50歳をこえたいま、
ときどき頭にうかんでくるのが『マディソン郡の橋』だ。
とくに不倫願望がつよいわけではなく(たぶん)、
そんな歳になったことをかみしめる中年おとこの感慨だろう。
たしかロバート=キンケイドは52歳という設定で、
フランチェスカは45歳だった。
年齢にこだわる必要はないと、よくいわれるものの、
生物としての人間は、年齢からのがれられないのもまた事実で、
この作品はこの年齢設定なくしてかたれない。
そして、わたしはいま、ロバート=キンケイドの年齢にたっしたのだ。
この作品は映画化もされており、
ネットをみると原作よりも映画についての記事が目につく。
イーストウッドやメリル=ストリープの演技について、
また、中年の不倫がどうしたというはなしだ。
映画をとったときのイーストウッドは65歳であり、
原作のイメージとはどうしてもずれがある。
不倫願望はないといいながら、ちなみに
渡辺淳一氏の『失楽園』をみると、男が55歳で女が38歳になっている。
これはまあ、渡辺淳一氏のこのみと願望を反映しているだけで、
リアリティをもとめるわたしとしては
『マディソン郡の橋』の年齢設定に軍配をあげる。
20年まえ、わたしが介護事業所につとめはじめた年に、
小説の『マディソン郡の橋』がベストセラーになっていた。
すぐよむようにと、上司からこの本をわたされ、
仕事がいそがしくなかったわたしはスルスルっとよんだ。
まだわかかったせいで、内容をふかく理解できなかったのだろう。
印象にのこっているのは、ロバート=キンケイドが
「わたしは肉をたべないのだ」といったことと、
ドアをそっとしめるという描写。
ドアのほうは、あんがい記憶が映画とゴッチャになっているかもしれない。
「まるでわたしみたいだ」、と当時のわたしはずうずうしくおもった。
客観的にみると、にているのはほっそりとしたからだつきだけなのに、
作中のロバート=キンケイドを自分にかさねたのだ。
ネコをおもわせる身のこなし、みたいな描写があったような気がする
(これもふたしか)。
デリカシーのないそこらへんの男たちとはちがい、
わたしがこころがけている生活習慣そのものではないか。
肝心の、フランチェスカとの恋愛についてはあまりおぼえていない。
52歳のキンケイドも、45歳のフランチェスカも
あのときは、まだずっとさきの年齢だった。
52歳になったいまは、さすがに中年の現実をわきまえている。
人生にはかぎりがあり、健康も体力もわかいころと まるでちがってくる。
どっちみち、いつかは死ぬんだから、みたいな達観もめばえてきた。
ロバート=キンケイドの晩年は、孤独だったようで、
わたしもこれからその年代をむかえることになる。
自分がフランチェスカにあえるかどうかなんてかんがえない。
ただ、もしもフランチェスカにあえたときに、
相手にあたいするだけの人間でありたいとおもう。
プロポーションの維持だけではなく、
そのためにわたしはいまもネコのような身のこなしだし、
あいかわらず肉は・・・たべているか。
すくなくとも、ドアはそっとしめる。