『命をつなぐバイオリン』
(マルクス=O=ローゼンミュラー監督・2011年・ドイツ)
音楽において「神童」とよばれる2人の子どもたち。
アブラーシャはバイオリン、ラリッサはピアノにおいて才能を発揮する。
わたしがきいてもすごさがわかるほどの圧倒的な演奏だ。
そして、もうひとりの女の子、ハンナもバイオリンをならっていて、
技術的には彼らにおよばないけれど、ふたりといっしょにすごしたいと、
アブラーシャたちの仲間になる。
3人とも、友だちと家族を大切にする やさしい子どもたちだ。
そんな彼らが、ナチスのユダヤ人迫害にまきこまれてしまう。
アブラーシャとラリッサはユダヤ人、ハンナはドイツ人だ。
ヒムラーの誕生日をいわうコンサートで、
パーフェクトな演奏ができたら命はうばわないと
条件をつきつけられる。
ユダヤ人迫害・子ども、とくるので、
あまりつらい作品でなければ、と心配していたけれど、
とてもじょうずなつくりで、作品の世界に完全にひたることができた。
残酷な場面をあまりださずに
戦争にまきこまれていくかなしみがよくあらわされている。
3人の子どもたちは、もうすこしおさなければ悲惨さをしらずにすんだだろうし、
もうすこしおとなだったら、もっとなまなましい現実にさらされただろう。
おとなたちがはじめた戦争にのみこまれないよう、
自分たちの世界を大切にし、いつまでも3人は仲間であることを約束しあう。
作品のすばらしさとともに、
おおくのユダヤ人が犠牲になったかなしい歴史を再認識することになる。
「ユダヤ人迫害で犠牲になった160万人の子どもたちにささげる」と
エンドロールがながれた。
ユダヤ人虐殺は、全体で600万人といわれているから、
160万というと、いかにおおくの子どもたちが犠牲になったかがわかる。
むかしタミヤのプラモデルに熱中したものとしては、
キューベルワーゲンとシュビームワーゲン、そして3号戦車のリアルさに感心した。
むかしの戦争映画より、よほど忠実に再現しているのではないか。
ひっかかったのは、イリーナ先生がピストルをうつ場面。
暗闇なのに、3発うってぜんぶ命中というすごいうでまえだった。
音楽の先生だけでなく、別の仕事もしてたのではないかとおもってしまう。
親衛隊大佐がいい味をだしていた。
スキーに興味があるし、音楽も理解している。
親衛隊の高官は、戦争ずきの野蛮人ではなく、
芸術につうじている教養人、というのが本や映画ではお約束だ。
「神童」たちのうつくしい演奏にききほれる知性があるだけに、
本職である軍事行動の残虐性がきわだってくる。
ラリッサをまえに、りんごの皮をむきながら、
もしもコンサートでパーフェクトな演奏ができたら
命をたすけるといったのは、この大佐だ。
そんなプレッシャーをかけられて、
いつもどおりの演奏ができる子などいない。
ラリッサはコンサートちゅう、大佐がりんごの皮をむくところや、
両親が強制終了所につれていかれる場面をおもいだし、
ピアノに集中できなくなってしまう。
いままでの生活が、あっという間に
戦争でめちゃくちゃにされていくのがおそろしかった。
いまの時代に戦争なんておこるわけない、と
かんたんにいえないのがこのごろの世界情勢だ。
国が方針をあやまれば、国民は戦争にまきこまれる。
この作品でも、アブラーシャがすむ町のひとは、
まさかドイツがウクライナにせめこむとはおもっていなかった。
なにかきっかけがあれば、状況は一変する。
どんなふうに戦時に突入するのかという面でも、
いまの日本にはひとごとでない作品だ。