2014年08月31日

水郷祭(花火大会)へ 追加分の3000発はどこへいったのか

8月9・10日に予定されていた水郷祭(花火大会)が、
台風のため中止となった。
20数年の歴史ではじめてということだ。
しかし、ただとりやめでは残念という声がおおく、
きのう(30日)をふりかえ日として もういちど準備がすすめられた。
配偶者とふたりで、県立美術館うらの宍道湖岸へでかける。

開催日を変更するのは、いろいろとうちあわせが大変なようで、
花火師との日程調整や交通機関の整理だけでなく、
テキ屋さんの組合とも はなしあわなければならないそうだ。
そうしてむかえた2度めの開催日は、さいわいおだやかな天気となり、
会場はおおぜいのお客でにぎわった。

いつもだと2日にわけて9000発なのが、
今回は1日だけで9000発全部の花火をうちあげるという。
みるほうも、うちあげるほうも、いそがしくてたいへんなのでは、と
9000発の迫力をたのしみにしていたけど、
じっさいに体験してみると、正直なところ
いつもの年とたいしてかわらないような気がした。
それでは、余分に、というか、追加してうちあげられたはずの
3000発はどこへいったのだろう。
9000発も6000発も、体感的にはかわらないということなのか。
ある数をこえると、それ以上は6000も9000もいっしょ、というのは
あんがい花火業界だけにしられた秘密だったりして。
それにしても、いつもより5割ましの本数だ。
その差がわからないとは、わたしの感覚は
そうとうおおざっぱでしかないのだろうか。

わたしたちのとなりには、
4人づれの家族(夫婦と2人の子ども)がすわっていた。
子どもたちがたちあがって花火をみようとすると、
お父さんが「うしろのひとがみえないよ」と注意してくれるし、
おおきな花火があがったときには
興奮した子どもたちが「おおきい!」「スゲー!」と
手をたたきながらおおよろこびしてくれるので、
そばにいるわたしまで 花火のたのしさをわけてもらえた。

いっぽう、そのまえにいたお母さんと2人の子どもというべつの家族は、
お母さんがしきりにスマホで花火をうつしている。
記念に1枚、というのならわかるけど、
ずーーーーっと、花火にスマホをむけているから
わたしとしては 気になってしかたがない。
お母さんのとなりでは、子どももまたケータイで花火をうつしている。
ちかごろではめずらしくない風景とはいえ、
せっかく花火をみにきてるのだから、自分の目でたのしめばいいのにと
どうしてもおもってしまう。

なんてことを、わたしは暗闇のなかでメモをとりだし
わすれないうちにかきこんでるのだから、
これもまた花火にはあわない へんな風景なのだろう。
こういう場所では、ほかのひとのマナーが気になりやすい。
気分よく花火をたのしむには、まわりの雰囲気も大切なのだ。
とはいえ、9000発の花火を もしひとりでみたとしたら
それはそれで、まったくおもしろくないにきまっている。

予定どおり、1時間ちょうどで花火はすべてうちあがった。
おわったのがわかったとたん、
すごいスピードで観客たちはかえりみちにいそぐ。
花火の余韻をたのしむという風情はなく、
あまりのきりかえのはやさにおどろいてしまった。
このところすずしい日がつづいており、この日の気温も26〜27℃と、
花火をたのしむには「夏」の気配がものたりない。
あすも、あさっても、まだこれからずっと夏がつづく、という時期の花火とは
あきらかにみる側のこころがまえが ちがっていた。
もうこれで夏がすべておわったみたいな かえりじたくのはやさだ。
8月30日は、まだ8月とはいえ、
おおくのひとの意識で すでに夏はおわりかけており、
花火の終了がそれを決定づけたようにみえた。
延期による8月30日の花火は、
夏のおわりをつげる すごくわかりやすいイベントとなった。

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2014年08月30日

「今日のダーリン」にあった「オフは、オンの家来じゃない」について

きのうの「ほぼ日」にのった
「今日のダーリン」について。

ひとことでいうと、
「オフは、オンの家来じゃない」というはなしだ。
といっても、これだけではさすがになんのことかわかりにくいので、もうすこしおぎなうと、
「仕事の時間をオン、プライベートな時間をオフ」と
かんたんにわけられないのでは、という疑問がきりだしてある。

(いつも感心するのだけど、糸井さんの文章は
ひとことでいえない不思議なつくりになっていて、
引用しようとしても、たいてい うまくきりとれない。
全体でひとつのかたまりをつくっており、
ある一部だけをとりだせない関係で ことばがむすばれている)

たしかに、オンとオフをはっきりわけようとすると、
いっぺんに発想がまずしくなる。
オンとオフのとりあつかいは、わたしの長年の疑問でもある。
通勤時間に音楽をきいたり外国語の勉強もできるし、
仕事を効率よくすすめるためにオフがあるわけでもない。
まさに「オフは、オンの家来じゃない」であり、
さいごにかいてある
「たいていの二元論は、互いが含まれているようにも思える」に、
結局のところおちつくような気がする。

わたしは、勤務時間はみじかいし、
通勤時間は自転車で10分ほどだし、
ツイッターもフェイスブックもやらないし、
スマホをもってないから ネットにつかう時間もそんなにおおくない。
ギリギリまでオンをへらすのに成功したようにみえるけど、
こうなるとまた、なにがオンでなにがオフなのか わからなくなってくる。

さらにいえば、友だちがすくなく、ひとづきあいもよくないので、
ケータイに連絡がはいることはほとんどなく、
もちろんメールもこない。
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』にある

「郵便受けには郵便物はひとつも入ってなかった。
留守番電話にもメッセージは入ってなかった。
誰も私には用事がないみたいだった。
結構。私も誰にも用事はないのだ」

というところがすきで、そのことと関係あるのかないのか、
この小説をよんでから20年後のわたしは、
みごとに「誰も用事がないひと」になった。

都会にすみ、2時間かけて職場にかよい、
仕事にもたいして関心がないひとにくらべると、
わたしはこれまでに膨大な時間の「オフ」をすごしたはずで、
だからそういうひとよりもずっとしあわせな人生だったか、というと
そんなこと なかなかかんたんには こたえられない。
時間の全部がオフにみえるひきこもりのひとは、
すきで家にいるなら「ひきこもり」とはいわないわけだし。

できるだけオフがたくさんある生活がいいとはいえ、
生きる充実感は、オンの質とふかくかかわってくる。
結局、オンとオフというふたつだけで
生活をわけてかんがることに無理があるのだ。
日常生活においては、
「オフは、オンの家来じゃない」ことを意識したうえで、
あんまりオンやオフをかんがえないほうがうまくいくような気がする。
かんがえないですむ生活をおくりたいとおもう。

posted by カルピス at 18:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | ほぼ日 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月29日

『サッカー批評 69号』日本はなぜ勝てなかったのか? 西部謙司さんによる日本のすすむ道

『サッカー批評 69号』(双葉社スーパームック)

Wカップブラジル大会の敗因についての特集号。
これがでるのをまっていたのだ。
新聞やネットであれこれ推測され、
つぎの代表監督まできまり、
9月の2試合にむけた23人が発表され、
なんだかすべておわったことになってしまったが、
「なぜかてなかったのか」納得のいくまとめはまだよんでいない。
コンディションがよくなかった、とか、
選手の起用が固定されすぎていた、とか、
ザッケローニ氏に代表監督の経験がないのがいけなかったのだ、とか、
敗因さがしがかまびすしいなかで、
ほんとのところ、なにがどうだったのか。
あの結果から、たしかにいえることはなにか。

いくつかの記事がのっているなかで、
いちばん納得できたのは、西部謙司さんによる
「日本の進むべき道は見えてきたか?」だ。
わたしは以前から西部さんによる解説を信頼しており、
西部さんがブラジル大会をどう総括し、
これからさきへの道すじをしめすかに関心があった。

西部さんは、元代表監督のオシムさんが
就任記者会見で発言したことばを引用し、かきだしている。

「新しい井戸を掘る前に、
古い井戸もみてみるべきだ」

これは
「まだ水が出ている井戸を放棄する必要はない。
つまり、グループリーグで敗退したからといって、
すべてを否定するのはナンセンスだ」
という意味だという。
今回とよくにた状況の8年まえ、ドイツ大会がおわった直後に
オシムさんはそんなことをかたっていたのだ。

西部さんはグループリーグでの3試合をふりかえり、
3試合目のコロンビア戦がいちばん日本らしくプレーできたという。
しかし、だからといって 手ばなしに「よかった」といえるわけではない。

「3戦目にして、ようやく日本らしい攻撃ができたわけだが、
一方で最も点差の開いた試合でもあった。
選手たちが頻繁に口にしていた『自分たちのサッカー』が実現したのに、
結果は1-4。これが次の4年間へのスタートになる。(中略)
いかに良い攻撃ができたとしても、
4失点ではゲームプランが成り立たない。
5得点というシナリオはありえないからだ。
『自分たちのサッカー』は、
Wカップでの勝利を保証するものではなく、
むしろ必敗のシナリオだったとさえいえるかもしれない」

「自分たちのサッカー」が、もしかしたら
「必敗のシナリオ」だったかもしれないなんて、
いかにも西部さんらしい刺激的な分析だ。

結局、まとめとしていえるのは
「攻撃的スタイル実践には不十分過ぎた守備力」
ということになる。
「敵陣でプレーするかぎり、
日本は攻守両面で良いプレーができるし、
強豪国とも渡り合える力を持っていた。(中略)
ところが、『自分たちのサッカー』、攻めきるサッカーで結果を出すには
カウンターに弱すぎた。
捨て身で攻撃にでたときに攻撃力が最大になるかわりに、
そのために生ずるリスクを背おいきれない。
『自分たちのサッカー』を発揮したときには
常に大量失点という結果になっていた。
本来、『自分たちのサッカー』は結果をだすためにある。
スタイルを貫いて負けるのであれば、
スタイルが間違っているということになるはずだ」

「スタイルを貫いて負けるのであれば、
スタイルが間違っているということになるはずだ」

なんてすばらしい「気づき」だろう。
しかし西部さんは「だが、そんなに単純な話でもない」と
さきをつづける。
日本にちかいタイプのメキシコ・チリ・コスタリカが
ベスト16にすすんでいるのだから、
「攻撃に関しては、日本の方向性は正しかったといえるのではないか」。

「当面の課題は攻撃力よりも守備のほうだろう。
引き続き攻撃力も上げなければならないが、
3試合6失点では多すぎる。(中略)
Wカップは失点の少ないチームが優勝する大会である。
フランス、イタリア、スペインは
いずれも7試合2失点で優勝した。(中略)
こういう相手に先制点を許したら、もう勝機はない。
日本が『自分たちのサッカー』の先に優勝があると考えているとしたら、
あまりにも非現実的といわざるをえない」

