2014年06月10日

ネコとくらすだいごみ

ネコは気まぐれで自分かってで、なんてよくいわれるけど、
人間の気分にさからうようなそうした行動のおおくは
ネコが自分と環境との関係で、行動をパターン化させていることに由来している。
ひとがこうしたら、つぎはこうなって、とネコはさきをみとおしており、
ひとのうごきに反応して自分のうごきをきめる。

その都度いろんなうごきをする人間のほうが気まぐれなのであり、
そのときの気分でかわいがったり あとまわしにしたら、
ネコのほうがとまどうことになる。
ネコとくらすだいごみは、
ネコの生活パターンに自分も身をゆだね、
おなじリズムのなかでくらすことにある。
その意味では、いきあたりばったりのうごきになりやすい子どもよりも、
ある程度おちついたリズムですごすおとなのほうが、
ネコたちもつきあいやすいだろう。
人間だって、けっこうきまったながれで生活しているから、
ネコのパターン化したうごきをたのしむのは、そうむつかしいことではない。

もちろんひととの関係だけでなく、
あつさ・さむさで居場所をかえるし、
ネコたちが自分できめている習慣もある。
家族4人いれば、それぞれのうごきに反応して
ネコたちのうごきはいっそう複雑になる。
それでも、中心となるのは、
ネコがいちばんいっしょにいたいとおもう人間だ。

このなんにちか、わたしが寝酒をひかえていたら
ピピはあきらかにとまどっていた。
いつもだと、わたしが酒のはいったグラスをもつと、
それが合図となってピピも寝室についてきた。
わたしが酒をのみながら本をよむときに、
ひざのうえにのるのがだいすきなのだ。
グラスがないと、いつベッドにむかうのかがわかりにくいらしい。
ゆうべは、酒ではなく、カルピスのはいったグラスをもつと、
ピピはまよわずにベッドにとびのって、
ひざのうえを催促する声をあげた。

パターンをまもるのは、そのほうが安心してくらせるからだろう。
ようするに、気がすめばいいのであり、
いったんひざのうえにおちついたら、
それでもう満足してくれて、「ちょっとどいてね」と
おかわりの寝酒をつくりにうごいても
ピピはあっさりゆるしてくれる。

ピピは外からかえったとき、
「おかえり」となでてもらいたくて催促する。
雨の日は、いつもよりもっとおおさわぎして
かえってきたことをアピールする。
雨にぬれるのを覚悟ででかけたのは自分なのに、
その散歩がいかにたいへんだったかをハデにうったえるので、
こちらは大歓迎してその気もちをうけとめなければならない。
両方の波長があい、気もちの起伏がそろうと、
ピピは安心し、ノドをならして満足をつたえながらくつろぎはじめる。
気がすんだのだ。
これらのうごきはぜんぶ、わたしの反応からピピがまなんできたものだろう。
だんだんいろんなものがくっついてきて、
原型をとどめなくなった儀式もおおいかもしれない。

わたしが歳をとるにつれ、仕事や家族の都合よりも、
自分のペースでうごけるようになってきた。
そのぶんピピとすごす時間がながく、こゆくなってゆく。
ピピとの関係が、ひとつの円熟期をむかえたようにかんじながら、
もしもピピが、とかんがえるとおちつかない。
おたがいに、依存しすぎた関係をつくってしまった気がする。

posted by カルピス at 11:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月09日

『ミチルさん、今日も上機嫌』(原田ひ香)人生は短いようで長い

ミチルさんは、新入社員だった時期がバブルにかさなり、
お金をはらわなくてもディスコやコンパであそびまくり、
コジャレたレストランでおごってもらったり、
ブレンド品をプレゼントされてすごした。
それがいまやバツイチで、離婚後につきあっていた男にもすてられ、
そのショックで仕事もうしない、
なんとか職をと、やっと腰をあげたのに、スーパーの面接にすらとおらない。
バブルにもてあそばれた典型的な元いけいけ女子として登場する。
いまや45歳となり、すべてがいたい。

でも、ミチルさんは、真のところではしっかりした人間だ。
チラシくばりという パッとしない仕事につきながら、
だんだんと自分の居場所をみつけていく。
原田ひ香さんというと、ロンダリングやながれの母親役など
かわった仕事のはなしが印象にのこっているけれど、
この本ではそうした特殊性のある仕事にたよらない。
バブル期に身につけた処世術を武器に、
ミチルさんは地道に生きていく。
もう、あとがないのだ。

