『翻訳夜話』(村上春樹・柴田元幸/文春新書)
『キッチン』にでていたカツ丼のことから、『翻訳夜話』をひっぱりだす。
村上春樹さんと柴田元幸さんによる翻訳についての本だ。
柴田さんの翻訳ワークショップに
村上さんがゲストとしてよばれている。
学生たちからだされる質問を、
村上さんが正面からうけとめ、ていねいにこたえる。
これくらい親切な講師はいないとおもえるほど、
翻訳についての村上さんはおしゃべりだ。
カツ丼をどう訳すかについて
具体的なヒントをえることはできなかったが、
小説について、文章について、そしてもちろん翻訳について、
村上さんのかんがえ方が わかりやすくしめされている。
翻訳についてしろうとおもわなくても、
1冊のよみものとして この本はじゅうぶんおもしろい。
小説について意見をもとめられると、
いかにも口がおもそうな村上さんなのに、
翻訳がらみでは、まるで別人のように どんどんはなしてくれる。
まずはじめに、村上さんは、
なぜ自分がこんなに翻訳がすきなのか、
ほんとうのところ、よくわからないという。
「机の左手に気に入った英語のテキストがあって、
それを右手にある白紙に
日本語の文章として立ち上げていくときに感じる喜びは、
ほかの行為では得ることのできない特別な種類のものである」
「どこか空の上の方には『翻訳の神様』がいて、
その神様がじっとこっちを見ているような、
そういう自然な温かみを感じないわけにはいかないのだ」
神がかった、人知をこえた世界であり、
なぜすきかに理由などないのだ。
・かけがえのなさについて
「たとえば僕にかけがえがないかというと、
かけがえはあるんです。
というのは僕が今ここで死んじゃって、
日本の文学界が明日から大混乱をきたすかというと、
そんなことはないです。(中略)
取替え可能ではないけれど、とくに困らない。
でもね、僕が翻訳をやっているときは、
自分がかけがえがないと感じるのね、不思議に」
「僕以外にカーヴァーを訳せる人がいっぱいるし、
あるいは僕以外にフィッツジェラルドを訳せる人もいる。
しかし、僕が訳すようには訳せないはずだと、
そう確信する瞬間があるんです。
かけがえがないというふうに、
自分では感じちゃんうんですよね。
一種の幻想なんだけど」
翻訳にたいして、村上さんがかたむける熱意と愛情は、
本文にもあるとおり、小説の創作とはまったくべつのものだ。
なぜかわからないけど、とにかくすき、という対象をもち、
そこに自分ならではという「かけがえのなさ」までみいだせるなんて、
すごくうらやましい。
・文体について
「文体ということで言うと、(中略)
いわゆる『身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ』というやつで、
翻訳をする場合、とにかく自分というものを捨てて訳すわけですよ。
ところが、自分というのはどうしたって捨てられないんです。
だから徹底的に捨てようと思って、
それでなおかつ残っているぐらいが、
文体としてちょうどいい感じになるんだね」
・リズムについて(ビートとうねり)
「一つは非常にフィジカルなリズムです。いわゆるビートですよね。(中略)
それともう一つはうねりですね。
ビートよりもっと大きいサイクルの、
こういう(と手を大きくひらひらさせる)うねり。
このビートとうねりのない文章って、人はなかなか読まないんですよ。
いくら綺麗な言葉を綺麗に並べてみても、
ビートとうねりがないと、文章がうまく呼吸しないから、
かなり読みづらいです。
それで、ビートというのは、意識すれば身につけられるんです。
ただ、うねりに関して言えば、これはすごく難しいです。(中略)
いっぱい文章を書いて、身体で覚えるしかない。
それでも身につかない人も多いかもしれない。(中略)
多少下手な文章でもそれがあれば、人はすすんで読んでくれます。(中略)
良い文章というのは、人を感心させる文章ではなくて、
人の襟首をつかんで物理的に中に引きずり込めるような文章だと僕は思っています」
「文章っていうのは人を次に進めなくちゃいけないから、
前のめりにならなくちゃいけないんですよ。
どうしたら前のめりになるかというと、
やっぱりリズムがなくちゃいけない。(中略)
これはね、本当に簡単に言ってしまうと、
ある人にはあるし、ない人にはないんです。(中略)
ただ、ある程度勉強すれば身につくはずです。
それが結果的に商品になるかどうか、
それまでは僕にはわかりませんけど」
かきうつした発言は、すべて村上さんによるものだ。
「ビートとうねり」のはなしは、とくに気になる。
文章をかくときに、わたしもリズムには気をつけている。
しかし、「うねり」はあるだろうか。
この本でかたられている内容は、
とてもわかりやすく説明しておきながら、
けっこう身もふたもないはなしがおおい。
そこがまたこの本のおもしろさでもある。
翻訳とは、こんなにもデリケートな配慮のつみかさねなのだ。
おふたりが、熱心に翻訳の世界をはなしていると、
「商品になるかどうか」はおいといて、
なにかの作品を「かけがえのない」とかんじられるように 訳してみたくなる。
しかし、こればっかりは、やりたいからといって
かんたんに実行できるわけではない。
絵本なら、なんとかなるだろうか。
しかし、絵本こそ、ごまかしがきかないような気もするし。
翻訳に縁のないものにも、翻訳の世界にふれさせてくれるこの本は、
創作とはまたべつのたのしさがあることをおしえてくれる。
創作について、引導もわたしてくれるかもしれない。