朝日新聞に連載されている甲子園観戦記の欄で、
ミス松本の女性が 試合をみた感想をはなしていた。
この女性は、高校のときに軟式野球部でプレーし、
いまは野球の審判をめざして「アンパイアスクール」を受講しているという。
こういう、ちょっとかわった経歴をもち、
一般的でない進路をめざすひとは、
これまでにいやというぐらい「なぜ女が野球なのか」
「なぜ女が審判をめざすのか」とたずねられてきたのではないか。
「なぜ」とか「理由」について、あれこれ頭のなかでいじくりまわす。
なぜ野球をえらんだのかは、本人にも説明できないのではないか。
いくつかの理由をあげることはできても、
それが彼女の気もちを正確にあらわしているとはかぎらない。
けっきょくいえるのは「すきだから」ではないだろうか。
わたしだって、なぜ自分の専門をえらんだかなんて、
自分に納得できる理由なんておもいあたらない。
すきだったから、もしくは、なんとなく、だ。
けっきょく、理由なんてきいたところでしかたがないのでは、とおもえてきた。
「すきだから」が理由で、それ以上いいようがないのだ。
きれいに理由を整理できたとしても、
ほんとうはそれですべてではないことを
本人がいちばんよくしっている。
職場でも、なにかの企画をだすときには
当然のように そのうらづけとなる理由をたずねられるけど、
だいじなのそのひとがやりたいか・やりたくないかであって、
なぜそれをやる必要があるのかなんて、
あとからくっつけた口実でしかない。
この場合は「やりたいから」だけでじゅうぶんな理由となり、
それ以上はよけいなかざりだ。
そもそも自分がいましていることだって、
理由がつかないことはたくさんある。
なぜいまの仕事をえらんだのか。
なぜひるごはんにちゃんぽんではなく
ラーメンをえらんだのか(これぐらいならこたえられるか)。
エベレストをめざしていたマロリーがいったとされる
「そこに山があるから」は
「そこに(世界一たかい処女峰である)エベレストがあるから」
がただしいと、本多勝一さんがなにかにかいていた。
山があればいいというものではなく、いちばんになれる山がとおといのだ。
いちばんをめざすのはなぜか、までいいはじめると
ややこしくなるのでそこまではとわない。
「はじめて」「いちばん」に価値をおくひとの気もちが
わたしにもいくらかはわかる。
エベレストのように、「はじめて」や「いちばん」をめざすのはまだわかりやすい。
それでは、なぜ「はじめて」や「いちばん」でもないときでも、
わたしたちはなにかをえらんだり 挑戦しようとするのだろう。
それはもう、「やりたいから」「すきだから」というしかないのではないか。
だれもが納得できる理由なんていうものはなく、「すきだから」が理由だ。
「すきだから」の理由を分析しても意味はない。
わたしは給食にでるほしぶどう(レーズンパン)がきらいで、理由をきかれるたびに
「きらいなのに理由なんてない」とつっぱね、
自分ではきれいに説明したつもりでいた。
なぜきらいかに、理由が必要だろうか。
きらいだから、きらいなのだ。
おなじように、すきなことも、なぜすきなのかは
あんがい説明できないのかもしれない。
なぜ野球をえらんだのかなんて、本人にもきっとわからない。
わたしたちは、ひとがやっていることについて
理由をもとめたがるけど、なぜ理由をもとめるのかが
わからなくなってきた。
理由なんてきいたところでしょうがないのに。
納得できるこたえがかえってくるかもしれないけど、
きれいにまとめられた理由が すべてをあらわしているわけではない。
「なぜ」をたずねたところで、理由はわからない。
理由なんてどうでもいい。やりたい気もちがすべてだ。