2014年06月09日

『ミチルさん、今日も上機嫌』(原田ひ香)人生は短いようで長い

ミチルさんは、新入社員だった時期がバブルにかさなり、
お金をはらわなくてもディスコやコンパであそびまくり、
コジャレたレストランでおごってもらったり、
ブレンド品をプレゼントされてすごした。
それがいまやバツイチで、離婚後につきあっていた男にもすてられ、
そのショックで仕事もうしない、
なんとか職をと、やっと腰をあげたのに、スーパーの面接にすらとおらない。
バブルにもてあそばれた典型的な元いけいけ女子として登場する。
いまや45歳となり、すべてがいたい。

でも、ミチルさんは、真のところではしっかりした人間だ。
チラシくばりという パッとしない仕事につきながら、
だんだんと自分の居場所をみつけていく。
原田ひ香さんというと、ロンダリングやながれの母親役など
かわった仕事のはなしが印象にのこっているけれど、
この本ではそうした特殊性のある仕事にたよらない。
バブル期に身につけた処世術を武器に、
ミチルさんは地道に生きていく。
もう、あとがないのだ。

「人生は短いようで長い。
それも楽しめる時間が案外長いのではないか」

ミチルさんは、しりあった年配のカップルがよりそう姿をみて、
そんなことをおもうようになる。
「人生は短いようで長い」か、がこの本のキーワードだ。

50をすぎておもうのは、
いつまでも「いま」がつづくとおもってはいけない、
ということだ。
30や40のときには、そんなこと、かんがえてもみなかった。
いつまでもわかさはつづき、からだもおなじようにうごく。
健康に不安はなく、親の介護もまだみえていない。
わたしはなんとなく結婚し、子どもをひとりもつことができた。
将来についてこまかく計算したわけではなく、
なりゆきでしかなかったけれど、
いまになると、それでよかったとおもえる。
そのときにしかできないことがあり、
その時期をはずすと、たとえば子そだてなどはできなくなる。

しかし、歳をとってみると、
「人生は短いようで長い」もまたほんとうだとおもえてくる。
定年をすぎれば、生活にそうおおきな変化はおきないだろう。
あるとすれば自分や親の健康による問題くらいか。
あとは死ぬまで生きるしかない。
わかいころの「いま」がずっとつづくわけではなけれど、
歳おいてからの「いま」はあんがいながいのではないか。

ミチルさんは、
「これからどうするんですか、ミチルさん」
と女子大生の優奈にたずねられ、
「どうするんだろうね。これから」
とこたえる。
自分でも、それがいちばんしりたいとおもう。
でも、チラシくばりの仕事からあたらしいつながりができたし、
それをきっかけに、おもってもみなかった仕事となかまもえた。
ミチルさんのこれからは いくらでもおもしろくなりそうだ。

45歳のバツイチだからといって、
おさきまっくらのつまらない人生ではないとおもわせたところに
この小説のよさがある。
子どもがいたらいたでいいし、
いなければいないように生きればいい。
チラシくばりだって ちゃんとやれば手ごたえのある仕事だし、
まわりのひとたちとかかわりあうちからがミチルさんにはある。
このさきをどうおもしろく生きるかは自分しだいだ。
べつに熱烈な恋愛をしなくてもいい。
45歳からのミチルさんの人生は、まだじゅうぶんにながいし、
50歳をこえたわたしだって、たのしめる時間は案外ながい(かもしれない)。
わたしはこの本をよみおえたとき、
いいお仕事小説特有の かるくて肯定的な気もちになれた。

バブル期というと、いろいろとハデな伝説があるのに、
25〜30歳だったわたしはまったくその恩恵にあずかっていない。
もうそれはみごとなもので、
お金にまみれたこともないかわりに、
バブルがはじけたからといって、なんということもなかった。
ずっとお金に縁のない生活だったし、
そういうひとがまわりにもたくさんいた。
けして日本じゅうがうかれていたわけではないとおもう。
バブルがあってもなくても、人生はうつろいやすい。

posted by カルピス at 14:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする