『キッチン』(吉本ばなな・角川文庫)
『本の雑誌』8月号で
入江敦彦氏が『キッチン』をとりあげている
(『キッチン』と少女マンガのリアリズム)。
ばなな作品は、これまで何冊かよんでいるけど、
『キッチン』はまだだった。
入江氏によると、1990年代のイギリスにおいて、
ばなな作品は村上春樹よりも話題になっていたという。
「知りあう人ごと、わたしが日本人だと判るや異口同音に
『ばななは素晴らしいね!』と褒めそやした」
というからすごい。さっそくよんでみる。
祖母とふたりぐらしをしていた女子大生(みかげ)が、
祖母がなくなり 呆然としていたときに、
ほとんどみずしらずの男性から
「しばらくうちに来ませんか。」
とさそわれる。
彼は、祖母のいきつけの花屋さんでアルバイトをしている青年とはいえ、
直接はなしをしたことはない。
「悪く言えば、魔がさしたというのでしょう。
しかし、彼の態度はとても”クール”だったので、
私は信じることができた」(角川文庫:11ページ)
「これをそのまま『そいういうこともあるかも』と
読者に納得させてしまえるのは、
吉本ばななが少女マンガ特有のリアリズムを獲得していたからである」
というのが入江氏の指摘だ。
男性(雄一)の家にいってみると、
いっしょにくらしている ものすごくきれいなお母さん(えり子さん)が、じつは男で、
ほんとうのお母さんは、どちらかというと
へんな顔だちの女性だったのに、えり子さんは
「お母さんにものすごく執着して」かけおちしたのだそうだ。
お母さんがなくなったあと、えり子さんは
「もう、誰も好きになりそうにないから」
女になることにきめ、手術したという。
めちゃくちゃなはなしがたてつづけにでてくるのに
たしかに違和感なくよめる。
有名な(きっと有名だとおもう)「カツ丼配達事件」も、
ありえないできごとが気にならない。
お店でたべたカツ丼がものすごくおいしかったので、
みかげは雄一にカツ丼をとどけることを、発作的におもいつく。
雄一はそのとき、とおくの町をひとりで旅行中だ。
「いかに飢えていたとはいえ、私はプロだ。
このカツ丼はほとんどめぐりあい、と言ってもいいような腕前だと思った。
カツの肉の質といい、だしの味といい、
玉子と玉ねぎの煮え具合といい、
かために炊いたごはんの米といい、
非の打ちどころがない。(中略)
ああ、雄一がここにいたら、と思った瞬間に
私は衝動で言ってしまった。
『おじさん、これ持ち帰りできる?
もうひとつ、作ってくれませんか。』」
えり子さんがきゅうに死んでしまい、
ふかくかなしんでいる雄一に みかげはなにかをつたえたかった。
カツ丼のおもちかえりは、発作的におもいついたことなので、
どうやってとどけるかについて具体的な案はない。
雄一に、なにをはなすのかをきめたわけでもない。
どうしようかと道にたちつくしていると、
そこへ、空車まちとかんちがいしたタクシーがすべりこんでくる。
雄一がとまっている旅館についても、
すでにたてもの全体がまっくらで、
どこが雄一の部屋なのかわからない。
あたりをつけた部屋へ、雨どいをつかんで屋根によじのぼる。
「ひとはみんな、道はたくさんあって、
自分で選ぶことができると思っている。(中略)
私もそうだった。しかし、今、知った。
道はいつも決まっている。
人によってはこうやって、
気づくとまるで当然のことのように
見知らぬ土地の屋根の水たまりの中で、真冬に、
カツ丼と共に夜空を見上げて寝ころがらざるをえなくなる」
カツ丼をえらんだところが正解だ。
なんといってもカツ丼は、
すべてのたべもののなかで、いちばん実力がある。
あの場面でみかげがカツ丼にであえたことも「道」なのだろう。
「雄一は箸を置き、まっすぐ私の目を見つめて言った。
『こんなカツ丼は生涯もう食うことはないだろう。・・・大変、おいしかった。』」
おそらくカツ丼のおかげだだとおもう。
雄一は、あてのない旅をやめて東京へもどることにする。
完璧につくられたカツ丼ほどちからをもつたべものはない。
それが、タクシーで深夜に、みかげによってとどけられたのだから、
雄一の「道」もまたきめられていたようなものだ。
余談ながら、吉本さんの本は、いろんな外国語にやくされているそうで、
カツ丼がどうやくされているのかしりたいところだ。
そのまま「Katudon」がつかわれ、べつの欄に説明がはいるのだろうか
(これまた余談だけど、吉本ばなな氏は『TUGUMI』と、
訓令式のローマ字を表題につかっている)。
ばなな作品のおもしろさは、リアリティよりも
ちからづよいものがたり性にある。
リアリティがないはずなのに、よむ側が気にならないのは、
入江氏の指摘にあるとおり、
ばなな氏が少女マンガの通過儀礼をすませているからなのだろうか。
わたしは、ものがたりがありえない方向へ
はなし全体をひっぱっていくのがすきで
本をよんでいるようなものだ。
ばなな作品の独特な世界では、
リアリティにじゃまされず、ものがたりの意外性を そのままたのしむことができる。
外国人にも、ほとんど少女マンガの素養がないわたしにも、
ばなな作品のおもしろさがわかるのは、
かんがえてみれば不思議なことだ。