きのうにつづいて『本の雑誌 9月号』について。
夏恒例の企画として、いくつかの出版社が「夏の100冊」をうちだしている。
これに対抗し、「本の雑誌」は版元にとらわれない、
文庫本ならなんでもありの「夏の100冊」をつくろうというのが
今月号の特集だ。
各出版社の「100冊」は、自分の会社がだしている本にかぎっているわけで、
ほんとうの意味で「100冊」とはいえない。
「本の雑誌がすすめる夏の100冊」こそ、
夏にかぎらない、オールタイムのベスト100といえるのではないか。
100冊をえらぶ座談会は、中高生の子をもつ親が、
子どもによませたい100冊をえらんだら、という想定ですすめられた。
大森望・杉江松恋・吉田信子・浜本茂の4氏が30点ずつもちよって、
一作家・一作品を原則に、他社の「100冊」とかさならないよう配慮されている
(「本の雑誌」としての100冊なのだから、この配慮は必要ないと わたしはおもう)。
この企画に触発されてわたしも、といいたいところだけど、
特集にあげられた膨大な数の本をみると、
とてもわたしの手にはおえないのがわかった。
あらゆるジャンルについて、ふるい本からあたらしいものまで、
すべてに目をくばることなど、わたしのとぼしい読書量では無理なはなしだ。
100冊のうち、わたしがよんだことのある本は わずか20冊だった。
いかにわたしの読書が 質的にも量的にも 貧弱かをおもいしらされる。
ジャンルのかたよりもあるけど、そもそもよんだことのない作家がたくさんいる。
1冊でもよんで、自分にあわなかったから そのさきはやめた、ならまだしも、
ただのくわずぎらいで、よんだことのない作家・作品がおおいようでは、
とてもひとにすすめられるリストはつくれない。
この100冊リストは、わたしにこそ必要なのかもしれない。
もっとも、名前をあげられたぐらいでは、
その本をよみたいという気になかなかならない。
どんな特徴がある本なのか、ある程度の説明がほしいところだ。
そうした説明をいれた100冊づくりは大変だろうけど、
図書館や本屋さんなどは、このリストこそ
本ずきの子をふやすのに いかせるのではないだろうか。
「夏の100冊」は、なんだか古典が主流のようにおもってしまうけど、
じっさいに各社がえらぶ本は、あたらしいものがどんどんはいっている。
特集によると、たとえば集英社の企画「2014年ナツイチ」は、
2010年代以降にだされた本が7割をこえている。
そのなかには、2014年の本が14冊もふくまれており、
けして古典がはばをきかせているわけではない。
というか、これだけあたらしい本がおおいと、
かえってその玉石混交が心配になるところだ。
話題作もいいけど、もうすこし一般教養的な古典を、ともおもってしまう。
特集の一部に「本屋のオヤジの12冊!」(久住邦晴 氏)があり、
スマホにおされて 大学生の読書時間がへっているという記事が 紹介されていた。
スマホの影響は、ほかにもいろいろなところにおよんでいる。
テレビもみなくなり、チューインガムの消費量さえへったりと、
おもわぬところからエネルギーと時間をうばう。
もちろん本をよむ時間にも影響をあたえないわけがなく、
町の本屋さんは ほんとうにたいへんな状況みたいだ。
パッとひらめいた案として、たいていのブームは女性がさきにたち、
男たちはそれにつられてゾロゾロ、というかたちがおおいのだから、
まず女性をとりこんだら、とおもった。
本をまともによまないような男は、
女たちから相手にされなくなればいいのだ。
そうしたら、男たちは無理してでも本をよむようになる。
しかし、本をたくさんよみ、おしゃれな会話のできる女性は
いわゆる「スペックがたかすぎて」、男にはとても手がだせない存在かもしれない。
かえって未婚男女のすみわけがすすみそうで、
ほかのことにはあれだけ強気な政府も、うかつに提案できそうにない。
こうして読書は どんどん辺境においやられていく。
「趣味は読書」なんて、いまでは気のきかない冗談としか うけとめられない。