「人生は短いようで長い。
それも楽しめる時間が案外長いのではないか」

ミチルさんは、しりあった年配のカップルがよりそう姿をみて、
そんなことをおもうようになる。
「人生は短いようで長い」か、がこの本のキーワードだ。

50をすぎておもうのは、
いつまでも「いま」がつづくとおもってはいけない、
ということだ。
30や40のときには、そんなこと、かんがえてもみなかった。
いつまでもわかさはつづき、からだもおなじようにうごく。
健康に不安はなく、親の介護もまだみえていない。
わたしはなんとなく結婚し、子どもをひとりもつことができた。
将来についてこまかく計算したわけではなく、
なりゆきでしかなかったけれど、
いまになると、それでよかったとおもえる。
そのときにしかできないことがあり、
その時期をはずすと、たとえば子そだてなどはできなくなる。

しかし、歳をとってみると、
「人生は短いようで長い」もまたほんとうだとおもえてくる。
定年をすぎれば、生活にそうおおきな変化はおきないだろう。
あるとすれば自分や親の健康による問題くらいか。
あとは死ぬまで生きるしかない。
わかいころの「いま」がずっとつづくわけではなけれど、
歳おいてからの「いま」はあんがいながいのではないか。

ミチルさんは、
「これからどうするんですか、ミチルさん」
と女子大生の優奈にたずねられ、
「どうするんだろうね。これから」
とこたえる。
自分でも、それがいちばんしりたいとおもう。
でも、チラシくばりの仕事からあたらしいつながりができたし、
それをきっかけに、おもってもみなかった仕事となかまもえた。
ミチルさんのこれからは いくらでもおもしろくなりそうだ。

45歳のバツイチだからといって、
おさきまっくらのつまらない人生ではないとおもわせたところに
この小説のよさがある。
子どもがいたらいたでいいし、
いなければいないように生きればいい。
チラシくばりだって ちゃんとやれば手ごたえのある仕事だし、
まわりのひとたちとかかわりあうちからがミチルさんにはある。
このさきをどうおもしろく生きるかは自分しだいだ。
べつに熱烈な恋愛をしなくてもいい。
45歳からのミチルさんの人生は、まだじゅうぶんにながいし、
50歳をこえたわたしだって、たのしめる時間は案外ながい(かもしれない)。
わたしはこの本をよみおえたとき、
いいお仕事小説特有の かるくて肯定的な気もちになれた。

バブル期というと、いろいろとハデな伝説があるのに、
25〜30歳だったわたしはまったくその恩恵にあずかっていない。
もうそれはみごとなもので、
お金にまみれたこともないかわりに、
バブルがはじけたからといって、なんということもなかった。
ずっとお金に縁のない生活だったし、
そういうひとがまわりにもたくさんいた。
けして日本じゅうがうかれていたわけではないとおもう。
バブルがあってもなくても、人生はうつろいやすい。

posted by カルピス at 14:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月08日

ヘボン式ローマ字への疑問

まちで目にするローマ字のおおくはヘボン式でかかれている。

とかいても、たいていのひとはヘボン式と訓令式とのちがいに関心がなく、
おなじようなものと とらえているようにおもえる。
ローマ字は、おおきくわけて訓令式とヘボン式があり、
訓令式は学校でならうもので、
ヘボン式は日本語の発音を英語風にかいたものだ。
訓令式は母音と子音のくみあわせが規則的でおぼえやすい。
たとえば訓令式は「た・ち・つ・て・と」を
「ta ti tu te to」とかき、
ヘボン式では
「ta chi tsu te to」とあわらす。
そのほうが英語をはなすひとにとったら
発音しやすいというだけで、
それ以外のことばをつかうひとにメリットはない。

日本語をかくには訓令式のほうがずっとわかりやすいとおもうのに、
「ち」を「chi」、「つ」を「 tsu」とかくひとがおおいのはなぜだろうか。
ひとつには、 ローマ字が日本語であると認識されていないからだとおもう。
アルファベットをつかって日本語をかくのがローマ字であり、
ローマ字と英語にはなんの関係もない。
それにもかかわらず、英語風につづるほうが
よりほんものらしく、かっこいいという意識をかんじる。

パソコンのキーボードに入力するときのようすをみていると、
入力は訓令式でやっているのに、
それ以外の場面ではヘボン式、というひとがおおいようだ。
なぜそうするのかをきいても、
はっきりした理由はないのでこたえられない。
なんとなく「ち」は「chi」、 「つ」は「 tsu」と
つづるものだとおもいこんでいるのであり、
ヘボン式がただしいから、という意識からではない。
ばくぜんとヘボン式が正式とおもいこんでいるのだ。

地名や道路標識、またパスポートにかく名前には
国のきまりがあって、変則的なローマ字がもちいられている。
それ以外のところでは、ヘボン式・訓令式の どちらでもいいはずなのに、
じっさいにはヘボン式がおおくつかわれており、
そしてその理由がとくにない、というのが
わたしにはすごくおかしなことにおもえる。
それだけ英語をありがたがっており、
英語にちかづけたつづりにあこがれているのだろうか。
ほとんどのひとは、ヘボン式が英語にちかいつづりなので、
なんとなく正式なローマ字とおもいこんでいるだけなのだ。

くりかえすと、ローマ字はアルファベットをつかってあらわす日本語なのであり、
英語とは関係がない。
パソコンに入力するときは訓令式でやっているのだから、
ほかの場面、たとえば名前をかくときでも、
そのまま訓令式をつかえばいいのに。

英語をはなせないひとがおおいのに、チラシやコピーには英語の表示をよくみかける。
英語のほうがかっこいいという、その意識がローマ字にもおよんでいて、
ローマ字のつづりもできるだけ英語風にしたいのだろうか。
英語をありがたがるその気もちがわたしにはわからない。
なぜスタッフを「STAFF」、やすうりを「SALE」とするのか。
「よしだ」はなぜ「Yoshida」のほうが「Yosida」よりもかっこいいとおもうのか。

べつに野球の「ストライク」を「いいたま」にいいかえろ、
といっているわけではない。
ローマ字は日本語なのだから、英語風につづる必要がないこと、
母音と子音との規則的なくみあわせである訓令式のほうが
日本人にはつかいやすいといっているだけだ。
ヘボン式をありがたがる気もちには、
英語をおもんじる心理がかくされている。
わたしには、なぜ英語を高級とおもうのかがわからない。

posted by カルピス at 21:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | 表記法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月07日

12年をかけて、やっと舞台がととのったWカップ

Wカップブラジル大会まで1週間をきり、
メディアでとりあげらえる量もふえてきた。
23人の代表メンバーがきまり、
体調をととのえながらテストマッチをおこない、
日本時間の15日に大切なコートジボワールとの初戦がまっている。
非常にいいムードだ。
日本らしいパスをつないだ攻撃的なサッカーが、
いよいよWカップで披露されるという期待。

8年まえのドイツ大会のときも、
こんなふうにもりあがっていた。
日本はだいぶつよくなってきた、
いいところまでいけるんじゃないか、
あまり根拠はないのにそんな雰囲気になっていて、
グループリーグの突破をおおくのひとがしんじていた。
なぜ、あんなムードになってしまったのか、
いまなら不思議におもえるけど、
それが歴史をもたないということなのだろう。
メディアもチームもうかれてしまい、地に足がついていなかった。
いまでもおぼえているのは
特集番組で日本チームのプレッシングについて
解説していたことだ。
ボールをうばわれても すぐに複数の選手で連動したプレスをかけ、
ボールポゼッションをたかめるという。
そうか、そんなにすぐれた戦術があるのなら、
評判どおり日本は活躍するのだろうと
わたしはコロッとしんじたものだ。
でも、結果は第1戦のオーストラリアに1-3と逆転まけ。
終了間際の6分間に3点をうしなうという、ありえない、
でもなんだかそんな気もしていた試合だ。
そのあとクロアチアにひきわけ、ブラジルに1-4とかるくいなされ、
結局グループリーグでの敗退となる。

そして前回の南アフリカ大会は、
代表監督のオシムさんが脳梗塞でたおれ、
とちゅうから岡田武史氏にひきつがれる。
それまでオシムさんが着実に成果をつみかさねていたなかの、
非常に残念な交代だった。
岡田氏は、アジア予選での攻撃サッカーがつうじないということで、
本大会直前になって守備的な戦術に変更し、
それがうまくはまってベスト16と結果はのこす。
しかし、「こんなはずではなかった」
というおもいがずっとのこる大会だった。

今回のブラジル大会ではザッケローニ監督が指揮をとり、
つみあげてきた攻撃的なサッカーをつらぬくと明言している。
メンバーも当然それにむけ、攻撃を重視してえらばれた。
12年をかけて、やっと舞台がととのった。
これは、4年にいちどの大会ではなく、
おおくのファンにとって12年間もちつづけてきた不完全燃焼のおもいを
払拭する大会なのだ。

だからこそ、こんなにもりあがっているのであり、
おおくのサッカーファンが
Wカップでみる日本的なサッカーをたのしみにしている。
もしかりにいい結果がのこせなかったとしても、
そのショックをわたしはうけいれよう。
なにしろこれまでの2大会は、たたかうことすらできずに
大会からきえていたのだ。
あのときの不完全燃焼感があったからこそいまがある、
そうおもえる大会となることをねがっている。

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2014年06月06日

KDPをうまくいかした「月刊くらした」の2冊目エッセイ集『遠くて近い場所、近くて遠い場所』

倉下忠憲さんの『遠くて近い場所、近くて遠い場所』をよむ。
http://rashita.net/blog/?p=13483
倉下さんはことしKDPによる「月刊くらした」をめざしており、
この本は2冊めにあたるエッセイ集だ。
「月刊くらした」とは、視力をうしなってなお
まるで月刊誌のように本をだしつづけた梅棹忠夫氏にちなんだ命名で、
倉下さんは文字どおり毎月の発行を計画されている。
この本は、倉下さんの有料メルマガにのった記事を編集されたもので、
ジャンルべつに8章からなっている。
わたしはそのなかで
・書くこと
・作業
・本
・知的生産
の章をとくに興味ぶかくよんだ。
(章につける名前は、もうすこししたしみのもてるものがいいとおもう。
「書くこと」「作業」」ではあまりにも愛想がない)。

キンドルペーパーホワイトでこのエッセイ集をよみながら、
わたしがKDPにもとめるひとつの典型は、
こうした本であることがわかった。
雑誌みたいにいくつもの内容にわかれ、
それぞれの記事は自分が関心をよせることについてかかれている。
すきな記事ばかりのった本のページをめくるのはたのしかった。

そんなに熱心にさがしているわけではないにしても、
自分にあったブログになかなかであえない。
そういうときはツイッターをつかうのだろうが、
あいにくわたしはツイッターに興味がない。

わたしがブログでよみたいのは、
この本みたいな本・文章・知的生産についての記事であり、
それを正確で誠実な文章にしてほしい。
これにあとトレーニングとサッカーの章があれば
それでもうわたしは満足だ。

と、かきながらも、ほかにも旅行や探検・冒険にも関心があるし、
日本語の表記法についての情報もしりたいし、
文明史からみた女性論(男性論)もほしい、と
よみたい記事がずるずるとでてきた。
かきあげてみると、けっきょくこれは梅棹忠夫著作集ではないか。

梅棹忠夫著作集は別巻の総索引をのぞいて全22巻からなり、
「知の技術」
「中洋の国ぐに」
「情報と文明」
など、それぞれの巻が独立した内容となっている。
専門の民族学だけでなく、探検や生きがい論など、
梅棹氏がいかに幅ひろい対象について
関心をもつつづけたのかがうかがえる。
そして、わたしの興味・関心のおおくは、
この著作集にかさなっているようだ。
こうした分野について、わたしにもわかるかき方で、
だれか記事をかいてくれたらありがたいのに。
本になったものはたくさんあるかもしれないが、
ブログのように気らくによめたらたのしい。
倉下さんのエッセイ集は、わたしのそんな要求を
かなりの程度みたしてくれた。

たくさんの記事がでまわっている
サッカー・トレーニング・健康について検索をかけても、
自分のこのみにあった記事はなかなかみつからないものだ。
本にしても、すこしずつすきな作者をふやしてきたのだから、
ブログでもおなじことがいえるのだろう。
梅棹忠夫著作集があつかうジャンルは、
幅ひろいとはいえ、あまり一般的ともおもえないので、
ゆたかなオタクの世界がひろがっているような気がする。
ブログとともにKDPがひろがって、
すきま本がどんどんでてくることを期待している。

posted by カルピス at 23:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月05日

『プロフェッショナル仕事の流儀』の本田選手が率直にはなしたこと

『NHKプロフェッショナル仕事の流儀』で本田圭佑選手をとりあげていた。
ビッグマウスといわれ、強気な言動にあまりいい印象をもっていなかったけど、
番組での本田選手は よくかんがえながら、
誠実に自分のかんがえをはなしている。
できそうもないことをいって自分をおいこみ、
そのプレッシャーから不可能を可能にするだけのひとではない。
「どこにとまってるんですか?」
「おつかれさまです」
と、撮影スタッフへの気づかいも好感がもてる。

ACミランへ移籍したときのコメントでは、
率直に状況のむつかしさをはなしていた。

「すごくきびいしいミッション(名門再建という)
をつきつけられているなーと」
「がっかりさせるしかないですね。
がっかりさせることはわかっているから」
「期待されてるわけですから、
ああその程度かと、その可能性はたかいですね、
ぼくのクオリティはまだそのレベルだから」
「ミッション・インポッシブルでしょ」

自信満々なわけではなく、自分にはたりないところがたくさんあることをみとめ、
それらから目をそらさずに、反対に長所とするよう練習にとりくむ。
非常にストイックで、サッカーのことしかかんがえていない。
サッカーのためにわるいことはしない。
それをずっとつづけられるのが本田選手のすごさだ。

ミランではじめての得点をきめ、チームにもなじんだころ、
「ミッション・インポッシブルが、
ポッシブルになってきましたか?」
と番組スタッフにたずねられる。

「さきはながいですからね。
ひとつひとつ課題をクリアしていって、
わるいところは改善していくしかない」
「いちばん大事なのは、ミスすることをおそれないことでしょうね。
若手みたいなミスをするようなチャレンジできる姿勢をもつことが、
成長するポイントじゃないかと」

これまで番組がとりあげてきたほかの「プロフェッショナル」たちより、
本田選手の発言はまとまりがあり、わかりやすい。
一言ひとことをしっかりかんがえ、ウソをいってないのがわかる。
責任感がつたわってくる。
謙虚で、ふつうにおそれをしっている常識人だ。
メディアがつたえてきた本田選手とずいぶん印象がちがうので
いっぺんに好感をもってしまった。

あるサッカー雑誌にのっていた写真がよかった。
チームメイトと本田選手がふたりではなしながら
(たぶん)ハーフタイムのときにベンチへひきあげている。
試合中の戦術についてふりかえっているのだろう。
相手は本田選手のいうことを理解しようと集中し、
本田選手も相手に自分のかんがえがちゃんとつたわるよう
真剣にはなしている。
相手が必死になって 本田選手の指示をうけとろうとしているのがわかる写真だった。
完全に本田選手の立場がうえになっている。
日本人選手が外国でプレーするようになったといっても、
これだけ相手をのみこんでしまう迫力はほかの選手にはない。
Jリーグにいるたくさんの外国人選手にたいしても、
これだけきき耳をたてさせる日本人選手がいるだろうか。

サッカーにわるいことはしない本田選手は、
きっと酒ものまないだろうと、
わたしもみならって、ゆうべはひさしぶりに酒なしでベッドにはいった。
すごい影響力だ。

Wカップ本大会が目前にせまり、
本田選手の不調がつたえられている。
プレーにキレがなく、ゴールまえでもチャンスをきめきれない。
本田選手がこれまでにかたむけてきた努力を
ほんのすこしでもしると、
なんとかベストコンディションで大会をむかえてほしいとおもう。
そんなことはわかりきったことなので、
本田選手ならなんとかしてくれるはずだ。
おわりよければすべてよし、の大会となることをねがっている。
きっとそうなる。

posted by カルピス at 13:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月04日

ネコへの溺愛は「前駆快感への郷愁」が根にあるみたい

小倉千加子さんの『シュレーディンガーの猫』(いそっぷ社)には
小倉さんと山本文緒さんの対談「男の快楽と女の快楽」がのっている。

小倉さんによると、快感には「前駆快感」と「最終快感」がある。
「前駆快感」とは性器的ではなく、性別もない快感で
「くすぐったり、なでたり、すったり、なめたり、ほほえんだり、冗談をいったり」ということ、
「最終快感」は性器をつかった快感だ。

日本は
「子どもが小さいときには、たぶん世界で一番前駆快感を刺激する国」
なのだそうで、
親といっしょのふとんでねたり、いっしょにお風呂にはいるのは、
日本だけという。
それが、おおきくなるときゅうに指しゃぶりをやめなさいとか
おっぱいをすうのはよしなさいとか、
突然、前駆快感を禁止する。

「だから日本人の中には、前駆快感に対する禁止への怒りと
前駆快感への郷愁が根強く残っていると思うんです。
西洋的なセクシュアリティと日本人のセクシュアリティは、
そこが違うと思うんですね」(小倉)

わたしがネコたちを溺愛するのは、
できあいしなければ ネコといっしょにくらす意味がないとまでおもうのは、
「前駆快感への郷愁」が根にあるのかもしれない。

山本「今の若い世代の女の人は、
   自分の思うとおりの男じゃないと、結婚しない?」
小倉「もちろん、そうです。
   自分の前駆快感を、夫が満たしてくれないとダメ。
   すなわち、自分がいやな家事は夫が代わりにやってくれる。
   そして自分がいやな労働は、夫が代わりにやって稼いできてくれる。
   しかもたくさん稼いできてくれる。
   三つ目は、自分が悲しいのと言ったら、よしよししてくれる。
   この三つです」

わたしにかけているのは経済力だけだ。
家事も「よしよし」も、いくらでもやってあげるけど、
「たくさん稼いで」だけはむつかしい。
でも、女性が結婚相手にもとめる条件は、経済力が断トツで1位なので、
3つのうち1つがかけているのではなく、これだけで完全にアウトとなる。

「少子化の最大の原因は晩婚化で、
晩婚化の最大の原因は、女の子が男の子の最終快感幻想に
付き合わなくなったからです」(小倉)

対談の最後で小倉さんが山本さんに質問する。
「ホテルの一室にはいると、ベッドが2つあって、
一つにはキムタク、もうひとつには松嶋菜々子が
裸になってシーツを首まであげてねています。
あなたはどちらかのベッドにはいって
そのひとと性行為を営まなければならないとしたら、
どっちのベッドにいきますか?」

山本さんはキムタクをえらぶ。
つぎは、質問が亀井静香と山口智子にかえられる。
山本さんは亀井静香をえらぶ。
「どんな男でも男がいい」という。

「へーえ、そういう女の人は、数はすごく少ないんですよ。
だから特異体質ね」(中略)
「その人という時のあなたのジェンダーは女ですか?」(小倉)

山内マリコさんの『ここは退屈迎えに来て』をよんだとき、
すごくおもしろかったけど、現代の世相をあらわす資料として
分析したかたちでしめしてほしいともおもった。
地方都市でくらすわかものについては藻谷浩介さんに、
わかい女性の心理については小倉千加子さんに。
薫ちゃんが普段あたしに話していた陽気な夢は、嘘だったことに気づいた。
「ディカプリオにスカートめくられちゃったよ。いやー参った参った」
と前に薫ちゃんは言っていたけれど、
本当にスカートめくりをした犯人はクリストファー・ウォーケンだった。
薫ちゃんの夢はほとんどホラーだ

わたしには『ここは退屈迎えに来て』の感想がかけない。
もうすこししたら、いろんなことがつながりそうだけど、
いまはまだ「おもしろかった」としかいえない。
小倉千加子さんによる解説をまちたいところだ。

posted by カルピス at 13:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月03日

目のまえの試合に全力をそそぐしかない

すこしまえのJリーグタイムで、
鹿島アントラーズの柴崎選手がインタビューにこたえていた。

これで首位にたちましたが、というといかけに、
「首位といっても(いくつものチームが)せまい点差にならんでますので、
1試合1試合をつみあさねていくしかないとおもっています」

柴崎選手というと、22歳とはおもえない
おちついたプレーがたかい評価をうけている。
とはいえ、べつに柴崎選手をもちだすまでもなく、
サッカー選手ならだれもがそうこたえるだろう。
「1試合1試合をつみあさねていくしかない」
なんて、いかにも優等生的な発言だけど、
どんなに才能ゆたかな選手であっても、
サッカーの場合、そうやって1試合1試合をつみかさねるしかない。
もちろんサッカーにかぎらず
ほとんどのことは、目のまえの仕事や
その日いちにちをどうすごしたか、のつみかさねだ。
1日1日の仕事を、着実につみかさねていくこと。
毎日を丁寧に生きること。
そんななかで、わたしはとくにサッカーについて
その切実さをかんじる。
ケガをするかもしれないし、レギュラーのポジションをうばわれるかもしれない。
なにがおこるかわからないので、
選手にできるのは、つぎの試合に集中することだけだ。

目のまえにとても大切な大会があると、
選手たちはどうしてもかちたいし、出場したい気もちをかきたてられるだろう。
たとえばWカップみたいに。
しかし、そのまたさきには延々と「大切な」試合がつらなっているのもたしかだ。
Wカップ出場とか、リーグ優勝とか、
おおきな目標をかかげるのは大切だろうけど、
そのためにできるのは、目のまえの試合にベストをつくすことしかない。
ある選手が個人的なおもいから
3ヶ月さきの試合にこだわり、ピークをあわせようとすした場合、
どうしてもそれまでの試合はちからをぬいたプレーになる。
そうした態度は監督や同僚の選手、サポーターからも非難されるにちがいない。
選手たちは、どんな場合でも目のまえの試合に全力をつくすしかない。

プロ野球のように、シーズンがはじまってしまえば
あとはペナントをめざして試合をつづけるしかない競技とちがい、
サッカーは平行していくつもの大会に参加するスケジュールとなっている。
リーグ戦・ACL・ナビスコ杯・天皇杯、それに代表戦。
選手たちはどれにマトをしぼるのかむつかしいところだ。
けっきょく、つぎの試合に全力をそそぐ、ということしかできない。
もしコンディションがじゅうぶんでなければ、
ためらわずに出場をみあわせる。
つぎの試合は大切だけど、そのさきにもまた
重要な試合がきりもなくつづいているのだ。
次の試合に無理をして出場し、ケガがながびくのはつまらない。

『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』という本のタイトルみたいに、
すべてはサッカーのなかにある、といいたくなってくる。
オシムさんは、「サッカーは人生だ」といっていた。
サッカーにふくまれるさまざまな要素は、人生のおおくに適応できる。
ワールド杯ブラジル大会をまえにしているのは、
そうして一日いちにちをつみかさねてきた選手たちだ。
6月15日のコートジボワール戦にむけて
からだと頭をピークにもっていこうとしている。
たいへんなエネルギーをかたむけて4年間の準備をおえ、本大会をたたかい、
もしすばらしい結果をのこせたとしても、
それですべてがおわるわけではなく、
またつぎの大会にむけて目のまえの試合をつみあげていく。
引退するまでそのサイクルはとまらない。
それもまた、人生といっしょなのだとはいえ、なんだかせつない。

posted by カルピス at 13:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月02日

『家族の悪知恵』(西原理恵子)家族だからという常識にしばられないテクニック

『家族の悪知恵』(西原理恵子・文春新書)

『生きる悪知恵』につづく西原さんの人生相談本だ。
2冊めとなると、わたしもだいぶなれてきて、
西原さんの回答にあまりおどろかなくなる。

印象にのこったのが、
「過保護な母に干渉されて
弟がどうしようもない状態に・・・」という相談だ。
ほかの兄弟にはそうでもないのに、
下の弟にだけはすごくあまいお母さんなのだそうで、
40歳になるいまも専門学校へいかせ、経済的な援助をつづけているケースだ。
西原さんのアドバイスは、
「もうその難破船は捨ててください。(中略)
そこで非常に大事なのは、
弟とお母さんが沈みかかっても、助けに行かないこと。
絶対、手を差し伸べてはいけません」だ。

さすがに西原さんはよくわかっている。
わたしの家でもにたような問題をかかえていたことがあり、
わたしの両親は手をさしのべてしまった。
しりぬぐいをかさねているうちに、
どんどん援助額がふえてゆき、相手は調子のいいことをいうけれど、
ぜったいにそのお金はかえってこない。
肉親間でこういう問題がおきると、
わたしの家の場合、親戚が無責任に「兄弟だから」
あんたのところがたすけるのは当然、みたいなことをいってきて、
両親はそのいいなりになっていた。
お金をだすと、援助される側はいつまでもそのお金をあてにして、
自分で責任をとろうとしないことをわたしは学習した。

家族だから、兄弟だから、親だから、
きりすてるわけにいかないという価値観がいまもまもられていて、
ひどい人間におもわれたくないという心理になりやすい。
まわりもそんな倫理観をふりまわしてかってなことをいう。
西原さんは、そこらへんをみごとにきってすてる。

「ももクロにはまって家庭をかえりみないダンナ」については
「ダンナは川に流しましょう」だ。
結婚したからといって、子どもを不幸にするような父親なら
西原さんはためらわず「川に流」す。
まえの本のときにもかいたけれど、
http://parupisupipi.seesaa.net/article/391062543.html?1401665312
この判断は、優先順位がちゃんときまっているからできることだ。
子どもがいる場合、まずは子どもたちをおちついた環境でそだてること。
それをじゃまするようなダンナとはいっしょにくらさなくてもいいし、
子どもには父親が必要、なんて一般論にしばられることはない。

よんでいるうちに、配偶者はわたしにどんな問題をみとめているのか
気になってきた。
わるい父親ではないとおもうけど、
よい配偶者である自信はない。
結婚して20年ちかくたてば
いつまでも はじめのころとおなじというわけには
いかないのだ。ま、いいかそんなこと。

前作につづいて、この本もみごとな実用書で、
ここにある西原流処世術を応用して すくわれる読者はおおいだろう。
それにしても、いろんな問題があるものだ。
なかにはどうでもいいような相談もあるけど、
相談しているひとはどこにポイントをあてればいいのか
わからないからこまっているのであり、そういうときに
西原さんは非常に有能な回答者だ。
「ダンナは川に流しましょう」なんて、
そうだれにでもいえることではない。
だれがあまえていて、本分をつくしていないのかを
西原さんはすぐにかぎつけて、適切に対処する。
あまえについて、西原さんはすごくきびしいのだ。

人生の基本的な方向性を、この一冊をとおしてよめば
ザッとつかめるようになっているから、
税こみ864円はとてもお得なかいものであることを強調したい
(5月20日に第1刷が発行され、
30日にすぐ2刷がかかっているので
読者にも歓迎されているようだ)。

posted by カルピス at 13:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月01日

NHKスペシャル「エネルギーの奔流」ふえつづけるエネルギー消費にどうむきあうか

NHKスペシャル「エネルギーの奔流」をみる。
2050年に世界の人口は100億人、
そのときのエネルギー消費量は、いまの2倍になっている。
地球は、それだけの負担にたえられるだろうか。

ブラジル沖で海底油田を開発する風景。
カナダでは、オイルサンドをほっている。
ブラジルの海底油田にねむる石油は、日本が消費する30年分、
カナダには100年分という莫大な量らしい。
ふかいところまでほりすすめるので、お金がかかる。
しかし、いまの原油価格なら採算がとれるのだそうだ。
いま、世界中がエネルギーを必要としており、
開発途上国はこれからもたくさんのエネルギーがほしい。
たかどまりしているガソリンの値段がさがることは もうないだろう。

ベトナムでは、これまで電気がこなかった村に
安定した電気が供給されるようになった。
ひとびとは町の電気屋さんに テレビや冷蔵庫をかいにいく。
おおくの地域で、エネルギーはこれから必要なのだ。
インドでも、インドネシアでも、
世界じゅうでおなじようなうごきがおきている。

トルコはロシアの協力をえて原発を導入することにきめた。
いまや、安全性は第一の課題ではない。
やすく、安定して供給されるなら、原発でもかまわない。
いま世界には426基の原発があり、さらに181基が建設予定だという。
福島原発の事故でも、ながれはぜんぜんかわらなかったのだ。

人口問題は、食料問題かとおもっていたけど、
エネルギー問題でもあった。
人類のエネルギー消費はふえつづける。
地球に当面のエネルギー資源はあるかもしれない。
しかし、環境がそれにたえられないだろう。

海底油田やオイルサンドから石油をくみあげれば、
海や大気汚染が ますますすすむ。
やめとけばいいのに。自分たちの首をしめるだけだ。
カナダは京都議定書からの脱退を表明したのだそうだ。
二酸化炭素排出量の削減目標をまもるより、
石油でもうけることをえらんだのだ。
全体をだれも把握できていない。
子孫たちがつかうエネルギーのことはかんがえず、
めさきの利益だけだ。

いま必要なのは、できるだけすくないエネルギー消費で生きることだ。
鈴木孝夫さんのように、ゴミをださず、
ものをかわない生活をおくる。
電力の利用も最小限にとどめる。
しかし、世界は反対方向にうごきだしたばかりだ。
テレビや冷蔵庫をほしがるインドやベトナムのひとたちに、
我慢しろという権利は先進国の人間にない。

モンゴルから中国の国境にむけて
石炭をつんだ何100台もの巨大なトラックがむかう。
とぎれることのないトラックの列は
すさまじい量の石炭をはこんでいく。
その圧倒的な光景は、世界のエネルギー消費の現状をみせつける。
こうして輸入された石炭がなければ、中国の電力はまかなえず、
中国の社会と経済をうごかすために 石炭がもやされつづける。
世界じゅうが恩恵にあずかっているやすい労働力と生産コストは、
こうした環境への悪影響にのっかってのものだ。

地球規模の問題を解決するには、
世界があしなみをそろえなければ、と番組ではうったえる。
しかしそれが、どれだけむつかしいことか。
スピードの問題もある。
2050年までに、どれだけのしくみがととのえられるだろう。
わたしは、無理だとおもう。
エネルギー政策のあしなみをそろえるよりも、
エネルギー消費のすくないくらしを
できるところからはじめたほうがいい。
エネルギーをめぐる世界のうごきが
こんなにもはげしくて、それにもかかわらず、
こんなにもさきのみとおしのないものとはおもわなかった。

posted by カルピス at 09:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする