2014年08月11日

『しあわせ節電』(鈴木孝夫)節電が大切なことは だれにでもわかるのに ふかまらない

『しあわせ節電』(鈴木孝夫・文藝春秋)

『人にはどれだけの物が必要か』につづく本。
前書が出版されてから17年たち(いまでは20年)、
3年まえには福島第一原発事故もおきた。

「電力危機が現実のものとなり、
節電が急にやかましく言われていますが、
遅きに失しているとはいえ、大変にいいことだと思います。
ただ日本人は忘れやすいですから、喉元過ぎればで、
それが一過性に終わってしまうことのないよう、
われわれ日本人の暮らしと生き方をこの際、
根本から再考する絶好のチャンスが訪れたと受け止めるべきです。
このようなわけで今回、この本は、私の『遺書』と思って
出すことにしました」

かかれている内容は、基本的にまえの本とおなじだ。
ただ、福島第一原発事故のあとでは、
状況の深刻さがまるでちがう。

「(安全に問題のある)原子力は、私個人としては
使うべきではないと思っています。
使わないとなると石炭・石油はないし、買えば高いし、
それから環境の大気汚染に悪影響だというなら、
電力の消費自体を大幅に下げるしかないのは
子どもでもわかることでしょう」

鈴木氏は、経済成長をやめろとか、電気をつかうなといっているわけではない。
物質的な欲望をおさえ、進歩をすこしだけうたがってみませんか、という提案だ。
電力、なかでも原発はお金がからんでおり、
安全や人類の将来のことをいくらかかげてもきく耳をもってもらえない。
しかし、節電なら個人のかんがえ方しだいで いくらでもとりくむことができる。

前書をよんでから、わたしがわたし自身の生活をどれだけかえたかというと、
節約とはちがう動機で酒をやめたぐらいか。
あつい夜はエアコンをつかうようになったから、
これまでよりかえって電気をつかうようになったかもしれない。
ただ、自動車にほとんどのらないし、
コンビニやファーストフード店はいちどもはいらなかった。
個人的なエネルギー消費量は、平均的な日本人として
すくないのではないかとおもっている(ほとんどいいわけ)。
と、かいていて、コンビニやファーストフードを
ここにあげていいのかどうか かんがえてしまった。
つい悪者としてあつかってしまいやすいけど、
かんたんにはきめつけられない気もする。
電力についてかんがえると、なかなかスッキリした表現ができないのは、
こういうふうに、いろんなことがややこしくからまって
どんどん「はてな」がつくからである(とにげる)。

ものをもたない生活は、あいかわらずできない。
このまえ『わたしのウチには、なんにもない。』(ゆるりまい)を
ペラペラっとめくってみて、
著者の家に、あまりにも ものがないのにおどろいてしまった。
ここまでくると、著者がいうように「ものをすてたい病」というのだろう。
わたしもいつの日か、大英断をくだして 本棚を整理しようとおもっているけど、
もちろん まっていても そんな日はいつになってもこない。
わたしの部屋には配偶者のおおきなタンスがおいてあり、
気にしはじめると、これがじゃまでしょうがなく、
このタンスのために わたしのすべての知的生産が
ストップしているようにおもえてくる。
目黒考二さんが「酒と家族は読書の邪魔」といっており、
わたしもこの格言にひそかに一票をいれている。
家族とのよりよいくらしがしあわせであるはずなのに、
もののかたづけについては、家族さえいなければ、
という本末転倒なかんがえが あたまをかすめる。
ものをめぐる家族間のかけひきは、とてもデリケートだ。

福島第一原発事故がおきてから3年たち、
原発の再稼働や、外国への輸出までが話題にのぼるようになった。
「忘れやすい」「喉元過ぎれば」とはいえ、
あまりにもすばやく既成事実をつみあげようとするのに おどろかざるをえない。

「いつ重大な事故を起こすかもしれない原子力発電を全廃し、
更に出来れば現に環境に大きな影響を与え続けている火力発電をも
縮小に向かわせることを本気で望むなら、
その解決策は一つしかない。
それは無駄な電力の浪費を止めさせるあらゆる手だてを考え、
国民すべてがそれを実行することである」

節電は、電気製品をできるだけつかわないことだけでなく、
ものを大切にするくらしが、そのまま節電につながっている。
よけいなものをつくらなければ、電力もつかわない。
自動販売機にたよらないとか、ものをかわない・すてない生活が、
おおきすぎる問題をかかえこまなくても、個人にできる節電であり、
それはとくにたいへんでもないし、無味乾燥な生活でもない、
というのが鈴木さんの実践であり提案だ。
節電に、たのしみながらとりくむこと。
わたしが具体的にとりくめるのは、
ものを大切にすることをふくめた節電しかない。

節電が大切なことは だれにでもわかるのにふかまらない。
福島第一原発事故さえ、過去のできごとにされようとしている。
節電を自分の問題としてかんがえるために、
鈴木さんが提案する ものを大切にしたくらしは
わたしたちにできる具体的なとりくみと、
基本的な姿勢をおしえてくれる。

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2014年08月10日

『とことん夏だから暑苦しい音楽』がおわってしまった

『とことん夏だから暑苦しい音楽』がおわってしまった。
期待されてないし、ひくい評価しかえていないと
担当のDJホットマン氏は自虐的にいいつづけていたけれど、
再登場したくらいなので、人気はあったのだとおもう。
視聴者にコビをうらず、
すきな曲をすきなようにかける自由さ・テキトーさにひかれ、
3週間の放送中、わたしはずっと12時をたのしみにまっていた。
『とことん暑苦しい』につづく12時50分からは、
まったく雰囲気のちがう番組、『名曲アルバム』がはじまる。
そのあまりのギャップに脱力したのがいまではなつかしい。