西部さんは日本がめざす方向の具体的な例として、
サンフレッチェ広島がヒントになるという。
「コンビネーション、ポゼッション、機動力といった日本の長所を含み、
深く引いて人数をかけた守備という 今大会の日本になかった一面も持っている」

むすびのことばに、西部さんはふたたびオシムさんの
「井戸」のはなしをひいている。

「日本にとって参考になるメキシコ、チリは
どちらも継続的な強化を行ってきた。
古い井戸を顧みず、
出るかどうかわからない新しい井戸を掘り始める愚は犯さないほうが
賢明ではないだろうか」

アギーレ監督による新体制は、どちらの井戸に水をもとめるだろう。
今回発表された23名の顔ぶれをみると
ふるい井戸にはあんまり関心のないひとにみえる。

posted by カルピス at 21:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月28日

まわりも自分とおなじとは かんがえない

自閉症の障害特性のひとつに感覚の特異性があり、
たとえば赤ちゃんのなき声に我慢できなかったり、
ある種の生地でできた服が皮膚にあたるのを
ひどくいやがるひとがいる。
体温調節が自分ではうまくできず、気温があがると
イライラしたり体調をくずすこともある。
ちょっとぐらい我慢したらいいのに、
とまわりはかんがえやすいけど、
本人にとっては パニックになるくらい ひどい苦痛なわけで、
そうかんたんに我慢したり なれたりはできない。

わたしは、パニックにならないまでも、
かなりの皮膚過敏症で、ちょっと汗をかいただけでいやなかんじになり、
そのつどシャワーをあびなければおちつかない。
いちにちに8回くらい汗をながすのがあたりまえで、
ひとさわがせだし、不自由なので 自分でもいやになってしまう。
自分がすこしの汗も我慢できない わがままな人間におもえてくる。

自閉症の当事者の方が、自分の感覚が どれだけまわりのひととちがうかについて
本にかいたり、講演会などではなされるようになった。
感覚の特異性でいうと、シャワーや雨の水滴をあびたときに、
まるで針にさされたようないたみをかんじるひとも おられるそうだ。
そんなときにも、自分はシャワーがいたくてたまらないのに、
まわりのひとは我慢できてえらいなー、とおもっていたという。
こういうときは、まわりを基準にかんがえやすく、
自分の感覚のほうがおかしいとおもってしまう。
まわりのひとは いわれなければわからないし、
いわれても、そうかんたんに共感できるわけではない。

千葉県の教育委員会が、学校でエアコンをつかわないことをきめたと
夏のはじめにニュースがつたえていた。
あつさを我慢するのも教育だ、みたいな趣旨だったとおもう。
これをきめたひとたちは、だれもが自分とおなじ感覚だときめつけている。
自分とはちがった感覚のひとがいることを、想像できないのだ。
自分を基準にかんがえて、ある程度までのあつさなら、
だれでも我慢できるはずだとおもいこむ。
できないひとの存在が理解できない。

まえの職場でわたしは、夏のあいだずっと半ズボンで仕事をしていた。
30代のころのはなしだ。
エアコンがない作業棟での仕事だからと、
あたりまえみたいに半ズボンをはいていたけど、
よくかんがえたら、そんなことが社会人としてよくゆるされていたものだ。
半ズボンのまま、平気で仕事関係のひとにあっていたし、
どこにでもでかけていた。
まったく非常識にもほどがある、といまではおもう。
当時の上司は、よほどできた人物だったのだろう。
いまはさすがに夏でも長ズボンをはくようになった。
それだけ夏のあつさがたいしたことなくなったから、ではなく、
夏とはいえ、おとなが半ズボンではたらくものではないと、
ようやくわたしも気づいたからだ。

さらにいえば、そのころは、アパートでかっていたネコといっしょに通勤していた。
車にネコをのせて職場へゆき、かえるときはまた車にさそう。
アパートにネコをひとりのこすのはかわいそうだから、というのが理由だった。
いまおもえば、どうしてそんなことがみとめられていたのだろう。
それだけゆるい社風であり、すぐれた上司だったことと、
それに、ネコをつれていくくらいはあたりまえだろうと、
わたしもおもいこんでいた。

よくかんがえてみると、半ズボンはともかく、
ネコといっしょの通勤は、そうめちゃくちゃでないような気がする。
それがゆるされる会社と、ゆるされない会社があれば、
ゆるしてくれるほうが断然かざとおしがよく、はたらきやすい環境だ。
グーグルにあつまるような超エリートは、そっちのほうをもとめるのではないか。

千葉県の教育委員会は、学校でのエアコンを、
わたしの半ズボンやネコ同伴出勤とおなじような
「我慢できる」わがままと とらえたのだろうか。
これだけ当事者の声がきかれるようになったにもかかわらず、
障害をもったひとのなかには、自分がかんじるより
はるかにあつさで混乱するひとがいるという 認識がかけている。

そうやって、県のトップが自分の感覚をあたりまえだとおもいこむと、
まわりにいるひとはたいへんだろう。
規則でしばろうとしても例外はかならずあり、
その例外をどうあつかうかで、組織の柔軟性がみえてくる。
自分を基準にし、まわりにもそれをもとめるかんがえ方は、
障害があってもなくても、対象となるひとをしあわせにしない。

わたしがもし部下をもったとして、
そのひとがネコをつれ、半ズボンをはいたときにどう対応するか。
もちろん状況にもよるけど、あきらかに不適切でないかぎり反対はしない。
自分には我慢できるあつさでも、エアコンを必要とするひとがいれば スイッチをいれる。いじわるだから、職場でのシャワーは3回まで、くらいはいうかもしれない。
まわりのひとも、みんな自分とおなじ感覚だと、おもいこまないほうがいい。

posted by カルピス at 22:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月27日

『楽園のカンヴァス』(原田マハ)つっこみをいれながらも、よみおえたとき すがすがしい

『楽園のカンヴァス』(原田マハ・新潮文庫)

評判はきいていた。
ブックガイド『読むのが怖いZ』では、
「こんなに急に化けるとは」と、
突然レベルアップした著者のうまさに 北上さんがおどろいている。
ほかの書評でも肯定的な感想がおおく、おもしろいのはまちがいないみたいだ。
これまでに原田マハ氏の本は2冊よんだけど、
わるくはないけど、絶讃するほどでもない、というレベルだった。
北上さんがそんなにいうなら、と
文庫本になるのをまっていた。

ものがたりのはじまりは、すごく地味だ。
美術館のしずかな展示室で、監視員をつとめる女性が
シャバンヌの作品をじっとみつめている。
仕事とはいえ、すきな絵をいくらでもみることのできるしあわせを
彼女はかみしめる。
その作品がなにをかたっているかについて、
作者との無言のやりとりをたのしむ至福の時間だ。

ある日この女性(早川織絵)が館長によばれ、
新聞社の文化事業部につとめる男性を紹介される。
その新聞社がルソーの展覧会を企画するにあたり、
目玉となる作品のかしだしをめぐって
相手のニューヨーク近代美術館が条件をつけてきたという。
ルソーの名画『夢』を日本の美術館にかしだすかどうかの交渉相手として、
チーフ=キュレーター(学芸部長)であるティム=ブラウンが、
早川を指名してきたのだ。

というのがまえふりで、ここからいっきょにものがたりがうごきだす。
ティムと早川には、まぼろしの名画をめぐり、
いっしょにすごした過去があった。

17年まえのこと、スイスにすむなぞの美術コレクターが、
ルソーの名画『夢』とよくにた作品について
ほんものかどうかをしらべてほしいと ふたりに依頼してきたのだ。
当時から、ふたりは世界でもトップレベルのルソー研究者であり、
1週間かけて絵をしらべたあとに、それぞれが結果を発表することになる。
ただ、調査の方法がかわっていて、1冊の本を1日に1章ずつよんでいき、
7日めに判断してほしいという。
絵がほんものか にせものかを きめることよりも、
どちらがすぐれた講評をおこなったかが重要であり、
依頼人であるコレクターがその優劣をきめる。
そして勝者には、その作品のとりあつかい権利がゆずられる。

じょうずに読者の関心をひき、はやくさきの展開がしりたくなる。
しかし、それとともに、わたしのレベルからいっても、
つっこみどころがおおい文章なのだ。
本をよみながら、何ヶ所にも線をひいて、かんじたことをメモする。
たとえば
「両開きの扉を、かっきり二回、シュナーゼンがノックした」
なんてかいてあると、「かっきり二回」にひっかかる。
「かっきり四回」ならわかる。
しかし、「かっきり二回」はおかしくないか。
ほかにも「あの女性の姿は、跡形もなく消えていた」などと
紋切型の表現もおおく、なにをそんなにりきんでるのかと
チャチャをいれたくなる。
文章のまずさでこんなにメモをとりながら、
それでもおもしろくよませるのだから たいしたものだ、ともいえる。

すぐれたミステリーとくらべたら
表現のつたなさとラストのツメのあまさが気になってしまい、
一流の作品とは評価できない。
おもわせぶりに顔をだしたトム=ブラウンは、
もっと意外なからみ方をしてくれると期待していたのに、
あまりにもあっけなくとおりすぎてしまった。
調査を発表するときには、一流の研究者のはずなのに
ふたりとも感情にながされて、まるであまいことをいう。
そうした残念さとリアリティのなさが目だつにもかかわらず、
構成のうまさなのか、読者のこころをつかまえてはなさない。
文句をいいながらもどんどんページをめくり、
よみおえたときは、意外なすがすがしさをおぼえるかわった本だ。

最後でかたられる「絵が、生きている」のひとことこそ、
本書のいいたかったことかもしれない。
そのために著者は構成をねり、ややこしい伏線をはった。
原田マハ氏がほんとうに化けたかどうかは、
もう1冊よんでからの判断としたい。

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2014年08月26日

新・旧2作の『華麗なるギャツビー』をみて 頭がぐちゃぐちゃになる

『グレート・ギャツビー』をよんだあと、
新・旧の『華麗なるギャツビー』(1974年・2013年製作)をつづけてみる。
原作をよんだ印象がうすれないうちに、とおもって
すぐに映画をみたのだけれど、
もともと原作のよみがあさいこともあり、
映画をみながらなんども「一時停止」をおして
本とくらべながらみてしまう。
原作と映画2本に頭がこんがらがり、なにがなんだかわからなくなってきた。
ざっとかんじたことをかいてみる。

原作に忠実なのは旧作のほうだ。
ただ、忠実なだけでは「ギャツビー」の世界がつたわってこないわけで、
本をよんでないひとがこの作品をみたら、
なんでこんなものをわざわざ映画にしたのか わからないのではないか。
それほど退屈で、原作のストーリーをなぞっただけにみえる。
ギャツビー邸での ど派手なパーティーはうまく再現されていた。
新作は旧作の10倍ぐらいおおげさになっており、
あそこまでいくとついていけない。
あれではほんとうにアミューズメントパークだ。

ディカプリオのほうの新作は、
原作に忠実なところもあるし、ずいぶんかえてしまっているところもある。
原作のイメージを独自の解釈でふくらませたといえ、
原作、というか村上春樹訳の雰囲気をつたえるのは こちらの方だろう。
原作をよんでなくてもたのしめるだろうし、
よんでいても違和感があまりなく、作品の世界にひきこまれる。
ただ、おおげさすぎる映像がときどきハナについた。
映画の技術が進歩して、なんでもできるのがかえってアダになったかんじだ。
もっとシンプルにつくればいいのに。

どちらのギャツビーも、わたしのイメージといまひとつちがっている。
レッドフォードとディカプリオとも、
ニック役のほうがむいているかんじで、
ではだれがギャツビーならいいのかについて、いい提案ができない。
ふたりともギャツビーとしては かるすぎるようにおもう。
わたしが想像するギャツビーは、もっとゴージャスな人物だ。

たのしみにしていた「オールド・スポート」は、
旧作の字幕では完全に無視されていたのにたいし、
新作では「友よ」「わが友」として、
ときどき訳されている(すべての発言についてではない)。
だいじなセリフなのだから、なかったことにするよりも、
「友よ」と形にのこした新作の訳のほうが 親切といえるだろう。
ひと夏のものがたりとしては、旧作の出来に軍配があがる。
登場人物がいつも顔に汗をうかべており、
あつくるしいロングアイランドの夏をかんじさせた。
この作品における「あつさ」は ひとつのキーポイントであり、
旧作はそれをおろそかにしなかった。
新作のリアリティは、パーティーそのものより、
パーティーがおわってからの あとかたづけにあらわれた。
あのどんちゃんはいったいなんだったのか。
にもかかわらず、ギャツビー邸の使用人たちは
テキパキとプールにおちたビンをひろい、
のみのこしの酒をバケツにあける。
おおくのことが、このように 本番よりもあとかたづけのほうで 本質をかんじさせる。

結論として、原作の再現を期待するなら
満足はしないだろうが 旧作のほうをすすめるし、
原作をよまずにみるなら新作のほうがいいとおもう。
原作にただよう「かなしさ」「はかなさ」は、
新旧2作とも、もうひとつ表現しきれていない。
もういちど本をよみかえし 確認したたほうがいいだろう。
作品で重要とおもわれるファッションと音楽については、
評価するだけの知識がわたしにはない。
どちらの作品も、主人公であるギャツビーにかけていた
ゴージャスさをたのしめた。

posted by カルピス at 11:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月25日

「第二芸術」のながれをくむ日本の写真文化

「クールジャパン」で写真をとりあげていた。
スマホやケータイで たくさんの写真をとり 保存したりはだれもがするけど、
デジタル画像をかんたんに修正したり、
マンガ化したり、背後霊をだしたりできるアプリは、
日本ならではのたのしみ方のようだ。
わたしが子どものころから、
カメラをもち、メガネをかけていたら日本人だと、自虐的にかたられていた。
それで出っ歯なら、まちがいないらしい。
あんまりだれもかれもがカメラをぶらさげているので、
カメラなんてもたずに旅行すべきだ、などという見当ちがいな意見まで口にするひともいた。
それくらい、日本人はむかしからカメラ、つまり写真がだいすきで、
その後も日本人の写真ずきは独自の進化をとげ、
ついには世界的にも例をみない文化へと発展させてきた。

番組のご意見番は荒俣宏さんだ。
荒俣さんは、日本人の写真ずきについて、俳句を例に説明される。
わたしたちの祖先は写真が一般的な文化になるまえに、
俳句をたしなむ体験をもっている。
プロや 一流のレベルにあるひとの作品を鑑賞するだけでなく、
おおくのひとが 自分でも俳句や浄瑠璃をたのしんできたのだ。
その延長線に写真があり、さらにいえばブログがある。
日本人は、そうやって自分も当事者としてあそぶのがすきで、
すきだからますますその方向へ文化が発展した。
日本人にとって、俳句も写真も「あそび」でくくることができる、
というのが荒俣さんのとらえ方だ。

ブログについていえば、世界でいちばんおおいのは、
英語でも中国語でもなく、日本語によるブログらしい。
日本人は歳をとったからといって
文化的ないとなみをあきらめたりしない。
技術のたかい・ひくいや年齢に関係なく、
だれもが好奇心をもっていて、自分もあそんでしまうのが 日本的なたのしみ方だ。
そういえば、カラオケもそうだった。
プロの歌手がうたうのをきいて満足するだけでなく、
自分でもうたったほうがたのしい。
写真と俳句がひとつのながれとすれば、
カラオケは浄瑠璃の発展形だろう。
日本の文化がいかに大衆的かをあらわしている。

俳句について、桑原武夫氏が論文『第二芸術』で論争をひきおこしている。
俳句はだれがつくってもたいしたちがいはなく、
1流の芸術というよりも、2級の芸術として区別したほうがいい、
という挑発的な内容だ。
俳句のよさがまったくわからないわたしは、
桑原氏の大胆な発言に溜飲をさげたのだけど、
梅棹忠夫氏は、まったくべつの角度から
「第二芸術」でいいんだ、と俳句を肯定している。
「第一芸術」、つまり美術や文学などの一流の芸術はどこの国にもある。
ないのはむしろ「第二芸術」のほうで、
だれもが俳句をつくってたのしめるのは、日本ならではのよさだという指摘だ。
外国へいくと、公園でボーっとしている老人をよくみかけるのに、
日本の老人はせっせと俳句をよみ、盆栽をそだて、
歳をとっても文化的な活動にいそしんでいるのは
すばらしいことではないか、と梅棹さんはいう。

梅棹さんの「知的生産」は、本をよんだり芸術を鑑賞したりという 消費活動だけではなく、
自分からも情報をどんどん発信しようというものだろう。
自分で発信したほうがおもしろいし、その伝統が日本には蓄積されている。
発信したからといって、そのみかえりをもとめないのが日本的なつきあい方で、
「あーおもしろかった」でいいではないか、というのが梅棹流だ。
そのためにはどうしたら効果的に生産がおこなえるかの問題を、
技術的にととのえる。
こうやって のらりくらりと毎日ブログをかくのも、世界的にみれば
いかにも日本的なたのしみ方なのだろう。
自分では俳句などとぜんぜんちがったことをしているつもりでも、
歴史的なながれをみると、まったくおなじ価値観にそっているのが
すごいというか、残念というか。

posted by カルピス at 21:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月24日

むすこが東京へあそびにいく。わが家の変化のはじまりを予感する

お盆に姉の家族が東京からやってきた。
自動車の免許をとりたての甥が、いま車にのりたくてしかたがないそうで、
広島でレンタカーをかり、彼の運転で島根までやってきたのだ。

むすこはその甥とまえから仲がよく、
夏やすみちゅうに東京へ あそびにいくはなしがまとまったようだ。
むすこにとってはじめてのひとり旅であり、はじめての東京だ。
高校2年生なのだから、東京くらいひとりでいけたほうがいいし、
いけばいい経験になるだろう。
むこうにつけば大学生のいとこがいるのだから、
親としてもそう心配ではない。

で、きのうの朝はやく、むすこは電車にのってでかけていった。
東京で3泊し、火曜日にかえってくる予定だ。
あとにのこるのは、わたしと配偶者、それにわたしの母親の3人となる。
むすこが高校を卒業したら、この3人だけでずっとすごすことになるのだ。
将来の日常を、すこしはやめに体験する機会となった。
いつもはむすこがいるから夕ごはんをいっしょにたべているし、
いまは夏やすみなのでわたしが彼のひるごはんをつくっている。
むすこがいなければ、食事だけをとっても
ずいぶんちがう「家族」のありかたにかわりそうだ。
配偶者はほとんどおしゃべりをしないひとなので、
夕ごはんの時間をどうやりすごせばいいか、わたしは心配になる。
さいわい(「さいわい」はひどいだろうと、自分でつっこむ)
むすこの不在ちゅう、配偶者は実家にかえってくるといい、
しずかすぎる夕ごはんは回避されることとなった。
しかし、はやければ2年さきに むすこがいない生活になるわけで、
ほんの3日間、コミュニケーションを心配すればいいのとはわけがちがう。
子どもがおおきくなると、おおくの家庭が 夫婦だけになる「問題」に
とまどうことになるのだろう。
子ばなれや親ばなれについては うまくやれているとおもっていたのに、
突然やってきた「夫婦だけ」という状況が、
これだけプレッシャーとはしらなかった。

むすこと仲のいいわたしの甥は、
来年からフィリピンへ語学留学にゆき、
そのあとはオーストラリアでのワーキングホリデーを計画しているそうだ。
将来のことなんか、これまでまったくかんがえていないようにみえたのに、
きゅうにしっかりしたことをいいだすので、おどろいてしまった。
大学生となれば、それなりに自分の将来をおもいなやむみたいだ。
むすこにも、はやく自立して家をでるようもとめている。
高校をでてすぐに就職してもいいし、
もうしばらく時間をかけてもいいけれど、
いつまでも家にいられるなんておもってほしくない。
なにもしないで家でブラブラはおことわりだ。

むすこの東京ゆきで、いまの家族形態が
あともうすこししかつづかない現実を つきつけられる。
よくいわれるように、子そだて期間より、
子どもがすだってからのほうが のこされた時間はながいわけで、
そこからはまたべつの形で家族をつづけることになる。
わたしたち夫婦もいいかげん歳をとってきたし、
それぞれの親も高齢だ。
健康しだいで くらしかたがまったくちがってくるだろう。
わが家はこれからつぎの段階に、いやおうなくすすんでいくのだ。
むすこの東京ゆきは、これがあたらしい段階へのはじまりであることをしらせてくれた。

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2014年08月23日

『グレート・ギャツビー』(スコット=フィッツジェラルド)村上さんの訳で ようやくよみおえる

『グレート・ギャツビー』(スコット=フィッツジェラルド・中央公論新社)

『グレート・ギャツビー』をよみおえる。
村上春樹氏の訳によるものだ。

お盆で配偶者の実家にいったとき、たいくつしのぎに
「ブックオフ」タイプの古本屋さんによると、
108円コーナーに『グレート・ギャツビー』がおいてあった。
まだきれいであたらしいのに108円なんて。
家にあることがわかっていても、こんな値段がついていると
かわないわけにいかない。
この本は、村上さんの訳がでたときに本屋さんでかい、
本棚にならべたままになっていた。
8年ちかく新刊をほったらかしていたのに、
古本屋におかれた108円の『グレート・ギャツビー』を
そのままにしておけなかった心理が自分でもわからない。
所有欲ではないとおもう。あえていえば、村上さんへの敬意だろうか。
村上さんがナンバーワン小説にあげているこの本を、
ちゃんとよみとおしてないことへのうしろめたさ。
その本へのスイッチが、108円ではいったのだから、やすいといえばやすい。

新潮文庫版の『華麗なるギャツビー』(野崎孝訳)は、
たしか10代のころ手にとったことがあるけれど、
ちゅうでなげだしてしまった。
ロバート=レッドフォード(映画版)の写真が表紙にのっている本だ。
わかいころ、さいごまでよみとおせなかったのは
当時のわたしの読書力からすれば、無理からぬことだっただろう。
さいわい今回は村上さんの訳にたすけられ、
おくゆきのあるものがたりとして味わうことができた。

村上春樹さんによる「訳者あとがき」がすばらしい。
村上さんは自分の小説に「あとがき」をかかないのに、
翻訳した本にはていねいな「あとがき」がのせられる。
わたしは村上さんのかいた「あとがき」がすきで
いつもたのしみにしているけれど
(村上さんによる「あとがき」をあつめたら
おもしろ本になりそうだ)、
この本にかかれた「あとがき」はそのなかでもとくに興味ぶかかった。
『グレート・ギャツビー』が村上さんにとってどんな本であったか、
翻訳するときにこころがけたこと、
フィッツジェラルドの略歴が、
ひとつのよみものとしてきれいにまとめられている。

村上さんにとって、『グレート・ギャツビー』は特別な小説なのに、
「そんなにすごい作品なんですかね?」
みたいなことをなんどもたずねられるそうだ。
そうした反応にたいし不満をかんじながらも、
この小説は、それだけ翻訳がむつかしいことを
村上さんは承知している。

「『グレート・ギャツビー』はすべての情景が
きわめて繊細に鮮やかに描写され、
すべての情念や感情がきわめて精緻に、
そして多義的に言語化された文学作品であり、
英語で一行一行丁寧に読んでいかないことには
その素晴らしさが十全に理解できない、というところも
結局はあるからだ」

しかし、だからといって原文をすすめられるほど、
『グレート・ギャツビー』はかんたんにできていない。

「空気の微妙な流れにあわせて色合いや模様やリズムを刻々と変化させていく、
その自由自在、融通無碍な美しい文体についていくのは、
正直言ってかなりの読み手でないとむずかしいだろう。
ただある程度英語ができればわかる、というランクのものではない」

やくすのはむつかしいし、原文も非常にデリケートだという。
よみ方によっては、自分(村上)の訳への自信にもうけとれ、
それをいっちゃあ、おしまいだろう、という気もするけど、
そうおもわせないのは「はじめに」のかきだしで、
60歳になったら訳そうとおもっていた、というはなしがあるからだ。
そのころには、この本を訳せるだけのちからがついているだろう、
という希望と期待。
それくらい、『グレート・ギャツビー』は
とりあつかいのむつかしい小説みたいだ。

その理由のひとつが冒頭と結末の部分をどう訳すかにあった。

「告白するなら、冒頭と結末を思うように訳す自信がなかったからこそ、
僕はこの小説の翻訳に二十年も手をつけずにきたのだ」

「極端ないい方をするなら、
僕はこの『グレート・ギャツビー』という小説を翻訳することを最終的な目標にし、
そこに焦点を合わせて、これまで翻訳家としての道を歩んできたようなものである」

また、村上さんは、ほかの翻訳と
自分のかんがえる『グレート・ギャツビー』のイメージが、
ずいぶんちがうものとして うけとめられているようにかんじていた。
だからこそ、こうして訳す機会をえたからには、
自分のイメージとしての『グレート・ギャツビー』を
読者にも体験してほしいとねがった。

「僕はこの小説について僕がこれまで個人的に抱いてきたイメージを明確にし、
その輪郭や色合いやテクスチャーをできるだけ具体的な、
触知できる文脈で読者のみなさんに差し出すことを目的として、
この翻訳をおこなった。
訳文としてはあっているけれど
どういうことなのか実質がよくつかめない、ピンと来ない、
ということは極力避けるように努めた」

ほかの翻訳とくらべることはできないが、
『グレート・ギャツビー』という小説のもつかなしさを
わたしはあじわえたとおもっている。
そのおおくは村上さんの訳のおかげではないだろうか。

映画版をくらべてみたい気はする。
レッドフォード対ディカプリオ、という意味ではなく、
新旧2つの作品は、原作のとらえかたにちがいがあるそうだから、
どんなしあがりになっているのか興味がわいてくる。
『華麗なるギャツビー』の比較は、ことしの夏のおもいでになってくれるだろう。

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2014年08月22日

『野性に生きるもの』(ジョン=ドノバン) 死がすぐそばにある世界のものがたり

『野性に生きるもの』(ジョン=ドノバン・偕成社)

赤木かん子さんの『今こそ読みたい児童文学100』に
紹介されていた本だ。

「7人の兄弟と4人の姉妹の家族が、
ニューハンプシャー州のみんなが生まれた農場で暮らしていた。
それが、いつか3人の兄弟だけになった」

なんてかわったかきだしだろう。
ささいなことで、ひとがあっけなく死んでいく。
作者は、どんな意図があって、こんなにもたやすく
ひとをころしてしまうのか。

・姉妹の中のウイニフレッドは、
 マンチェスターで車のセールスをしている男と結婚したが、
 農場をはなれてから2年とたたないうちに、子どももうまず死んだ。
・その次の年に、ジュリアとフェースが、しょう紅熱で死んだ。
・(ピアノをじょうずにひく子)エバンは卒業せずに死んだ。19歳だった。
・ジョセフは10歳のとき、ガラガラ蛇にかまれ、
 それから3日しか生きていなかった。
・モージズとレーチェルは古い納屋がやけおちたとき、その下じきになった。
・ナサニエルは猟銃で自殺した。
・そしてアモス、アブラハム、ジョンの3人だけになった。

両親はどうなったのか。

・かあさんは、ジョンが生まれたときに死んだ。
・とうさんは、かあさんが死んで3年後、猟銃で自殺した。

そして、ジョンの2人の兄も つぎつぎと死んでいく。

・つりが好きなアブラハムは、つり針が手のひらにひっかかり、
 そこがはれてきて、2日間の錯乱状態から意識はもどらずに、死んだ。
・アモスは乳しぼりのときに乳牛に胸をけられ、1日もしないうちに死んだ。
・それで、ジョンだけになった。

ひとりで生きることになったジョンは、
兄弟たちの死をあまりかなしんでいないようにみえる。
山での生活は、もともと死がすぐそばにあった。
アメリカのニューハンプシャー州が舞台なのに、
文明のおよばない まるで100年まえのアフリカみたいだ。
へびにかまれれば死ぬしかないし、牛にけられただけでも死んでしまう。
それにしてもジョン以外の、両親・兄・姉たち13人が 全員死んでしまうなんて、
作者はなんとおもいきった世界をつくったのだろう。

兄たちが死んでからも、これまでどおり日課にそってはたらくジョンのもとに、
ある日、1匹のおおきな犬がやってくる。
ジョンは犬をサンと名づけ、
農場のこと、なくなった兄弟たちのことを
サンにかたりかけるようになった。
サンとはなすうちに ジョンはかつて存在した肉親たちをおもいだし、
なぜ自分ひとりが生きのこったのかをかんがえるようになる。
身ぢかな存在である死を運命としてうけいれ、
かわききった精神で生きているようにみえるジョンも、
おおすぎる死を ただ淡々とうけいれているわけではなかった。
サンにはなしをするのは、無意識の領域にちらばっている死を
適切な場所におさめる過程で必要だった。

サンがガラガラヘビにかまれ、からだじゅうがはれあがって
いまにも息をひきとるのでは、とおもえたとき、
ジョンは「神さま!」とさけんだ。

「ジョンはどうして、声をあげてそんなことばをいう気になったのか、
自分でもわからなかった。
ジョンはいままでに、死とつきあいすぎたと思っている。
そもそも生まれるときから、それでかあさんを殺しているのだ。
死には、なじみすぎるほどなじんでいる。
この犬のために、『神さま』なんて声にだしていうのは、
やめたほうがいい。
神は生もかんたんにあたえるが、
同じように死をもかんたんにあたえてしまう。
ちくしょう、兄きや姉きがそうじゃないか、
とうさんもかあさんもそうだった。
みんな死んでしまった。
死ぬということも、生きることと同じくらい、あたりまえのことだ。
この犬も、破裂するまで、はれあがってしまうだろう。
そして死んでいくんだ。
『ちがう!そんなことがあるもんか!
サンはおれを守ろうとして、蛇にかみつかれたんだ』」

ジョンは、なき声をあげてよこたわるサンに ずっとはなしかける。
サンがいなければ、ジョンは生きるしあわせや
愛するよろこびことをしらなかったのではないか。
わたしは、なんにちも食事がとれず、やせてきたピピをひざのうえにのせて
この場面をよむ。
ピピはげんきになってくれるだろうか。
この本をよんでいるあいだじゅう、死がすぐそこにある。
なにかのはずみで死んでいくのが、しかたのない世界だ。
現代的な医療にたすけられないかぎり、
ひとはいまでもかんたんに死んでしまうし、
動物たちはもっとリアルに死ととなりあわせで生きている。
ピピの運命もわたしの生も、自分ではきめられないところにある。

生がほとんんど価値をもたなかったサンのくらしに、
サンがくわわることで活気がうまれる。
それまでなんとおもわなかった死を、ジョンはうけいれられなくなっている。
しかし、だから以前のくらしは不幸だった、と
いいきれないのがこの本のかわったところだ。
ひとが死んでいきながら、ジョンはあんがいこころやすらかに生きていた。
ジョンは、大家族でくらしていたころの記憶がほとんどのこっておらず、
家族がだんだんと死んでいくのを当然のようにうけとめてきた。
家族が死んだから不幸だと、ジョンはおもっていない。
サンがくるまえも、きてからも、
そして自分がこの世をさることになっても、
ジョンの精神にほとんどなみかぜはたたないようにみえる。
タイトルの『野性に生きるもの』は、
野性とともにあろうとする ジョンとサンの、生きる姿勢をあらわしている。

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2014年08月21日

「メッシよりはよくうごく支援者」としてのデビュー

『本の雑誌9月号』の編集後記で杉江さんが
「営業中もメッシよりは動いています」
とかいている。
うまい。
わたしも「メッシよりはよくうごく支援者」としてうりだしたくなった。

Wカップがおわってまだ1ヶ月しかたたないのに、
Wカップネタはすごくふるいはなしにおもえる。
それでもいま日本中(もしかしたら世界中?)の
あまり身がるにうごくタイプではない労働者が、
「メッシよりは」をいいわけにしているのではないかと想像する。
もちろん腰のおもいひとより、
すぐにうごいてくれるひとのほうが
いっしょに仕事をしていて気もちいいけれど、
それでも相手がメッシよりはうごくのかとおもえば、
あまり文句をいえない。

アルゼンチンの選手たちは、メッシにたいして
いろいろおもうことがあっただろうに、
「戦術はメッシ」と監督がきめたからには
「あるくメッシ」「まもらないメッシ」をうけいれ、
メッシ分の守備をのこり10人(ゴールキーパー以外だと9人)で
おぎなわなくてはならなかった。
わたしだったら、態度や顔に不満がでるだろうし、
安定した精神状態をたもてないだろう。
メッシだってこうした特別な位置づけは、けして居心地がよくないはずだ。
あるいてもいいかわりに、チャンスではかならず点をとれ、
というのはそうとうなプレッシャーだ。

1986年のWカップメキシコ大会では
アルゼンチンにマラドーナがいた。
このときも、「戦術はマラドーナ」だ。
守備を免除されるかわりに、決定機をきめるのがマラドーナの仕事だった。
でも、あのときのマラドーナは そんなにあるいていた印象はない。
当時のサッカーは、まだ役割分担がはっきりしていて、
いまみたいにどのポジションの選手も例外なく
あわただしくはしりまわらなくても よかったのかもしれない。
メッシの場合は、まわり全員がよくうごくので、
あるいてばかりいると相対的に目だってしまうのだ。

会社でも、あんがいメッシみたいな役割をおっているひとがいるかもしれない。
雑用はしなくていいから、肝心なときはちゃんときめてね、
というポジションだ。
それでちゃんときめるときはきめてくれたらいいけど、
悲惨なのは、自分ではメッシのつもりでも、
まわりからは点をいれないメッシとしてしか
みとめられていない場合だ。
あるいは、自分がメッシでないことをじゅうぶん承知しながらも、
メッシとしてふるまうかんちがいのひともまわりはたまらない。
正規職員のおじさんが、派遣やパートの女性よりまるではたらかないのに、
態度だけメッシというのは さぞかし腹がたつ存在にちがいない。

こうしてかんがえてみると、
「戦術はメッシ」はきわめてなりたちにくいスタイルだ。
ほんとうにメッシなみの 突出した実力がなければ
「おれはメッシ的な存在だから、やるときはやるからね
(でもいまはかんべんしてね)」
なんて通用しないのだ。
メッシを口にするのは、移動する距離を比較するときだけにしたほうがいいだろう。

全員がはしりまわるドイツが優勝したので、
「戦術はメッシ」が成功したとはいいがたい大会となった。
しかし、サッカーをはなれ、どんなはたらき方がのぞましいかといえば、
あるいてもゆるされるアルゼンチンのプレースタイルだろう。
決勝や準決勝で、たいした結果をださなかったメッシなのに、
そうとがめられたわけではないから、
かならずしもゴールがすべてと 悲壮な覚悟をきめなくてもいいかもしれない。
チームとして、集団の規律を尊重しすぎると、
いきつくさきは日本型の組織のような気がする。
全員がおたがいの目を気にしてはたらく職場にしあわせはない。
サッカーはドイツのように、仕事はアルゼンチンのように、が
これからのトレンドとなるだろう。

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2014年08月20日

「ヌンチャク健康法」とにかくたのしくからだをうごかせば 健康にいい

「デイリーポータルZ」にヌンチャクをつかった健康法がのっていた。
http://portal.nifty.com/kiji/140819164923_1.htm(大北栄人氏)
長岡市の医師、樋口裕乗氏がかんがえられた健康法で、
ヌンチャクをふりまわす写真が紹介されている。

ヌンチャクをつかった健康法なんていうと、
いかにも奇をてらったこころみにおもえ、
話題先行をねらったキワモノ的な健康法を予想していたのに、
よんでみると常識的で健全なかんがえ方だ。
わたしが「デイリーポータルZ」の記事をとりあげるときは、
その斬新なアイデアをおもしろがりながら、ほとんど冗談のことがおおいけれど、
このヌンチャク健康法は、かいてあることをそのままうけいれられた。

樋口氏のはなしでは、ようするにヌンチャクをいろんなうごきで
ふりまわせばよいという。
ヌンチャクといわばブルース=リーだ。
「アチョー!」というかけごえとともに、
手づくりのヌンチャクで友だちがよくあそんでいた。
うでや肩を複雑にうごかすから、きっと五十肩の予防にもなるだろう。
樋口氏の功績は、それまでごくかぎられていたヌンチャクのふり方を、
112に分類し、15分の運動にまとめたことで、
あまりこまかい技術をもとめないのでだれにでもできるし、
なんといっても、すごくかっこいい。

病院をおとずれ、樋口氏のはなしをきいた大北氏は、

「健康のためにヌンチャクを振れ。
それが一体どういうことか知りたかったのに、
ここにあるのはただその事実のみである」

と とまどっている。
大切なことは、つねにシンプルなのだ。
ヌンチャクにかぎらず、いろんなことでからだをうごかしましょう、
そうしたらたのしいし、健康にもなれる、が樋口氏の真意である。

世の中にはたくさんの健康法があり、
おおくのひとが関心をもっている。
だれだって、元気にながいきしたいとおもうから、
どうすれば血管をわかくたもてるか、とか、
認知症にならないための注意とか、
健康についての話題はとにかく注目をあつめやすい。
このごろはふくらはぎをもむと健康になるそうだし、
すこしまえはタマネギが評判になっていた。

でも、そもそも「◯◯すれば」、とか、
「たった◯◯するだけで」などと、
なにかひとつを実行するだけで健康を手にいれようなんて、
虫がよすぎるはなしではないか。
わたしは、けっきょくのところ
「運動不足とたべすぎ」が不健康をまねいているとおもう。
なんだかんだいいながら あまりうごかないし、
余計にたべすぎている。
運動は、やるひとと、やらないひとが両極端だ。
運動をするひとは、熱があっても練習をやすまない(やすめない)のに、
しないひとは、いちにちに500歩でさえ ようあるかない。

自動車をうごこさずに車庫にとめたままにしておくと、
いつまでもあたらしい状態にたもてるかというと、そういうものではないらしい。
エンジンは、まわるようにつくられているのだ。
人間だって「安静」がもとめられるのは療養期間くらいであり、
あとはうごきまわったほうがいい。
うごくように人間のからだ(たぶん、こころも)はできているのだ。
きわめてうごきのすくない動物であるナマケモノは、
きっと人間とはちがうしくみでコンディションをたもっているのだろう。
ほとんどの動物は、うごかないと体調をくずす。
そして、うごかしかたについてのこまかいとりきめはなく、
「なんでもいいからいろいろなうごき」をすればいい。

樋口氏は、健康法の提案者として誠実な方だとおもう。
これさえすれば、すべて解決なんて、調子のいいことはいわない。

「ヌンチャク健康法の効用もはっきりとは教えてくれない。
適当にあたりをつけて、筋肉周辺が柔らかくなりそうですよねときいてみると、
『筋肉もやわらかくなるし、肩こり、腰痛も治るね』
ほんとですか、ぼく最近ヘルニアになったんですが治りますか?
『それはわからないけどね。でもあなたもせっかく来たんだから振ってみなさい』」(大北氏)

「それはわからないけどね」がただしい態度だ。
パッとみただけで、そんなこと、わかるわけがない。
ヌンチャク健康法をふくめ、なんでもいいからうごかしましょう、
というのが樋口氏の提案である。
散歩ても、ラジオ体操をしても、ヌンチャクをふりまわしても、
なんでもいいからうごかせばいい。

よくうごき、たべすぎなければ、それだけでもう「健康法」だ。

posted by カルピス at 13:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 健康 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月19日

ピピを病院へ

ピピがごはんをたべなくなったので病院へつれていく。
口内炎なのだそうだ。
口のなかがいたくて、ものをたべれないという。
もっとこわい病気ではないかと心配していたので、
口内炎ときくと、たいしたことないような気がしてホッとする。
とはいえ、ピピにとってはずいぶんひどいいたみにちがいなく、
あくびをしたときに 口をひらくだけでも
声をあげるぐらい いたがる。

それが2日まえのことだ。
処方された抗生物質をのんでも いたみがとれないようで、
まだごはんをたべるようにならない。
げんきはあり、外にでかけたりもするけど、たべない。
脱水症状がすすみ、毛皮をつまんでも、すぐにもとにもどらないので、
今朝もういちど病院へ。
こんどは「たべれなくなったら、どうしようもないですよ」と
こわいことをいわれる。
補液で一時的に水分をおぎなうことはできても、
自分でたべなければ さきはながくはない、という意味だ。
口内炎ときいて安心してたのに、きゅうにまっくろな雲がたちこめた気分になる。

これまで なんどピピを病院へつれていったことだろう。
ピピは気がつよいのか、ケンカのたえない人生なのだ。
今回の通院では「この子はしょっちゅうケガをしてるねー」と
ピピのファイルをみた先生があきれていた。
病気やケガをもらってくるので、ネコをそとにださないよう、
通院のたびにいわれるけど、ピピは家のなかだけで我慢してくれるようなネコではない。
外にでることで、寿命はみじかくなるかもしれないが、
そのほうがピピは自分らしく生きれらてしあわせなのではないか。
ここらへんは、人間のかってなとらえかたでしかないけれど、
野性をうけいれて、げんきなときのピピと 精一杯いっしょに生きようと
殊勝なことをかんがえている。
でも、いざ今回みたいにたべなくなったりすると、
ピピの死がすぐそこにやってきたような気がして あわててしまうのだ。

先生のはなしでは、病院の2階にネコ部屋があり、
十数匹のネコがドタバタかけまわっているという。
みかたによっては、かなりストレスのある環境なのだ。
しかし、なにをストレスととらえるかは、かんがえ方であって、
外にでられないことが そのままネコの不幸とはかぎらないと先生にいわれる。
外にでるネコは、自由にうごきまわるからストレスがないようにみえるけど、
ほかのネコたちとのなわばりあらそいだってストレスです、とさとされる。
こうなってくると、ほんとうにとらえ方しだいだ。

ネコはむれでもくらせるそうですね、とわたしがいうと、
「いえ、ネコは単独行動の動物です」と先生に否定された。
そして、「でも、ひとがすきです」とつけたされる。
そうなのだ。わたしがピピをだいすきなように、
ピピもわたしがだいすきなのだ。
いっしょにいたいことを、ストレートに表現してくれる。
なんてすてきなピピ。

人間なら、口内炎ができたときには、
やわらかいものをえらんだり、
プチ断食と称してしばらくものをたべなくても大丈夫だけど、
ネコの場合はどこまで体力がもつだろうか。
病院では、強制給餌といって、針のない注射器にごはんをいれて、
むりやりたべさせる方法をすすめられた。
強制給餌はこれまでにもなんどかやったことがあるけど、
いやがるネコの口に、むりやりおしこむのはいやなものだ。
本人がたべないというのだから、
その判断を尊重して みまもるしかないような気もする。
ピピはいつも自分らしく、きっぱりと生きている。
わたしにできるのは、ピピとすごす時間を大切にすることだけだ。

posted by カルピス at 20:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月18日

『昔は、よかった?』(酒井順子)日本におけるおとなの消滅

『昔は、よかった?』(酒井順子・講談社文庫)

「週刊現代」に連載された記事が本にまとめられ、それを文庫化したもの。
シモネタがおおいような気がするのは、
「週刊現代」という発表媒体のせいだろうか。
率直にいって、斬新な記事はあまりなく、
ただ、それぞれのはなしのおわりにかかれた「追記」が
ときのうつりかわりをおしえてくれて、
文庫化ならではのおもしろさが生まれている。
雑誌にかかれたのは3〜4年まえのことだから、
文庫化されるにあたり、4年後だからかける「その後」が
追加の情報として かんたんにふれてあるのだ。
4年間は、ひとことにまとめられるほど アッという間でもあるし、
そのあいだにおきた変化を感慨ぶかくおもうだけの
まとまりをもった期間でもある。

3〜4年たつと、いろんなことがすっかりかわってしまい、
「あれだけさわがれていたひとがいまは・・・」とか、
「そういえば、そんなこともあった」みたいに、
ほんの4年とはおもえないほど むかしのできごととなっている。
ついでにいえば、サッカーでも4年たつと、
しっかり過去のこととなっていて おどろかされることがおおい。
4年まえのWカップ南アフリカ大会にえらばれたのに、
今回のブラジル大会の選考には、まったく名前があがらなかった選手がたくさんいる。
4年間のあいだに、なにかが決定的にかわったのだ。
4年間、ずっと代表にえらばれつづけた選手は10名にすぎず、
4年という年月が、いろんなことがおこりえる、意外とながい期間なのがわかる。
「10年ひとむかし」はあたりまえで、世の中のうごきがはげしい現代では、
「4年ひとむかし」くらいが感覚的にピッタリくるのではないだろうか
(Wカップにピンとこないひとは、おなじく4年まえの
バンクーバーオリンピックをおもいだしてみられたい)。

とはいうものの、タイトルにある『昔は、よかった?』は、
なにも4年前とくらべてのはなしではない。
かかれている内容が、なんとなくむかしとの比較によって
なりたっているものがおおいので、つけられたタイトルではないか。
あんまりかたぐるしくかんがえずに かるくながしてね、が
本書の基本的なたち位置である。

いちばんおもしろかったのは、箱根駅伝のコマーシャルでながれた
「大人のエレベーター」についてのはなしだ。
妻夫木さんが、「大人のエレベーター」にのって
おとなの男たちをたずねる。
わたしはみていないけれど、リリー・フランキーさんがそこで

「大人は子供の想像の産物だ。
子供の頃は、大人ってもっとちゃんとしていると思っていた」

といったそうだ。
わたしは、自分が成熟しきれていない「あまちゃん」なのを
コンプレックスにおもっており、
いっぽうで、ほかのひとたちは わたしとちがい ちゃんとしたおとなにみえていた。
それなのに、リリー・フランキーさんみたいなひとが、
「大人ってもっとちゃんとしていると思っていた」なんていってくれるとは。
うれしいというか、やっぱりそうなの?というか、微妙なところだ。

子どもという概念は、産業革命がおわったころのイギリスで発見された(いいかげん)。
それまでは、赤ちゃんとおとなしか世間にみとめられておらず、
その中間というものがなかった。
子どもは、いわばおとなのちいさい版として、
それなりの労働力としてあつかわれていたのだ。
おなじように、というか、ぜんぜんちがうはなしだけど、
21世紀の日本において、突然おとなは消滅した、
というのも おもしろい(おもしろくない?)発見かもしれない。
いまの日本には 成熟したおとななんて、存在しないのだ。

酒井さんは、
「我が国では今、老若男女を問わず、皆が
『誰かについていきたい』と思っているのだけれど
その『誰か』がみつからず、右往左往している状態なのではないか」
とかんじている。
なぜそうなのかについての分析はない。
この本は、いわば世相の書だ。
いまの世の中では、こんなことがおきていると
酒井さんはおしえてくれる。
酒井さんのやく目はそこまでで、
なぜそうなったのかは、自分でかんがえなさいね、という
ある意味でひじょうに教育的な本かもしれない。
4年たつといろいろかわるけど、
けっきょくたいした変化じゃないから大丈夫、みたいな気になれるのも
酒井さんの本ならではの効用だ。

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2014年08月17日

『今こそ読みたい児童文学100』(赤木かん子)おとなにむけた子どもの本の紹介

『今こそ読みたい児童文学100』(赤木かん子・ちくまプリマー新書)

この本は、おとなにむけた児童文学のガイドだ。
「はじめに」にあるかん子さんのかきだしにおどろいた。

「児童文学は子どものために書かれた物語ではありますが、
ケータイの出てこない時代のものはもう子どもには読めないのが普通です。
でも物語の好きな大人なら・・・」

世の中のうつりかわりのはやさが、そのまま児童文学にも影響をあたえる。
子どもむけの本は、旬の時期が意外とみじかいのだ。
親はよく、自分が子どものころにすきだった本、
たとえば『長くつ下のピッピ』なんかを子どもにすすめたがるけど、
いまの子どもたちがどっぷりピッピにひたれるかというと
かなりかぎられた子しか、ピッピをうけいれられないそうだ。
かん子さんは、本についての賞味時期にくわしく、
何歳ごろの、どんな性格の子にはこういう本、と、
こまかく提案できるひとだ。

章だては、
・大人のテーマが、子どものなかへ
・薄くても、中身は濃いですよ
・児童文学は愛情不足をこんなふうに描いています
・十代の反抗ープロブレムノベルス
・もう一度読み返したい名作たち

など9章からなっている。1冊ごとに2ページの解説つきだ。
第2章の「薄くても、中身は濃いですよ」をみると、

「児童文学の変化は、この低学年の本にもおしよせてきました。
低学年が主人公なのに、うっかりすると低学年では読めない物語が
生まれてきたのです。
ですから、内容的には、本当に子ども向けに書かれたんだけれど、
大人が読んでも面白いんだよ、というものから、
これは低学年用の本にみえるけど、
はじめから子どもを読者だとは思ってないよねという本まで
広がってしまったので、ちょっと別建てにしてみました」

そうした本を一般的な大人が手にとっても、
そのよさに気づくのはかんたんではない。
そんなとき、かん子さんみたいな案内役がいてくれると、とてもたすかるわけだ。

第7章は「骨太すぎるオーストラリアの物語」。
オーストラリアの過酷な大地が
独特の児童文学を発展させたそうで、
まるでオーストラリアのサッカーみたいでおかしかった。
オーストラリアのサッカーは、フィジカルにたより、
ラグビーとかんちがいしてるんじゃないかというプレースタイルだ。
ちからずくで、あまりにもはげしくからだをぶつけてくるから、
ほそい日本の選手たちがつぶされるんじゃないかと心配になる。
児童文学もおなじようにゴリゴリしたスタイルに発展していたとは。

かわっているのは第8章の「おすすめしにくい本たち」だ。

「世の中には、これはおすすめしにくい、という本もあるのです。
ものすごーくいいんだけれど、たとえば、読みにくいんだよねえ、とか、
長いんだよねえ、などの理由でー」

として、『アーサー・ランサム全集』や『指輪物語』があげられている。
かん子さんは『ランサム全集』がだいすきなのに、
あえて「おすすめしにくい本たち」にこれをいれたのは、
いそがしいいまの日常と、この本の世界があまりにもかけはなれているからだ。

「もちろん、読みたい、というかたがいらっしゃいましたら、止めはしません。
ランサムファンが増えるのは大歓迎です
(でも、入れなくてもがっかりしないで。
たいていのかたが、もう入れないでしょうから)」。

本の賞味期限のみきわめは、かなりむつかしい。
わたしなんかだと、つい「いい本だから」と
すすめてしまいがちだ(『ツバメ号とアマゾン号』を
むすこによみきかせしたけど、たしかにあまり反応はよくなかった)。

『指輪物語』をよむときのアドバイスは、すごく実際的だ。

「映画、観てください。観ちゃっていいです、ええ。(中略)
そうして本の、三巻目からお読みください」

わたしはかん子さんを案内役に児童文学をよむようになった。
もちろん子どものころは、自分ですきかってによんでいる。
でも、子どもの本のなかには、おとなになってからも
たのしめるものがあることをしったのは、
かん子さんの『こちら本の探偵です』からだ。
かん子さんのあとには、河合隼雄さんや清水真砂子さん、
そして宮ア駿さんがすすめる 小どもの本をよむようになる。
そのスタートは、かん子さんの本にであったことだった。
どの年代の子に、どんな本がこのまれているかをかん子さんはおしえてくれる。
たくさんでている児童文学のなかから、いい本にであおうとおもったら、
じっさいに子どもたちに支持されたものをよむほうが まちがいない。

本書では、カニグズバーグの本から『魔女ジェニファとわたし』をえらんでいる。
子どもたちがメトロポリタン美術館に家出する『クローディアの秘密』
のほうが派手で、子どもたちによろこばれそうなのに、
「でも今読んでも面白いだろうと思うのはこっちなんです」というのが
かん子さんのみかただ。

もういちど「はじめに」にもどると、

「今の大人で物語の好きなかたが読んだら面白い、といっていただけるであろう本を
百冊集めてこの本を作ってみました」

子どもの本のなかには、基本的な教養としておさえておきたいものがおおく、
しかしいまさら児童文学は、あんがい手にしにくいものだ。
本書のような解説つきのガイドだと、義務ではなく好奇心がわいてくる。
たとえば『ハックルベリー・フィンの冒険』は『キャッチャー・イン・ザ・ライ』をよんだときから気になっていた。
『キャッチャー』の理解には、どうも『ハックルベリー・フィン』をすませておいたほうがいいみたいだ。
「骨太すぎるオーストラリアの物語」もじっさいによまないと、
オージーサッカーとの比較ができない。
この本を参考に、子どもの本をもういちどよんでみることにする。

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2014年08月16日

「本の雑誌が作る夏の100冊!」こそ 若者むけオールタイムのベスト100かも

きのうにつづいて『本の雑誌 9月号』について。
夏恒例の企画として、いくつかの出版社が「夏の100冊」をうちだしている。
これに対抗し、「本の雑誌」は版元にとらわれない、
文庫本ならなんでもありの「夏の100冊」をつくろうというのが
今月号の特集だ。
各出版社の「100冊」は、自分の会社がだしている本にかぎっているわけで、
ほんとうの意味で「100冊」とはいえない。
「本の雑誌がすすめる夏の100冊」こそ、
夏にかぎらない、オールタイムのベスト100といえるのではないか。
100冊をえらぶ座談会は、中高生の子をもつ親が、
子どもによませたい100冊をえらんだら、という想定ですすめられた。
大森望・杉江松恋・吉田信子・浜本茂の4氏が30点ずつもちよって、
一作家・一作品を原則に、他社の「100冊」とかさならないよう配慮されている
(「本の雑誌」としての100冊なのだから、この配慮は必要ないと わたしはおもう)。

この企画に触発されてわたしも、といいたいところだけど、
特集にあげられた膨大な数の本をみると、
とてもわたしの手にはおえないのがわかった。
あらゆるジャンルについて、ふるい本からあたらしいものまで、
すべてに目をくばることなど、わたしのとぼしい読書量では無理なはなしだ。

100冊のうち、わたしがよんだことのある本は わずか20冊だった。
いかにわたしの読書が 質的にも量的にも 貧弱かをおもいしらされる。
ジャンルのかたよりもあるけど、そもそもよんだことのない作家がたくさんいる。
1冊でもよんで、自分にあわなかったから そのさきはやめた、ならまだしも、
ただのくわずぎらいで、よんだことのない作家・作品がおおいようでは、
とてもひとにすすめられるリストはつくれない。
この100冊リストは、わたしにこそ必要なのかもしれない。

もっとも、名前をあげられたぐらいでは、
その本をよみたいという気になかなかならない。
どんな特徴がある本なのか、ある程度の説明がほしいところだ。
そうした説明をいれた100冊づくりは大変だろうけど、
図書館や本屋さんなどは、このリストこそ
本ずきの子をふやすのに いかせるのではないだろうか。

「夏の100冊」は、なんだか古典が主流のようにおもってしまうけど、
じっさいに各社がえらぶ本は、あたらしいものがどんどんはいっている。
特集によると、たとえば集英社の企画「2014年ナツイチ」は、
2010年代以降にだされた本が7割をこえている。
そのなかには、2014年の本が14冊もふくまれており、
けして古典がはばをきかせているわけではない。
というか、これだけあたらしい本がおおいと、
かえってその玉石混交が心配になるところだ。
話題作もいいけど、もうすこし一般教養的な古典を、ともおもってしまう。

特集の一部に「本屋のオヤジの12冊!」(久住邦晴 氏)があり、
スマホにおされて 大学生の読書時間がへっているという記事が 紹介されていた。
スマホの影響は、ほかにもいろいろなところにおよんでいる。
テレビもみなくなり、チューインガムの消費量さえへったりと、
おもわぬところからエネルギーと時間をうばう。
もちろん本をよむ時間にも影響をあたえないわけがなく、
町の本屋さんは ほんとうにたいへんな状況みたいだ。

パッとひらめいた案として、たいていのブームは女性がさきにたち、
男たちはそれにつられてゾロゾロ、というかたちがおおいのだから、
まず女性をとりこんだら、とおもった。
本をまともによまないような男は、
女たちから相手にされなくなればいいのだ。
そうしたら、男たちは無理してでも本をよむようになる。
しかし、本をたくさんよみ、おしゃれな会話のできる女性は
いわゆる「スペックがたかすぎて」、男にはとても手がだせない存在かもしれない。
かえって未婚男女のすみわけがすすみそうで、
ほかのことにはあれだけ強気な政府も、うかつに提案できそうにない。
こうして読書は どんどん辺境においやられていく。
「趣味は読書」なんて、いまでは気のきかない冗談としか うけとめられない。

posted by カルピス at 22:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本の雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月15日

「村上春樹の10冊」を、わたしならこうえらぶ

『本の雑誌9月号』の特集として、「村上春樹の10冊ならこれだ!」がのっていた。
新元良一氏による記事で、新元氏は
NHKラジオの『英語で読む村上春樹』に出演されているという。
すごくたのしみにして本を家にもってかえり、えらばれた10冊をみてみると、
微妙にわたしのこのみとずれている。
ひとそれぞれの10冊があって当然なわけだから、
わたしも自分なりの10冊をえらんでみることにした。
こういう企画では、だれを対象にした10冊なのかを
はじめにはっきりさせておいたほうがいいだろう。
初心者なのか、高校生なのか、すべての年代なのか。
新元氏の記事ではとくに対象を限定していない。
『本の雑誌』にのっているのだから、
対象は『本の雑誌』のおもな読者層である中高年者なのだろうか。
わたしのえらぶ10冊は、まだ村上春樹をよんだことがなくて、
これからその世界にはいっていくときの道しるべとして想定した。
また、新元氏もそうされているように、対象とする村上作品は、
翻訳本をのぞくすべての作品、つまり小説・エッセイ・旅行記・その他とする。

まだ村上春樹の本をよんだことのないひととはなしをしたときに、
「なにからよんだらいいですか?」と
なんどかたずねられたことがある。
わたしはたいていの場合、『羊をめぐる冒険』をすすめている。
初心者にいきなり『ねじまき鳥クロニクル』では
村上さんの世界にはいりにくいような気がして、
まだそれほどはなしがいりくんでいない『羊』をあげるのだ。
もうひとつの理由は、わたしがはじめてよんだ長編が『羊』なので、
ついこの作品をあげてしまうのかもしれない。
とはいえ、はじめてのドストエフスキー作品が『カラマーゾフの兄弟』でも、
ぜんぜん問題はないわけで、『羊』を導入作品にするのは
あくまでもわたしのこのみであり、ひとつの案だ。

デビュー作の『風の歌を聴け』は、きっと村上さん本人は
10冊にえらばないだろう。
作品の完成度からみたときに、村上さんにはいろいろおもうところがあるだろうし、
外国語版としての出版はみとめてないと なにかでよんだことがある。
しかし、ここから村上春樹がはじまったという意味で、
今回の「10冊」には、はずさないでおく。

わたしがいちばんすきな作品は
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』なので、
これもとうぜんのこす。なんどよんでもすばらしい本だ。
長編として、あとは『ノルウェイの森』と『ねじまき鳥クロニクル』にした。
『1Q84』や『海辺のカフカ』がよくないというわけではない。
しかし、村上春樹をかたるうえで『ノルウェイの森』ははずせないし、
『ねじまき鳥』の世界は、わたしにとっていかにも村上春樹なのだ。
ほんとうはどれでもいいわけで、あえて理由をあげれば、
今回は長編から4冊というわりあてにしたからにすぎない。

旅行記としては『遠い太鼓』。
新元氏は旅行記としてもう1冊『やがて哀しき外国語』をあげていた。
この本はめずらしくわたしのこのみにあわず、
よんでいるときからイライラしたことをおぼえている。
わたしとしてはまよわず『遠い太鼓』をえらんだ。

エッセイはなにがいいだろうか。ここでは『村上朝日堂』をすすめることにした。
この本は1984年に出版されており、まだわかい村上さんが
けっこうすきかってなことをかいている。
はなしをまとめるうまさは、最近のエッセイ集のほうがうえだろうけど、
ノーベル賞の候補に名前があがるようになったいまでは、
ここまで自由にかけない。
ある意味で貴重な村上春樹のなまの声だ。

短篇集は『短編選集 象の消滅』にした。
この本は、アメリカで出版された短篇集を
あとから日本に逆輸入したもので、本のつくりがおしゃれだし、
『ねじまき鳥と火曜日の女たち』・『ファミリー・アフェア』・『納屋を焼く』
・『パン屋再襲撃』・『午後の最後の芝生』と、
おさめられている作品が充実している。
『パン屋再襲撃』は、なんというか有名なはなしだし、
『ファミリー・アフェア』にでてくるいいかげんなお兄さんが
わたしはすごくすきなのだ。
『ねじまき鳥と火曜日の女たち』は
のちにこの作品が『ねじまき鳥クロニクル』へとふくらんでいくわけで、
ゆでられるスパゲッティの量や、路地でであう女の子がきている服など、
両作品の微妙なちがいをたのしめる。

ここまでで8冊。あと2冊だ。
ランナーとしては『走ることについて語るときに僕の語ること』をあげたい。
翻訳についてはなすときの村上さんが すごく率直なように、
はしることについてかかれた文章は まっすぐよむ側につたわってくる。
わたしは、本にでてくる「少なくとも最後まで歩かなかった」をあたまにおいて、
ヘロヘロになっても、レースではとにかくあるかないことにしている。

「その他」のジャンルとして『うさぎおいしーフランス人』をおすすめする。
奇書といっていいかもしれない。
どんな本かというと、「村上かるた」なのだそうで、
それがまたじつにくだらない、というか、
徹底的に意味をはなれたおもしろさがすごい。
(たとえば「いくら否認しても、妊娠八ヶ月なの」など)。
村上さんにはこういう面がある、という好例であり、
ほかのどの作家にもこの本はつくれないだろう。
あの村上さん、と、「あの」がつくようになった村上さんが、
こんなことにまで頭をつかってくれるなんて、
読者としては、ありがたというよりない。
安西水丸さんの絵がまたすばらしいので、
小説をよむことに抵抗のある方は、この本から村上春樹をはじめたらいいかもしれない。

というわけで、わたしのおすすめは、以下の10冊になった。

・『羊をめぐる冒険』
・『風の歌を聴け』
・『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』
・『ノルウェイの森』
・『ねじまき鳥クロニクル』
・『村上朝日堂』
・『遠い太鼓』
・『短編選集 象の消滅』
・『走ることについて語るときに僕の語ること』
・『うさぎおいしーフランス人』

どちらかというと、ふるい作品がおおいかもしれない。
でも、この10冊からはいれば、村上春樹の森でまよう心配はない。
この10冊を体験することで 適切な基礎体力がやしなわれ、
あとはどの村上作品も あたまからしっぽまで すべてをあじわいつくせるはずだ。

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2014年08月14日

『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』(村上春樹・柴田元幸)『キャッチャー』についての最良なガイド

『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』
(村上春樹・柴田元幸/文春新書)

『翻訳夜話』がとてもおもしろかったので、
つづけて『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』を手にとる。
でも、村上さんの「まえがきにかえて」をよんでみると、
どうも『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を
さきによんでからにしたほうがよさそうだ
(当然なはなしではある)。
『キャッチャー』は、出版された2003年の4月にかったまま、
本棚にならべただけになっていた(むすこにはすすめた)。
野崎孝氏訳の『ライ麦畑でつかまえて』は たしか20代のころよみ、
それなりの感想はもったものの、10代で であうホールデンくんとは
決定的にちがうわけで、それほどはげしくこころをゆさぶられたわけではないし、
内容もほとんどおぼえていない。
というわけで、『夜話』をたのしむために、
まず『キャッチャー』をよんでからという
正式な手つづきを経ることにした。
なにしろ村上さんが
「ところで、『キャッチャー』を楽しく読んでいただけましたでしょうか?」
なんてかいてるのだ。
できれば『ライ麦』のほうも、もういちど目をとおしたほうが
よりいいのだろうけど、そこまでは完璧をもとめないことにする。

『翻訳夜話』は、翻訳のたのしさや
翻訳にまつわるこぼればなしみたいなのがおもしろかった。
『夜話2』は「2」がついていて続編みたいだけど、
しかし、内容はほとんど『キャッチャー』の解説と分析であり、
正直なところわたしにはかなりむつかしかった。
ホールデンくんがどんどんまるはだかにされてゆき、
わたしがおもいもしなかったさまざまな「意味」が説明されている。
1冊の本を翻訳するにあたり、これだけふかく・こまかくふみこんで解説した本を、
わたしははじめてよんだ。
『キャッチャー』によいタイミングでであえた幸運な読者には、
ぜひ本書もあわせてよまれることをおすすめする。
そして、16歳というタイムリーな時期をはずしたひとにとっても、
この本は最良なガイドとなるだろう。
『夜話2』に説明してもらえなければ、
わたしの『キャッチャー』体験は
すいぶんまずしい段階にとどまっていたにちがいない。

ホールデンくんは、若気のいたりでおもいついたことを
テキトーにしゃべっているようにみえる。
村上さんはどうとらえているだろうか。

「とにかく僕が言いたいのは、『キャッチャー』という本は、
だれがなんと言おうと本当に神業なんだということです。(中略)
僕がもっとも深く感心するのは、表現された内容と表現の方法とが、
ほとんど等価に、それでいてそれぞれに個別な働き方をしているということです。
とにかくこの小説では、表現内容に劣らず、
文体というものが大事です」

村上さんは、だからこそ
サリンジャーのリズムをいかすことを大切にしたという。

「この人の文章のリズムというのはまさに魔術なんですよ、
このしゃべりは。
その魔術性というのは何があろうと、
翻訳で殺しちゃいけないんですよ。
それがいちばん大事なところだと僕は思うんです。
生きている金魚を手ですくって、さっとそのまま間髪を入れずに
別の水槽に移しかえる、みたいなことです」(村上)

本を1冊よみおえたときに、
わたしはほかのひとがその本にどんな感想をもったのか しりたいとおもう。
『翻訳夜話2』は、その感想が、こまかな解説つきで、
1冊まるごとつまっているわけだから、
これくらいありがたい本はない。

「刊行以来50年以上を経ても、
その売れ行きには翳りは見られない。
総売上数はアメリカだけで訳1500万部、
世界的に見れば6000万部に達していると言われている。
そして、今でも世界で毎年25万部ほどが売れているということだから、
その数はこれからも着実に増え続けることだろう」(村上)

毎年25万部も着実につみあげられていくのが
どれだけものすごいことなのか、ちょっと想像しただけでわかる。
それだけたくさんのひとが、『キャッチャー』とのであいをもとめている。

「この本についていちばん素晴らしいと思うのは、
そういうまだ足場のない、相対的な世界の中で生き惑わっている人に、
その多くは若い人たちなんだけど、
自分は孤独ではないんだという、
ものすごい共感を与えることができるということなんですね。
それは偉大なことだと思うな」(村上)

が『キャッチャー』の適切なまとめではないだろうか。

posted by カルピス at 13:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 村上春樹 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月13日

きのうの新聞もあんがいわるくない

新聞の休刊日には(正確にいうと休刊日の翌日には)、
朝ごはんのときにまえの日の新聞をひろげる。
行儀はわるいかもしれないが、
ひとりでたべることがほとんどなので、
もう習慣になってしまった。
新聞をひらかないことには 手もちぶさたで間がもたない。
おなじ紙面を2日つづけてみたくはないけれど、
習慣であり、休刊日なのだからしかたがない。
かわりに本をよむ、というわけにはいかず、
1ヶ月にいちどのたいくつな朝となる。

でも、もういちどまえの日の新聞に目をとおしてみると、
よんでなかった記事がいくつもあるもので、
あんがいおもしろくよめるものだ。
おわってみれば、休刊日といえども いつもの朝とかわらないぐらい
朝ごはんと新聞のセットにお世話になっている。

いちにち分の新聞には、500くらい記事がのっているそうだから、
よほど時間をかけななければ すべての記事をよみとおせるものではない。
いつもは朝のかぎられた時間に、興味のある記事だけをひろっているので、
ずいぶんもったいないことをしてるのだろう。
2日つづけておなじ紙面をひらいても、
まだよんでいない記事ほほうがおおいのだ。
休刊日は月にいちどのたいくつな朝、とかいたけれど、
あんがいくるしまずにすごせるのは、
いつもたいして記事をよんでいるわけではないからだろう。
もしかしたら、2日にいちどの配達でも、
それほどこまらないからかもしれない。

なにかの機会に古新聞に目をとおすと、ついひきこまれてしまうのは、
またべつのはなしだとおもう。
ふるい新聞が意外とおもしろいのは、
よんでいない記事がいかにおおいかよりも、
2度目の本や映画が、いちど目とまったくちがう印象をうけるのとにている。
そうした意味では、休刊日の朝に有効なのは、
きのうの新聞ではなくて、古新聞のほうかもしれない。

旅行にでかけたりして、1週間分の新聞をいちどによんだりすると、
たのしみにしていたまとめよみなのに、
あっけないくらいみじかい時間で目をとしてしまう。
新聞に毎朝かけている時間は、いったいなんなのかとおもえてくる。
新聞をひらくのは、記事の内容を理解するためというよりも、
ほとんど朝の習慣でやっているにすぎず、
ご飯をたべながら新聞に目をやること自体が目的かもしれない。
あたらしい情報をしいれなくても、
紙面をひろげれば、それでもう気がすむのだ。

2日目の新聞をひらいてなにをするかというと、
よんでない記事をさがすだけでなく、
おなじ記事をよみかえしたりもする。
一定の時間を新聞にあてればいいのだから、それでも目的は はたせるのだ。
なくなった父が、たいくつしのぎになんども新聞をひろげているのを
露骨にばかにしてきたわたしなのに、
あんがいおなじようなことをやっている。
退職後、図書館に「通勤」してくるおじさんたちは、
みかけよりも充実した時間をすごしているのかもしれない。
ただ、ここで強調したいのは、わたしの問題は
新聞をよむ習慣をどう処理するかについてであり、
たいくつな時間をどうまぎらすかではない。

そもそも、なんで休刊日が設定されているかというと、
新聞配達のひとたちにおやすみをとってもらうためだときいた。
たしかに毎朝のはやおきはたいへんだろうけど、
ほかの業界は年中無休でやっているところもおおいのだから、
新聞だけが月にいちどのおやすみを絶対視するのはおかしな気がする。
休刊日はさほどこまらない、とかきながら、
できれば毎朝とどけてもらいたいともおもう。
きのうの新聞もわるくないけど、あたらしい紙面のほうがありがたい。
習慣の問題だから。

posted by カルピス at 21:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月12日

理由なんていらない

朝日新聞に連載されている甲子園観戦記の欄で、
ミス松本の女性が 試合をみた感想をはなしていた。
この女性は、高校のときに軟式野球部でプレーし、
いまは野球の審判をめざして「アンパイアスクール」を受講しているという。
こういう、ちょっとかわった経歴をもち、
一般的でない進路をめざすひとは、
これまでにいやというぐらい「なぜ女が野球なのか」
「なぜ女が審判をめざすのか」とたずねられてきたのではないか。

「なぜ」とか「理由」について、あれこれ頭のなかでいじくりまわす。
なぜ野球をえらんだのかは、本人にも説明できないのではないか。
いくつかの理由をあげることはできても、
それが彼女の気もちを正確にあらわしているとはかぎらない。
けっきょくいえるのは「すきだから」ではないだろうか。
わたしだって、なぜ自分の専門をえらんだかなんて、
自分に納得できる理由なんておもいあたらない。
すきだったから、もしくは、なんとなく、だ。

けっきょく、理由なんてきいたところでしかたがないのでは、とおもえてきた。
「すきだから」が理由で、それ以上いいようがないのだ。
きれいに理由を整理できたとしても、
ほんとうはそれですべてではないことを
本人がいちばんよくしっている。

職場でも、なにかの企画をだすときには
当然のように そのうらづけとなる理由をたずねられるけど、
だいじなのそのひとがやりたいか・やりたくないかであって、
なぜそれをやる必要があるのかなんて、
あとからくっつけた口実でしかない。
この場合は「やりたいから」だけでじゅうぶんな理由となり、
それ以上はよけいなかざりだ。

そもそも自分がいましていることだって、
理由がつかないことはたくさんある。
なぜいまの仕事をえらんだのか。
なぜひるごはんにちゃんぽんではなく
ラーメンをえらんだのか(これぐらいならこたえられるか)。

エベレストをめざしていたマロリーがいったとされる
「そこに山があるから」は
「そこに(世界一たかい処女峰である)エベレストがあるから」
がただしいと、本多勝一さんがなにかにかいていた。
山があればいいというものではなく、いちばんになれる山がとおといのだ。
いちばんをめざすのはなぜか、までいいはじめると
ややこしくなるのでそこまではとわない。
「はじめて」「いちばん」に価値をおくひとの気もちが
わたしにもいくらかはわかる。

エベレストのように、「はじめて」や「いちばん」をめざすのはまだわかりやすい。
それでは、なぜ「はじめて」や「いちばん」でもないときでも、
わたしたちはなにかをえらんだり 挑戦しようとするのだろう。
それはもう、「やりたいから」「すきだから」というしかないのではないか。
だれもが納得できる理由なんていうものはなく、「すきだから」が理由だ。
「すきだから」の理由を分析しても意味はない。

わたしは給食にでるほしぶどう(レーズンパン)がきらいで、理由をきかれるたびに
「きらいなのに理由なんてない」とつっぱね、
自分ではきれいに説明したつもりでいた。
なぜきらいかに、理由が必要だろうか。
きらいだから、きらいなのだ。
おなじように、すきなことも、なぜすきなのかは
あんがい説明できないのかもしれない。
なぜ野球をえらんだのかなんて、本人にもきっとわからない。

わたしたちは、ひとがやっていることについて
理由をもとめたがるけど、なぜ理由をもとめるのかが
わからなくなってきた。
理由なんてきいたところでしょうがないのに。
納得できるこたえがかえってくるかもしれないけど、
きれいにまとめられた理由が すべてをあらわしているわけではない。
「なぜ」をたずねたところで、理由はわからない。
理由なんてどうでもいい。やりたい気もちがすべてだ。

posted by カルピス at 20:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする