2014年08月08日

サッカー選手はなぜひとりでピッチからおきあがらないのか

サッカーの試合では、ピッチにたおれこんだ選手が、
ほかの選手のたすけをかりておきあがるのをよくみかける。
サッカー選手は、なぜ自分でおきあがらないのか、
不思議におもうひとはいないだろうか。
もちろん、ひとりでおきれないわけはなく、
このしぐさには状況によっていろんな意味がこめられている。

ファールをうけた選手が、「わるかったね!」というかんじで
相手からおこしてもらったり、
味方の選手に「いいプレーだったよ!」と健闘をたたえておこしてもらったり、
ときには審判から「もういいかげんにしなさいね」みたいに
おこしてもらったり。
アイススケートの選手でさえ、ころんだときはひとりでおきるのに、
これだけ自分ひとりでおきるのをいやがる競技はほかにない。

ある程度、これははやり・すたりによるもので、
ちょっとまえまで、すくなくとも日韓ワールドカップまでは
たおれてもひとりでおきるのが常識だった(テキトーです)。
それがいつのまにかたおれた選手に手をさしのばして
おきるのを手つだうのがマナーみたいになってきた。
おこすほうからすれば、自分もつかれているときに
たおれた選手をおこすのはけっこうちからがいる。
だからこそ、その労をおしまないのがエチケットだったり、
自分の余裕をしめすパフォーマンスともなりうる。

日本の選手は、まだ自分ひとりでおきようとするほうだろう。
外国人選手には、ひとのちからをかりようとするひとがおおく、
ときにはいくらまってもだれも手をさしのべないので、
しばらく両手を宙にさまよわせたあげく、
しかたなくひとりでおきあがることもある。

民族によっても たすけおこそうとする意欲がちがってくる。
たおれたひとの半径3メートル以内にちかづかないのが日本流で、
たすけるすべをもたなくても、とにかく野次馬として
かかわろうとするのがラテン系、
中東の選手は、はなから相手に手をさしのべる気などなく、
アングロサクソンは自分の精神的・肉体的な優位をあらわせるときにかぎり 労をおしまない。
よこになったものは、とにかくもとにもどさないといけない
発達系の選手がいることもみのがせない。
こういうひとは、たてにあるべきものがよこになっている状況を
ゆるせない性格なのだ。
几帳面というより、ただ気がすまないだけなので、
いたがってまだよこになっていたい選手にたいしても、
むりやりかかえておこそうとしていやがられる。

今回のWカップブラジル大会では、たすけおこすパフォーマンスについて、
とくに目あたらしいトレンドはうまれなかった。
いまはまだ、どんな場面でどう手をさしのべるかが
はっきりした基準となっていない過渡期なのだろう。
やたら手をだせばいいというものでもなく、
さりげなくスマートにきめるには、サッカー選手としての風格が、
あるレベルにたっしていないと絵にならない。
4年後のロシア大会までに、あたらしいうごきがうまれるだろうか。

posted by カルピス at 12:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする