2014年07月31日

DJホットマン氏をガイドに音楽の森をめぐる

『とことん夏だから暑苦しい音楽』をたのしみにきいているのは、
ホットマン氏のおもしろさとともに、
ジョギング用のプレイリストをつくりたいとおもっているからだ。
ランニングマシンにのってはしるのは、ものすごく単調な練習なので、
音楽でもきいてないとやってられない。
落語・クラシック・ジョギング専用のアルバム・英語の教材など、
これまでにいろいろためしてみた。
RCサクセッションがすきだからといって、
ずっとそればかりではさすがにあきる。
1枚のアルバムをつづけてきくよりも、
プレイリストをつくってシャッフルすることがおおい。
ゆっくりはしるぶんには、どんな曲でもいいけれど、
あるていどスピードを維持しようとおもうと、
ロックな曲がいいようにおもう。
しかし、わたしは音楽の世界にあかるくなく、
これならいくらでもはしれるというプレイリストをつくれない。

わたしの母が、「どんな本をよんだらいいのかわからない」
といったことがあり、
そんなことになやまずに、おもしろそうとおもった本を
どんどんよんでみればいいのに、とおもったものだ。
なにをよめばいいのかさえ わからにひとがいるのが
すごく不思議だったけど、
かんがえてみれば、音楽についてのわたしがそうなのだ。

なにをきけばいいのかわからない。
ロック・ジャズ・クラシックと、音楽の森はひろくてふかい。
レゲエやサルサなど、こまかくわけていけば きりのない世界だ。
たとえばロックなら、どんな曲や歌手からはいればいいのかわからない。
ロックもジャズもクラシックも、
地図をもたずにふみこむのは、あまりにもふたしかで、こころぼそい。

本なら、ある程度のことがわかる。
本の世界も森にたとえられるけど、
ながねん本をよんできたおかげで、
森の規模をおおまかにつかんでいるし、
つまらなければ とちゅうでやめてもいいと、
ふてぶてしさも身につけている。
それが、音楽になるとさっぱりわからなくなるのだ。

本と音楽は、よくにているともいえる。
本もいろいろなジャンルにわかれており、
それぞれに独特の世界観がある。
古典・ミステリー・SF・ノンフェクションなど
音楽とおなじように、わけようとおもえばきりのない世界で、
ひとつひとつがひろくてふかい。

高野秀行さんがなにかの本に、
「探検に必要なのは、よいガイドとたしかな情報」
みたいなことをかいていた。
最新の装備をととのえても、現地にいってそれが役にたつかはわからない。
もっていったガイドブックの情報が
そのときに通用するかどうかわからない。
大切なのは、よいガイドをやとうことなのだ。

地図をもたずに森をさまようのもひとつの方法とはいえ、
いまのわたしには時間と体力にかぎりがあり、
そうしたフロンティアスピリッツはかんがえないことにする。
いろんなことがみえてきたときには 病院のベッドのうえだった、
では残念だから。

わたしは、音楽の世界にはいりこむために、
DJホットマン氏をガイドとしてたよることにした。
かなりクセのつよいガイドだけど、
いいところにつれていってくれそうな気がする。
「あつくるしい」かどうかはともかくとして、
気もちをたかめてくれそうなアップテンポな曲を
番組でいくつもチェックできた。
それをきいてはしれるかどうかがえらぶ基準であり、
どうしてもやかましくてリズム感のある曲がおおくのこる。
じっくりきくにはいいけど、はしるにはむかないであろう曲は、
それはまたべつのプレイリストにすればいいだろう。

DJは、ようするにブックガイドの音楽版みたいなものだ。
DJは気らくにすきな曲をかけてるみたいなのに、
ブックガイドというと、どうしてもかたぐるしい印象がぬけない。
すべてのひとにむけたブックガイドはありえないので、
いろんなものを背おわない、ちからのぬけたブックガイドでいいのに。
ブログで書評をかくときにも、気らくなブックガイドとして、
せまい対象にむけ、自分の世界を紹介すればいい。ホットマン氏のように。
ホットマン氏の「とことん暑苦しい」は、
ラジオ番組をきわめてブログ的にいかして うまくいった例だとおもう。
「とことん暑苦しい」的なおもいこみのつよさが、
ブログでもよむひとをしあわせにする。

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2014年07月30日

「夏やすみ」 勤務時間はみじかいほうがいい

「夏やすみ」といっても、もちろん自分のやすみのことではなくて、
学校が夏やすみにはいり、本業がいそがしくなった、というはなしだ。
放課後の支援がわたしたちのおもな仕事であり、
平日は午後2時からだけど、
夏やすみや冬やすみの長期休暇は、朝から子どもたちがやってくる。

と、えらそうなことを、ほんとうはいえない。
まえにもブログにかいたように、
わたしの勤務時間は4月から午後2時から6時までとなり、
夏やすみにはいっても、それがそのままつづいている。
いうまでもないけど、これぐらいみじかいと、仕事はとても楽だ。
「勤務」とよぶのもためらわれるぐらい
ふざけた時間設定だとわたしもおもう。
ようは時間ではなく内容だ、と、いいはるだけの自信はない。
でも、これがあたりまえだとおもえば、
からだはすぐになれる。

きょうは、ほかのスタッフの都合で、
9時出勤をもとめられた。
以前ならあたりまえなのに、いまのわたしには
朝9時という、その時間をかんがえるだけでプレッシャーだ。
夕べはいつものように「とことん暑苦しい音楽」を1時まできいていたので、
けさはちゃんとおきれるかどうか心配した。
いつもより1時間はやい7時まえに目がさめたのだから、
わたしなりに緊張していたのだろう。
9時出勤をプレッシャーにかんじるのは、
ふだんはそれだけとびきり楽をしているからだ。

けさは8時半に家をでて、自転車で職場にむかう。
夏やすみでも学校をめざす子どもたちがいて、
自分にはやるべきことがあるのだ、と
背中がかたっているようにみえる。
朝らしいキビキビしたうごきが気もちいい。
9時出勤からしばらくとおざかっていたおかげで、
朝の風景がおもいがけず新鮮だった。

なんとかつつがなくいちにちの仕事をおえる。
職場にでてしまえばそれなりにすることがあり、
スケジュールをこなせば自動的に時間がすぎてゆく。
6時に職場をあとにするときには、わるくない満足感があった。
9時から6時までひとなみにはたらいたことと、
6時というはやい時間に家にもどれるうれしさだ。
はやく家にもどるのは、人間らしい生活をおくるうえで
おろそかにしてはならないポイントである。
2時から6時まではあんまりとしても、
家族といっしょに夕ごはんをたべれないなんて、
どうかんがえてもはたらきすぎなのだ。
みじかい勤務時間を体験すると、
そうでなかったころが、いかに異常な状態だったかがわかる。
なんでこんなかんたんなことができないのか不思議でもある。
みんながはやく家にかえれれば、少子化になやむこともないのに。

あすからは、また午後2時出勤でいいとおもうと
まるであすがやすみの日みたいに気がらくだ。
ごほうびとして、夕ごはんをスキヤキにする。
「とことん暑苦しい音楽」のファンとしては、
夏だからスキヤキは、とうぜんありえるメニューだ。
たかい肉を奮発するわけでもないので、
3人分の材料がたった1600円だった。
肉はきりおとしを350グラム(20%びき)。
汗をかきながら夏にスキヤキをたべるのもわるくない。
わるくないとおもえるのは「とことん暑苦しい音楽」により、
あつくるしさを肯定的にとらえられるようになったおかげだし、
きょういちにちをしっかりはたらいた充実感が味つけになっている。

たまにならいい味つけだけど、それを日常にはしたくない。
わたしにあたえられた今の勤務時間がどれだけありがたいか、
たったいちにち9時出勤を再体験するだけでよくわかった。
勤務時間はできるだけみじかいほうがいい。
仕事のやりがいもわからなくはないが、
いちにち4時間程度が人間の労働時間としては適当であるというのも、
けしてまちがってない、ちゃんとしたひとつのかんがえ方だ。

posted by カルピス at 21:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月29日

『クロワッサンで朝食を』ややこしそうなフランスの介護事情

『クロワッサンで朝食を』
(イルマル=ラーグ監督・2012年フランス・エストニア・ベルギー)

エストニア人の女性(アンヌ)が、パリで家政婦としてはたらくことになる。
やとわれさきの家にすむのは、わかいころにエストニアからやってきた
気むずかしい老婦人(フリーダ)だ。

フリーダ役をえんじるのがジャンヌ=モローで、
『ニキータ』のときからもうじゅうぶん老女の雰囲気があったのに、
この作品でもあまり印象はかわらない。
あいかわらず独特の雰囲気をもつ老女をえんじている。
ストーリーとしては、はじめ気むずかしかったフリーダが、
アンヌにしだいにこころをひらいていくという
よくあるスジだてで、とくにおどろくような展開はない。
日本の介護事情とちがうのは、外国から家政婦や介護人をやとうのが、
フランスではあたりまえにおこなわれていることと、
フリーダが50代のツバメ(ステファン)をやしなっていることだ。
アンヌはフリーダの家族から依頼をうけたわけではなく、
フリーダの恋人であるステファンがやといぬしだ。

日本でも、東南アジアを中心に、
おおくの外国人が介護の現場ではたらくようになってきた。
日本人にかぎっていては、これからさき、
とても手がたらなくなることがわかっている。
いまはまだ、かぎられた施設だけでのことかもしれないが、
これからはどんどんひとのうごきが流動的になり、
即戦力の介護人として、外国人はごくふつうの存在になっていくだろう。
いちぶのお金もちは、介護保険でカバーされないサービスについても、
アンヌとフリーダのように、私的な契約によってやといいれるようになる。
ちかい将来の日本は、この作品のように、
外国人があたりまえの 介護状況になっているかもしれない。

もうひとつの特徴である、ツバメが依頼主ということについて。
フリーダは20年まえに、わかかったステファンにカフェをもたせ、
そのみかえりに自分への愛をもとめている。
フランスはおおむかしから
そうやって順ぐりにお金と美貌をリサイクルさせてきた。
わかいころは歳うえの男性パトロンにみつがせ、
自分が歳をとると、こんどはわかい男に出資し、
かわりに愛をもとめる。
フリーダもうつくしさに執着し、
経済力で男を手ばなそうとしない。

人生は、なかなかかんたんにはおわってくれない。
アンヌは子そだてをおえ、母親をみとり、
夫はアル中のへろへろで、しかしまだこれからも生きていかなければならない。
ステファンは、自分が中年になっても、
まだフリーダからのがれられない。
フリーダはとしおいても色と食への欲望をかかえている。
中年になったら、もうだいたい人生はおしまいかとおもっていたのに、
それからさきも、まだながいつづきがあるのだ。
このごろ高齢期を話題にした作品ばかりみているような気がする。

『ニキータ』のおもいでをすこし。
わたしははじめこの作品を外国の映画館でみた。
フランス語なので、ストーリーがよくわからない。
それでもなんだかすごい作品をみたような気がして
興奮を友だちにつたえると、
その友だちもみにいってくれた。
しかし、彼もまたじゅうぶんに理解できたわけではなく、
想像したことをふたりですりあわせた。
わからないのに「すげー!」を連発していたのだから、
ふたりともアンヌ=パリローの魅力にだいぶまいっていたのだろう。
女性らしいからだつきでなく、はじめて目にするうつくしさだ

ジャンヌ=モローは、アンヌ=パリローに化粧をおしえ、
女性としてのうつくしさに目ざめさせる役だった。
これから女ざかりをかけのぼっていく同性のアンヌ=パリローにたいし、
ジャンヌ=モローは淡々と先達としての人生観をかたる。
その場面だけの出演なのに、印象のこる場面だった。
女を目ざめさせるのは、女にしかできない役割かもしれない。
それは、ジャンヌ=モローがいちばんよくわかっている役なのかもしれない。

posted by カルピス at 21:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月28日

基準をしめした西村さんの笛とノイヤー選手

Wカップの開幕戦、ブラジル対クロアチアは、
日本人の西村雄一さんが主審をつとめた。
ブラジルのフレッジ選手がPKを獲得したプレーについて、
あの程度で笛をふくのかと、西村さんの判断が印象にのこる試合となった。

選手たちの声をひろってみると、
この大会では、手をつかったプレーについてきびしく対応すると、
あらかじめFIFAからつたえられていたようで、
西村さんはその方針をしめしただけといえる。
それが第1試合目だったので、これ以降の試合に影響をあたえる、
インパクトのある笛となった。
こういうのを、大会の基準をしめす笛というそうだ。

わたしがしびれたのは、「基準をしめす」というかんがえ方だ。
どんなことにもこまかなルールがきまっているけれど、
それをじっさいに どこまで厳密にみていくかは
またべつのはなしだ。
ファールをしてはならないにきまっている。
でも、どこからがファールになるかは
ひとによって判断がわかれてくるだろう。
FIFAは今回の大会で、手をつかったプレーについて
きびしく対応することをきめていた。
しかし、それを口でいくらいっても
選手たちにはつたわりにくい。
西村さんの笛によって、どの選手も通達が口さきだけでないことをおもいしっただろうし、
手をつかって相手を牽制するのが得意な選手は、
ファールをとられないように それ以降は用心したのではないか。

基準をしめす笛は、組織の威信をかけたものでなくてはならない。
ある審判ひとりの判断ではなく、組織全体のかんがえであることをしめすために、
その後もその基準をまもりつづける必要がある。
西村さんの笛が、じっさいにその後の基準となったかどうかは
微妙なところだ。
大会がすすむにつれて、判断があいまいになっていったような気がする。
西村さんはFIFAの基準をしめそうと笛をふいたのに、
あとからはしごをはずされてしまったような印象がのこる。

今大会でもうひとつを基準をしめしたのは、
ドイツのゴールキーパーであるノイヤー選手だ。
ボールへの超人的な反射神経にもおどろいたけれど、
ノイヤー選手をきわだたせたのは、
なんといってもゴールキーパーという概念をうちやぶるひろい守備範囲だ。
ゴールキーパーは、ゴールちかくにいる守備専門のひとかとおもっていたら、
ノイヤー選手は平気でペナルティエリアよりそとにでて、
ピンチの芽をつんでいった。

いぜんオシムさんがよくいっていたのは、
ゴールキーパーもフィールドプレイヤーのひとり、というかんがえ方で、
足でボールをたくみにさばいて
攻撃の起点となることをもとめていた。
そういわれても、当時はピンとこなかったけれど、
ノイヤー選手のうごきをみることで、
オシムさんのいっていたことがやっとわかった。
キーバーは、11人目のフィールドプレイヤーであり、
ゴールをまもるだけのひとではないのだ。
ノイヤー選手をみていると、フィールドプレイヤーなみに、
ボールを足元であつかう技術が必要なのはもっともだとおもえる。
それまでの伝統的なキーパーがあたまにあると、
ノイヤー選手みたいなうごきは想像すらできない。
ディフェンスの、最終ラインのうしろは、
ぜんぶキーパーの守備範囲なのだ。

ノイヤー選手のうごきは、あるべきゴールキーパーの
あたらしい基準をしめすものだった。
ノイヤー選手の影響をうけて、ピッチ上をひろくかけまわるゴールキーパーが
これからはたくさんでてくるにちがいない。
とはいえ、ただでていくだけでは無人のゴールをねらわれる。
正確な判断力とスピード、それに
フィールドプレイヤーなみのボールコントロールができなければ、
たんなる残念なゴールキーパーだ。
おもいつきやあこがれだけで、だれにでもできるプレーではない。
ノイヤー選手がしめしたまったくあたらしいプレースタイルが、
これからはゴールキーパーの基準となることを、
おおくのひとがかんじる大会となった。

西村さんの笛は、これからも世界の基準として尊重されるだろうか。
何年かさき、サッカーが安全できれいなプレースタイルになったのは、
あのときの西村さんの笛がきっかけだった、
といわれるようになることをねがっている。

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2014年07月27日

『森に眠る魚』(角田光代)「お受験」をめぐるママ友たちの心理

『森に眠る魚』(角田光代・双葉社)

幼稚園にかよう子をもつ母親たちの「お受験」もの。
4人の専業主婦と、「お受験」をくぐりぬけてきた元ママの計5人が
おもな登場人物だ。

ものがたりのはじめでは、
4人の主婦が、おたがいにいいママ友をもててよかった、とおもっている。
自分とにたような価値観をもつママ友は、
おたがいに気のやすまる存在だ。
でもそのうちに、「お受験」をめぐって
だんだんと気もちのすれちがいがでてくる。
「お受験」をさせるか、させないか、
どこの学校がいいか、
そのためにはどこの教室にかよって 準備をしたほうがいいのか。
体験レッスンをうけたいけど、ほかのひとにはしらせたくない、などなど。

このすれちがいから、疑心暗鬼がうまれ、
5人とも精神的につらいところにおいこまれていく。
5人の性格が複雑にからみあい、
せまい世界へおいこまれていくようすがおそろしい。
それまであこがれていた生活をおいもとめるだけでは
しあわせでいられないことに やがて全員が気づくことになる。

「お受験」に関心のないわたしにとって、
そうした環境でいきる親たちを たいへんだとはおもうものの、
正直なところ、どうでもいいようなことに神経をつかう
彼女たちの価値観が理解できない。
5人の女性とも専業主婦で、夫はほとんど子そだてに口をださない。
女性たちは、けっきょくヒマな時間がおおすぎるから
なやみをかかえてしまうだけにわたしはおもえる。

高級マンションにすみ、部屋のなかは まるでグラビアでみた写真みたいにととのっており、
ブランドものの服に高級外車と、絵にかいたようなくらし。
子どもはもちろん有名な学校にかよっている。
こういうくらしに当然のものとしてなじめるひとはいいけれど、
以前からのあこがれとしてたどりついたひとは、
あとになってゆがみがでてくる。
しあわせだといいきかせてきた自分にたいする疑問だったり、
子どもが精神的にダメージをうけていたり。

わたしのことでいうと、「お受験」にまったく縁のない生活をおくってきた。
自分が子どものときにもそうだったし、
自分の子どもについても「お受験」を体験しなかった。
これは、ちいさな町にくらしているという環境と、
収入によって規定される階層のちがいからくるのだろう。
私立にするか、国立にするか、公立にするか、
わたしが子どものときも、わたしの子どものときも、
そもそもほとんど選択肢がない。
その「ほとんどない」なかで、
いちぶの階層にぞくするひとたちは、
それなりに「お受験」を体験されたのではないか。
わたしには気がつかなかっただけで、
わたしのまわりにも「お受験」があったのだろう。