「暑苦しい」をこまかくしばる定義はなく、
ホットマン氏がいいとおもえばなんでもありの番組だから、
ときにはさわやかな曲がかかることもあった。
とはいえ、『燃えよドラゴン』のテーマ曲がはじまったときは
さすがにおどろいたものだ。
たしかに「あっちっちー」といえば、
これくらい「あっちっちー」な映画はないかもしれない。
映画『パルプ・フィクション』にでてきた
ツイストコンテストの曲がかかったときは、
うれしかったけど、さすがにこれのどこが「暑苦しい」のか
理解にくるしんだ。
これらをすべて「暑苦しい」のひとことでくくり、
3週間の番組をつづけたホットマン氏の腕力を
たかく評価している。
担当者のこのみでこれだけすきにやられると
期待とかプレッシャーにとらわれれず、というか
期待なんかにこたえようとしない
ずぶとさこそ大切なのがわかる。

いいかげんをこのむわたしだけど、へんにまじめなところがあり、
お気楽な本をよんでいても、えんぴつで線をひいたりフセンをはったりする。
ホットマン氏のおしゃべりには、「オシムの言葉」ほどではないにせよ、
おもわずきき耳をたてる名言がいくつかあった。

・番組におくられてくるメールのなかには、
 「もっとフリートークを」という視聴者からの希望もあったという。
 でも、ディレクターに
 「おまえのはなしは中身がないから」と
 とめられていたそうで、

 「中身がないんじゃありません、
  中身のないはなしがすきなんです!」

・「こういうファンキーなミュージックにひたって、
 おなかがいっぱいになったときどうするか?
 ファンキーのおかわりをします!」

 も、いいはなしだ。
 けっきょくなんでもいいわけなんだけど。

まえのブログにかいたように、この番組を参考にして
ジョギングにぴったりのプレイリストをつくろうとおもっている。
3週間の放送でわかったこととして、
番組でとりあげられた曲のなかには、
わたしがすでにもっている曲がすくなくなかった。
それらをきいて、たのしくはしれているかというと、
どんな曲でもスピードをあげればくるしくなるわけで、
くるしいのはいやだからノリのいい曲ばかりでは
やってられなくなる。
わたしがほしいリストは、
ゆっくりながくはしるための曲あつめであり、
「とことん暑苦しい」がどこまで参考になるのか微妙なところだ。

3週間の放送で、「暑苦しい音楽」には
さすがにおなかがいっぱいになった。
「おかわり」をするじょうぶな胃袋はわたしにはなく、
しばらくはべつのジャンル(落語とか)をきいて
胃をやすめようとおもう。
またいつか、ホットマン氏が再登場してくれるのを
社交辞令ではなく たのしみにしている。

posted by カルピス at 11:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月09日

『少女は自転車にのって』ワジダのたくましさにひかれてゆく

『少女は自転車にのって』
(ハイファ=アル=マンスール:監督・2012年・サウジアラビア)

タイトルをしり、予告編をみたときには、
けなげな少女が宗教の抑圧にまけずに たくましく生きる、
みたいな作品だったらいやだなーと心配していた。
さいわい予想がはずれる。
いろいろな面で、非常に興味ぶかくみることのできる作品で、
そして、なによりも映画としておもしろかった。
主人公のワジダが自転車を手にいれようとするのはタイトルどおり。
でも、ワジダは大人のいうことをおとなしくきくような女の子ではなかった。
自転車が800リヤルとしると、親にたのむなんてはなからかんがえず、
ミサンガをうったり、がめつく大人からせびったりして
自分のちからでお金をためようとする。
しかし800リアルにはなかなか手がとどかない。
ワジダは優勝賞金が1000リヤルとなった
コーランのコンテストに参加することをきめる。

ワジダは女の子だけの学校にかよっている。
そこの校長先生が、わかくて美人だけどおっかないひとで、
大人への反発をやめないワジダにいつもきつくあたる。
いじわるなのではなく、宗教的に厳格なのだ。
家柄や、部族間のちから関係が影響をもつなかで、
あれだけ平等にきびしく子どもたちにせっするのは
よほどつよい信念があるのだろう。
ワジダが一生懸命にコーランを勉強し、
コンテストでもみごとな暗誦をきかせると、
ワジダの努力をたたえ、ほかの生徒も彼女をみならうようにはなす。

サウジアラビアの作品だから、撮影には制約がおおく、
道徳的な内容になるのかと心配してたけど、
ごくふつうの外国作品として興味ぶかくみることができた。
サウジアラビアの女性がどんな生活をおくっているのかを
映像でみたのは はじめてだったのではないか。
女性監督なのだそうだ。
よくこれだけのびのびとした作品をつくれたものだとおもう。
イスラム社会のなかで、女の子が自分のおもいをどう実現しようとするのか。
大人たちに従順でないワジダのことを、
この作品はけして批判的にはえがいていない。
ひとりでなんでもやろうとする彼女のエネルギーが みていて気もちよかった。
ドキュメンタリーのような作品でもある。
女子生徒だけの学校の雰囲気や、
学校からかえるとき、彼女たちがさっとベールをおろすところ。
女性の礼拝場面もはじめてみた。

男のまえでは顔をかくさないといけないのはたいへんだし、
夫が2番目の妻をむかえるのは抵抗があるだろう。
映画ではわからない抑圧がほかにもたくさんあるにきまっているけど、
この作品をみてかんじたのは、サウジアラビアとはいえ
女性たちもたのしんでくらしていることだ。
国によって、宗教によって、独特のしきたりがあり、
ひとびとはそれにそって生きている。
せっかくつくったご馳走を、
男たちだけがさきにたべてしまうのはひどい差別にもみえるけれど、
女だけであとからたべるほうが気らくなのかもしれない。
文化によっていろんな価値観があるのだから、
それでやっていくしかないんだろうと、わたしはあまりひっかからなかった。

ワジダはまだ10歳ということもあり、
女性としてのふるまいを そこまできびしくもとめられてはいない。
これからは子どもではなく、だんだんと女としてあつかわれはじめる
微妙な年齢だ。
ワジダの同級生(10歳だとおもう)が20歳の男性と結婚した。
ワジダがもう結婚できる年齢になったことも なんどか話題にのぼった。
サウジアラビア社会にすむものでないと、
このはやすぎるようにみえる結婚のことはわからない。
ワジダはこのあとどう成長していくのだろうか。
マンスール監督の今後に期待したい。

posted by カルピス at 17:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月08日

サッカー選手はなぜひとりでピッチからおきあがらないのか

サッカーの試合では、ピッチにたおれこんだ選手が、
ほかの選手のたすけをかりておきあがるのをよくみかける。
サッカー選手は、なぜ自分でおきあがらないのか、
不思議におもうひとはいないだろうか。
もちろん、ひとりでおきれないわけはなく、
このしぐさには状況によっていろんな意味がこめられている。

ファールをうけた選手が、「わるかったね!」というかんじで
相手からおこしてもらったり、
味方の選手に「いいプレーだったよ!」と健闘をたたえておこしてもらったり、
ときには審判から「もういいかげんにしなさいね」みたいに
おこしてもらったり。
アイススケートの選手でさえ、ころんだときはひとりでおきるのに、
これだけ自分ひとりでおきるのをいやがる競技はほかにない。

ある程度、これははやり・すたりによるもので、
ちょっとまえまで、すくなくとも日韓ワールドカップまでは
たおれてもひとりでおきるのが常識だった(テキトーです)。
それがいつのまにかたおれた選手に手をさしのばして
おきるのを手つだうのがマナーみたいになってきた。
おこすほうからすれば、自分もつかれているときに
たおれた選手をおこすのはけっこうちからがいる。
だからこそ、その労をおしまないのがエチケットだったり、
自分の余裕をしめすパフォーマンスともなりうる。

日本の選手は、まだ自分ひとりでおきようとするほうだろう。
外国人選手には、ひとのちからをかりようとするひとがおおく、
ときにはいくらまってもだれも手をさしのべないので、
しばらく両手を宙にさまよわせたあげく、
しかたなくひとりでおきあがることもある。

民族によっても たすけおこそうとする意欲がちがってくる。
たおれたひとの半径3メートル以内にちかづかないのが日本流で、
たすけるすべをもたなくても、とにかく野次馬として
かかわろうとするのがラテン系、
中東の選手は、はなから相手に手をさしのべる気などなく、
アングロサクソンは自分の精神的・肉体的な優位をあらわせるときにかぎり 労をおしまない。
よこになったものは、とにかくもとにもどさないといけない
発達系の選手がいることもみのがせない。
こういうひとは、たてにあるべきものがよこになっている状況を
ゆるせない性格なのだ。
几帳面というより、ただ気がすまないだけなので、
いたがってまだよこになっていたい選手にたいしても、
むりやりかかえておこそうとしていやがられる。

今回のWカップブラジル大会では、たすけおこすパフォーマンスについて、
とくに目あたらしいトレンドはうまれなかった。
いまはまだ、どんな場面でどう手をさしのべるかが
はっきりした基準となっていない過渡期なのだろう。
やたら手をだせばいいというものでもなく、
さりげなくスマートにきめるには、サッカー選手としての風格が、
あるレベルにたっしていないと絵にならない。
4年後のロシア大会までに、あたらしいうごきがうまれるだろうか。

posted by カルピス at 12:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月07日

プランターにそだったハーブを料理につかう

プランターにうえたバジルがおおきくそだった。
年によっては、虫やナメクジにたべつくされることがあるのに、
ことしはたくさんの葉っぱをつけている。
このバジルをどういかすか。
わたしはトマトソースにいれるぐらいしかおもいつかず、
それも、これまではトマトといっしょに煮こむかたちで
バジルを鍋にいれていた。
とうぜんバジルはクタクタになり、
みばえも味も、バジルをくわえたよさがほとんどかんじられない。
最近ようやく、バジルをどのタイミングでくわえたほうがいいのかつかめてきた。

夏になり、トマトがやすくでまわるようになると、
カンヅメではなく、生のトマトをつかって
トマトソースをつくるようになる。
トマトはおろし金をつかってフライパンにすりおろす。
この場合、トマトソースはバジルをいれることで完成する。
つまり、ゆであがったメンをトマトソースとあえる寸前に
バジルをくわえるのがいいみたいで、
こうすれば、新鮮なバジルならではのかおりと味をたのしめる。
バジルは熱によわく、かといって、生のままでは
口のなかでモシャモシャしてサラダをたべてるみたいだ。
微妙な加減で熱とオリーブオイルをくわえるのが、
バジルのおいしさをひきだすコツのようにおもう。

ハーブ専門店でかったベトナムコリアンダーにもお世話になっている。
こちらはもっぱらコリアンダー、つまりパクチーの代用品として料理にいれる。
ハーブショップのはなしによると、
日本の気候では冬しかコリアンダーがそだたないそうで、
夏にパクチーのつよいかおりをもとめようとおもえば、
このベトナムコリアンダーがかわりの役をはたしてくれるという。
たくさんのタイ人が日本にすむ時代であり、
タイ料理むけの材料をあつかうお店も都会にはあるそうだから、
夏にパクチーがないのはおかしいとおもうけど、
ハーブショップの店長さんの説明では、
とにかく日本の夏にはそだたないという。

ベトナムコリアンダーは、パクチーの代役だけあって、
ナンプラーとの相性がよく、
野菜いためや卵スープにいれても独特の風味となる。
しょうゆや塩よりも、ナンプラーをつかう料理におすすめで、
だから、なんでもナンプラー味にしてしまえばベトナムコリアンダーがいきる。
そこまでしてベトナムコリアンダーをたべなくてもいいわけだけど、
せっかくプランターにあるうちは、と
チャーハンだけでなく、スープやいためものによくつかうようになった。
なすびやピーマンがだめなむすこも、
ナンプラーとベトナムコリアンダーには抵抗をしめさない。
彼の将来に、このふたつの味をうけいれた経験は、
なにがしかのプラスにはたらくのではないか。

もうひとつ、ミントも料理につかいやすい。
料理というか、わたしの家ではもっぱらミントティー用で、
モロッコ風のどぎつくあまい味にしたてる。
コツは、ミントだけではなく、
中国茶(なければなんでもいい)もいっしょに急須にいれること。
日本人がミントティーをつくると、
ついミントのさわやかをいかそうとするけど、
それはべつもののミントティーとおもったほうがいい。
あくまでも本場の味をめざすのなら、
いっしょにお茶の葉をいれることと、
大量のさとうをくわえることにためらってはいけない。
糖分のとりすぎやダイエットをかんがえていては、
本格的なミントティーはたのしめない。
できあがったミントティーは、
これまたどぎついあまさのお菓子といっしょにちびちびいただく。
ミントティーとお菓子のあまさに、
だんだんあつさをわすれたような気がしてくる(はず)。

ハーブとは関係ないけど、
塩につけた梅ぼしを、いつ3日3晩の土用ぼしにするか、
先週からずっとまよっていた。
台風の影響か、このところ天気がわるく、来週もまた雨の予報がでている。
けさ、ちょっと陽がさしてきたので、いまのうちにとおもって
梅をザルにあげた。
とはいっても、午後からはくもってきたので、
ぜんぜん意味のない土用ぼしになるかもしれない。
日本全国、安定しない天気がつづくようで、
ことしくらい梅ぼしづくりになやましい年はない。

posted by カルピス at 22:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | 料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月06日

「デイリーポータルZ」の特別企画「勝手に食べ放題」日本はいつでも・どこでもたべ放題という事実

「デイリーポータルZ」の特別企画
「勝手に食べ放題」に意表をつかれた。
http://portal.nifty.com/2009/12/29/a/index.htm

どんな企画かというと、
「食べ放題3000円!」なんてお店にかいてあると
ついこころがさわいでしまいがちだけど、
じっさいはそんなにたべれないのではないか、
客のほうで自主的に「食べ放題」をしたら
ほんとうはいくらくらいかかるのかを、
いろんなお店でしらべようというものだ。

こうかくと、ごくあたりまえの調査におもえる。
しかし、こうやって「勝手に」たべ放題をしてみると、
これまでみすごしてきた意外な盲点が
くっきりうきあがってくることに気づく。
じつは、いまの日本において、
その気になれば、わたしたちは
どのお店でも「勝手に」たべ放題ができる。
そして、その値段は「食べ放題」の設定とそんなにちがわない。
お店の意図とは関係なく、客が「勝手に」たべ放題すれば、
いつでも・どこでも、すべてのお店がたべ放題なのだ。

ひとつおさえてあるのは、「30才以上を対象にした記事です」
と、あらかじめ「おことわり」されていることだ。
20代の体育会系と、食がほそくなりつつある中・高年者とを
たしかにいっしょにはできない。

調査の対象となったのは「ビッグボーイ」「ケンタッキー」「サイゼリア」
などの「いかにも」というお店だけでなく、
「ローソン」「富士そば」など、
たべ放題をイメージしたことのないお店をふくむ11店だ。
コンビニでたべ放題なんて、やりたいような、やりたくないような。
かわりどころとしては「ポッポ」という
イトーヨーカドーにあるスナックコーナー(やきそば・たこやきなど)と
「ヴィドフランス」というパン屋さんで、
ふつうこういうお店で「たべ放題」はやらない。

調査の結果は、「デイリーポータルZ」が予測していたとおりといえるだろう。
30をすぎた「ふつう」の人間は、
どんなにがんばっても、そんなにたべられるものではない。

たべ放題は、日本だけの企画なのだろうか。
設定された料金内なら、いくらでもたべられることはクールなのか。
ぱっとおもいついたインドでは、
おなかいっぱいたべるのがあたりまえであり、
お皿にのったごはんやカレーがすくなくなると、
お店のひとがどんどん追加してくれる。
すくない量できりあげるのがむつかしいほど、
お店側は客にしっかりたべさせようとする。
「たべ放題」なんていわなくても、お店はじめから
たべ放題を前提に料理を提供しているのだ。
タイはどうか。
いちにち3食に限定せず、すくない量をなんどもたべるのが
タイのやり方だから、
いちどの食事で満腹を目ざそうとは だれもしないのではないか。
インドネシアのメダン料理は、お皿にのった料理を
客が「勝手に」とって、あとで精算というシステムが有名で、
これもかたちをかえた「たべ放題」とはいえるかもしれないけど、
料金内で限界にいどむというかんがえ方ではない。

おおくの国には「たべ放題」という発想がなく、
「3000円でたべ放題!」がなぜ魅力的なのか、
基本的なところで理解されないような気がする。
料金内でたくさんたべたらお得、という設定と、
食事にもとめる価値がかみあわない。
「たべ放題」は、きわめて日本的な文化かもしれない。

posted by カルピス at 11:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | デイリーポータルZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月05日

「ほこりにおもう」は日本人になじまない気がする

Wカップの影響だろうか、
「ほこりにおもう」という表現を
しょっちゅうみかけるようになり、なんだか気になっていた。
自分の国をほこりにおもったり、
国のために、全力をつくしてくれた選手をほこりにおもったり、
自分が所属するチームをほこりにおもったり、
チームの伝統をほこりにおもったり、
すぐれた選手といっしょにプレーできることをほこりにおもったり。

「ほこりにおもう」といえば、なんとなくかっこいいけど、
でも、ほんとかいな、ともおもう。
外国人がいうと、そのままうけとれる。しかし、日本人は
ふだんあまり「ほこり」なんていわないのではないか。
わたしは、日本人が「ほこり」を日常的な行動指針としていないようにかんじており、
「ほこりにおもう」に違和感があった。
もちろんほこりは大切だとおもうし、自分へのほこりをかんじられないひとには
もうすこしなんとかしたら?といらついたりもする。
この場合のほこりは、あくまでも自分自身についてのもので、
自分が所属するなにかにたいしてほこりをかんじるのは、
日本人の意識にあまりなじまないのではないか。
それまでちがう価値観のもとにそだてられ、生きてきたひとが、
きゅうに「ほこり」なんていいだしても、本心からの発言におもえない。

理由のひとつとしてかんがえられるのは、
わたしがチームでおこなうスポーツを体験したことがないことで、
野球部やサッカー部での体験をもつひとは
またちがうかんじかたをしているのかもしれない。
ただ、このときに選手たちの頭にあるのは母校愛であり、
ほこりとはちがうのではないか。
箱根駅伝で、必死にたすきをつなごうとするのは、
「ほこり」ではなく「愛」のような気がする。

日本社会全体でかんじるのは、
「ほこり」よりも「はずかしくない」に価値をおいていることで、
ふだんは「はずかしくない」が行動指針なのに、
外国のチームと試合をするときだけ「ほこり」をもちだしても
自分の本心とへだたりがあり、無理しているのがすけてみえる。
学校を卒業し、社会で仕事をするようになったとき、
職場は愛社精神をもとめるかもしれないが、
それと「ほこり」とは、微妙にちがう。
「愛」は母性で、「ほこり」は父性だ、といえば
なんとなく説明がつくような気がするけど、
ほんとのところ よくわからない。

「ほこり」がどれだけ個人の精神にしみこんでいるかは、
民族によってちがうだろう。
日本人以外の民族が、ふだんどれだけ「ほこり」を行動指針としているのか
わたしはしらない。
Wカップの試合をみていると、サッカーというより戦争みたいにおもえることがあるので、
国によって 民族によって、そうとう差があるのをかんじるくらいだ。
「ほこり」でも「愛」でも「はじ」でも、
なにを行動指針にするかは、たいしてちがいはないかもしれない。
しかし、日本人と「ほこり」の相性のわるさは気になってしまう。
なぜきゅうに日本人も「ほこり」なんていいだすようになったのだろう。
マッチョにむかういまの世相と関係なければいいけど。

posted by カルピス at 18:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月04日

『翻訳夜話』(村上春樹・柴田元幸)よみものとしておもしろい 村上さんの翻訳作法

『翻訳夜話』(村上春樹・柴田元幸/文春新書)

『キッチン』にでていたカツ丼のことから、『翻訳夜話』をひっぱりだす。
村上春樹さんと柴田元幸さんによる翻訳についての本だ。
柴田さんの翻訳ワークショップに
村上さんがゲストとしてよばれている。
学生たちからだされる質問を、
村上さんが正面からうけとめ、ていねいにこたえる。
これくらい親切な講師はいないとおもえるほど、
翻訳についての村上さんはおしゃべりだ。

カツ丼をどう訳すかについて
具体的なヒントをえることはできなかったが、
小説について、文章について、そしてもちろん翻訳について、
村上さんのかんがえ方が わかりやすくしめされている。
翻訳についてしろうとおもわなくても、
1冊のよみものとして この本はじゅうぶんおもしろい。
小説について意見をもとめられると、
いかにも口がおもそうな村上さんなのに、
翻訳がらみでは、まるで別人のように どんどんはなしてくれる。

まずはじめに、村上さんは、
なぜ自分がこんなに翻訳がすきなのか、
ほんとうのところ、よくわからないという。

「机の左手に気に入った英語のテキストがあって、
それを右手にある白紙に
日本語の文章として立ち上げていくときに感じる喜びは、
ほかの行為では得ることのできない特別な種類のものである」
「どこか空の上の方には『翻訳の神様』がいて、
その神様がじっとこっちを見ているような、
そういう自然な温かみを感じないわけにはいかないのだ」

