社)には
医療について、村上智彦さんとの対話がおさめられている。
藻谷「全部医療でやろうとすると、本当に生き死にがかかっている人が
病院に運ばれても、
本来なら入院する必要のない人がベッドを占めていて、
病院に入れないということも起こってきますよね」
村上「はい。悪気がなくても、『ちょっと心配だから家には帰らない』
という高齢者でベッドや診療が埋まってしまえば、
急患も受け入れられなくなります」
いまは具合がわるくなったら病院へいくのがあたりまえだけど、
もうすこししたら患者さんがおおすぎて みてもらえないし、
入院もできなくなるかもしれない。
今年の冬、母が体調をくずし、病院へいくと大腸がんだった。
すぐに入院、そして手術へと対応がとられる。
さいわい順調に治療がすすみ、1ヶ月で退院できた。
医療体制に感謝しながらも、それがあたりまえともおもっていた。
そうしたシステムが、これからさきいつまでつづくかわからない。
ベッドは高齢者でいっぱいだし、
自分の健康管理をほったらかしてきたひとたちで
診察の順番もまわってこない。
医者もベッドも医療費も、いまの水準は維持できそうにない。
長寿の国をめざして医療のしくみをととのえてきたのが、
結果として自分の首をしめることになってしまった。
同書では、もうひとつのこわい予想として、
大都市ですすむ高齢化がはなされている。
村上「たとえば東京都は、すごい勢いで高齢者が増えています。
新宿区にある戸山町など数千人規模の町では、
高齢化率が40〜50%にも達するところが既に出てきている。(中略)
日本の2050年頃の高齢化率は40%を超えると言われているので、
こうした地域は、まさに40年先の人口構成を先取りしているんです。(中略)
夕張は、若い人が抜けた分だけ高齢化が進んだわけですが、
東京は、地方から高齢者が新たに流入してくるということです。
東京に行けばひょっとしたら助かるかもしれないと勘違いした高齢者が、
大量に流れてくると予想されています。
しかもその人たちは、稼ぎがない、言ってみれば、
何も生み出さない人たちですよね」
藻谷「稼ぎがない上に、多くはコミュニティや家族からも切り離され、
公的福祉に依存するしかない人たちです。(中略)
本人が良心的であっても、加齢とともに心身が不自由になる確率は高い」(中略)
村上「このままいけば、いずれ東京都の人間は
みんな日比谷公園で死んでいくような時代がくると思いますよ。
病院には入りきらないし、施設もないし、
身寄りのないお年寄りがいっぱい出てくる」
東京は、わかいひとがおおい町なので、高齢化は関係ないのかとおもっていた。
そうではなくて、大都市こそ ものすごい数の高齢者をかかえる時代を
これからむかえるのだ。
地方の限界集落が問題視されているのをみかけるけれど、
もうそうした村は老人がへりはじめているので、
かんがえようによっては将来の介護について あたまをなやませなくてもいい。
たいへんなのはむしろ大都市のほうだった。
介護保険によって、家族への負担がすくなくなり、
介護は専門機関をあてにできるしくみになったとおもったのに、
これからは、それをつづけるだけのお金も施設もひともないという。
老人介護がくるしくなれば、とうぜんそのうごきは障害者介護にも影響をおよぼす。
基本的にお金がないわけだから、それをどこにむけるかというときに、
障害者だけが特別枠であつかわれることはかんがえられない。
公的福祉にたよらずに、できるだけボランティアやたすけあいで、
というながれはとまらないだろう。
医療や介護にたよりきらない意識が必要なことはわかる。
ただ、どこまでを個人のこころがけにもとめるかのバランスがむつかしい。
『しなやかな日本列島のつくりかた』では藻谷さんが
「お天道さまが許さん」というかんがえ方を紹介している。
しかしいまの日本人に、この美意識がどれだけ有効にはたらくだろうか。
個人的には、お金はあるとおもっている。
そのつかい道を、医療・介護よりもべつなこと、
たとえば防衛費や補助金なんかにまわすから
いくらあってもたりなくなるのだ。
どこかで大英断を、いうはなしは、何十年まえからずっときくけど、
まったくそういううごきはない。
基本的には、多少の負担がふえても いまのシステムをつづけてほしい。
調子をくずしたときに、治療をうけられないのはこまる。
みはなされた気もちで死にたくはない。
「患者や要介護者の急増で制度がもたなくなる恐れがあり、
サービスや負担を大きく見直す」というものだ。
以前から、2025年問題(団塊の世代が高齢者に)の重大さは指摘されており、
ようやく具体的な対応にむけて腰をあげたのだ。
「高齢者の急増、支え手世代の減少、財政難の『三重苦』」にどう対応していくか。
これまでののやり方をそのままつづけるのが
無理なことはわかっていた。
しかし、なぜかこれまで政策に反映されてこなかった。
危機感がリアルにうけとめられてなかったのだろう。
先日よんだ藻谷浩介さんの『しなやかな日本列島のつくりかた』(新潮社)には
医療について、村上智彦さんとの対話がおさめられている。
藻谷「全部医療でやろうとすると、本当に生き死にがかかっている人が
病院に運ばれても、
本来なら入院する必要のない人がベッドを占めていて、
病院に入れないということも起こってきますよね」
村上「はい。悪気がなくても、『ちょっと心配だから家には帰らない』
という高齢者でベッドや診療が埋まってしまえば、
急患も受け入れられなくなります」
いまは具合がわるくなったら病院へいくのがあたりまえだけど、
もうすこししたら患者さんがおおすぎて みてもらえないし、
入院もできなくなるかもしれない。
今年の冬、母が体調をくずし、病院へいくと大腸がんだった。
すぐに入院、そして手術へと対応がとられる。
さいわい順調に治療がすすみ、1ヶ月で退院できた。
医療体制に感謝しながらも、それがあたりまえともおもっていた。
そうしたシステムが、これからさきいつまでつづくかわからない。
ベッドは高齢者でいっぱいだし、
自分の健康管理をほったらかしてきたひとたちで
診察の順番もまわってこない。
医者もベッドも医療費も、いまの水準は維持できそうにない。
長寿の国をめざして医療のしくみをととのえてきたのが、
結果として自分の首をしめることになってしまった。
同書では、もうひとつのこわい予想として、
大都市ですすむ高齢化がはなされている。
村上「たとえば東京都は、すごい勢いで高齢者が増えています。
新宿区にある戸山町など数千人規模の町では、
高齢化率が40〜50%にも達するところが既に出てきている。(中略)
日本の2050年頃の高齢化率は40%を超えると言われているので、
こうした地域は、まさに40年先の人口構成を先取りしているんです。(中略)
夕張は、若い人が抜けた分だけ高齢化が進んだわけですが、
東京は、地方から高齢者が新たに流入してくるということです。
東京に行けばひょっとしたら助かるかもしれないと勘違いした高齢者が、
大量に流れてくると予想されています。
しかもその人たちは、稼ぎがない、言ってみれば、
何も生み出さない人たちですよね」
藻谷「稼ぎがない上に、多くはコミュニティや家族からも切り離され、
公的福祉に依存するしかない人たちです。(中略)
本人が良心的であっても、加齢とともに心身が不自由になる確率は高い」(中略)
村上「このままいけば、いずれ東京都の人間は
みんな日比谷公園で死んでいくような時代がくると思いますよ。
病院には入りきらないし、施設もないし、
身寄りのないお年寄りがいっぱい出てくる」
東京は、わかいひとがおおい町なので、高齢化は関係ないのかとおもっていた。
そうではなくて、大都市こそ ものすごい数の高齢者をかかえる時代を
これからむかえるのだ。
地方の限界集落が問題視されているのをみかけるけれど、
もうそうした村は老人がへりはじめているので、
かんがえようによっては将来の介護について あたまをなやませなくてもいい。
たいへんなのはむしろ大都市のほうだった。
介護保険によって、家族への負担がすくなくなり、
介護は専門機関をあてにできるしくみになったとおもったのに、
これからは、それをつづけるだけのお金も施設もひともないという。
老人介護がくるしくなれば、とうぜんそのうごきは障害者介護にも影響をおよぼす。
基本的にお金がないわけだから、それをどこにむけるかというときに、
障害者だけが特別枠であつかわれることはかんがえられない。
公的福祉にたよらずに、できるだけボランティアやたすけあいで、
というながれはとまらないだろう。
医療や介護にたよりきらない意識が必要なことはわかる。
ただ、どこまでを個人のこころがけにもとめるかのバランスがむつかしい。
『しなやかな日本列島のつくりかた』では藻谷さんが
「お天道さまが許さん」というかんがえ方を紹介している。
しかしいまの日本人に、この美意識がどれだけ有効にはたらくだろうか。
個人的には、お金はあるとおもっている。
そのつかい道を、医療・介護よりもべつなこと、
たとえば防衛費や補助金なんかにまわすから
いくらあってもたりなくなるのだ。
どこかで大英断を、いうはなしは、何十年まえからずっときくけど、
まったくそういううごきはない。
基本的には、多少の負担がふえても いまのシステムをつづけてほしい。
調子をくずしたときに、治療をうけられないのはこまる。
みはなされた気もちで死にたくはない。
2014年06月23日
『本が多すぎる』(酒井順子)酒井さんのまじめさが いいかんじの書評集
『本が多すぎる』(酒井順子・文春文庫)
週刊文春に連載された記事をまとめたもの。
「本が多すぎる」とはネガティブな表現だけど、
酒井さんはもちろん本をよむたのしさをよく理解しているひとで、
「本はまた、別の本を連れてきてくれます。
ある本を読んでいたら別の本についてのことが書いてあって、
それを読んだらまた別の本が読みたくなって・・・と、
芋づる式に読みたい本が現れる嬉しさよ。
そんな『読みたい本』が枕頭にそして机上にある時は、
『約束された幸福な未来』が、本の形をとって
そこに存在しているようではありませんか。(中略)
本書は、そんな私の『本がつながる喜び』を綴ったものです」(「まえがき」)
は、本ずきならではのおもいであり、「多すぎる」は謙遜にすぎない。
酒井さんのすぐれた観察眼は、こうしたはばひろいジャンルの、
ゆたかな読書によってやしなわれていることがよくわかる。
各回は「トイレで読書、女子マネ、鷺沢萠」というふうに、
2〜3つの「お題」があげられており、それぞれのお題について
本をとりあげながら はなしがふくらんでいく。
はなしのはいり方が独特で、本とは関係ない話題をきりくちにしながら、
なんとなく本題にはいっている。
それぞれの「お題」について数冊の本をとりあげているから、
全体ではそうとうな数だ。索引には300冊ほどの本がならんでいる。
『本が多すぎる』とは、自分がよんできた膨大な数の本のことではないか。
とりあげられた本は、「女」を話題にしたものがおおい。
「女」への視線は酒井さんならではふかさとやさしさがある。
たとえば『さいごの色街 飛田』では、
色街について、批判的なみかたをかんたんにもちこんだりしない。
「平安時代の女性達も、そして飛田の女性達も、
小さな部屋でひたすら男性を待っているところは同じ」
といい、どんなシステムで、どんな女性がはたらいているかなど、
酒井さんは偏見をまじえない好奇心をむける。
「女」や「性」をかたるときの距離感がすばらしく、
これがあまりにも正義の味方からの視点ではおもしろくないし、
スケベごころまるだで対象にせまられてはしらけてしまう。
酒井さんはそだちのよさがうまくはたらき、
どんな場合でも上品さと誠実さがつたわってくる。
酒井さんの誠実さは、震災直後にかかれた記事のかきだしにあらわれている。
「かくも深い悲しみが日本人の心に張りついていても、
芽吹く葉があり、咲く花があることは、私達の心をうるおしてくれる」
たった2行のこの文章。しかし、それ以外に、あの時点でなにがかたれるだろう。
まったくふれないのはどうかしている。
でも、こころが動揺しているときに、
わかったようなことをヒステリックにかくべきではない。
酒井さんはこの2行のあとに、いつものような記事をつづけている。
わたしは酒井さんのかるさとともに、
このまじめさがとてもすきだ。
おかしかったのは、女性誌のインタビューをうけ、
その雑誌の購読者にむけて「何かメッセージを」といわれたときに
「女性誌を、読まないようにすれば
いいのではないですかね?」
とこたえるところ。
うけをねらっての「メッセージ」ではなく、
酒井さんならではのまじめな提案だ。
諸悪の根源が、じつは主体となって女性たちをあおっているメディアであり、
それは、いわれてみればもっともなのに、なかなか気づかない。
いっしょに頭をかかえてなやんでしまいがちなところに、
酒井さんはスッと目をむける。
「日本の、ある年齢以下の女性が抱える悩みのほとんどは、
女性誌が原因になっているような気がしてならない」
「女性誌が若い女性に対して最も強く与えているプレッシャーが、『モテ』だろう。(中略)
いわゆる赤文字系雑誌に黄溢する『モテねばならぬ』という意思には、
鬼気迫る感すら漂うもの」
わたしがしらない本もたくさん紹介されている。
小説よりも、それ以外のジャンルのものがおおい。
文庫本はほとんどないので、手にするには図書館へかようことになりそうだ。
「まえがき」にあったように
「芋づる式に読みたい本が現れる嬉しさ」となることをねがっている。
週刊文春に連載された記事をまとめたもの。
「本が多すぎる」とはネガティブな表現だけど、
酒井さんはもちろん本をよむたのしさをよく理解しているひとで、
「本はまた、別の本を連れてきてくれます。
ある本を読んでいたら別の本についてのことが書いてあって、
それを読んだらまた別の本が読みたくなって・・・と、
芋づる式に読みたい本が現れる嬉しさよ。
そんな『読みたい本』が枕頭にそして机上にある時は、
『約束された幸福な未来』が、本の形をとって
そこに存在しているようではありませんか。(中略)
本書は、そんな私の『本がつながる喜び』を綴ったものです」(「まえがき」)
は、本ずきならではのおもいであり、「多すぎる」は謙遜にすぎない。
酒井さんのすぐれた観察眼は、こうしたはばひろいジャンルの、
ゆたかな読書によってやしなわれていることがよくわかる。
各回は「トイレで読書、女子マネ、鷺沢萠」というふうに、
2〜3つの「お題」があげられており、それぞれのお題について
本をとりあげながら はなしがふくらんでいく。
はなしのはいり方が独特で、本とは関係ない話題をきりくちにしながら、
なんとなく本題にはいっている。
それぞれの「お題」について数冊の本をとりあげているから、
全体ではそうとうな数だ。索引には300冊ほどの本がならんでいる。
『本が多すぎる』とは、自分がよんできた膨大な数の本のことではないか。
とりあげられた本は、「女」を話題にしたものがおおい。
「女」への視線は酒井さんならではふかさとやさしさがある。
たとえば『さいごの色街 飛田』では、
色街について、批判的なみかたをかんたんにもちこんだりしない。
「平安時代の女性達も、そして飛田の女性達も、
小さな部屋でひたすら男性を待っているところは同じ」
といい、どんなシステムで、どんな女性がはたらいているかなど、
酒井さんは偏見をまじえない好奇心をむける。
「女」や「性」をかたるときの距離感がすばらしく、
これがあまりにも正義の味方からの視点ではおもしろくないし、
スケベごころまるだで対象にせまられてはしらけてしまう。
酒井さんはそだちのよさがうまくはたらき、
どんな場合でも上品さと誠実さがつたわってくる。
酒井さんの誠実さは、震災直後にかかれた記事のかきだしにあらわれている。
「かくも深い悲しみが日本人の心に張りついていても、
芽吹く葉があり、咲く花があることは、私達の心をうるおしてくれる」
たった2行のこの文章。しかし、それ以外に、あの時点でなにがかたれるだろう。
まったくふれないのはどうかしている。
でも、こころが動揺しているときに、
わかったようなことをヒステリックにかくべきではない。
酒井さんはこの2行のあとに、いつものような記事をつづけている。
わたしは酒井さんのかるさとともに、
このまじめさがとてもすきだ。
おかしかったのは、女性誌のインタビューをうけ、
その雑誌の購読者にむけて「何かメッセージを」といわれたときに
「女性誌を、読まないようにすれば
いいのではないですかね?」
とこたえるところ。
うけをねらっての「メッセージ」ではなく、
酒井さんならではのまじめな提案だ。
諸悪の根源が、じつは主体となって女性たちをあおっているメディアであり、
それは、いわれてみればもっともなのに、なかなか気づかない。
いっしょに頭をかかえてなやんでしまいがちなところに、
酒井さんはスッと目をむける。
「日本の、ある年齢以下の女性が抱える悩みのほとんどは、
女性誌が原因になっているような気がしてならない」
「女性誌が若い女性に対して最も強く与えているプレッシャーが、『モテ』だろう。(中略)
いわゆる赤文字系雑誌に黄溢する『モテねばならぬ』という意思には、
鬼気迫る感すら漂うもの」
わたしがしらない本もたくさん紹介されている。
小説よりも、それ以外のジャンルのものがおおい。
文庫本はほとんどないので、手にするには図書館へかようことになりそうだ。
「まえがき」にあったように
「芋づる式に読みたい本が現れる嬉しさ」となることをねがっている。
2014年06月22日
アドウェアになやまされる もつべきものは、「友人」というはなし
職場であたらしくかったDELLのノートパソコンをつかっていると、
なにもしてないのに いろんなウィンドウをかってにひらいていく。
「パソコンのセキュリティがあぶない」
「すぐにバージョンアップしろ」
「いまだけ特別価格です」
アダルトサイトにもつれていこうとしはじめた。
ネットでしらべてみると、アドウェアというのだそうだ。
なにか決定的なわるさをするわけではないけれど、
ものすごくわずらわしい。
つかってないソフトをアンイストールしたり、
アドオンからはずしてみたりするけどうまくいかない。
たいして重要なパソコンではなかったので、
システムを再インストールすることにした。
ウィンドウズパソコンでは はじめてとはいえ、
マックではしょっちゅうやってることだ。
システムをいれかえたあとに、もう1枚のディスクをいれ
ドライバーをインストールする。
つつがなくおえたとおもったら、
アドウェアはでてこないけど、
こんどはネットにつながらなくなってしまった。
つぎつぎにひらいてしまうサイトが
あれだけうっとおしかったのに、
まったくネットがみれないと これはこれで すごくさみしい。
20年まえのパソコンは、こんなかんじでただの事務処理機だったなーと、
ほんのすこしむかしをなつかしむ。
こまってしまい、パソコン内の検索で解決法をさがすと、
「友人の支援を受ける」というのにいきあたった。
「問題が解決されない場合は
次のいずれかを実行して
問題の解決を試みてください」
の選択で、
・友人の支援を受ける。
リモートアシスタンスを使用して
信頼できる相手に支援をもとめる
とあったのだ。
この「案」をおもいついたひとは、
核心をついた回答ができて、うれしかったのではないか。
たしかにDELLに電話をかけて(どうせなかなかつながらない)、
延々と状況を説明するより
よほど解決ははやいかもしれない。
「お役に立ちましたか?」も効果的だ。
「友人の支援を受ける」を本気でいえるDELLって、すごい。
残念ながらわたしには相談にのってくれる友人がいなかったため、
この回答は「お役に立」たず、
いまもまだネットにつなげられないでいる。
もつべきものは、たしかに「友人」だとおもった。
なにもしてないのに いろんなウィンドウをかってにひらいていく。
「パソコンのセキュリティがあぶない」
「すぐにバージョンアップしろ」
「いまだけ特別価格です」
アダルトサイトにもつれていこうとしはじめた。
ネットでしらべてみると、アドウェアというのだそうだ。
なにか決定的なわるさをするわけではないけれど、
ものすごくわずらわしい。
つかってないソフトをアンイストールしたり、
アドオンからはずしてみたりするけどうまくいかない。
たいして重要なパソコンではなかったので、
システムを再インストールすることにした。
ウィンドウズパソコンでは はじめてとはいえ、
マックではしょっちゅうやってることだ。
システムをいれかえたあとに、もう1枚のディスクをいれ
ドライバーをインストールする。
つつがなくおえたとおもったら、
アドウェアはでてこないけど、
こんどはネットにつながらなくなってしまった。
つぎつぎにひらいてしまうサイトが
あれだけうっとおしかったのに、
まったくネットがみれないと これはこれで すごくさみしい。
20年まえのパソコンは、こんなかんじでただの事務処理機だったなーと、
ほんのすこしむかしをなつかしむ。
こまってしまい、パソコン内の検索で解決法をさがすと、
「友人の支援を受ける」というのにいきあたった。
「問題が解決されない場合は
次のいずれかを実行して
問題の解決を試みてください」
の選択で、
・友人の支援を受ける。
リモートアシスタンスを使用して
信頼できる相手に支援をもとめる
とあったのだ。
この「案」をおもいついたひとは、
核心をついた回答ができて、うれしかったのではないか。
たしかにDELLに電話をかけて(どうせなかなかつながらない)、
延々と状況を説明するより
よほど解決ははやいかもしれない。
「お役に立ちましたか?」も効果的だ。
「友人の支援を受ける」を本気でいえるDELLって、すごい。
残念ながらわたしには相談にのってくれる友人がいなかったため、
この回答は「お役に立」たず、
いまもまだネットにつなげられないでいる。
もつべきものは、たしかに「友人」だとおもった。
2014年06月21日
ギリシャ戦は「ひきわけが最良の結果」という記事について
きのうのギリシャ戦について、
「狙い通りの引き分け、日本にとって最良の結果」という記事がのった。
http://www.plus-blog.sportsnavi.com/miamor10/article/22
グループCの4チームをかち点とモチベーションで分析してみると、
あの試合にかつよりも、ひきわけの方が
決勝トーナメントにすすむ確率がたかいというのだ。
有名なジャンダルメリーの法則であり、
グループが1強3弱(中?)で構成されるときに ごくまれにおこる現象だ、
というのはウソで、
わたしはまったく気づかなかった。
日本にとっても、ギリシャにとっても
ひきわけが最善な試合だったのだ。
それにしてもビミョーな情報である。
ひきわけが最善であることは、
関係者はもちろんあらかじめしっていたはずだ。
しかしひきわけは、ねらってできるものではないし、
ギリシャ戦での日本はひきわけねらいなんて
いえる状況ではなかった。
だれかがこの数字のマジックを にぎりつぶすことにきめたのだ。
協会や監督が、ひきわけをチームにもとめるわけにはいかない。
ロンドンオリンピックのとき、佐々木則夫監督が、
グループの2位通過をちらっとにおわせただけで
ものすごくたたかれた。
日本人の美意識において、全力をかたむけないたたかい方は
うけいれがたいものがあり、
あらかじめひきわけをねらって試合にのぞんだことがわかれば、
かなりの批判をあびただろう。
それでなくてもまえの試合は日本らしいサッカーができなくて
批判をあびていたところなのだ。
2戦目にひきわけねらいの ひいてまもるサッカーをすれば、
かりにひきわけが最善であったとしても
これまでの4年間はなんだったのだ、とたたかれるだろう。
メディアはひきわけという結果について、
いちように「首の皮いちまいでつながった」
という表現をしていた(わたしもそうおもった)。
そういうことにしておかないと、
なにかとややこしいはなしになるからだろう。
ひきわけがベストなことをしっていても、
それを公言すれば試合のはいり方も評価もむつかしくなる。
ここは、「しらなかった」ことにするのが
もっとも無難な選択だった。
ひきわけでよかったからといって、
もしそれをしっていたとしても
簡単な試合だったわけではない。
ひきわけねらいは、非常にむつかしい選択だ。
まければグループリーグの敗退がきまるし、
「せめながら」点をいれずに90分をおえるのは
よほど実力差がなければできないのではないか。
日本はそのミッション・インポッシブルをやりとげ
真剣にゴールをねらいながら、みごとにひきわけにもちこんだ。
いまおもえば、ギリシャはあきらかにひきわけをねらっていた。
はやめに退場者をだしたこともあり、
まもりにきりかえたのはいかにも自然な判断にみえる。
おたがいにひきわけがいちばんだから、
テキトーにながそう、というわけにいかず、
それでもギリシャはじょうずに90分をたたかいぬいた。
日本は全力をつくしたうえで、結果としてひきわけた。
「ひきわけにおわった」のではなく、
じつは「ひきわけをかちとった」といえる。
だれかがシナリオをかいたみたいに、
おわってみれば日本にとっていい結果だった。
現実はときにおもわぬ状況をまねく。
真剣にたたかったおかげで、
なんとか「首の皮いちまいでつながった」。
ひかえ選手を主体にしたときのコロンビアが
どれだけレベルをさげるかはわからない。
いいところをだそうとひかえ選手のモチベーションはたかいだろうし、
つかれがたまっていないフレッシュな選手たちのほうが
日本にとってあんがいやりにくい相手かもしれない。
それでも状況としては、日本のとっていちばん都合のいいものになった。
とにかく日本はコロンビアにかつしかない。
そしてギリシャがコートジボワールにひくいスコアーでかつこと。
かち点の計算をしてると、性格がわるくなりそうだ。
「狙い通りの引き分け、日本にとって最良の結果」という記事がのった。
http://www.plus-blog.sportsnavi.com/miamor10/article/22
グループCの4チームをかち点とモチベーションで分析してみると、
あの試合にかつよりも、ひきわけの方が
決勝トーナメントにすすむ確率がたかいというのだ。
有名なジャンダルメリーの法則であり、
グループが1強3弱(中?)で構成されるときに ごくまれにおこる現象だ、
というのはウソで、
わたしはまったく気づかなかった。
日本にとっても、ギリシャにとっても
ひきわけが最善な試合だったのだ。
それにしてもビミョーな情報である。
ひきわけが最善であることは、
関係者はもちろんあらかじめしっていたはずだ。
しかしひきわけは、ねらってできるものではないし、
ギリシャ戦での日本はひきわけねらいなんて
いえる状況ではなかった。
だれかがこの数字のマジックを にぎりつぶすことにきめたのだ。
協会や監督が、ひきわけをチームにもとめるわけにはいかない。
ロンドンオリンピックのとき、佐々木則夫監督が、
グループの2位通過をちらっとにおわせただけで
ものすごくたたかれた。
日本人の美意識において、全力をかたむけないたたかい方は
うけいれがたいものがあり、
あらかじめひきわけをねらって試合にのぞんだことがわかれば、
かなりの批判をあびただろう。
それでなくてもまえの試合は日本らしいサッカーができなくて
批判をあびていたところなのだ。
2戦目にひきわけねらいの ひいてまもるサッカーをすれば、
かりにひきわけが最善であったとしても
これまでの4年間はなんだったのだ、とたたかれるだろう。
メディアはひきわけという結果について、
いちように「首の皮いちまいでつながった」
という表現をしていた(わたしもそうおもった)。
そういうことにしておかないと、
なにかとややこしいはなしになるからだろう。
ひきわけがベストなことをしっていても、
それを公言すれば試合のはいり方も評価もむつかしくなる。
ここは、「しらなかった」ことにするのが
もっとも無難な選択だった。
ひきわけでよかったからといって、
もしそれをしっていたとしても
簡単な試合だったわけではない。
ひきわけねらいは、非常にむつかしい選択だ。
まければグループリーグの敗退がきまるし、
「せめながら」点をいれずに90分をおえるのは
よほど実力差がなければできないのではないか。
日本はそのミッション・インポッシブルをやりとげ
真剣にゴールをねらいながら、みごとにひきわけにもちこんだ。
いまおもえば、ギリシャはあきらかにひきわけをねらっていた。
はやめに退場者をだしたこともあり、
まもりにきりかえたのはいかにも自然な判断にみえる。
おたがいにひきわけがいちばんだから、
テキトーにながそう、というわけにいかず、
それでもギリシャはじょうずに90分をたたかいぬいた。
日本は全力をつくしたうえで、結果としてひきわけた。
「ひきわけにおわった」のではなく、
じつは「ひきわけをかちとった」といえる。
だれかがシナリオをかいたみたいに、
おわってみれば日本にとっていい結果だった。
現実はときにおもわぬ状況をまねく。
真剣にたたかったおかげで、
なんとか「首の皮いちまいでつながった」。
ひかえ選手を主体にしたときのコロンビアが
どれだけレベルをさげるかはわからない。
いいところをだそうとひかえ選手のモチベーションはたかいだろうし、
つかれがたまっていないフレッシュな選手たちのほうが
日本にとってあんがいやりにくい相手かもしれない。
それでも状況としては、日本のとっていちばん都合のいいものになった。
とにかく日本はコロンビアにかつしかない。
そしてギリシャがコートジボワールにひくいスコアーでかつこと。
かち点の計算をしてると、性格がわるくなりそうだ。
2014年06月20日
Wカップ ギリシャ戦 0-0のひきわけ せめつづけても点をうばえない
ギリシャは評判どおり、堅守速攻のチームだった。
日本はいつになく積極的にゲームにはいり、
パスがよくつながる。
ポゼッションは7割がた日本だった。
せめつづけ、だんだん得点のにおいがしてきたのに、
最後のゴールだけがわれない。
ギリシャは37分に退場者をだし、
このままつづければ最後にはゴールをうばえるだろう、
とおもっていたのに、
そこからのギリシャはしぶとかった。
後半から長谷部にかわって、遠藤、
とちゅうから大迫にかわって香川がはいる。
2人とも、もち味を発揮してせめにながれをつくる。
それでも点がはいらない。
ひきわけでいいとわりきったギリシャは
シンプルにまもりをかため、
日本はせめあぐむ形がつづく。
まるでアジア予選をみているみたいだ。
攻撃も単調となり、サイドからのクロスしかアイデアがない。
ギリシャは足がとまってるのに、ときどきのカウンターはまだ健在だ。
これがギリシャのサッカーなのかとふかく納得する。
けっきょくそのままスコアレスドローのひきわけ。
こんなにもゴールをうばうのはたいへんなのか。
まだグループリーグの敗退がきまったわけではないが、
のぞみはきわめてささやかなものとなった。
3試合目にあたるコロンビアは、決勝トーナメントゆきをきめているので、
ガチンコではこないかもしれない。
でも、裏でおこなわれるコートジボワールとギリシャでは、
どちらもかたなければ うえにいけないので、
全力をかたむけてくる。
そのときは、コートジボワールの地力がまさるだろう。
楽観的にみれば、コートジボワールとギリシャは、
両方とも日本が苦手とするスタイルだった。
つぎに対戦するコロンビアは、
うちあいになれば日本のよさがでる。
このことからも、対戦相手によってたたかい方をかえる
いろんなひきだしがなければ
Wカップでかちあがるのはむつかしいことがわかる。
きょうの日本は、わるい内容ではなかった。
自分たちのサッカーを実現しても なおかちきれないところに、
日本のいまのレベルをしらされた形だ。
わずかにのぞみをつないだとはいえ、
ギリシャにかちきれなかったのは残念だった。
日本はいつになく積極的にゲームにはいり、
パスがよくつながる。
ポゼッションは7割がた日本だった。
せめつづけ、だんだん得点のにおいがしてきたのに、
最後のゴールだけがわれない。
ギリシャは37分に退場者をだし、
このままつづければ最後にはゴールをうばえるだろう、
とおもっていたのに、
そこからのギリシャはしぶとかった。
後半から長谷部にかわって、遠藤、
とちゅうから大迫にかわって香川がはいる。
2人とも、もち味を発揮してせめにながれをつくる。
それでも点がはいらない。
ひきわけでいいとわりきったギリシャは
シンプルにまもりをかため、
日本はせめあぐむ形がつづく。
まるでアジア予選をみているみたいだ。
攻撃も単調となり、サイドからのクロスしかアイデアがない。
ギリシャは足がとまってるのに、ときどきのカウンターはまだ健在だ。
これがギリシャのサッカーなのかとふかく納得する。
けっきょくそのままスコアレスドローのひきわけ。
こんなにもゴールをうばうのはたいへんなのか。
まだグループリーグの敗退がきまったわけではないが、
のぞみはきわめてささやかなものとなった。
3試合目にあたるコロンビアは、決勝トーナメントゆきをきめているので、
ガチンコではこないかもしれない。
でも、裏でおこなわれるコートジボワールとギリシャでは、
どちらもかたなければ うえにいけないので、
全力をかたむけてくる。
そのときは、コートジボワールの地力がまさるだろう。
楽観的にみれば、コートジボワールとギリシャは、
両方とも日本が苦手とするスタイルだった。
つぎに対戦するコロンビアは、
うちあいになれば日本のよさがでる。
このことからも、対戦相手によってたたかい方をかえる
いろんなひきだしがなければ
Wカップでかちあがるのはむつかしいことがわかる。
きょうの日本は、わるい内容ではなかった。
自分たちのサッカーを実現しても なおかちきれないところに、
日本のいまのレベルをしらされた形だ。
わずかにのぞみをつないだとはいえ、
ギリシャにかちきれなかったのは残念だった。
2014年06月19日
マイナスの感情をどうあつかうか
「ほぼ日」の「恋歌くちずさみ委員会」をよんでいて、
ほぼ日のスタッフが、投稿者の気もちをよくかんがえてコメントするのにいつも感心する。
いや、それは仕事だからあたりまえか。
すごいとおもうのは、どの曲も公平にあつかう姿勢だ。
わたしは、きらいな歌手の曲がとりあげられたりしたら、
あたまからその曲、そして投稿そのものを否定してしまうだろう。
そこらへん、ものすごくこころがせまい。
「オレ、この歌手きらいだから、今回はおります」
なんてやってたら仕事にならないので、
残念ながらほぼ日のスタッフにはなれそうにない。
ラジオの番組で、たとえばゲストによんだ歌手が
あたらしいアルバムをだしたときなどに、
たとえあんまりパッとしない曲であったとしても、
司会者はいいところをちゃんとみつけだして
肯定的な感想をつたえる。
つまらないとおもっていながら
「いいですねー」は、なかなかじょうずにいえるものではない。
マイナスの評価を口にしないのは、番組として当然の態度とはいえ、
わたしにはつとまりそうにない。
本でも、わたしがすきなひとが批判した本や、
ワイドショーなどでずれた発言をとりあげられた作家などは
どれだけ話題になっていてもよんでみる気にならない。
作家の発言と本のなかみは関係ないかもしれないのに、
賛成できない発言をきいたら、そのひと全体を否定してしまいがちだ。
こんなことをかくと、わたしがすごく傲慢で、ずうずうしい人間みたいだけど、
じっさいにひととせっするときのわたしは
常識的な範囲内で意見のやりとりをしている(とおもう)。
ただ、やりたくないことはやりたくないわけで、
すきでない歌手の曲をじっくりきいて
いいところをみつけようとはおもわないし、
うけいれがたい発言をした作家の本は よむ気にはなれない。
無理をしたら、なんどかはしのげるだろうけど、
けっきょくはながくつづけられず、その仕事をやめなければならないだろう。
「いやなことはしない」のは、わたしのなかでかなり大切な方針となっている。
だれにでもそんなマイナスの感情をもつわけではなく、
おおむねニュートラルな心境をたもっているつもりだけど、
いちどきらいになると、そのあとはこころをひらきにくい。
週刊誌の広告などをみると、
こんな記事をかかされたらいやだろうなーとよくおもう。
興味をもてない、くらいだったらまだしも、
会社の方針にそって、かきたくない記事をかく記者はたいへんだ。
あきらかにおおげさだったり、取材の対象者に敬意をはらってなかったり。
いかに仕事とはいえ、してはいけないことは したくない。
べつの新曲の発表でなくても、日常生活において、
なにかしらコメントがもとめられることはおおい。
あまりいい感想をもたなかったときでも、
テキトーなことをいってしのいでいるのだから、
やろうとおもえばなんとかなるのだろう。
相手の気もちをかんがえるのは当然のことで、
たいしたできでなくてもほめるし、
ほめないまでもわざわざ悪口をいうことはない。
ただ、それを仕事としてやらなければならないとしたら、
どこかに意味をみいだせないと つづけにくいだろう。
すき・きらいのおおさは、繊細さではなく、
こころのよわさをあらわしている。
ちょっとした我慢が わたしはできない。
「いやなことはしない」といって
きらいなものをこばんでいたら、
けっきょくは自分にはねかえってくる。
じょうずにウソをつくことは、社会を生きぬくうえでの大切な知恵なのが、
西原理恵子さんの本をよむとよくわかる。
でも、ウソもまた なかなかむつかしい。
ほぼ日のスタッフが、投稿者の気もちをよくかんがえてコメントするのにいつも感心する。
いや、それは仕事だからあたりまえか。
すごいとおもうのは、どの曲も公平にあつかう姿勢だ。
わたしは、きらいな歌手の曲がとりあげられたりしたら、
あたまからその曲、そして投稿そのものを否定してしまうだろう。
そこらへん、ものすごくこころがせまい。
「オレ、この歌手きらいだから、今回はおります」
なんてやってたら仕事にならないので、
残念ながらほぼ日のスタッフにはなれそうにない。
ラジオの番組で、たとえばゲストによんだ歌手が
あたらしいアルバムをだしたときなどに、
たとえあんまりパッとしない曲であったとしても、
司会者はいいところをちゃんとみつけだして
肯定的な感想をつたえる。
つまらないとおもっていながら
「いいですねー」は、なかなかじょうずにいえるものではない。
マイナスの評価を口にしないのは、番組として当然の態度とはいえ、
わたしにはつとまりそうにない。
本でも、わたしがすきなひとが批判した本や、
ワイドショーなどでずれた発言をとりあげられた作家などは
どれだけ話題になっていてもよんでみる気にならない。
作家の発言と本のなかみは関係ないかもしれないのに、
賛成できない発言をきいたら、そのひと全体を否定してしまいがちだ。
こんなことをかくと、わたしがすごく傲慢で、ずうずうしい人間みたいだけど、
じっさいにひととせっするときのわたしは
常識的な範囲内で意見のやりとりをしている(とおもう)。
ただ、やりたくないことはやりたくないわけで、
すきでない歌手の曲をじっくりきいて
いいところをみつけようとはおもわないし、
うけいれがたい発言をした作家の本は よむ気にはなれない。
無理をしたら、なんどかはしのげるだろうけど、
けっきょくはながくつづけられず、その仕事をやめなければならないだろう。
「いやなことはしない」のは、わたしのなかでかなり大切な方針となっている。
だれにでもそんなマイナスの感情をもつわけではなく、
おおむねニュートラルな心境をたもっているつもりだけど、
いちどきらいになると、そのあとはこころをひらきにくい。
週刊誌の広告などをみると、
こんな記事をかかされたらいやだろうなーとよくおもう。
興味をもてない、くらいだったらまだしも、
会社の方針にそって、かきたくない記事をかく記者はたいへんだ。
あきらかにおおげさだったり、取材の対象者に敬意をはらってなかったり。
いかに仕事とはいえ、してはいけないことは したくない。
べつの新曲の発表でなくても、日常生活において、
なにかしらコメントがもとめられることはおおい。
あまりいい感想をもたなかったときでも、
テキトーなことをいってしのいでいるのだから、
やろうとおもえばなんとかなるのだろう。
相手の気もちをかんがえるのは当然のことで、
たいしたできでなくてもほめるし、
ほめないまでもわざわざ悪口をいうことはない。
ただ、それを仕事としてやらなければならないとしたら、
どこかに意味をみいだせないと つづけにくいだろう。
すき・きらいのおおさは、繊細さではなく、
こころのよわさをあらわしている。
ちょっとした我慢が わたしはできない。
「いやなことはしない」といって
きらいなものをこばんでいたら、
けっきょくは自分にはねかえってくる。
じょうずにウソをつくことは、社会を生きぬくうえでの大切な知恵なのが、
西原理恵子さんの本をよむとよくわかる。
でも、ウソもまた なかなかむつかしい。
2014年06月18日
『オシム73歳の闘い』オシムさんによる協会の一本化から すべてがはじまった
録画しておいた『オシム73歳の闘い』をみる。
今回のWカップに初出場するボスニア=ヘルツェゴビナは
2011年までFIFAから加盟をとりけされていた。
モスリム系・セルビア系・クロアチア系と、3つの民族が
それぞれの権利を主張し、サッカー協会が分裂していたからだ。
FIFAは協会の一本化にむけて、オシムさんを正常化委員会の委員長に指名する。
この番組は、オシムさんが各民族の代表と交渉し、一本化を実現させる過程、
そしてボスニアの代表チームがヨーロッパ予選を1位で通過して、
Wカップ本大会への出場をきめるまでをえがいている。
取材は『オシムの言葉』の著者、木村元彦さんによっておこなわれた。
何年かぶりにみるオシムさんは、
まえよりもやせてしまったようにみえる。
脳梗塞のマヒにより、介護者のつきそいが必要だし、
ながらくイスにすわることもできない。
まだ74歳だというのに、あるくのもたいへんそうだ。
でも、なにかひとこと皮肉らないと気がすまないのはあいかわらずで、
なにかといってはたとえばなしをもちだして まわりをケムにまく。
オシムさんが旧ユーゴの代表監督をしていたときにも
3つの民族をまとめるのに苦労し、
やがてはじまった内戦へ抗議するために辞任している。
旧ユーゴが7つの国にわかれたいまも、
民族問題は依然としてつづいている。
オシムさんはコスモポリタンをなのり、
「どこの民族だ?」とたずねられると
「サラエボっ子」とこたえるという。
そんなオシムさんだからこそ、3つの民族をまとめる役がまわってきたのだし、
各民族の代表者もオシムさんの伝説的な経歴に敬意をはらっていた。
どの民族からも距離をおき、だれからも信頼されるオシムさんでなければ
この任務はなしとげられなかっただろう。
ボスニアはヨーロッパ予選の終盤まで1位につけ、
最終のリトアニア戦で予選通過をかけ たたかうことになる。
この試合に、おおげさでなく世界中からボスニア出身者が応援にかけつけていた。
サッカーの代表チームは、そのままボスニアを象徴する存在となっている。
自分の国を応援できる機会は、サッカーにおいてしかない。
自分たちのチームをこころからまちのぞんでいたひとたちの母国愛は、
わたしの想像をはるかにこえる切実なものだ。
試合は1-0でボスニアが勝利をおさめ、
応援にかけつけたオシムさんにまわりのひとたちがおめでとうをいう。
オシムさんもさすがにうれしそうで、目には涙がにじんでいた。
会場をでると、オシムさんのすがたをみたサポーターたちが、
「イヴィツァ=オシム!イヴィツァ=オシム!」と大声で名前をくりかえす。
オシムさんの尽力がなければ、予選にすらでられなかったことを
だれもがしっているのだ。
そして、とうとう自分たちの代表がWカップの本大会に出場できる。
すべてはオシムさんのはたらきかけからはじまった。
Wカップの初戦、アルゼンチン戦では1-2とまけてしまったが、
ボスニアはまもりつづけたわけではなく、
ずっとまえにでる姿勢をしめしてくれた。
日本も1998年にはじめて出場したWカップでアルゼンチンと初戦でたたかい
0-1でやぶれている。0-1といっても内容は圧倒的にアルゼンチンの試合で、
その試合にくらべれば、ボスニアははるかにいい試合をした。
メッシが2点目をきめる。
いつものように右サイドから左にきりこみながら 痛烈なシュートをはなつ。
ボールはポストにあたり、そのまま反対側のネットをゆらした。
メッシはなんどもほえて よろこびをはじけさせている。
前大会はメッシの大会かといわれながら ゴールなしにおわり、
今大会も体調不良がつたえられていた。
そのなかでの自分らしいゴールはよほどうれしかったのだろう。
その後メッシとチームは、生まれかわったようにいきいきとうごきはじめる。
ボスニアが得点をきめたのは後半の40分だ。
左サイドからのシュートがキーパーの股をぬけて
ゆっくりとゴールへところがった。
メッシのはなった強烈なシュートとは対照的なボテボテゴールだったけど、
初出場のボスニアにとって記念すべきゴールで、
ボスニアもその後いきおいをとりもどした。
そういえば、前大会ではアルゼンチンの監督をつとめたマラドーナ氏について、
今大会は はなしをまったくきかない。
勝敗をたかい確率でおしえてくれたタコのパウルくん的な話題もない。
外野にふりまわされず、試合に集中できる大会とよろこぶべきだろうか。
2007で脳梗塞にたおれ、代表監督をしりぞいたオシムさんが
そのまま日本チームを指導していたら、という「もしも」から
なかなかはなれられない。
オシムさんが目ざした日本的なサッカーとは
どんな姿だったろう。
その完成形を、なんとしてもみたかった。
体調が万全でないいまのオシムさんに、
さすがに代表監督をおねがいすることはできないけれど、
「もしもオシムさんがあのまま・・・」は
おおくのサッカーファンが いまもなお あきらめきれない夢となっている。
ボスニア=ヘルツェゴビナは22日(日)にナイジェリアと対戦する。
ボスニアの出場がきまったときオシムさんがいったのは、
「これで日本と試合ができるな」だった。
ボスニア=ヘルツェゴビナと日本の2戦目に期待する。
今回のWカップに初出場するボスニア=ヘルツェゴビナは
2011年までFIFAから加盟をとりけされていた。
モスリム系・セルビア系・クロアチア系と、3つの民族が
それぞれの権利を主張し、サッカー協会が分裂していたからだ。
FIFAは協会の一本化にむけて、オシムさんを正常化委員会の委員長に指名する。
この番組は、オシムさんが各民族の代表と交渉し、一本化を実現させる過程、
そしてボスニアの代表チームがヨーロッパ予選を1位で通過して、
Wカップ本大会への出場をきめるまでをえがいている。
取材は『オシムの言葉』の著者、木村元彦さんによっておこなわれた。
何年かぶりにみるオシムさんは、
まえよりもやせてしまったようにみえる。
脳梗塞のマヒにより、介護者のつきそいが必要だし、
ながらくイスにすわることもできない。
まだ74歳だというのに、あるくのもたいへんそうだ。
でも、なにかひとこと皮肉らないと気がすまないのはあいかわらずで、
なにかといってはたとえばなしをもちだして まわりをケムにまく。
オシムさんが旧ユーゴの代表監督をしていたときにも
3つの民族をまとめるのに苦労し、
やがてはじまった内戦へ抗議するために辞任している。
旧ユーゴが7つの国にわかれたいまも、
民族問題は依然としてつづいている。
オシムさんはコスモポリタンをなのり、
「どこの民族だ?」とたずねられると
「サラエボっ子」とこたえるという。
そんなオシムさんだからこそ、3つの民族をまとめる役がまわってきたのだし、
各民族の代表者もオシムさんの伝説的な経歴に敬意をはらっていた。
どの民族からも距離をおき、だれからも信頼されるオシムさんでなければ
この任務はなしとげられなかっただろう。
ボスニアはヨーロッパ予選の終盤まで1位につけ、
最終のリトアニア戦で予選通過をかけ たたかうことになる。
この試合に、おおげさでなく世界中からボスニア出身者が応援にかけつけていた。
サッカーの代表チームは、そのままボスニアを象徴する存在となっている。
自分の国を応援できる機会は、サッカーにおいてしかない。
自分たちのチームをこころからまちのぞんでいたひとたちの母国愛は、
わたしの想像をはるかにこえる切実なものだ。
試合は1-0でボスニアが勝利をおさめ、
応援にかけつけたオシムさんにまわりのひとたちがおめでとうをいう。
オシムさんもさすがにうれしそうで、目には涙がにじんでいた。
会場をでると、オシムさんのすがたをみたサポーターたちが、
「イヴィツァ=オシム!イヴィツァ=オシム!」と大声で名前をくりかえす。
オシムさんの尽力がなければ、予選にすらでられなかったことを
だれもがしっているのだ。
そして、とうとう自分たちの代表がWカップの本大会に出場できる。
すべてはオシムさんのはたらきかけからはじまった。
Wカップの初戦、アルゼンチン戦では1-2とまけてしまったが、
ボスニアはまもりつづけたわけではなく、
ずっとまえにでる姿勢をしめしてくれた。
日本も1998年にはじめて出場したWカップでアルゼンチンと初戦でたたかい
0-1でやぶれている。0-1といっても内容は圧倒的にアルゼンチンの試合で、
その試合にくらべれば、ボスニアははるかにいい試合をした。
メッシが2点目をきめる。
いつものように右サイドから左にきりこみながら 痛烈なシュートをはなつ。
ボールはポストにあたり、そのまま反対側のネットをゆらした。
メッシはなんどもほえて よろこびをはじけさせている。
前大会はメッシの大会かといわれながら ゴールなしにおわり、
今大会も体調不良がつたえられていた。
そのなかでの自分らしいゴールはよほどうれしかったのだろう。
その後メッシとチームは、生まれかわったようにいきいきとうごきはじめる。
ボスニアが得点をきめたのは後半の40分だ。
左サイドからのシュートがキーパーの股をぬけて
ゆっくりとゴールへところがった。
メッシのはなった強烈なシュートとは対照的なボテボテゴールだったけど、
初出場のボスニアにとって記念すべきゴールで、
ボスニアもその後いきおいをとりもどした。
そういえば、前大会ではアルゼンチンの監督をつとめたマラドーナ氏について、
今大会は はなしをまったくきかない。
勝敗をたかい確率でおしえてくれたタコのパウルくん的な話題もない。
外野にふりまわされず、試合に集中できる大会とよろこぶべきだろうか。
2007で脳梗塞にたおれ、代表監督をしりぞいたオシムさんが
そのまま日本チームを指導していたら、という「もしも」から
なかなかはなれられない。
オシムさんが目ざした日本的なサッカーとは
どんな姿だったろう。
その完成形を、なんとしてもみたかった。
体調が万全でないいまのオシムさんに、
さすがに代表監督をおねがいすることはできないけれど、
「もしもオシムさんがあのまま・・・」は
おおくのサッカーファンが いまもなお あきらめきれない夢となっている。
ボスニア=ヘルツェゴビナは22日(日)にナイジェリアと対戦する。
ボスニアの出場がきまったときオシムさんがいったのは、
「これで日本と試合ができるな」だった。
ボスニア=ヘルツェゴビナと日本の2戦目に期待する。
2014年06月17日
『しなかやかな日本列島のつくりかた』(藻谷浩介)刺激にみちた7つの対話集
『しなかやかな日本列島のつくりかた』(藻谷浩介・新潮社)
『デフレの正体』の藻谷さんが、
商店街・過疎集落・観光・農業・医療・鉄道・不動産開発という
7つの分野について、それぞれの現場で活躍するひとにはなしをきく。
7つの「対話」とも、これまできいたことのなかったかんがえ方がしめされており、
非常に刺激的だ。
「観光」については、スイスのツェルマットで観光事業にとりくむ山田桂一郎さんが
いまの日本にもとめらえる方向性をしめしている。
「ツェルマットのように住民が幸せそうに生活している場所は、
訪れた人が『自分も住んでみたい』と感じ、何度も足を運びたくなる。(中略)
地域に根付いたライフスタイルの『異日常』性が、最大の売りポイントです」(山田)
島根県でもそういう場所がでてきている。
石見銀山の群言堂や、隠岐諸島では、
地理的な不便さを逆手にとって観光にいかしている。
道路や新幹線を整備しないとお客がふえない、は
根拠のないおもいこみのようだ。
「観光バスでどっと乗り付けてすぐ立ち去る団体客が
いくら増えたところで、本当の意味で地域は潤いません」(山田)
「日本の観光地がダメになった原因の一つは、
まさにこのような『一見さん』を効率よく回すことだけを考え、
リピーターを増やす努力を長く怠ってきたことにあると思います」(山田)
山田さんは
「まず地域全体が本当に豊かになるためにはどうしたらいいか、
という議論から始めます」
といい、
「観光業の方よりも、むしろ農林漁業従事者や、
その地域で個人偉業をやっているような方が参加してくださるほうがありがたいし、
それ以上に、実は専業主婦の方や子どもたちに入ってもらうことの方が大事です」
藻谷「今、日本ではチープな地域振興が持て囃されています。
B級グルメ、単発イベント、そしてゆるキャラ」
山田「ダメな地域って、その三つを必ずやってますよね」
「とにかく安い値段で提供するのが商売だと思い込んでいる。
人口が増えた時代に量で稼いだ記憶が、
客が減る時代にもどうしてもぬけない」(藻谷)
やすくてひとがあつまるイベントを消費者はよろこぶけれど、
それがおわってしまえばお客はすぐにへってしまう。
地元にとって単発イベントは、その後への持続的な効果がほとんど期待できない。
そうではなくて、地元でとれた食材の価値を正統な評価し、
それをお客さんに提供してよろこんでもらう。
いいものをやすくうっていては 生産者がしあわせになれない。
「都会の百貨店に置いてもらうんじゃなくて、
地元にわざわざ来て、食べてもらう、買ってもらう。
地域にきて消費するだけの価値があるものをちゃんと産み育てましょう」(山田)
出雲大社はきょねん「遷宮」が話題となり、
たくさんの観光客がおとずれた。
駐車場をもとめて車の列がつづき、
参道はひとでごったがえしている。
お店にも列ができ、ずいぶんまたされている様子だ。
わたしだったら、こんなところにもうにどといくものか、
とおもうだろう。
とおくからわざわざ出雲大社にきてくれたお客さんが、
どんな印象をうけたのか気になるところだ。
たくさんのひとにきてもらうだけで
その地域がゆたかになるわけではない。
値段をさげて量をうるのはながくつづかない。
適切な数のお客に上質なサービスを提供し、よろこんでもらい、
またこの町にこようとおもってもらうことが、
いまの観光にもとめられている。
地域のひとたちが、しあわせに生きるすがたこそ
もっとも商品価値のある資源なのだ。
『デフレの正体』の藻谷さんが、
商店街・過疎集落・観光・農業・医療・鉄道・不動産開発という
7つの分野について、それぞれの現場で活躍するひとにはなしをきく。
7つの「対話」とも、これまできいたことのなかったかんがえ方がしめされており、
非常に刺激的だ。
「観光」については、スイスのツェルマットで観光事業にとりくむ山田桂一郎さんが
いまの日本にもとめらえる方向性をしめしている。
「ツェルマットのように住民が幸せそうに生活している場所は、
訪れた人が『自分も住んでみたい』と感じ、何度も足を運びたくなる。(中略)
地域に根付いたライフスタイルの『異日常』性が、最大の売りポイントです」(山田)
島根県でもそういう場所がでてきている。
石見銀山の群言堂や、隠岐諸島では、
地理的な不便さを逆手にとって観光にいかしている。
道路や新幹線を整備しないとお客がふえない、は
根拠のないおもいこみのようだ。
「観光バスでどっと乗り付けてすぐ立ち去る団体客が
いくら増えたところで、本当の意味で地域は潤いません」(山田)
「日本の観光地がダメになった原因の一つは、
まさにこのような『一見さん』を効率よく回すことだけを考え、
リピーターを増やす努力を長く怠ってきたことにあると思います」(山田)
山田さんは
「まず地域全体が本当に豊かになるためにはどうしたらいいか、
という議論から始めます」
といい、
「観光業の方よりも、むしろ農林漁業従事者や、
その地域で個人偉業をやっているような方が参加してくださるほうがありがたいし、
それ以上に、実は専業主婦の方や子どもたちに入ってもらうことの方が大事です」
藻谷「今、日本ではチープな地域振興が持て囃されています。
B級グルメ、単発イベント、そしてゆるキャラ」
山田「ダメな地域って、その三つを必ずやってますよね」
「とにかく安い値段で提供するのが商売だと思い込んでいる。
人口が増えた時代に量で稼いだ記憶が、
客が減る時代にもどうしてもぬけない」(藻谷)
やすくてひとがあつまるイベントを消費者はよろこぶけれど、
それがおわってしまえばお客はすぐにへってしまう。
地元にとって単発イベントは、その後への持続的な効果がほとんど期待できない。
そうではなくて、地元でとれた食材の価値を正統な評価し、
それをお客さんに提供してよろこんでもらう。
いいものをやすくうっていては 生産者がしあわせになれない。
「都会の百貨店に置いてもらうんじゃなくて、
地元にわざわざ来て、食べてもらう、買ってもらう。
地域にきて消費するだけの価値があるものをちゃんと産み育てましょう」(山田)
出雲大社はきょねん「遷宮」が話題となり、
たくさんの観光客がおとずれた。
駐車場をもとめて車の列がつづき、
参道はひとでごったがえしている。
お店にも列ができ、ずいぶんまたされている様子だ。
わたしだったら、こんなところにもうにどといくものか、
とおもうだろう。
とおくからわざわざ出雲大社にきてくれたお客さんが、
どんな印象をうけたのか気になるところだ。
たくさんのひとにきてもらうだけで
その地域がゆたかになるわけではない。
値段をさげて量をうるのはながくつづかない。
適切な数のお客に上質なサービスを提供し、よろこんでもらい、
またこの町にこようとおもってもらうことが、
いまの観光にもとめられている。
地域のひとたちが、しあわせに生きるすがたこそ
もっとも商品価値のある資源なのだ。
2014年06月16日
スペイン対オランダ 1-5でスペインがまさかの敗北
これはもう、だれがなんといおうと ただごとではない。
14日におこなわれたWカップ、スペイン対オランダ(グループB)。
前回南アフリカ大会の決勝のくみあわせが、
いきなりグループリーグで再現されたこの試合で、
5-1と、オランダがスペインを完全にしずめてしまった。
録画でみたので、スペインが1-5でやぶれたことをしっていた。
でも、前半30分までをみるかぎり、
とてもそんな点差になった試合とはおもえないほど
一方的にスペインがボールを支配していた。
前半終了間際にファンペルシーがダイビングヘッドをきめて同点とする。
1本のロングパスがみごとにつながった。
いまおもえばこれが、後半にひきつがれることになる
オランダの猛攻の序章だった。
後半にはいってからも、オランダは1点目とおなじように、
ほんの一瞬のスキをついて ながいパスをとおしてしまう。
点差がひらいていくうちにスペイン選手の気もちがきれ、
ありえないミスがでる。
まるでスペインの守備がザルみたいにみえてきた。
さいごには、トーレスにロングパスをおくるという
パワープレーしかなくなった。
あのスペインが、こんなにくずれるとは。
くずれると、スペインでさえこうなってしまうのか。
前回大会の決勝は、点差は1-0だったものの、
内容は完全にスペインの試合だった。
オランダのサッカーは、スペインにまったく歯がたたない。
おなじパスサッカーというスタイルでありながら、
オランダは危険なファウルにたよって、
ちからずくでスペインをおさえるしか手がない。
スペインがかつべくしてかった試合であり、
スペインの絶頂期を印象づける大会だった。
オランダは、その後4年をかけて戦略をねり、
打倒スペインをめざしてこの大会にのぞんだのが
みごとにきまったかたちだ。
チーム全体が、勝利によいしれていた。
ロッペンでさえチームメイトをたたえている。
前回の決勝のくみあわせがグループリーグで再現され、
オランダが雪辱をはたすなんて、
だれがこんなシナリオを予想しただろうか。
しかしまだリーグ戦ははじまったばかりだ。
グループリーグでかちのこるためには、
チリとオーストラリアにかてばいいのだから、
スペインにとってけしてむつかしいミッションではない。
オランダ戦の5失点は想像をぜっする結果だったとはいえ、
スペインがこのままきえさるとはおもえない。
デルボスケ監督が、つぎの試合にどうたてなおしてくるだろう。
前大会の初戦も、スペインはスイスにやぶれている。
しかしこのときは0-1で、さほどショックはなかっただろう。
スペインの、そしてバルサのサッカーは、
いまやピークがすぎたとおおくのひとがかんじている。
オランダがしめした対スペインの処方箋を、
どれだけのチームが有効にいかせるだろうか。
スペインにとって、前途多難なまくあけとなったが、
第三者にとってはたのしみのおおいWカップとなってきた。
14日におこなわれたWカップ、スペイン対オランダ(グループB)。
前回南アフリカ大会の決勝のくみあわせが、
いきなりグループリーグで再現されたこの試合で、
5-1と、オランダがスペインを完全にしずめてしまった。
録画でみたので、スペインが1-5でやぶれたことをしっていた。
でも、前半30分までをみるかぎり、
とてもそんな点差になった試合とはおもえないほど
一方的にスペインがボールを支配していた。
前半終了間際にファンペルシーがダイビングヘッドをきめて同点とする。
1本のロングパスがみごとにつながった。
いまおもえばこれが、後半にひきつがれることになる
オランダの猛攻の序章だった。
後半にはいってからも、オランダは1点目とおなじように、
ほんの一瞬のスキをついて ながいパスをとおしてしまう。
点差がひらいていくうちにスペイン選手の気もちがきれ、
ありえないミスがでる。
まるでスペインの守備がザルみたいにみえてきた。
さいごには、トーレスにロングパスをおくるという
パワープレーしかなくなった。
あのスペインが、こんなにくずれるとは。
くずれると、スペインでさえこうなってしまうのか。
前回大会の決勝は、点差は1-0だったものの、
内容は完全にスペインの試合だった。
オランダのサッカーは、スペインにまったく歯がたたない。
おなじパスサッカーというスタイルでありながら、
オランダは危険なファウルにたよって、
ちからずくでスペインをおさえるしか手がない。
スペインがかつべくしてかった試合であり、
スペインの絶頂期を印象づける大会だった。
オランダは、その後4年をかけて戦略をねり、
打倒スペインをめざしてこの大会にのぞんだのが
みごとにきまったかたちだ。
チーム全体が、勝利によいしれていた。
ロッペンでさえチームメイトをたたえている。
前回の決勝のくみあわせがグループリーグで再現され、
オランダが雪辱をはたすなんて、
だれがこんなシナリオを予想しただろうか。
しかしまだリーグ戦ははじまったばかりだ。
グループリーグでかちのこるためには、
チリとオーストラリアにかてばいいのだから、
スペインにとってけしてむつかしいミッションではない。
オランダ戦の5失点は想像をぜっする結果だったとはいえ、
スペインがこのままきえさるとはおもえない。
デルボスケ監督が、つぎの試合にどうたてなおしてくるだろう。
前大会の初戦も、スペインはスイスにやぶれている。
しかしこのときは0-1で、さほどショックはなかっただろう。
スペインの、そしてバルサのサッカーは、
いまやピークがすぎたとおおくのひとがかんじている。
オランダがしめした対スペインの処方箋を、
どれだけのチームが有効にいかせるだろうか。
スペインにとって、前途多難なまくあけとなったが、
第三者にとってはたのしみのおおいWカップとなってきた。
2014年06月15日
Wカップ 対コートジボワール戦 1-2の逆転まけ どうたてなおすのかがたのしみとなる
Wカップ 対コートジボワール戦
アナウンサーがいう。
「いよいよそのときがやってきました」
ほんとだ。
とうとうこの日がきた。
先発の11人は、大迫が1トップに起用される。
あとのメンバーは、長谷部が復活、
センターバックの森重など、予想どおりだ。
交代も、後半とちゅうから遠藤と大久保がはいるのは、
戦況をみてというよりも あらかじめ予想できたうごきだ。
結果からいえば、1-2と逆転まけしたこの試合、
日本はほとんどいい場面をつくれなかった。
本田の得点と、内田のシュートぐらいか。
前半20分をすぎてからは、
ずっとコートジボワールにせめつづけられた試合だ。
なぜいつものサッカーができなかったのかはわからない。
でも、わるいときの日本はいつもこんなかんじだ。
解説の岡田武史前監督がいっていた。
「(この敗戦は)日本のサッカーに必要なことなんだ。
これをのりこえてみろ、ということ(試練ととらえる)」
いいことをいうじゃないか。
ほんとにそうだ。ここから真価がとわれる。
これまでにも、チーム状態がわるいときは
なんどもあった。
そうやって自分たちがやりたいサッカーをといなおし、
さらにつよいチームとなって復活する。
これから対戦するギリシャとコロンビアは、
どちらもつよいとはいえコートジボワールよりも
やりやすい面もある。
ギリシャはコロンビアに0-3でまけているので、
得失点差で日本がうえにたてる。
つぎのギリシャにかてばいいのだ。
かつしかない。
そういうときの日本はつよい。
コートジボワールとの敗戦にも
わたしはあまりショックをうけなかった。
これからなんとかたちなおってくれるだろう。
今大会では、これまでおこなわれた8試合のうち
日本戦をふくむ4試合が逆転まけをしている。
先取点が重要なのはもちろんとしても、
それほど決定的ではないことがわかる。
グループリーグといえども、先取点をまもりきろうとするだけでは
かてなくなっているのだ。
1-5というありえないまけ方をしたスペインと、
きょうの逆転まけであとがなくなった日本が、
どうたてなおしてくるか。
おもしろくなってきた。
アナウンサーがいう。
「いよいよそのときがやってきました」
ほんとだ。
とうとうこの日がきた。
先発の11人は、大迫が1トップに起用される。
あとのメンバーは、長谷部が復活、
センターバックの森重など、予想どおりだ。
交代も、後半とちゅうから遠藤と大久保がはいるのは、
戦況をみてというよりも あらかじめ予想できたうごきだ。
結果からいえば、1-2と逆転まけしたこの試合、
日本はほとんどいい場面をつくれなかった。
本田の得点と、内田のシュートぐらいか。
前半20分をすぎてからは、
ずっとコートジボワールにせめつづけられた試合だ。
なぜいつものサッカーができなかったのかはわからない。
でも、わるいときの日本はいつもこんなかんじだ。
解説の岡田武史前監督がいっていた。
「(この敗戦は)日本のサッカーに必要なことなんだ。
これをのりこえてみろ、ということ(試練ととらえる)」
いいことをいうじゃないか。
ほんとにそうだ。ここから真価がとわれる。
これまでにも、チーム状態がわるいときは
なんどもあった。
そうやって自分たちがやりたいサッカーをといなおし、
さらにつよいチームとなって復活する。
これから対戦するギリシャとコロンビアは、
どちらもつよいとはいえコートジボワールよりも
やりやすい面もある。
ギリシャはコロンビアに0-3でまけているので、
得失点差で日本がうえにたてる。
つぎのギリシャにかてばいいのだ。
かつしかない。
そういうときの日本はつよい。
コートジボワールとの敗戦にも
わたしはあまりショックをうけなかった。
これからなんとかたちなおってくれるだろう。
今大会では、これまでおこなわれた8試合のうち
日本戦をふくむ4試合が逆転まけをしている。
先取点が重要なのはもちろんとしても、
それほど決定的ではないことがわかる。
グループリーグといえども、先取点をまもりきろうとするだけでは
かてなくなっているのだ。
1-5というありえないまけ方をしたスペインと、
きょうの逆転まけであとがなくなった日本が、
どうたてなおしてくるか。
おもしろくなってきた。
2014年06月14日
『命をつなぐバイオリン』戦争にまきこまれていくリアルさ
『命をつなぐバイオリン』
(マルクス=O=ローゼンミュラー監督・2011年・ドイツ)
音楽において「神童」とよばれる2人の子どもたち。
アブラーシャはバイオリン、ラリッサはピアノにおいて才能を発揮する。
わたしがきいてもすごさがわかるほどの圧倒的な演奏だ。
そして、もうひとりの女の子、ハンナもバイオリンをならっていて、
技術的には彼らにおよばないけれど、ふたりといっしょにすごしたいと、
アブラーシャたちの仲間になる。
3人とも、友だちと家族を大切にする やさしい子どもたちだ。
そんな彼らが、ナチスのユダヤ人迫害にまきこまれてしまう。
アブラーシャとラリッサはユダヤ人、ハンナはドイツ人だ。
ヒムラーの誕生日をいわうコンサートで、
パーフェクトな演奏ができたら命はうばわないと
条件をつきつけられる。
ユダヤ人迫害・子ども、とくるので、
あまりつらい作品でなければ、と心配していたけれど、
とてもじょうずなつくりで、作品の世界に完全にひたることができた。
残酷な場面をあまりださずに
戦争にまきこまれていくかなしみがよくあらわされている。
3人の子どもたちは、もうすこしおさなければ悲惨さをしらずにすんだだろうし、
もうすこしおとなだったら、もっとなまなましい現実にさらされただろう。
おとなたちがはじめた戦争にのみこまれないよう、
自分たちの世界を大切にし、いつまでも3人は仲間であることを約束しあう。
作品のすばらしさとともに、
おおくのユダヤ人が犠牲になったかなしい歴史を再認識することになる。
「ユダヤ人迫害で犠牲になった160万人の子どもたちにささげる」と
エンドロールがながれた。
ユダヤ人虐殺は、全体で600万人といわれているから、
160万というと、いかにおおくの子どもたちが犠牲になったかがわかる。
むかしタミヤのプラモデルに熱中したものとしては、
キューベルワーゲンとシュビームワーゲン、そして3号戦車のリアルさに感心した。
むかしの戦争映画より、よほど忠実に再現しているのではないか。
ひっかかったのは、イリーナ先生がピストルをうつ場面。
暗闇なのに、3発うってぜんぶ命中というすごいうでまえだった。
音楽の先生だけでなく、別の仕事もしてたのではないかとおもってしまう。
親衛隊大佐がいい味をだしていた。
スキーに興味があるし、音楽も理解している。
親衛隊の高官は、戦争ずきの野蛮人ではなく、
芸術につうじている教養人、というのが本や映画ではお約束だ。
「神童」たちのうつくしい演奏にききほれる知性があるだけに、
本職である軍事行動の残虐性がきわだってくる。
ラリッサをまえに、りんごの皮をむきながら、
もしもコンサートでパーフェクトな演奏ができたら
命をたすけるといったのは、この大佐だ。
そんなプレッシャーをかけられて、
いつもどおりの演奏ができる子などいない。
ラリッサはコンサートちゅう、大佐がりんごの皮をむくところや、
両親が強制終了所につれていかれる場面をおもいだし、
ピアノに集中できなくなってしまう。
いままでの生活が、あっという間に
戦争でめちゃくちゃにされていくのがおそろしかった。
いまの時代に戦争なんておこるわけない、と
かんたんにいえないのがこのごろの世界情勢だ。
国が方針をあやまれば、国民は戦争にまきこまれる。
この作品でも、アブラーシャがすむ町のひとは、
まさかドイツがウクライナにせめこむとはおもっていなかった。
なにかきっかけがあれば、状況は一変する。
どんなふうに戦時に突入するのかという面でも、
いまの日本にはひとごとでない作品だ。
(マルクス=O=ローゼンミュラー監督・2011年・ドイツ)
音楽において「神童」とよばれる2人の子どもたち。
アブラーシャはバイオリン、ラリッサはピアノにおいて才能を発揮する。
わたしがきいてもすごさがわかるほどの圧倒的な演奏だ。
そして、もうひとりの女の子、ハンナもバイオリンをならっていて、
技術的には彼らにおよばないけれど、ふたりといっしょにすごしたいと、
アブラーシャたちの仲間になる。
3人とも、友だちと家族を大切にする やさしい子どもたちだ。
そんな彼らが、ナチスのユダヤ人迫害にまきこまれてしまう。
アブラーシャとラリッサはユダヤ人、ハンナはドイツ人だ。
ヒムラーの誕生日をいわうコンサートで、
パーフェクトな演奏ができたら命はうばわないと
条件をつきつけられる。
ユダヤ人迫害・子ども、とくるので、
あまりつらい作品でなければ、と心配していたけれど、
とてもじょうずなつくりで、作品の世界に完全にひたることができた。
残酷な場面をあまりださずに
戦争にまきこまれていくかなしみがよくあらわされている。
3人の子どもたちは、もうすこしおさなければ悲惨さをしらずにすんだだろうし、
もうすこしおとなだったら、もっとなまなましい現実にさらされただろう。
おとなたちがはじめた戦争にのみこまれないよう、
自分たちの世界を大切にし、いつまでも3人は仲間であることを約束しあう。
作品のすばらしさとともに、
おおくのユダヤ人が犠牲になったかなしい歴史を再認識することになる。
「ユダヤ人迫害で犠牲になった160万人の子どもたちにささげる」と
エンドロールがながれた。
ユダヤ人虐殺は、全体で600万人といわれているから、
160万というと、いかにおおくの子どもたちが犠牲になったかがわかる。
むかしタミヤのプラモデルに熱中したものとしては、
キューベルワーゲンとシュビームワーゲン、そして3号戦車のリアルさに感心した。
むかしの戦争映画より、よほど忠実に再現しているのではないか。
ひっかかったのは、イリーナ先生がピストルをうつ場面。
暗闇なのに、3発うってぜんぶ命中というすごいうでまえだった。
音楽の先生だけでなく、別の仕事もしてたのではないかとおもってしまう。
親衛隊大佐がいい味をだしていた。
スキーに興味があるし、音楽も理解している。
親衛隊の高官は、戦争ずきの野蛮人ではなく、
芸術につうじている教養人、というのが本や映画ではお約束だ。
「神童」たちのうつくしい演奏にききほれる知性があるだけに、
本職である軍事行動の残虐性がきわだってくる。
ラリッサをまえに、りんごの皮をむきながら、
もしもコンサートでパーフェクトな演奏ができたら
命をたすけるといったのは、この大佐だ。
そんなプレッシャーをかけられて、
いつもどおりの演奏ができる子などいない。
ラリッサはコンサートちゅう、大佐がりんごの皮をむくところや、
両親が強制終了所につれていかれる場面をおもいだし、
ピアノに集中できなくなってしまう。
いままでの生活が、あっという間に
戦争でめちゃくちゃにされていくのがおそろしかった。
いまの時代に戦争なんておこるわけない、と
かんたんにいえないのがこのごろの世界情勢だ。
国が方針をあやまれば、国民は戦争にまきこまれる。
この作品でも、アブラーシャがすむ町のひとは、
まさかドイツがウクライナにせめこむとはおもっていなかった。
なにかきっかけがあれば、状況は一変する。
どんなふうに戦時に突入するのかという面でも、
いまの日本にはひとごとでない作品だ。
2014年06月13日
「ほぼ日」による「おうちのカレーアンケート」の結果発表 ふかくてひろいカレーの世界
「ほぼ日」が連休におこなった
「おうちのカレーアンケート」の結果が
6月9日から発表されている。
http://www.1101.com/curryspice_qa2014/index.html
毎日1項目ずつ8回にわけての発表で、
5回目のきょうは「トッピングと副菜」だ。
カレーのトッピングというと、
らっきょうと福神づけしかおもいうかばなかったけど、
たくわんやピクルス、それにキムチなど
いろんな定番がそれぞれの家庭にはあるようだ。
つけもの以外では、たまごが意外と人気があるし、
納豆も一般的といっていいほどちからづよく推薦されている。
このアンケートは、よくたべているカレーでありながら
よくしられていない現状を、はじめてあきらかにしたものだ。
どれくらいの頻度で、
どんな材料をつかってどんなカレーをつくり、
どんなトッピングがこのまれているのか。
自分の家ではあたりまとおもっていることが、
あんがいよそではめずらしいもので、
よくありがちなひと工夫もあるし、
そこまでするのはさすがに面倒、という「ひと手間」もある。
日本料理とはなにか、を定義するのは かんたんではないだろう。
おなじように、カレーとはなにかもはっきりときめられない。
カレールウやカレー粉なんてそもそもインドにはないそうだし、
インドでつかっているスパイスはタイとはまたちがう。
そうした世界のカレーをみわたすと、
日本のカレーはりっぱなひとつのジャンルであることがわかる。
それぞれがひと工夫するといっても、
ほとんどは市販のルウをベースしている。
つかう肉や野菜も、すこしずつちがうし、
トッピングにもこのみがでるけれど、全体としてはほとんどいっしょだ。
大枠でいうと日本のカレーというくくりにはいり、
タイやインドのカレーとはあきらかにちがうものだ。
日本人のカレーは、すでに日本料理になっている。
ほぼ日のアンケートによれば、
1から10段階に「カレー好き」の度あいを申告してもらうと、
「『6以上』の人が87.5%。
つまり、『どっちかというと好き』以上のひとが、87.5%」
というほどカレーずきはおおい。
時代や性別、そして年代をとわず、これだけすかれる食品はカレーくらいではないか。
ローカルな話題でいうと、
島根の右にある鳥取県の鳥取市は、
全国一カレールウの消費がおおい県庁所在地なのだそうだ。
カレールウの消費がおおいことが、どれだけ自慢できるのかわわからないけれど、
いちどそういう結果がでてからは、鳥取市はなにかと
「日本一カレーをたべる町」を自慢するようになった。
島根県の隠岐にはサザエカレーがある。
なにもカレーにサザエをいれなくてもよさそうなのに、
豪華にするためか、ほんとうにおいしいのか、
ただたんに肉のかわりなのか、隠岐ではカレーにサザエをいれるのだ。
わたしもいちどたべたことがある。
「もったいない」というおもいがさきにたったせいか、
味についての記憶がない。
わが家のカレーは、スパイスでつくる。
といっても つかうのはクミン・コリアンダー・ターメリック・チリパウダー
だけなので、カレールウをいれるのと
たいしてかわらないくらいかんたんだ。
何時間もかけてコトコト煮るとか、
肉のかたまりをタコ糸でしばってとか、
すごい手間ひまかけをかける男の料理ではなく、
1時間半で2種類のカレーとレンズ豆のスープがつくれる。
本格的だからおいしいかというと、
これはもう日本式のカレーとはちがう料理なので比較ができない。
このカレーにたべなれていても、
ときどき市販のルウによるカレーがたべたくなるから
やっぱり別もののカレーなのだろう。
みんな自分の家のカレーがふつうだとおもっているけれど、
よその家のカレーをたべる機会はあまりないので、
「ふつうのカレー」はあんがいみえにくい。
こういうアンケートは、ほぼ日のつよみがいかされる場面だ。
ほぼ日だったら いろんな声をひろえるだろう。
「おうちのカレー」の全体像が はじめてあきらかになる。
「おうちのカレーアンケート」の結果が
6月9日から発表されている。
http://www.1101.com/curryspice_qa2014/index.html
毎日1項目ずつ8回にわけての発表で、
5回目のきょうは「トッピングと副菜」だ。
カレーのトッピングというと、
らっきょうと福神づけしかおもいうかばなかったけど、
たくわんやピクルス、それにキムチなど
いろんな定番がそれぞれの家庭にはあるようだ。
つけもの以外では、たまごが意外と人気があるし、
納豆も一般的といっていいほどちからづよく推薦されている。
このアンケートは、よくたべているカレーでありながら
よくしられていない現状を、はじめてあきらかにしたものだ。
どれくらいの頻度で、
どんな材料をつかってどんなカレーをつくり、
どんなトッピングがこのまれているのか。
自分の家ではあたりまとおもっていることが、
あんがいよそではめずらしいもので、
よくありがちなひと工夫もあるし、
そこまでするのはさすがに面倒、という「ひと手間」もある。
日本料理とはなにか、を定義するのは かんたんではないだろう。
おなじように、カレーとはなにかもはっきりときめられない。
カレールウやカレー粉なんてそもそもインドにはないそうだし、
インドでつかっているスパイスはタイとはまたちがう。
そうした世界のカレーをみわたすと、
日本のカレーはりっぱなひとつのジャンルであることがわかる。
それぞれがひと工夫するといっても、
ほとんどは市販のルウをベースしている。
つかう肉や野菜も、すこしずつちがうし、
トッピングにもこのみがでるけれど、全体としてはほとんどいっしょだ。
大枠でいうと日本のカレーというくくりにはいり、
タイやインドのカレーとはあきらかにちがうものだ。
日本人のカレーは、すでに日本料理になっている。
ほぼ日のアンケートによれば、
1から10段階に「カレー好き」の度あいを申告してもらうと、
「『6以上』の人が87.5%。
つまり、『どっちかというと好き』以上のひとが、87.5%」
というほどカレーずきはおおい。
時代や性別、そして年代をとわず、これだけすかれる食品はカレーくらいではないか。
ローカルな話題でいうと、
島根の右にある鳥取県の鳥取市は、
全国一カレールウの消費がおおい県庁所在地なのだそうだ。
カレールウの消費がおおいことが、どれだけ自慢できるのかわわからないけれど、
いちどそういう結果がでてからは、鳥取市はなにかと
「日本一カレーをたべる町」を自慢するようになった。
島根県の隠岐にはサザエカレーがある。
なにもカレーにサザエをいれなくてもよさそうなのに、
豪華にするためか、ほんとうにおいしいのか、
ただたんに肉のかわりなのか、隠岐ではカレーにサザエをいれるのだ。
わたしもいちどたべたことがある。
「もったいない」というおもいがさきにたったせいか、
味についての記憶がない。
わが家のカレーは、スパイスでつくる。
といっても つかうのはクミン・コリアンダー・ターメリック・チリパウダー
だけなので、カレールウをいれるのと
たいしてかわらないくらいかんたんだ。
何時間もかけてコトコト煮るとか、
肉のかたまりをタコ糸でしばってとか、
すごい手間ひまかけをかける男の料理ではなく、
1時間半で2種類のカレーとレンズ豆のスープがつくれる。
本格的だからおいしいかというと、
これはもう日本式のカレーとはちがう料理なので比較ができない。
このカレーにたべなれていても、
ときどき市販のルウによるカレーがたべたくなるから
やっぱり別もののカレーなのだろう。
みんな自分の家のカレーがふつうだとおもっているけれど、
よその家のカレーをたべる機会はあまりないので、
「ふつうのカレー」はあんがいみえにくい。
こういうアンケートは、ほぼ日のつよみがいかされる場面だ。
ほぼ日だったら いろんな声をひろえるだろう。
「おうちのカレー」の全体像が はじめてあきらかになる。
2014年06月12日
『WOOD JOB』(矢口史靖監督)山での仕事もわるくない。でもほんとは、山にかぎらずどこでもいいよ。
『WOOD JOB』(2014年・矢口史靖監督)
大学受験に失敗し、なんとなく林業の1年研修に参加することにした
都会そだちの平野勇気くん。
宮ア駿さんがはげしくすすめている帯にひかれ、
2009年に原作をよんでいた。
矢口史靖監督がかいた脚本は、
三浦しをんさんの原作とちがう点がいくつもあるけど、
全体の雰囲気はうまくつたえている。
リアリティについていえば、ヨキが新人の勇気を危険な目にあわせたり
(勇気が山の斜面をおちていくのに ほうっておく場面)、
軽トラを家の敷地にハデにつっこんで、郵便うけにぶつけるところはうけいれにくかった。
家にかえるたび あんなことをするひとはいないだろう。
そこらへんは矢口監督の過剰なサービスなのかもしれない。
研修のはじめは1ヶ月間の基礎講習で、
ひとくせありそうな研修生との
ドタバタがはじまる、とおもったら、
そこはかるくながされた。
矢口監督としたら、もっとあそびたかったところではないか。
そこであんまりひっぱると、神去村でのくらしがぼやけてくるので、
適切な判断というべきだ。
映画はすぐに神去村へと舞台をうつし、勇気の山仕事は本番をむかえる。
生まれそだった都会からはなれ、
体験したことのない田舎での生活をはじめることになった
勇気のトホホ感はよくでていたとおもう。
いまの高校生がスマホをなくしたら、
どんな反応をみせるだろう。
でも、島根そだちのわたしとしては、
村や山の風景にまったく違和感がなく、
いなか性をおおさわぎする都会の人間のほうが
よほどとおい存在だ。
すごい田舎といっても、神去村には子どもがたくさんいたし、
道ばたや田んぼのアゼも草がかられ、よくひとの手がはいっていた。
限界集落ではなく、活気のあるしっかりした共同体として村が機能している。
自分がなにものかまだしらないわかものが、
おとなの社会にもまれてだんだんと一人前になっていく。
そうした成長ものがたりがわたしはすきだ。
山での一年は、勇気にとっていい体験となるだろう。
この春の連休に、むすこといっしょに山にはいってマキづくりをしたあと、
むすこに『神去村なあなあ日常』をわたしてみた。
むすこは、自分からはあまり本をさがさないけれど、
わたしがすすめるとあんがいあっさりよんでくれる。
この本も、わたしたつぎの日にはよみおえてしまった。
おもしろかった、というので、
「こういう仕事はどう?」ときくと
仕事としてはいやなのだそうだ。
すこしのまよいもなく、というか
ほんとにそれだけは勘弁して、というかんじで
はっきりことわられてしまった。
山の場面では、音楽にタイコがよくつかわれた。
なんだか『もののけ姫』みたいだ。
そういえば、自然とひととの対立をえがいた『もののけ姫』と、
山か都会かの選択でもあるこの作品は、
にていないこともない。
都会がにがてなわたしは、山での仕事もわるくないかも、
とすぐに影響をうけた。
あんなふうにからだをうごかしてはたらき、
みんなで弁当をたべる。
朝ははやいかもしれないけど、残業はぜったいになさそうだ。
ふるい型のオフロードバイクもかっこよかった。
『ウォーターボーイズ』以来、矢口監督の作品はぜんぶみたことになる。
わかものが主人公といっても、これまでの作品とはだいぶちがい、
はたらくこと・くらしていくことに焦点があたっている。
高校生までは、基本的に自分とそのまわりの「いま」しか目にはいらない。
家族や自分の将来がどうこうよりも、「いま」で精一杯の年頃といえる。
シンクロやビッグバンドで青春をかがやかせるのが わかものの使命でもあった。
『WOOD JOB』の平野勇気くんは、高校は卒業したものの大学受験に失敗し、
これからどう生きていくのかを かんがえなければならなかった。
予備校にかよって将来像をさきのばしするよりも、
とりあえずうごきだすことを勇気はえらぶ。
その位置づけがこれまでの作品とはちがうのであり、
その覚悟にみあう作品にしあがっている。
高校を卒業してからも シンクロにうつつをぬかされてはこまるのだ。
いろいろかんがえても自分さがしのこたえはでない。
勇気みたいにとりあえずでもいいからうごきはじめれば
そのつぎの展開がなにかみえてくるだろう。
わかければ、まわりもうけいれやすい。
林業だから映画にしやすかったのであり、
これが都会のコンビニではドラマになりにくいだけで、テーマはいっしょだ。
矢口監督は、なにかの仕事で自分の居場所をみつけた
勇気みたいなわかものにであいたかったのだ、きっと。
大学受験に失敗し、なんとなく林業の1年研修に参加することにした
都会そだちの平野勇気くん。
宮ア駿さんがはげしくすすめている帯にひかれ、
2009年に原作をよんでいた。
矢口史靖監督がかいた脚本は、
三浦しをんさんの原作とちがう点がいくつもあるけど、
全体の雰囲気はうまくつたえている。
リアリティについていえば、ヨキが新人の勇気を危険な目にあわせたり
(勇気が山の斜面をおちていくのに ほうっておく場面)、
軽トラを家の敷地にハデにつっこんで、郵便うけにぶつけるところはうけいれにくかった。
家にかえるたび あんなことをするひとはいないだろう。
そこらへんは矢口監督の過剰なサービスなのかもしれない。
研修のはじめは1ヶ月間の基礎講習で、
ひとくせありそうな研修生との
ドタバタがはじまる、とおもったら、
そこはかるくながされた。
矢口監督としたら、もっとあそびたかったところではないか。
そこであんまりひっぱると、神去村でのくらしがぼやけてくるので、
適切な判断というべきだ。
映画はすぐに神去村へと舞台をうつし、勇気の山仕事は本番をむかえる。
生まれそだった都会からはなれ、
体験したことのない田舎での生活をはじめることになった
勇気のトホホ感はよくでていたとおもう。
いまの高校生がスマホをなくしたら、
どんな反応をみせるだろう。
でも、島根そだちのわたしとしては、
村や山の風景にまったく違和感がなく、
いなか性をおおさわぎする都会の人間のほうが
よほどとおい存在だ。
すごい田舎といっても、神去村には子どもがたくさんいたし、
道ばたや田んぼのアゼも草がかられ、よくひとの手がはいっていた。
限界集落ではなく、活気のあるしっかりした共同体として村が機能している。
自分がなにものかまだしらないわかものが、
おとなの社会にもまれてだんだんと一人前になっていく。
そうした成長ものがたりがわたしはすきだ。
山での一年は、勇気にとっていい体験となるだろう。
この春の連休に、むすこといっしょに山にはいってマキづくりをしたあと、
むすこに『神去村なあなあ日常』をわたしてみた。
むすこは、自分からはあまり本をさがさないけれど、
わたしがすすめるとあんがいあっさりよんでくれる。
この本も、わたしたつぎの日にはよみおえてしまった。
おもしろかった、というので、
「こういう仕事はどう?」ときくと
仕事としてはいやなのだそうだ。
すこしのまよいもなく、というか
ほんとにそれだけは勘弁して、というかんじで
はっきりことわられてしまった。
山の場面では、音楽にタイコがよくつかわれた。
なんだか『もののけ姫』みたいだ。
そういえば、自然とひととの対立をえがいた『もののけ姫』と、
山か都会かの選択でもあるこの作品は、
にていないこともない。
都会がにがてなわたしは、山での仕事もわるくないかも、
とすぐに影響をうけた。
あんなふうにからだをうごかしてはたらき、
みんなで弁当をたべる。
朝ははやいかもしれないけど、残業はぜったいになさそうだ。
ふるい型のオフロードバイクもかっこよかった。
『ウォーターボーイズ』以来、矢口監督の作品はぜんぶみたことになる。
わかものが主人公といっても、これまでの作品とはだいぶちがい、
はたらくこと・くらしていくことに焦点があたっている。
高校生までは、基本的に自分とそのまわりの「いま」しか目にはいらない。
家族や自分の将来がどうこうよりも、「いま」で精一杯の年頃といえる。
シンクロやビッグバンドで青春をかがやかせるのが わかものの使命でもあった。
『WOOD JOB』の平野勇気くんは、高校は卒業したものの大学受験に失敗し、
これからどう生きていくのかを かんがえなければならなかった。
予備校にかよって将来像をさきのばしするよりも、
とりあえずうごきだすことを勇気はえらぶ。
その位置づけがこれまでの作品とはちがうのであり、
その覚悟にみあう作品にしあがっている。
高校を卒業してからも シンクロにうつつをぬかされてはこまるのだ。
いろいろかんがえても自分さがしのこたえはでない。
勇気みたいにとりあえずでもいいからうごきはじめれば
そのつぎの展開がなにかみえてくるだろう。
わかければ、まわりもうけいれやすい。
林業だから映画にしやすかったのであり、
これが都会のコンビニではドラマになりにくいだけで、テーマはいっしょだ。
矢口監督は、なにかの仕事で自分の居場所をみつけた
勇気みたいなわかものにであいたかったのだ、きっと。
2014年06月11日
「デイリーポータルZ」の特別企画「グフをフグにする」におどろいた
「デイリーポータルZ」にのった「グフをフグにする」におどろいた。
http://portal.nifty.com/kiji/140610164336_1.htm
作者のエンドケイプ氏は、
「似た単語というのは、元々見た目や性質が似ているから生まれる訳だ」
としてゾウとゾウアザラシ、ワニとワニガメを例にあげる。
これを「似た単語」というかどうかはともかくとして、
エンドケイプ氏はつぎにガンダムにでてきた「グフ」をかつぎだす。
「『グ』と『フ』の2文字から成る言葉は元々フグが牛耳っていたはずだ」
「このままだと似た単語は似た属性説が崩れてしまう」
そんな、ほとんどいいがかりともいえるきめつけから
エンドケイプ氏は、グフをフグにしようというのだ。
いったいなにをはじめるのかというと、
エンドケイプ氏は、市販のグフのプラモデルでフグをつくるのだという。
わたしは、ほんとうにおどろいてしまった。
あまりにも一般的ではない疑問、というよりも特殊な仮説から、
モビルスーツのグフからフグ(にみえるなにか)をくみたてようという、
その熱意はどこからくるのか。
人間は、これだけ「意味」からはなれることができるのか。
そしてエンドケイプ氏は、みごとにこのミッション・インポッシブルをやりとげるのだ。
エンドケイプ氏は
「改造も何でもアリならば、どんなプラモだってフグに出来るに違いない。
だから明確にルールを決めることにした」
このしばりとたかいこころざしが、
グフのフグをすばらしい作品へとみちびくことになる。
・削らない…余計なでっぱりがあるからと削ったりしない
・切らない…パーツが長いからと切断しない
・パテらない…穴を埋めたいからとパテで成形しない
・他パーツ使わない…欲しい形がないからと他の部品を使わない
・グフのパーツを使い切る…入っている全てのパーツを使用する
それでできあがったフグが、めちゃくちゃな形だったら
ただ熱意だけのひとなわけだけど、
どうみてもフグにしかみえないグフができあがったのだから
この無謀というべきありえない企画は必然だったのだろう。
グフのもつムチ(ヒートロッドというのだそうだ)が
最後にはおもわぬ形でいかされたのをみると、
グフとフグの運命的なさだめをみとめないわけにいかない。
最後にエンドケイプ氏はランバ=ラルがアムロにいったセリフを引用している。
「自分の力で勝ったのではないぞ、
そのモビルスーツの性能のおかげだということを忘れるな」
みおとしそうなところに
「グフのスペルはGOUFである」
という指摘もある。
なんて含蓄にあふれた企画なのだろう。
エンドケイプ氏のゆたかな発想は、自由とはなにかを
わたしにかんがえさせずにおれなかった。
不可能を可能にしたエンドケイプ氏のたぐいまれな技術に
あつい拍手をおくる。
この記事をよんでいるときのわたしはしあわせだった。
http://portal.nifty.com/kiji/140610164336_1.htm
作者のエンドケイプ氏は、
「似た単語というのは、元々見た目や性質が似ているから生まれる訳だ」
としてゾウとゾウアザラシ、ワニとワニガメを例にあげる。
これを「似た単語」というかどうかはともかくとして、
エンドケイプ氏はつぎにガンダムにでてきた「グフ」をかつぎだす。
「『グ』と『フ』の2文字から成る言葉は元々フグが牛耳っていたはずだ」
「このままだと似た単語は似た属性説が崩れてしまう」
そんな、ほとんどいいがかりともいえるきめつけから
エンドケイプ氏は、グフをフグにしようというのだ。
いったいなにをはじめるのかというと、
エンドケイプ氏は、市販のグフのプラモデルでフグをつくるのだという。
わたしは、ほんとうにおどろいてしまった。
あまりにも一般的ではない疑問、というよりも特殊な仮説から、
モビルスーツのグフからフグ(にみえるなにか)をくみたてようという、
その熱意はどこからくるのか。
人間は、これだけ「意味」からはなれることができるのか。
そしてエンドケイプ氏は、みごとにこのミッション・インポッシブルをやりとげるのだ。
エンドケイプ氏は
「改造も何でもアリならば、どんなプラモだってフグに出来るに違いない。
だから明確にルールを決めることにした」
このしばりとたかいこころざしが、
グフのフグをすばらしい作品へとみちびくことになる。
・削らない…余計なでっぱりがあるからと削ったりしない
・切らない…パーツが長いからと切断しない
・パテらない…穴を埋めたいからとパテで成形しない
・他パーツ使わない…欲しい形がないからと他の部品を使わない
・グフのパーツを使い切る…入っている全てのパーツを使用する
それでできあがったフグが、めちゃくちゃな形だったら
ただ熱意だけのひとなわけだけど、
どうみてもフグにしかみえないグフができあがったのだから
この無謀というべきありえない企画は必然だったのだろう。
グフのもつムチ(ヒートロッドというのだそうだ)が
最後にはおもわぬ形でいかされたのをみると、
グフとフグの運命的なさだめをみとめないわけにいかない。
最後にエンドケイプ氏はランバ=ラルがアムロにいったセリフを引用している。
「自分の力で勝ったのではないぞ、
そのモビルスーツの性能のおかげだということを忘れるな」
みおとしそうなところに
「グフのスペルはGOUFである」
という指摘もある。
なんて含蓄にあふれた企画なのだろう。
エンドケイプ氏のゆたかな発想は、自由とはなにかを
わたしにかんがえさせずにおれなかった。
不可能を可能にしたエンドケイプ氏のたぐいまれな技術に
あつい拍手をおくる。
この記事をよんでいるときのわたしはしあわせだった。