「お受験」のことをきけば、だれだってそんなに無理をしなくても、
とおもうにちがいない。
それなのに、おおくのひとが「お受験」にからめとられてしまうのは、
よりうえをめざそうとする親たちの価値観が一般的なものだからだ。
わたしとしても、自分には関係ない、とおもっていても、
配偶者が「お受験」に価値をみいだしてしまったら、
父親としてなにがしかの決断をせまられる。
わたしがいちども子どもの進路について心配したことがなかったのは、
わたしの信念というよりただのなりゆきにちかい。
ひごろ町でみかけるお母さんとおさない子どもたちは、
こんなにも どうでもいいようなプレッシャーにさらされているのか。

ヨーロッパだけでなく、日本も階級社会で、なんてよくいうけど、
めざせばうえにあがれる柔軟な構造は、きびしい階級社会とはいわないだろう。
へたに選択肢がゆたかなだけにあきらめがつかず、
自分にふさわしくないうえの階級を夢みてしまう。
そのひずみが、やがて子どもに、そしてけっきょくは自分にもおよんでくる。
自分がうえのくらしにあがろうと努力するのはいいとしても、
子どももまたうえの階級にあげようと「お受験」をセットでかんがえると、
子どもはたいへんだ。
ちいさいころは、いろんなことができるようになりやすいので、
商売として、あるいは産業としてつけこまれてしまう。
わたしのむすこがかよった保育園は、よみ・かきをおしえない方針だった。
わたしは、それでいいとおもった。

「お受験」だけの小説ではないのだろう。
目的としてめざしてきたことが、やがて自分の意識をはなれ、
状況にふりまわされていくようになる。
それまでうたがったことのない自分の価値観が
どれだけしっかりとした根をもたない ふたしかなものかに気づく。
だれにも自分を完璧にコントロールすることなど できない。
自分たちがめざしてきたゆたかなくらしとはなんだったのか。

角田光代さんは、本のさいしょに登場させた5人のその後を、
最後にぜんぶひっくりかえしてしまった。
そのたたみかけが角田さんならではのものとはいえ、
わたしたちの生活は それぐらいこころもとないものなのだ。
夫たちは、みんなふつう男だったのに、ほとんど存在感がなく、
彼女たちのちからになれなかった。
しかし、ふつうの男だったからこそ、家族はこわれずにすんだのかもしれない。
現実はもっと悲惨なのだろうか。

posted by カルピス at 21:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 角田光代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月26日

日記風なブログに感心する

あつさのピークがきているのだそうで、
ゆうべははじめてエアコンをつけたままねた。
かくれがみたいなわたしの寝室はすごくせく、
エアコンがよくきくかというと、
あんがいそうでもないのが不思議なところだ。
26℃の設定にしても、ちょっとうごいてはとまり、
またすこしうごき、をくりかえすだけで あまり快適ではない。
部屋がせますぎると、エアコンがとまどってしまうのではないか。
戸をあけはなって、となりの部屋とつづけたほうが
かえってエアコンのききがよくなる。
エアコンに人間的なうごきをみるのは、
含蓄のあるはなしかもしれないけど、
つかうほうからするとありがたくない。

日中は35℃まで気温があがる。
もちろんあついけど、こんど参加するレースは
日中に21キロをはしるので、
あつさにもなれておいたほうがいい。
9時半に家をでていつものコースをはしりはじめる。
でも、35℃はさすがにきつかった。
とちゅうで「やばいかも」という状態になる。
2キロおきに水をのむ。首すじにも水をかける。
スピードをおとしてなんとか15キロはしりおえた。

ゆうべもDJホットマン氏による
「とことん夏だから暑苦しい音楽」をきく。
深夜放送をきく受験生は、おおきな音でロックをきいたあとに
すんなりねむれるのか気になっていたけど、
ぜんぜん睡眠には影響しないことがわかった。
番組がおわってあかりをけすと、わたしはすぐにねついている。
そもそも12時からの番組は、深夜放送なんていわないのかもしれない。
12時ころから朝まできくのが
深夜放送のただしい定義ではないか。
それに、ラジオというと受験生という発想がいかにもおじさんだ。
じっさいは、どんな年代のひとが この時間帯にきいているのだろう。

DJホットマン氏つながりで、
OSAM氏の「OPINION & DIARY」というブログにであう。
http://sam-seki.at.webry.info/
何時におきて、なにをたべ、どんな仕事をこなし、
夕ごはんになにをつくって、なんという酒をどれだけのんだか。
まるで日記であり、まったくしらないひとのくらしぶりなのに、
かいてある内容がわたしにはとても興味ぶかい。
この方も本やジョギングがすきで、
あまり積極的な性格ではなくと、
わたしとよくにた生活態度だ。
体調のわるさにつきあいながら、
どれだけはしったかとか、
自動車の燃費がリッター何キロだったかとか、
洗濯をして ふとんもほしてと、
こまかいことがチマチマとかかれている。
日記みたいに具体的な記述がすきだとはいっても、
どんなものでもいいわけではもちろんない。
わたしがOSAM氏の文章の、どこにひかれるのか かんがえてみたい。

今回の記事が日記風なのは、OSAM氏の影響による。
OSAM氏のブログはもっと、徹底的に個人的な日記であり、
とてもそこまでまねはできない。
いろんなブログがあるものだ。

posted by カルピス at 17:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月25日

『痛風はビールを飲みながらでも治る!』(納光弘)すべてはストレスとどうむきあうか

『痛風はビールを飲みながらでも治る』(納光弘・小学館文庫)

痛風というと、ビールにプリン体があたまにうかぶ。
それぐらいしか痛風についての知識がないし、
ビールがのめない状況は、それだけで充分に悲惨だ。
できれば自分はそんな病気にかかわりたくない。
しかし、タイトルにもあるように、この本によると
ビールをのんでも痛風はなおせるのだそうで、
痛風によるビールの制限に かなしいおもいをしていたひとにとって、
本書はどれだけあかるいともしびとなっただろうか。

著者の納光弘さんは、痛風の専門医でありながら、
ご自身が痛風を発症してしまった。
それまで患者さんによくいっていた
「お酒はいけません。我慢して控えてください」
「とくにビールはいけません」
といった注意事項が、ぜんぶ自分にふりかかってくる。
ビールがだいすきな納さんにとって、
これまでのようにビールをのめないことは、
生活の質に直結する由々しき事態だった。

たくさんあるとおもっていた尿酸値のデーターが、
じっさいに治療にいかそうとすると、どれも役にたたなかったので、
納さんは、自分のからだを実験台として、
懸命に効果的な療法をさぐりだす。
ビールをのみつづけられるかどうか、
自分の研究にかかってくるので、実験には迫力がある。

「まず初めに、本気で大量のビールを飲んでみたところ、
 翌朝の採血で尿酸値は7.2rまで上がっていました」

「その後、今度は日本酒をしこたま飲んだ(6.5合)ところ、
10月4日、8.0rまであがりました」

自分のこととなると、真剣さがちがってくる。
ビールがのめないということは、
ビールずきにとって とうてい うけいれられない状況なのだ。
ほんとうにこまったとき、ひとは なんとか解決策をかんがえる。
「本気で大量のビール」や、「日本酒をしこたま」は、
自分のからだをつかっての実験でなければなかなかできない。
患者さんにたいしてあんまり極端なことはできないので、
けっきょくあたりさわりのない、従来どおりの療法になるだろうと想像がつく。
納さんが、ほんとうにビールずきだったおかげで、
痛風の治療はいっきょにすすんだのではないか。

血液中の尿酸値があがると痛風の症状がおこる。
では、どんなときに尿酸値があがるかを、
納さんがこまかくデーターをとってみると、
これまでいわれてきた「ビール」「プリン体」が、
絶対的なわるものではないことがわかってきた。
これらを制限する食事療法よりも、
大切なのは以下の3点だという。

1.体重コントロール
2.ストレスの解消
3.正しい薬剤の服用

なかでも「2」のストレスと、具体的には
どうつきあっていけばいいのだろうか。
仕事をするうえで、ストレスとまったく無縁ではいられないし、
納さんによると、いわゆるストレスだけでなく、
すきなゴルフ大会をたのしみにまつこともまた、
ストレスになるのだという。
できるだけこころに負担をかけないほうがいいものの、
どうしてもさけがたいストレスについては薬をのんで対応するというのが
納さんの治療方針となっている。
ようは、尿酸値をたかめないように、
いろんな方法をもちいるわけで、
痛風だから厳密な食事療法を、といわれるよりも、
はるかに気もちの負担がすくないのではないか。
食事をたのしんでもいいし、
ビールものめますよ、といわれれば、
患者側からすると とても気がやすまるだろう。

痛風だけでなく、尿酸値をあげないための3つの注意どころは、
ほかの病気、たとえば糖尿病などの生活習慣病にもかかわってきそうだ。
こころの負担だけでなく、
たのしみもまたストレスであるというのが、
わたしにはものすごくいいはなしにおもえた。
いいこともわるいことも、みんなストレスなのだから、
さけてばかりはいられないわけで、
なんとかつきあっていかなくてはならない。
人生において自分の身にふりかかってくる異常事態を、
宿命としてうけいれらえるかどうか。
ストレスくらいとらえどころがなく、
奥ゆきのふかい概念はあまりないのではないか。

posted by カルピス at 22:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | 健康 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月24日

ブログとは なんだかんだ。

職場のブログを3人の職員がリレーでかきこんでいる。
リレーといっても、なにかの話題をひきついで発展させていくのではなく、
内容はともかく、毎日やすまずかきこんでいこう、
というひくいこころざしでスタートした。
デイサービスの雰囲気をつたえられたらそれでよく、
その日におきたことをさらっと紹介すれば目的をはたせる。
でも、あんまり仕事に頭をつかってないわたしは
仕事を意識するとかけなくなるので、
テキトーな話題ににげることがおおい。

このごろは「デイリーポータルZ」の紹介がおおくなってきた。
「たのまれていないサッカー応援歌」
「宇宙人からの侵略をみやぶる方法」
などの例をみればわかるように、
デイサービスと「デイリーポータルZ」との接点はほとんどない。
やわらかさというか、ちからのぬけ加減というか、
すきまがいっぱいの雰囲気をかんじてもらえたらとおもう。

ツイッターをやらないわたしは、
ツイッターって、こんなかんじで発信するのかも、
と想像している。
このブログにあげるまでもない話題について、
気になることをそっとつぶやく。
1回の記事を、ほんの10分ほどでかきあげてしまう、
そんなお気楽な存在なのが職場のブログなのだ。

このところ、リレーがうまくつながらなくなってきた。
駅伝のたすきほどおおげさなものではないけど、
それでもわたしとしては毎日とぎれずにつづけたいのに、
それさえもできない。
どうしたらいいものか、かんがえているうちに、
べつにリレーできなくても、なにも問題ないような気がしてきた。
わたしがかいてることにしても、
べつにどうでもいいようなことばかりで、
どうしてもつづけたいという格別なおもいいれがあるわけではない。
2年ちかくづいてきたのができすぎだったのかもしれない。

そもそも、ブログとはなんなのか。
すこしまえの倉下忠憲さんのブログに
「読みたいブログがなかったら、自分で書け」
http://rashita.net/blog/?p=13889
というひとことがのっていたので、
ためしにその語句をそのまま検索にかけると、
でてくるはでてくるは。
ブログをかくことについて、
ひとこといいたいひとが こんなにたくさんいるとはしらなかった。

「ブログがかけないとき」
「ブログのねたがなくなったとき」
「ブログになにをかけばいいか」
「ブログがかけなかった理由」

にたようなタイトルが延々とならんでいる。
「ひとこといいたい」ひとのふきだまりみたいだ。
ブログについてかたることは、完全にひとつのジャンルになっている。
そんなにつづけるのがたいへんだったら、無理してかくことないのにと、
余計なお世話ながらおもう。
つよすぎる自己愛は、いやな汁をたらしやすい。
もうひとつ連想したのが食におけるグルメの存在だ。
「わたしはグルメではないが」とことわっておいて、
たべものについてのこだわりをはげしくかたる。
けっきょく、グルメなのだ(この記事も、そのひとつか)。

DJホットマン氏に職場のブログのことを相談したら、
きっと「どっちでも、いいです!」というだろう。
そんなことに頭をかかえるようでは ロックなんてやってられない。
かきたいひとが、かきたいことをかけばいい。
こだわるべきは、ブログをどうつづけるか、ではなく、
なにをかくか、であり、
それがわたしにとってどういうことか、になる。
日常生活をあまりたいせつにしすぎると、
どうしてもせまいところにはいりこんで、
そこばかりが世界におもえてくる。
ときどきDJホットマン氏に 地上100メートルぐらいのところから、
ずばっと本質を指摘してもらいたい。

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2014年07月23日

『彼女の家計簿』(原田ひ香)家計簿からあきらかにされる家族の過去

『彼女の家計簿』(原田ひ香・光文社)

題名から想像したのは『武士の家計簿』の「彼女」版だ。
家計簿にかきこまれた数字を分析し、
行間にひめられた情報をひろっていくストーリー。
いかにも原田ひ香さんらしい本ではないか。
でも、予想とはだいぶちがっていた。
数字からなにかをときあかすわけではなく、
家計簿にかきこまれたメモが
過去をあかしてくれる今回の情報源だ。

里里(りり)はシングルマザーで、2歳半のむすめとふたりでくらしている。
それまでつとめていた職場が倒産し、
失業保険をうけとりながらくらすことになった。
里里のもとに、祖母である加寿(かず)のかいた家計簿がおくられてきた。

家計簿は、戦前から戦後にかけて、加寿がかきこんだものだ。
家計簿といっても、お金のやりくりを記録するだけでなく、
その日の献立や、日記としてメモをのこす欄がとってあるノートであり、
加寿のくらしぶりと こころのうごきがかきこまれている。
戦況がおもわしくなくなり、夫が兵士にとられて家をるすにする。
加寿はしゅうとめとふたりで家をまもり、
小学校の先生としてはたらきはじめる。

いくつものはなしが交差して、ややこしい内容だ。
その鍵を、家計簿がにぎっている。

里里の祖母は、なぜむすめをすてて家をでたのか。
里里の母親が、里里にすこしも愛情をむけてくれなかったことと、
それはなにか関係があるのか。

家計簿をおくってきたのは、
加寿が生前かかわっていた団体の代表をつとめる晴海だ。
晴海は、事務所を整理するときに大量のノートをみつける。
これが本書にでてくる「家計簿」で、
すてるわけにはいかない個人の記録として
晴海は事務所の元所有者にこの家計簿をとどける。

家計簿はいったん里里の実家におくられたあと、
里里の手もとにとどけられた。
里里はすこしずつ家計簿をよみすすめ、
祖母である加寿がどんな人間であったかをしるようになる。
里里は、シングルマザーとなった自分の身のふりかたと、
晴海は、いまの仕事にうちこむようになった背景である
過去のできごととに、
この家計簿とむきあいながら 気もちの整理をつけてゆく。

あらすじをおってみると、それだけのことかと、
かたすかしをくうひとがいるかもしれない。
ほんとうに、それだけのことなのだ。
それだけのことを、しかしわたしたちはなかなか処理できずにいる。
里里も晴海も、外見をみればふつうにはたらく女性だ。
過去になにがあり、いまなにをかんがえて生きているかなど
だれにもわからない。
そして、もちろん里里たちだけでなく、
だれもが個人的な背景をもち、それに影響をうけながらくらしている。
ひとごととしてではなく、それらにどれだけのリアリティをこめるかが、
原田ひ香さんはとてもじょうずだ。

過去をおもくうけとめる女たちにたいし、
でてくる男たちは、気のきかない人間ばかりだ。
絶望的に相手のことをかんがえない。
これもまた、残念ながらすごくリアリティがある。

posted by カルピス at 13:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月22日

DJホットマン氏による『とことん暑苦しい音楽』の再登場をよろこぶ

NHK-FM『とことん暑苦しい音楽』が再登場した
http://www.nhk.or.jp/tokoton/
(7月21日月曜日深夜〜8月15日金曜日深夜放送。再放送は夕方の6時から)。
こういうのを虫のしらせというのだろう。
なんとなくブラウザをながめているうちに、
番組が月曜の深夜からはじまることをしる。
担当はもちろんDJホットマン。
イントロの音楽も、
「うっとおしいほどロックンロール」
「魂はいつもアブラ汗」
などのセリフもかわらない。
半年間の空白が、うそみたいに違和感がない。
今年の2月に放送されたときとちがうのは、
番組名に「夏だから」がはいったことだ。
『とことん夏だから暑苦しい音楽』が、だから正式番組名だ。
冬の「暑苦しい」は、DJホットマン氏のキャラクターから名づけられたものだろう。
たしかに、冬にきいていてもじゅうぶんあつくるしかった。
しかし、「とことん暑苦しい」は、はやり夏のほうがよくにあう。

前回の番組がすごくおもしろかったから、きっと再登場するだろう、
してほしいとねがっていた。
ホットマン氏はプロデューサーから「ちょっとちょっと」とよばれ、
「これはすごいことなんだぞ」ともったいづけたうえで
番組の再登場をめいじられたそうだ。
プロデューサーは「これはめったにないことなんだぞ」と
水森亜土さんからおくられてきた、
番組をたたえるはがきをホットマン氏にみせたという。
ホットマン氏は、「オレは、水森亜土さんをしりません」といっていたけど。

第1回目から「あつくるしい」曲がどんどんながれる。いいかんじだ。
司会者のおしゃべりが中心で、しかも曲とは関係ないことをはなしておいて、
そのあいまにレコード(CD)をかける番組がおおいなかで、
ホットマン氏は、あくまでも曲と、曲にまつわるはなしで あつくもりあがる。
これぞただしいDJのすがたなのだ。
この番組でながれる曲をそっくりCDにしてほしいくらいだけど、
そんな手ぬきの大人がいなんてだめで、
ちゃんと1枚1枚、1曲1曲ききなさいというのが
ホットマン氏のスタンスである。

夏のあつさが本格的となり、
どーやって夏をのりきろうかと
うっとうしくなってたけど、
この番組をきいているうちにげんきがでてくる。
ほとんどのものに「夏こそ◯◯」は通用するのだそうで、
「夏こそカレー」「夏こそラジオ体操」はあたりまえとして、
「夏こそロック」もまた まちがいなくただしいイベントだと確信する。

「1965年のDJって、いいよねー。
ミラクルズとオーティス=レディングとウィルソン=ピケットが、
おなじ部屋にいるなんて、すごいよねー」

ホットマン氏のロックとソウルへの愛が
あつさをわすれさせる。
たのしかった。
しあわせだった。
またこの番組をきけて、ほんとうにうれしい。

posted by カルピス at 09:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月21日

Wカップのせいで いろんなことがうまくいかない(のかもしれない)

体育館のプールでおよぐ。
きょうは1時間つづけておよぐ予定にしていた。
本番のレースは2.4キロの水泳+21キロのランニングなので、
どうしても1時間くらいはおよぐ体験をしておきたい。
1コースをひとりじめしてゆっくりおよぎだした。
べつにかしきったわけではなく、
たいていの時間はひとりで1コースを専用にできるのが
島根県ならではのありがたいトレーニング環境だ。

わたしぐらい経験をつんだスイマーは、
いちいち時計をみなくても どれだけおよいだかがだいたいわかる。
やれやれ1時間くらいたっただろう、とおよぐのをやめて時計をみると、
まだ50分だった。
ほんとうは、1時間たったからたちどまった、というよりも、
つかれはててきて、おねがいだからもう1時間たっていてほしい、
という ねがい優先の体内時間だった。
みごとに10分もずれていて、そうなると
もういちどスタートする気にはなれない。
自分がわるいのだけど、
なんだかだまされたようなかんじでプールからあがる。

夕ごはんにコロッケをつくる。
配偶者が義父のつくったじゃがいもを実家から
もらってきており、
その新じゃがをみたときにおもいついたメニューだ。
じゃがいもをおおきいままゆでると時間がかかるので、
かなりちいさくきってから沸騰したお湯にいれる。
ゆですぎてしまった。
ザルにあけるとこなごなになったじゃがいもが
べったりとザルにくっついている。
ホクホクしたコロッケをたのしみにしていたのに、
あげるまえからベチャッとしている。
できあがりも、予想どおり残念な姿だった。
いろんなことがうまくいかない日だ。

Wカップがおわってしばらくたつのに、
意識はまだブラジルにある。
なんて、なんだかかっこよくきこえるから、
そういうことにしているだけだ。
ひごろからサッカーずきを公言してきたおかげで、
Wカップ期間中のわたしは いそがしいスケジュールだと
まわりがおもってくれている。
ほんとうは、ほとんどが録画観戦なのだけど、
おことばにあまえ、Wカップづかれでぐったりなサポーター役をさせてもらっている。
なかには「やっとおわってホッとしたでしょ〜」みたいなことをいうひともいて、
なんだかほんとにそんな気がしてきた。

それにしても、サッカーのカレンダーはうごきをとめることがない。
話題はもはやWカップの総括ではなく、
つぎの代表監督についてやJリーグの再開だ。
まさかこんなにはやく「なかったこと」にされるとは。
わたしとしては、ほんとうにWカップづかれなのかどうかはべつにしても、
4年にいちどのイベントなのだから、もうしばらく余韻にひたっていたい。
あっけなく日本代表がグループリーグで敗退してしまったので、
なんだかおわった気になれない。

水泳がうまくいかないのも、
じゃがいもをゆですぎてしまったことも、
みんなWカップボケということにする。
連休や年末年始休暇とおなじで、
仕事だってそう簡単に意識がもどるはずはない。
4年にいちどのことだから、これぐらいの後遺症はおおめにみてもらおう。

posted by カルピス at 21:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月20日

『ツリーハウス』角田光代による 壮大でかるい家族小説

『ツリーハウス』(角田光代・文春文庫)

本のまんなかくらいでわたしはやっと気づいた。
これは大河小説だ。
でも、それにしてはずいぶんかるい。
昭和初期から平成にかけて、日本社会のうごきを背景に、
ある日本人家族のうつりかわりをたどる。
ものがたりがすごく地味にはじまり、
とてもそんなおおきな小説とはおもえなかったので、
さほど期待せず、なんとなくよみすすめていた。

20代の青年、良嗣の家は、祖父の代から「翡翠飯店」をいとなんでいる。
家で療養中だった祖父がある日なくなり、
そのせいか祖母はすっかりげんきをなくしてしまった。
口をひらけば「帰りたい」という。
ボケたのかと良嗣は心配したけど、もしかしたら
祖母がわかいころすごした満州へ
かえりたいといっていのかもしれないとおもいついた。
祖母はそこで祖父とであい、戦争がおわってから日本にひきあげてきたという。
良嗣は旧満州への旅をおもいつき、祖母をさそって大連へと出発する。

ものがたりは、旧満州をおとずれた良嗣と祖母のうごき、
そして祖父と祖母が満州でスタートさせた藤代家の家族史と、
ふたつの時間軸でかたられていく。
満州からひきあげると、祖父たちは東京で「翡翠飯店」をはじめる。
日本の経済成長にものっかって、
店はなんとかたべていけるくらいに繁盛する。
まずしい生活ながら、やがて家にテレビがはいり、
世間では浅間山荘事件事件がおき、
茶の間でピンクレディーのものまねをする。
時代の波にもまれながら
藤代家の3世代は成長し、家族をつくり 子をそだててゆく。
昭和から平成へと、ときがうつっても、家族のひとりひとりが、
お約束のようにまえの世代がたどってきた歴史をくりかえす。

良嗣は、自分の家がまわりとはどこかちがう へんな家族であることをかんじていた。
仕事をやめてもとくになにかいわれるわけでもないし、
ひきこもりのおじの存在も、なんとなくみとめられている。
旧満州をたずねたことで、良嗣は祖父母だけでなく、
両親についてもすこしずつしるようになる。
母が一流大学を卒業していたこと、
父はマンガ家をめざしていたこと、
ふたりが恋愛結婚だったこと、
ひきこもりのおじがむかしは教師だったこと。
家族間のむすびつきがつよいとか、
おたがいがあいてをおもいやってくらしているとか、
そんなきれいごとはいっさいなくても、
これはこれでわるくない 家族のありかたに良嗣はおもえてくる。

たかい理想にむけてつきすすんでいるひとたちではない。
親世代は自分たちがにげてばかりいたやましさがあるし、
子どもたちにしても、仕事にやる気がなかったり、
学生運動にかかわったり、仕事をしないで自分さがしをしたり、
ろくでもない男にひっかかったりと、
まともなのがいないのに、「翡翠飯店」には不思議な求心力がある。
店が繁盛しているうちはなんとかなるし、
かたむいたとしても、「翡翠飯店」はすがたをかえて再スタートする。
家族のむすびつきについてかかれているわけではないのに、
全体としては家族小説というよりない。

477ページと、けしてうすくはないが、
70年にわたるものがたりなのだから、
角田さんはもっと壮大な大河小説にすることもできたはずだ。
もったいないような気もするけど、
豊富な材料を角田さんらしく料理して
おもくなりすぎないようにしあげたとみるべきだろうか。
藤代家の歴史を淡々とおいながら、
さいごまでおもしろくよませる角田さんのちからに いつもながら感心する。
日本の近代史でもあり、藤代家の家族史でもあり、
家族とはなにかについてかんがえる本でもあった。

家族とはなにか。
もちろんこたえなんかない。
なにかの目的のためにあつまった集団ではないのだから
どんなかたちでもいいといえる。
藤代家の方向性は祖父たちがしめした。
根となるものなどもたなくてもいい。
自分のことしかかんがえないときがあってもいい。
いきあたりばったりでもいい。
それでもバラバラにならなかったのは、
祖父たちの世界観がおおきな影響をあたえている。
にげてばかりでも、ひとのやくにたたなくてもいい。
ただ生きていければ、それでいい。

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2014年07月19日

うすい食パンにバターをぬるようになった理由

朝ごはんのトーストにたっぷりバターをぬる。
マーガリンでなく、こうやってバターをつかうようになったのは、
『羊をめぐる冒険』の影響からだ。
「僕」と共同経営者とのやりとりで、
マーガリンの広告をつくりながら、
じっさいはマーガリンなんてたべない自分たちは不誠実ではないか、
と共同経営者が疑問をなげかける。

「君はこの何年かマーガリンを食べたことなんてあるのか?」
「ないよ。マーガリンは嫌いなんだ」
「俺もないよ(中略)」
「マーガリンは健康にいいよ。
植物性脂肪だし、コレステロールも少ない。
成人病になりにくいし、最近は味だって悪くない。
安いし、日もちがする」
「じゃあ自分で食べろよ」

からだによくて(当時はそれがマーガリンについての一般的な認識だった)
かんたんにパンにぬれるからといって、
マーガリンをえらぶことはない。
たとえすこしぐらい値段がたかかったとしても、
バターのほうがずっとおいしいのだから、
マーガリンなんかで妥協してはいけないのだ。

バターを意識するようになったのは、
アーサー=ランサムの『ツバメ号とアマゾン号』シリーズにしょっちゅうでてくる
「バタつきパン」からだ。
ちょっとしたおやつとして、お姉さんのスーザンがササッとつくってくれる。
このシリーズは、まるで空腹状態をおそれるみたいに、
なにをするにもまずなにかをおなかにいれてからだ。
わたしの記憶では(このごろまったくあてにならないけど)、
バタつきパンとお茶がおやつの基本形だったようにおもう。
わざわざ「バタつきパン」とかいてあるくらいだから、
パンとお茶だけではだめで、パンにバターをつけるのは
たとえおやつとしてもまもらなければならない
最低限のお約束だったのではないか。
『ツバメ号とアマゾン号』により、バターをうけいれる下地ができていたので、
『羊をめぐる冒険』の会話にすぐさま反応したのかもしれない。

トーストを、あつぎりからうすい食パンにかえたのは
景山民夫さんの影響だ。
モーニングセットなどによくある
ぶあつい食パンをつよく否定されていたので、
わたしもそれ以来8枚ぎりのうすい食パンにした。
あつぎりのパンは、お得感があってきらいではなかったけど、
カリカリのうすい食パンのほうがかっこいいと自分にいいきかせる。
なんだかひとの影響をうけてばかりいるみたいだ。

ほかにもおぼえていないだけで、
わたしがよりどころとしている生活スタイルのでどころは
ほんのちょっとした会話や本というケースがおおいのではないか。
でもまあ、自分のおもいこみだけで、あるいは値段がやすいからといって、
かたくなにマーガリンを愛用しつづけるほうが、
かえってめんどくさい人間のような気がする。
べつに村上春樹の本にかかれていることを、
すべてとりいれているわけではなく、
自分にあった部分を適当にアレンジしてくみあわせたのが
わたしという人間なのだ。
それは、ある意味で、わたしの無意識に気づかせてくれたのであり、
たとえ正面きってつよく主張されても、
自分の美意識にそわなければうけいれたりしないだろう。
うすい食パンへの改宗も、どこかで下地がならされていたのだ、きっと。

posted by カルピス at 17:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 村上春樹 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月18日

わたしのすきな旅もの

すきな本がいろいろあるなかで、ざっとひとくくりにすると、
わたしは旅行についての本に とくにひかれることがわかってきた。
小説であっても、なかに旅だちにかんする記述があればうれしくなる。
きっと、旅ものにひめられている 自由な精神がすきだからだ。

かんたんに外国へでかけられる時代とはいえ、
だれもがよみごたえのある旅行記をかけるわけではない。
こなれた文章であるかどうかだけでなく、
なにを目的とし、どんな計画と準備でのぞみ、旅行中なにをかんじたか。
旅行記にはかいたひとのすべてがあらわれる。
おもしろい旅行記は、いつだって貴重品だ。

これまでによんだ旅行についての本から、
ベスト10をあげてみた。
旅行といっても、探検だったり純粋に旅行記だったりと、
いろんなジャンルにわかれる。
自転車がすきなわたしとしては、自転車だけでひとつの部門をつくりたくなった。
それぞれの本に寸評をいれるつもりだったけど、
きりがないのでやめた。

【探検・冒険記】
・『モゴール族探検記』(梅棹忠夫 岩波新書)
・『青春を山に賭けて』(植村直己 文春文庫)
・『奥アジア冒険5600キロ』(リチャード=クレーン 心交社)
・『幻獣ムベンベを追え』(高野秀行 集英社文庫)

【旅行記】
・『遠い太鼓』(村上春樹 講談社)
・『マグレブから見たまるい空』(ガリンペイロ修蔵 東京図書出版会)
・『チャリンコ日本一周記』(川西文 連合出版)

【その他】
・『地雷を踏んだらサヨウナラ』(一ノ瀬泰造 講談社文庫)
 この本が旅行記でないことくらいわかっているけれど、
 精神の自由さにおいて タイゾーさんをはずすわけにはいかない。

・『わしらはあやしい探検隊』(椎名誠 角川文庫)
 これぐらい純粋な野外活動ものはない。
 キャンプを目的に、大荷物をかついで海や山へでかけてゆく。
 テントよりも天幕ということばのにあう、椎名誠の原点。
 
・『野宿入門』(かとうちあき 草思社)
 わたしにとってはこの本もりっぱな旅行ものだ。
 ある意味では「あやしい探検隊」よりも、もっと純度がたかい。
 なにしろこっちは野宿が目的で、つまりそとでねむれればよい。
 とおくへでかける必要はないし、ありあわせのものですませることに
 野宿のだいごみがある。

すきな本の傾向としては、あまり周到に準備されたものより、
ある程度いきあたりばったりの旅にわたしはよわいみたいだ。
影響をうけたというか、水はひくいところにながれたといおうか、
これらの本を参考に、わたしもあまりさきのことをかんがえないで生きてきた。

posted by カルピス at 22:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月17日

沖倉利津子さんの「セッチシリーズ」へのおもいで

きのうの朝日新聞に 女子野球についての記事がのった。
高校を卒業したあとで、元球児たちが
どのように野球にかかわっているかを紹介する連載だ。
4回目のきのうは、女子硬式野球の指導者である
田村知佳さんがとりあげらえた。
田村さんは、中学生のときには少年野球チーム、
高校時代は男子部員といっしょに硬式野球部ですごされている。
高校生のころは、まだ女子だけの硬式野球部がなかったのだ。

わたしがこの記事でおもいだしたのは、高校に野球部がなくて、
かわりにソフトボールをじめたセッチという女の子だ。
セッチだけでなく、そうするしかなかった女の子は たくさんいたのではないか。
セッチは、沖倉利津子さんが別冊マーガレットに連載していたシリーズの主人公で、
中学時代は男の子たちのチームにまじって 3番ファーストをつとめていた。
といってもなにかの大会をめざすわけではなく、
せいぜいとなり町のチームと試合をするぐらいだ。
当時は女子だけの野球チームはなく、
野球がすきな女の子は、そうやって男の子たちといっしょにあそぶしかない。
マンガのなかのこととはいえ、セッチが男の子のチームにいることは、
すこしも不自然ではなかった。
もう35年もまえのはなしだ。

なぜこの作品がつよく記憶にのこっていたのかというと、
いかにも少女マンガらしいタッチの作品がほとんどの別マにあって、
「セッチシリーズ」はあきらかに別世界をつくっていたからだ。
すきになったり すかれたり、というはなしも ときどきでてくるけど、
ストーリーのおおくは セッチがセッチらしく、
クラスのなかまたちと あそんだりなやんだりするものだ。
しいていえば、中学生時代の青春物語なのだろう。
セッチは、ちょっとかわってはいるけど、どこにでもいそうな女の子であり、
これぐらい等身大の女の子がでてくるマンガ、
とくに少女マンガは ありそうで、そうない。
ほかの作品に満載の、ありえない恋愛ばなしより、
セッチシリーズのもつ純粋さは、はるかにわたしの気もちにとどいた。

高校生のときにはじめて「セッチシリーズ」をよんだわたしは、
そのあとしばらく沖倉利津子さんの作品をおいかけることになる。
いちばんセッチらしさがでているのは『火曜日の条件』で、
内容だけでなく、タイトルもすごく気にいっている。
終業式の日(火曜日)に手わたされる通知表の成績いかんで、
海にあそびにいけるかどうかがきまる(条件)。
この作品でえがかれているのは、
小学生でも高校生でもない、この時期に特有のピュアな精神だ。
中学生には中学生だけにみえる世界があり、それを思春期ともいう。
思春期の子どもたちは、モンモンとなやみながら成長していくしかない。
そういえば『耳をすませば』も中学生が主人公で、
わたしはどうもこの時期のものがたりによわい。
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沖倉さんの作品は、それまで少女マンガらしいふつうのストーリーだったのが、
この「セッチシリーズ」で完全に一皮むける。
わたしが男のともだちにセッチをすすめても、違和感なくうけとめられたし、
本流である女の子にももちろん人気があったとおもう
(連載がつづいていたから)。
いまおもいだしても不思議なリアリティのあるシリーズで、
沖倉さんはじょうずに中学生時代の雰囲気を絵にとりこんでいた。
残念ながら、沖倉さんの作品はだんだんと掲載されなくなり、
たまにのる作品は、ファンであるわたしからみても かがやきをうしなっていった。

「セッチシリーズ」にいざなわれ、
わたしは少女マンガのふかい森にさまようことになる、というのはウソで、
わたしにとっての少女マンガは、けっきょくたいしてひろがりをもたなかった。
セッチシリーズへのつよい印象はいまものこっている。
いまの中学生にとって、セッチたちの中学時代は
おとぎばなしみたいにうつるかもしれない。
ややこしい中学生時代を彼女みたいにすごせる子はしあわせで、
わたしもまたいい夢をみさせてもらったのだろう。

posted by カルピス at 22:44 | Comment(2) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月16日

デイリーポータルZ企画「技術力の低い人が作ったロボット大集合」(通称:ヘボコン)とはなにか

デイリーポータルZに
「技術力の低い人が作ったロボット大集合」の記事がのった(石川大樹氏)。
http://portal.nifty.com/kiji/140715164618_1.htm
「技術力の低い人限定ロボコン(通称:ヘボコン)」がひらかれるのだ。
ひらたくいえば、ヘボがつくったロボットによるコンテストで、
もちよられたロボットが相撲をとり、どちらがつよいかをきめてゆくという。

ロボットサッカーやロボット相撲の大会は、ニュースで紹介されることがおおく、
そのたくみでちからづよいうごきにいつもおどろかされる。
ロボットをつくったひとたちの努力と才能は
おそろしくたかいレベルなのにちがいない。
それらの技術はたしかにとびぬけたものだろうけど、
「理科系エリートにはかなわないなー」と、
別人種たちによる特別なイベントとしてうけとめてしまい、
ふつう嫉妬やあこがれの対象にならない。

しかし、世の中はそうしたエリートばかりではなく、
99%はふつうのひとでなりたっている。
技術力がひくくても、ロボットをつくったっていいじゃないか、
とひらきなおれるひともなかにはいるのだ。
むしろ技術力がひくいほうが人間的かもしれないという発想の転換は、
まさしくデイリーポータルZの王道をゆく企画といえる。
400_image016.jpg
むきだしの基盤に牛がのっていて、
これはもしかしたら相当できるのではないか、
とおもわせるだけで、じつはただのハッタリだったり、
ただその場でひたすらまわるだけのロボットだったり、
ボンドでとりつけてあったり、
すべての接着がガムテープだったり。
なんだかもっともらしくて複雑なうごきをするものは、
ぜんぶタミヤのキットをつかってあるだけなのだそうで、
みる側は、安心してひくい技術力をわらうことができる。

「全自動スープよく振るマシーン」と名づけられたロボットは、
インスタントラーメンについている粉末スープを
あらかじめよくふっておき、とびちらないようにする機能をもつ。
しかしこの性能は、相撲といったいどこでかみあうのだろう。

この大会の趣旨は、

「技術力の低い者で集まり、技術力の低いロボットを戦わせることで
お互いの技術力の低さを確認しあい、
ぬるま湯の安心感に浸ります。その様子を観客が見ます」
となっており、技術力がないのは
残念なことではなく、むしろほこらしい特性、
そして大会参加への前提条件でもある。
大会には「マシン規定」があり、そこで堂々と
・技術的に稚拙であること
がうたわれているのだ。

もうひとつ、この大会の方向性をきめる規則として
「ハイテクノロジーペナルティ」のとりきめがある。

*遠隔操縦
*自動操縦(各種センサーの情報や時間経過、移動距離等をトリガーとしたコントロール)
*その他、審査員が高度であると認めた機能

きんじられてはいないものの、
たくみな技術にたいしてペナルティをあたえるのは、
ロボットコンテストとしてありえない規則だ。
参加者は技術力をたかめようなどと、
つまらぬよそみをせずに、安心してヘボの道をあるいていけばいい。

わたしたちは、ロボット作製だけでなく、
あまりにも専門性の壁を意識しすぎて
自分にかくされた可能性をみうしなってはなかったか。
リスペクトは大切だが、ビビることはない。
サッカーとおなじだ。
ブラジルだって1-7でまけることもあるのだから、
自由に想像力をはばたかせればよい。

「その他」として「ヤマタノオロチン」というロボットが紹介されている。
名前からもわかるように・・・、このロボットの性能をぜひたしかめてほしい。

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2014年07月15日

「本の雑誌社」へのエールとして『SF本の雑誌』『古本の雑誌』『本屋の雑誌』をかう

「本の雑誌社」がだしている3冊の本をかった。
近所の本屋さんが、「本の雑誌社コーナー」みたいなのをつくっていたので、
つい手にとってしまった。
本屋さんと本がすきなら、そしてそれらをいつまでもたのしみたいなら、
わたしがひとはだぬごうという気もちもあった。

『SF本の雑誌』
『古本の雑誌』
『本屋の雑誌』

3冊とも「別冊本の雑誌」という位置づけで、
それぞれ15・16・17号にあたる。

『SF本の雑誌』は、あまりよまないだろうとおもったけど、
他の2冊をかったのだから、と「ついで」がいだ。
えらそうにいわせてもらえば、「本の雑誌社」、ひいては
日本の出版文化を わたしがまもっているつもりでいる。
日頃はブックオフにお世話になっているくせに、
こんなときだけ調子がいいみたいだけど、半分くらいは本気だ。
まあ、この飲み屋はおれが面倒をみてるから なりたったている、と
ひとりでその気になってるよっぱらいみたいなものだ。

3冊とも、マニアックな内容なので、さほどうれるとはおもわない。
しかし、本の雑誌社としては、とりあげざるをえない企画だろう。
本ずきを自認する読者がかうしかないではないか。

『古本の雑誌』をよむと、自分で古本屋さんをはじめたくなってくる。
そんなときのために「古本屋を開業するには」という記事があり、
それによるとお店をはじめるだけでも735万円は必要なのだそうだ。
うちわけをみると、家賃が坪あたり2万円でみつもってあり、
20坪のお店なら1ヶ月で40万円になる。
それはまあ都会のはなしであり、田舎ならそんなにかからないだろう。
とはいえ、のんびり本をよんでいられるから、というかるいのりではじめると
えらいことになりそうだ。はじめることはできても、
絶対につづきそうにない。

『本屋の雑誌』は、本屋さんにまつわるすべてが話題なので、
たいへん雑多な内容となっている。
まさしく本屋についての雑誌なのだ。
407ページで1980円は、「本の雑誌」の128ページ、694円とくらべ
約3倍の実力があるとおもわれる。
いちばんいいのは、ねるまえのかるい読書としてこの本をながめることで、
いちにちがぶじにおわったやれやれな気分をひきたててくれる。
すべてが本屋についてかかれた雑誌なんて ほかにそうないだろう。

本の雑誌社は、こうした別冊や毎月の「本の雑誌」、
そしてその年のベスト10をきめる企画や、
すぐれた文庫本についての『おすすめ文庫王国』を増刊としてだしてくれる。
本の雑誌社がなければ、わたしの読書生活はどれだけあじけないことだろう。
今回かった3冊は、自分のたのしみとともに、
本の雑誌社へのエールでもある。

posted by カルピス at 22:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本の雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月14日

『日本人を強くする』(岡田武史×白石豊)

『日本人を強くする』(岡田武史×白石豊・講談社)

だれが、どのような意図のもとに本書を企画したのかについて
なにも説明がない不思議な本だ。
Wカップ南アフリカ大会にむけて、
岡田さんがなにをかんがえ、どうチームをマネージメントしたのか、
ふたりの対話が 時間の経過にそってならべられている。
読者にあたえられている情報は、
白石さんがメンタルトレーニングの専門家で、
岡田さんは日本代表の前監督という経歴だけだ。
「はじめに」もなければ「おわりに」もない。
それでいて、これまでによんだサッカー本とはまったくちがうおもしろさだった。
しいていえば、これはタイトルどおり
「日本人を強くする」ための本なのかもしれない。

スポーツものでよくあるのが、選手にまつわる「ドラマ」をひろいあげ
おどろきや感動、そして涙をさそう、というやり方だ。
しかし、この本は選手たちの個人的なおもいについて まったくふれられていない。
岡田さんはチームをつよくすることだけをかんがえ、
私情をまったくもちこまない。

岡田さんといえば、南ア大会のときにベスト4を目的にあげ、
あまりにも無謀とおもえる目標設定に
日本中からひんしゅくをかったことをおもいだす。
わたしもまた岡田さんにあまりいい感情をもっていなかった。
ブスッとした表情でベンチにすわり、あかるさがない。
どの国と対戦してもおなじようによわく、
いったいなにがやりたいのかわからない。
本番の南ア大会では、直前になって守備的な戦術にきりかえ、
ベスト16という結果はのこしたものの、
それまでにめざしていた攻撃的なサッカーを封印したもので、
不完全燃焼なおもいがきえなかった。

しかし、この本をよむと、
いちばんたたかったのは岡田さんとゆうことがよくわかる。
岡田さんは、日本人が、どうやったら外国チームにかてるかを
とことんかんがえぬいた。
ベスト4を岡田さんは本気でめざし、選手たちにもその意識をひろげている。

岡田さんでさえ、はじめは外国の選手たちに個ではかてないときめつけていた。

「1対1の練習をしてもそんなにすぐには(世界との差は)埋まらないですよ。
何十年とかかるだろうと思います。
だから、他国にないチームコンセプトや戦術で
日本人はカバーしなければならないという風に僕らは考えています。
はっきり云って、フィジカル以外にも、ものすごく差があるんですよ・・・」

白石さんは

「(ほかの競技では世界とわたりあっているのに)
日本のサッカーの方たちは、最初から個では勝てっこないと言っているようで、
私としてはちょっとさびしい気がするわけです」
「自分や自分たちの可能性を制限する誤った思い込みだと思います。
岡田さんと日本サッカー界もこのワナにはまっていたのではないでしょうか」

と岡田さんをたきつける。

岡田さんは、白石さんとの このやりとりからはっきりかわった。
外国の選手や監督とくらべられ、はじめからかないっこないときめつけられるのが
くやしくてしかたがない、というようになる。
ベスト4の目標設定は、白石さんから背中をおされたことが
ひとつのきっかけになっている。

南ア大会ではベスト16にのこったものの、
守備的だったサッカーが手ばなしで評価されたわけではない。
しかし、今回のブラジル大会であきらかになったのは、
サッカーが攻撃だけの時間ではなりたたないことだ。
かちのこったチームは どこも攻守のきりかえがはやい。
まもって、せめるのを連続でくりかえすのは、
いまやどのチームでも常識となった。
今回の大会で、もし日本が南アのときみたいな戦術をとったとしたら、
守備的だからという理由だけではけして否定されなかっただろう。
そして、日本らしいサッカーという「目標」も、
幻想であることがはっきりした。
その国のスタイルは、ながい時間をかけ、ああでもない、こうでもないと、
工夫しつづけた結果として 手にいれるものであり、
はじめからはっきりした形をめざすものではない。

本のさいごに、東日本大震災でボランティアにでかけた体験を
岡田さんがかたっている。
岡田さんは、震災があったにもかかわらず、政治家や企業人の意識が
なにもかわってないことにおどろき、ある会議のなかでこうはなしている。

「すみません。ちょっと言わせてもらいたいんですけど、
うちでは原発事故以来、一度も床暖房入れてませんし、
玄関の電気もつけてません。
でも、大丈夫ですし、平気です。
それくらいのことはみんなできますよ。
ないならないで、どうにかしようというのが
これからの時代なんじゃないですか。
それを前に戻すのは違うんじゃないですか」

岡田さんはすばらしい常識家だ。
サッカーをつよくしたいという気もちだけでは、
人間としてバランスがわるい。
サッカーへの熱意と、こうした常識をあわせもち
それを発言できるのが岡田さんのつよさだ。
私欲もなく、まわりの人間が協力したくなるおおきさをもつ。
岡田さんは、日本人の典型みたいな顔をしている。
岡田さんの内面もまた、日本人の典型だと自慢したくなった。

posted by カルピス at 23:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月13日

『赤めだか』(立川談春)談春と談志、そして落語の魅力がいっぱい

『赤めだか』(立川談春・扶桑社)

この本の評判はきいていた。
でも、立川談志のもとに弟子いりしたわかものの苦労ばなし、
なんてきくと、つい敬遠していた。
よみはじめるとめちゃくちゃおもしろい。
立川談春は、中学を卒業すると談志に弟子いりをねがいでる。
第一話の題名は
「『これはやめとくか』と談志は云った」
となっているので、
談春の弟子いりをことわるはなしかとおもったら、ちがった。

談志がシチューののこりにいろんなものをぶちこんで、
カレーをつくるという。
「坊やなんか調味料ねェか。納豆のタレ?入れちまえ。
ケチャプとウスター、中濃ソースだろ。ちょっと甘味が足りねェな。
その黒豆よこせ、つゆを入れよう。
あれ、甘くなり過ぎたな。トウバンジャン出せ。
隣にあるのはなんだ?オイスターソース?持ってこい」(中略)
「談志は、かまぼこを手にとって考えている。
頼むからやめてと念じている気配を感じたのか、談志が振り向いた。
『これはやめとくか』と云って笑った」

「これはやめとくか」は、このときのはなしだった。

意外にも、そのカレーおいしかったそうだ。
おかわりをもとめる談春に、談志がいったことばがすごい。
「坊や、よく覚えとけ、
世の中のもの全て人間が作ったもんだ。
人間が作った世の中、人間にこわせないものはないんだ」

落語の世界は師匠が絶対というきびしい世界で、
前座は虫けらみたいなもの。二ツ目でやっと人間あつかいをしてもらえる。
わたしならほかの師匠をえらぶことはあっても
絶対に談志の門だけはたたかないだろう。
「修業とは矛盾に耐えることだ」と談志はいう。

「二階のベランダ側の窓の桟が汚れている、きれいにしろ。
葉書出しとけ。スーパーで牛乳買ってこい。
庭のつづじの花がしぼんで汚ねぇ、むしっちまえ。
留守の間に隣の家に宅急便が届いている、もらってこい。
枕カバー替えとけ。
事務所に電話して、この間の仕事のギャラ確認しとけ。
シャワーの出が良くない上にお湯がぬるい。
原因を調べて直せ。
どうしてもお前達で直せないなら職人を呼ぶことを許すが、
金は使うな」(中略)

弟子たちは談志のプレッシャーにビビりまくり、
いわれた仕事をなんとかこなそうとパニックになる。
「金魚にエサやっとけ。麸がある場所はわかるな」
といわれた談秋(談春の兄弟弟子)は、
パニックから麸を1本まるごと水がめにいれていた。
麩の中で金魚がピクピクとおぼれている。
談志(イエモト)が
「談秋、金魚はそんなに喰わねェだろ」
にわらってしまった。

談志はよく「落語とは人間の業の肯定である」といっている。

「人間は寝ちゃいけない状況でも、眠きゃ寝る。
酒を飲んじゃいけないと、わかっていてもつい飲んじゃう。
夏休みの宿題は計画的にやった方があとで楽だとわかっていても、
そうはいかない。八月末になって家族中が慌てだす。
それを認めてやるのが落語だ。(中略)
努力して皆偉くなるんなら誰も苦労はしない。
努力したけど偉くならないから寄席に来てるんだ。
『落語とは人間の業の肯定である』。よく覚えておきな」

「人間の業の肯定」といいながら、
これだけきびしく弟子たちをきたえなければ
落語はできないのだから、たいへんな世界だ。

落語の世界は、とにかく挨拶ができなければ
どうにもならないのが印象にのこる。
ただ頭をさげるだけでなく、状況にふさわしい挨拶だ。
間をおいてはいけないこともおおい。
とにかくじっさいに足をはこぶこと。

「終わったらその足で、談志(イエモト)の家に向かい、
教わったことを報告した」

といったかんじで、本のなかでやたらと「挨拶」しており、
いわれてみると、いつの時代でもきちんとした挨拶はうつくしい。

談志と落語界にきたえられ、
談春はやがて二ツ目、そして真打へとそだってゆく。
師匠が絶対というめちゃくちゃな落語界のしきたりは、
落語という文化をうけついでいくために
必要なシステムでもあった。
この本は、体験したものでないとかけないそのむちゃぶりと、
伝統にうらうちされた落語の魅力をつたえている。
そして、パターン化したイメージでうけとめられやすい立川談志について、
別のみかたができる本でもある。
談志がそだてた落語家たちには、談志一門ならではのスジがとおっている。
談志でなければはたせなかった役割だろう。

posted by カルピス at 17:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月12日

ピピが放課後等デイサービスの営業をはじめて丸2年

わたしの職場である「ピピ」が、営業をはじめて丸2年たった。
ピピは放課後等デイサービスを提供する介護事業所で、
県に事業申請がみとめられた2年まえの7月から営業をはじめている。
障害をもった子の放課後を支援するのがおもな業務内容で、
夏やすみなどの長期休暇には、朝から利用できる。

「障害をもった子」といっても、特別支援学校だけが対象ではなく、
普通学級にかよいながら、なんとなく
クラスや学童保育になじめない子どもたちも ピピで放課後をすごしている。
国の政策として運用されているサービスなので、
だれでもというわけにはいかないが、
福祉手帳をもっていなくても、つまり障害名がなくても、
療育が必要とみとめられれば利用できるので、
つかいやすいサービスといえる。

わたしたちがめざすのは、たのしい放課後だ。
具体的には、ピピでおやつをたべたりあそんだりしてすごすわけだけど、
おとなの都合やたてまえによる指導・訓練の場所ではないし、
もちろん学校の延長線上の機能をはたすわけでもない。
たのしいはずの放課後が、退屈で空白な時間にならないように、
「あーおもしろかった」と子どもたちが満足してすごせる場であること。
子どもたちは、自分が個人としてみとめられていることをかんじると、
安心して自分たちの世界をひろげていく。

とはいえ、営業をはじめた2年前の夏やすみは、
利用者がいちにちに1〜3人ほどで、
なかにはゼロの日もなんにちかある さびしいものだった。
これではもちろん採算がとれないわけで、
そのあとすこしずつ利用がふえていったものの、
けっきょく1年目の年度はひどい赤字におわり、
わずかな給料しかはらえなかった。
かざむきがかわってきたのは2年目からで、
障害特性に配慮した支援内容がすこしずつみとめられて
「ピピでないと」、という子どもたちが利用してくれるようになった。

3年目となる今年の夏やすみは、
どうしたら利用者数を 平均12人以下におさえられるかと 苦労している。
ピピの定員は1日あたり10名となっており、
規則によると3ヶ月の平均が12.5人をこえてはならない。
夏やすみがおわってからの平均人数もかんがえなければならず、
わたしにはむつかしすぎる算数なので、なげだしてしまった。
これ以上、利用をふやせない状況なのはたしかだ。

市内には、ピピとおなじサービスを提供している事業所が10ヶ所あり、
なかには第2、第3の事業所をひらいているところもある。
あたらしく事業をはじめようとしたときに
あまり設備投資がいらないし、わりと採算ベースにのせやすいことから、
たった3年のあいだに乱立ぎみの状態になってしまった。
先日よんだ『医療にたかるな』のように、必要ないひとまでサービスをつかっていると、
きわめてちかい将来に財源は破綻するだろう。
老人介護がたちゆかなくなったときに、3年前まではなかったサービスが
どこまで必要性をみとめられるかについて、あまり楽観的になれない。
いまは需要があるからといって、ピピの第2営業所をひらくのはためらわれる。

ピピの母体はNPO法人であり、民間の事業所としてかんがえたいのは、
福祉施策からはなれたサービスだ。
町づくりやひとづくりに、採算をもとめながらピピがかわること。
放課後等デイサービスとしての充実は必要だけど、
そればかりではさきゆきがあまりたのしくない。
「あーおもしろかった」を自分にももとめていきたい。

posted by カルピス at 18:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 児童デイサービス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする