Wカップの影響だろうか、
「ほこりにおもう」という表現を
しょっちゅうみかけるようになり、なんだか気になっていた。
自分の国をほこりにおもったり、
国のために、全力をつくしてくれた選手をほこりにおもったり、
自分が所属するチームをほこりにおもったり、
チームの伝統をほこりにおもったり、
すぐれた選手といっしょにプレーできることをほこりにおもったり。
「ほこりにおもう」といえば、なんとなくかっこいいけど、
でも、ほんとかいな、ともおもう。
外国人がいうと、そのままうけとれる。しかし、日本人は
ふだんあまり「ほこり」なんていわないのではないか。
わたしは、日本人が「ほこり」を日常的な行動指針としていないようにかんじており、
「ほこりにおもう」に違和感があった。
もちろんほこりは大切だとおもうし、自分へのほこりをかんじられないひとには
もうすこしなんとかしたら?といらついたりもする。
この場合のほこりは、あくまでも自分自身についてのもので、
自分が所属するなにかにたいしてほこりをかんじるのは、
日本人の意識にあまりなじまないのではないか。
それまでちがう価値観のもとにそだてられ、生きてきたひとが、
きゅうに「ほこり」なんていいだしても、本心からの発言におもえない。
理由のひとつとしてかんがえられるのは、
わたしがチームでおこなうスポーツを体験したことがないことで、
野球部やサッカー部での体験をもつひとは
またちがうかんじかたをしているのかもしれない。
ただ、このときに選手たちの頭にあるのは母校愛であり、
ほこりとはちがうのではないか。
箱根駅伝で、必死にたすきをつなごうとするのは、
「ほこり」ではなく「愛」のような気がする。
日本社会全体でかんじるのは、
「ほこり」よりも「はずかしくない」に価値をおいていることで、
ふだんは「はずかしくない」が行動指針なのに、
外国のチームと試合をするときだけ「ほこり」をもちだしても
自分の本心とへだたりがあり、無理しているのがすけてみえる。
学校を卒業し、社会で仕事をするようになったとき、
職場は愛社精神をもとめるかもしれないが、
それと「ほこり」とは、微妙にちがう。
「愛」は母性で、「ほこり」は父性だ、といえば
なんとなく説明がつくような気がするけど、
ほんとのところ よくわからない。
「ほこり」がどれだけ個人の精神にしみこんでいるかは、
民族によってちがうだろう。
日本人以外の民族が、ふだんどれだけ「ほこり」を行動指針としているのか
わたしはしらない。
Wカップの試合をみていると、サッカーというより戦争みたいにおもえることがあるので、
国によって 民族によって、そうとう差があるのをかんじるくらいだ。
「ほこり」でも「愛」でも「はじ」でも、
なにを行動指針にするかは、たいしてちがいはないかもしれない。
しかし、日本人と「ほこり」の相性のわるさは気になってしまう。
なぜきゅうに日本人も「ほこり」なんていいだすようになったのだろう。
マッチョにむかういまの世相と関係なければいいけど。