神がかった、人知をこえた世界であり、
なぜすきかに理由などないのだ。

・かけがえのなさについて
「たとえば僕にかけがえがないかというと、
かけがえはあるんです。
というのは僕が今ここで死んじゃって、
日本の文学界が明日から大混乱をきたすかというと、
そんなことはないです。(中略)
取替え可能ではないけれど、とくに困らない。
でもね、僕が翻訳をやっているときは、
自分がかけがえがないと感じるのね、不思議に」

「僕以外にカーヴァーを訳せる人がいっぱいるし、
あるいは僕以外にフィッツジェラルドを訳せる人もいる。
しかし、僕が訳すようには訳せないはずだと、
そう確信する瞬間があるんです。
かけがえがないというふうに、
自分では感じちゃんうんですよね。
一種の幻想なんだけど」

翻訳にたいして、村上さんがかたむける熱意と愛情は、
本文にもあるとおり、小説の創作とはまったくべつのものだ。
なぜかわからないけど、とにかくすき、という対象をもち、
そこに自分ならではという「かけがえのなさ」までみいだせるなんて、
すごくうらやましい。

・文体について
「文体ということで言うと、(中略)
いわゆる『身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ』というやつで、
翻訳をする場合、とにかく自分というものを捨てて訳すわけですよ。
ところが、自分というのはどうしたって捨てられないんです。
だから徹底的に捨てようと思って、
それでなおかつ残っているぐらいが、
文体としてちょうどいい感じになるんだね」

・リズムについて(ビートとうねり)
「一つは非常にフィジカルなリズムです。いわゆるビートですよね。(中略)
それともう一つはうねりですね。
ビートよりもっと大きいサイクルの、
こういう(と手を大きくひらひらさせる)うねり。
このビートとうねりのない文章って、人はなかなか読まないんですよ。
いくら綺麗な言葉を綺麗に並べてみても、
ビートとうねりがないと、文章がうまく呼吸しないから、
かなり読みづらいです。
それで、ビートというのは、意識すれば身につけられるんです。
ただ、うねりに関して言えば、これはすごく難しいです。(中略)
いっぱい文章を書いて、身体で覚えるしかない。
それでも身につかない人も多いかもしれない。(中略)
多少下手な文章でもそれがあれば、人はすすんで読んでくれます。(中略)
良い文章というのは、人を感心させる文章ではなくて、
人の襟首をつかんで物理的に中に引きずり込めるような文章だと僕は思っています」

「文章っていうのは人を次に進めなくちゃいけないから、
前のめりにならなくちゃいけないんですよ。
どうしたら前のめりになるかというと、
やっぱりリズムがなくちゃいけない。(中略)
これはね、本当に簡単に言ってしまうと、
ある人にはあるし、ない人にはないんです。(中略)
ただ、ある程度勉強すれば身につくはずです。
それが結果的に商品になるかどうか、
それまでは僕にはわかりませんけど」

かきうつした発言は、すべて村上さんによるものだ。
「ビートとうねり」のはなしは、とくに気になる。
文章をかくときに、わたしもリズムには気をつけている。
しかし、「うねり」はあるだろうか。
この本でかたられている内容は、
とてもわかりやすく説明しておきながら、
けっこう身もふたもないはなしがおおい。
そこがまたこの本のおもしろさでもある。
翻訳とは、こんなにもデリケートな配慮のつみかさねなのだ。

おふたりが、熱心に翻訳の世界をはなしていると、
「商品になるかどうか」はおいといて、
なにかの作品を「かけがえのない」とかんじられるように 訳してみたくなる。
しかし、こればっかりは、やりたいからといって
かんたんに実行できるわけではない。
絵本なら、なんとかなるだろうか。
しかし、絵本こそ、ごまかしがきかないような気もするし。
翻訳に縁のないものにも、翻訳の世界にふれさせてくれるこの本は、
創作とはまたべつのたのしさがあることをおしえてくれる。
創作について、引導もわたしてくれるかもしれない。

posted by カルピス at 23:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 村上春樹 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月03日

台風にもクラゲにもまけず、多岐のスイムランを完走する

出雲市多伎町でおこなわれたスイムランに参加する。
今年が29回目となる大会で、今回は359名が参加し、
そのうちの7割が県外からということだ。
わたしの恒例行事であり、この大会のために3ヶ月まえから準備にとりくむ。
いいタイムがでないのは年齢的にしょうがないとして、
完走できるだけのコンディションはととのえておきたいから。

けさまで台風12号の影響が心配された。
海があれていたら、大会が中止になるかもしれない。
中止になったら残念におもうだろうか、
それともうれしいだろうかとすこしかんがえた。
たぶん残念さのほうがつよいとおもう。

雨はふっているものの、
海に波はなく、予定どおり9時からのスタートとなる。
なんどやってもスタートまえはいやなものだ。
これから2.4キロおよぎ、そのあと21キロのランニングと、
3時間の競技をどうのりきるか。
いつにないことに、ことしはクラゲがおおいと
スタートまえの諸注意ではなされた。
さされて死ぬクラゲではないから、
安心しておよいでくださいといわれる。
クラゲにさされまくったとき、
それでもおよぎつづけるガッツがわたしにあるだろうか。
およいでから判断しよう、では、きっとやめたくなるから、
クラゲを理由に棄権しないことを スタートまえにきめる。
およいでいると、じっさいに5回くらいさされた。
そうひどいいたみではなく、
わたしのガッツをあまり発揮しなくてものりきれた。

ロングのコース、2.4キロをおよぎおえ、
海をふりかえると、およいでいるひとはあまりみえない。
わたしは高校生のときに国体に参加したことのある
れっきとした元スイマーなのに、
そしてそのあともほそぼそとトレーニングをつんでいるのに、
そんな人間のさきをゆくおじさん・おばさんたちは、いったいなんなのだ
(わかいひとはしょうがないとしても)。

ランニングにきりかえても、いつものように
うしろからどんどんおいぬかれる。
わたしより年配のひともおおい。
レースちゅう、ずっと小雨がふっており、
そのおかげであつさにくるしむことはない。
なんとかさいごまで自分の足をうごかしている気がした。
いつもだともっとつかれはて、自分の意思ではしっているというよりも、
ただ足をまえにはだしているだけの状態になる。
3時間10分〜15分でゴールしたとおもう。

これで、ことし最大のイベントがおわったわけだけど、
あんまり安心してしまうと、
またからだがうごくようになるまでに時間がかかるので、
きょうのレースがおわったことは「なかったこと」にするのが
このところの基本方針だ。
よろこびはほどほどにしておいて、
すぐに頭をきりかえる。
きりかえてなにをするわけではないとしても、
いったん気をゆるめると、ぐちゃぐちゃになりやすい。

このレースにむけて、2ヶ月まえから酒をやめていた。
一大決心をしてタイムをめざしたわけではない。
ついのみすぎて、つぎの日に酒がのこってしまうのを
なんどもなんどもくりかえし、
そんな自分がいいかげんいやになったのだ。
酒は、わたしのからだにあわないのかもしれない。
やめてみるとなんということもなく、
あつい日でもビールやジン・トニックがほしいとはまったくおもわなかった。
頭やからだが酒をもとめるというよりも、飲酒は習慣にすぎないのだろう。
レースがおわり、これから酒をまたのみだすかは 微妙なところだ。
酒をのまないなんて、つまらない人生のような気がするいっぽう、
せっかく身についたいい習慣をうしなうのはもったいないような。
このレースのうちあげのとき、こたえがでるだろう。

posted by カルピス at 20:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月02日

『キッチン』(吉本ばなな)カツ丼のちからをひきだす ばなな作品のものがたり性

『キッチン』(吉本ばなな・角川文庫)

『本の雑誌』8月号で
入江敦彦氏が『キッチン』をとりあげている
(『キッチン』と少女マンガのリアリズム)。
ばなな作品は、これまで何冊かよんでいるけど、
『キッチン』はまだだった。
入江氏によると、1990年代のイギリスにおいて、
ばなな作品は村上春樹よりも話題になっていたという。
「知りあう人ごと、わたしが日本人だと判るや異口同音に
『ばななは素晴らしいね!』と褒めそやした」
というからすごい。さっそくよんでみる。

祖母とふたりぐらしをしていた女子大生(みかげ)が、
祖母がなくなり 呆然としていたときに、
ほとんどみずしらずの男性から
「しばらくうちに来ませんか。」
とさそわれる。
彼は、祖母のいきつけの花屋さんでアルバイトをしている青年とはいえ、
直接はなしをしたことはない。

「悪く言えば、魔がさしたというのでしょう。
しかし、彼の態度はとても”クール”だったので、
私は信じることができた」(角川文庫:11ページ)

「これをそのまま『そいういうこともあるかも』と
読者に納得させてしまえるのは、
吉本ばななが少女マンガ特有のリアリズムを獲得していたからである」
というのが入江氏の指摘だ。

男性(雄一)の家にいってみると、
いっしょにくらしている ものすごくきれいなお母さん(えり子さん)が、じつは男で、
ほんとうのお母さんは、どちらかというと
へんな顔だちの女性だったのに、えり子さんは
「お母さんにものすごく執着して」かけおちしたのだそうだ。
お母さんがなくなったあと、えり子さんは
「もう、誰も好きになりそうにないから」
女になることにきめ、手術したという。

めちゃくちゃなはなしがたてつづけにでてくるのに
たしかに違和感なくよめる。

有名な(きっと有名だとおもう)「カツ丼配達事件」も、
ありえないできごとが気にならない。

お店でたべたカツ丼がものすごくおいしかったので、
みかげは雄一にカツ丼をとどけることを、発作的におもいつく。
雄一はそのとき、とおくの町をひとりで旅行中だ。

「いかに飢えていたとはいえ、私はプロだ。
このカツ丼はほとんどめぐりあい、と言ってもいいような腕前だと思った。
カツの肉の質といい、だしの味といい、
玉子と玉ねぎの煮え具合といい、
かために炊いたごはんの米といい、
非の打ちどころがない。(中略)
ああ、雄一がここにいたら、と思った瞬間に
私は衝動で言ってしまった。
『おじさん、これ持ち帰りできる?
もうひとつ、作ってくれませんか。』」

えり子さんがきゅうに死んでしまい、
ふかくかなしんでいる雄一に みかげはなにかをつたえたかった。
カツ丼のおもちかえりは、発作的におもいついたことなので、
どうやってとどけるかについて具体的な案はない。
雄一に、なにをはなすのかをきめたわけでもない。
どうしようかと道にたちつくしていると、
そこへ、空車まちとかんちがいしたタクシーがすべりこんでくる。

雄一がとまっている旅館についても、
すでにたてもの全体がまっくらで、
どこが雄一の部屋なのかわからない。
あたりをつけた部屋へ、雨どいをつかんで屋根によじのぼる。

「ひとはみんな、道はたくさんあって、
自分で選ぶことができると思っている。(中略)
私もそうだった。しかし、今、知った。
道はいつも決まっている。
人によってはこうやって、
気づくとまるで当然のことのように
見知らぬ土地の屋根の水たまりの中で、真冬に、
カツ丼と共に夜空を見上げて寝ころがらざるをえなくなる」

カツ丼をえらんだところが正解だ。
なんといってもカツ丼は、
すべてのたべもののなかで、いちばん実力がある。
あの場面でみかげがカツ丼にであえたことも「道」なのだろう。

「雄一は箸を置き、まっすぐ私の目を見つめて言った。
『こんなカツ丼は生涯もう食うことはないだろう。・・・大変、おいしかった。』」

おそらくカツ丼のおかげだだとおもう。
雄一は、あてのない旅をやめて東京へもどることにする。
完璧につくられたカツ丼ほどちからをもつたべものはない。
それが、タクシーで深夜に、みかげによってとどけられたのだから、
雄一の「道」もまたきめられていたようなものだ。
余談ながら、吉本さんの本は、いろんな外国語にやくされているそうで、
カツ丼がどうやくされているのかしりたいところだ。
そのまま「Katudon」がつかわれ、べつの欄に説明がはいるのだろうか
(これまた余談だけど、吉本ばなな氏は『TUGUMI』と、
訓令式のローマ字を表題につかっている)。

ばなな作品のおもしろさは、リアリティよりも
ちからづよいものがたり性にある。
リアリティがないはずなのに、よむ側が気にならないのは、
入江氏の指摘にあるとおり、
ばなな氏が少女マンガの通過儀礼をすませているからなのだろうか。
わたしは、ものがたりがありえない方向へ
はなし全体をひっぱっていくのがすきで
本をよんでいるようなものだ。
ばなな作品の独特な世界では、
リアリティにじゃまされず、ものがたりの意外性を そのままたのしむことができる。
外国人にも、ほとんど少女マンガの素養がないわたしにも、
ばなな作品のおもしろさがわかるのは、
かんがえてみれば不思議なことだ。

posted by カルピス at 19:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月01日

だだこねしてミニカー400台は、おどろくべきはなしではないのか。

ラジオをきいていたら
ラジオネーム「なき虫はオレだ」さんが曲をリクエストをしていた。
このかたは、おさないころにスーパーなどでだだこねをして、
かってもらったミニカーが400台にもなるそうだ。
番組の女性司会者は、ほしいものはそうやって
だだをこねてでも手にいれたほうがいいと、
あっさりうけいれてたけど、
そうしただだこねのつみかさねが、どんな人格形成につながったのか
すごく興味がわいてきた。
その司会者は、女だけの3人姉妹で、
まんなかの妹さんだけがじょうずにだだをこね、
上と下は我慢させられたことがくやしかったとはなしている。
番組のなかで「なき虫はオレだ」さんをいさめてもしょうがないとはいえ、
それだけ膨大なだだこねをしたひとがおとなになったとき、
どんな人間にそだつのか、できれば話題をふかめてほしかった。

このまえ体育館の更衣室できがえていたら、
ヘアドライヤーの音がずっときこえている。
やけに几帳面なひとだなーと、洗面台のほうをみると、
高校生くらいの男の子がスマホをみながら
あたまにドライヤーをあてているのだった。
スマホに気をとられ、ドライヤーをうごかさないので
髪がなかなかかわかない。
というか、かわかすのが目的なのではなく、
スマホをみながらなんとなくドライヤーをもっているかんじで、
いやなものをみた、と目をそむけたくなる風景だった。
400台のもミニカーがあつまるくらい だだをこねたつづけたひとは、
そういうほうけたツラをしているのではないかと想像する。

それにしても400台はすごい。
いったい親はなにをかんがえていたのか。
よほどたくみなだだこねなのか、こりない親なのか。
きっとお店でも有名なこまった客だったはずだ。
日本でも400台なんて子がいるのだから、
世界にはもっとつわものがいるはずで、
たとえば中国のひとりっこなど、
めちゃくちゃな無理をいっているのではないか。

わたしは、スーパーのおかしうりばなどでその手のだだこねをみるたびに、
自分の子には、ぜったいにそんなまねをさせないとちかってきた。
だいきらいな場面だ。
そんなことをいいだす子もわるいけど、親の対応もよくない。
さいわいわたしのむすこはだだこねをしなかったので、
修羅場をえんじずにすんだ。
だだをこねてもかわないと、親がしっかりきめていたら、
なんとかなりそうなものなのに。

よんだことはないけど、
『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』
なんてタイトルの本があるぐらいだから、
子どものころの体験は頭とからだにつよくのこりそうだ。
このまえ話題になっていた号泣県議さんなどは、
あんがいだだこねで味をしめたひとだったのではないか。
あれだけめちゃくちゃなことをするひとは、
おさないころもそれなりの実績があるにちがいない。

それとも、子どものときにはそうとうひどくても、
おおきくなるにつれて我慢や気もちのコントロールを身につけ、
だんだんとまともな人間になっていくのだろうか。
そだってしまった本人には、客観的な判断ができそうにないので、
今回みたいにラジオ番組で「そういえば」というはなしを
どんどんとりあげてくれたらありがたい。
400台のミニカーは、わたしにとってしんじがたいはなしだった。
それをかんたんに肯定する司会者にもおどろいたけど。

posted by カルピス at 21:46 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする