ネコは気まぐれで自分かってで、なんてよくいわれるけど、
人間の気分にさからうようなそうした行動のおおくは
ネコが自分と環境との関係で、行動をパターン化させていることに由来している。
ひとがこうしたら、つぎはこうなって、とネコはさきをみとおしており、
ひとのうごきに反応して自分のうごきをきめる。
その都度いろんなうごきをする人間のほうが気まぐれなのであり、
そのときの気分でかわいがったり あとまわしにしたら、
ネコのほうがとまどうことになる。
ネコとくらすだいごみは、
ネコの生活パターンに自分も身をゆだね、
おなじリズムのなかでくらすことにある。
その意味では、いきあたりばったりのうごきになりやすい子どもよりも、
ある程度おちついたリズムですごすおとなのほうが、
ネコたちもつきあいやすいだろう。
人間だって、けっこうきまったながれで生活しているから、
ネコのパターン化したうごきをたのしむのは、そうむつかしいことではない。
もちろんひととの関係だけでなく、
あつさ・さむさで居場所をかえるし、
ネコたちが自分できめている習慣もある。
家族4人いれば、それぞれのうごきに反応して
ネコたちのうごきはいっそう複雑になる。
それでも、中心となるのは、
ネコがいちばんいっしょにいたいとおもう人間だ。
このなんにちか、わたしが寝酒をひかえていたら
ピピはあきらかにとまどっていた。
いつもだと、わたしが酒のはいったグラスをもつと、
それが合図となってピピも寝室についてきた。
わたしが酒をのみながら本をよむときに、
ひざのうえにのるのがだいすきなのだ。
グラスがないと、いつベッドにむかうのかがわかりにくいらしい。
ゆうべは、酒ではなく、カルピスのはいったグラスをもつと、
ピピはまよわずにベッドにとびのって、
ひざのうえを催促する声をあげた。
パターンをまもるのは、そのほうが安心してくらせるからだろう。
ようするに、気がすめばいいのであり、
いったんひざのうえにおちついたら、
それでもう満足してくれて、「ちょっとどいてね」と
おかわりの寝酒をつくりにうごいても
ピピはあっさりゆるしてくれる。
ピピは外からかえったとき、
「おかえり」となでてもらいたくて催促する。
雨の日は、いつもよりもっとおおさわぎして
かえってきたことをアピールする。
雨にぬれるのを覚悟ででかけたのは自分なのに、
その散歩がいかにたいへんだったかをハデにうったえるので、
こちらは大歓迎してその気もちをうけとめなければならない。
両方の波長があい、気もちの起伏がそろうと、
ピピは安心し、ノドをならして満足をつたえながらくつろぎはじめる。
気がすんだのだ。
これらのうごきはぜんぶ、わたしの反応からピピがまなんできたものだろう。
だんだんいろんなものがくっついてきて、
原型をとどめなくなった儀式もおおいかもしれない。
わたしが歳をとるにつれ、仕事や家族の都合よりも、
自分のペースでうごけるようになってきた。
そのぶんピピとすごす時間がながく、こゆくなってゆく。
ピピとの関係が、ひとつの円熟期をむかえたようにかんじながら、
もしもピピが、とかんがえるとおちつかない。
おたがいに、依存しすぎた関係をつくってしまった気がする。