『本の雑誌9月号』の編集後記で杉江さんが
「営業中もメッシよりは動いています」
とかいている。
うまい。
わたしも「メッシよりはよくうごく支援者」としてうりだしたくなった。
Wカップがおわってまだ1ヶ月しかたたないのに、
Wカップネタはすごくふるいはなしにおもえる。
それでもいま日本中(もしかしたら世界中?)の
あまり身がるにうごくタイプではない労働者が、
「メッシよりは」をいいわけにしているのではないかと想像する。
もちろん腰のおもいひとより、
すぐにうごいてくれるひとのほうが
いっしょに仕事をしていて気もちいいけれど、
それでも相手がメッシよりはうごくのかとおもえば、
あまり文句をいえない。
アルゼンチンの選手たちは、メッシにたいして
いろいろおもうことがあっただろうに、
「戦術はメッシ」と監督がきめたからには
「あるくメッシ」「まもらないメッシ」をうけいれ、
メッシ分の守備をのこり10人(ゴールキーパー以外だと9人)で
おぎなわなくてはならなかった。
わたしだったら、態度や顔に不満がでるだろうし、
安定した精神状態をたもてないだろう。
メッシだってこうした特別な位置づけは、けして居心地がよくないはずだ。
あるいてもいいかわりに、チャンスではかならず点をとれ、
というのはそうとうなプレッシャーだ。
1986年のWカップメキシコ大会では
アルゼンチンにマラドーナがいた。
このときも、「戦術はマラドーナ」だ。
守備を免除されるかわりに、決定機をきめるのがマラドーナの仕事だった。
でも、あのときのマラドーナは そんなにあるいていた印象はない。
当時のサッカーは、まだ役割分担がはっきりしていて、
いまみたいにどのポジションの選手も例外なく
あわただしくはしりまわらなくても よかったのかもしれない。
メッシの場合は、まわり全員がよくうごくので、
あるいてばかりいると相対的に目だってしまうのだ。
会社でも、あんがいメッシみたいな役割をおっているひとがいるかもしれない。
雑用はしなくていいから、肝心なときはちゃんときめてね、
というポジションだ。
それでちゃんときめるときはきめてくれたらいいけど、
悲惨なのは、自分ではメッシのつもりでも、
まわりからは点をいれないメッシとしてしか
みとめられていない場合だ。
あるいは、自分がメッシでないことをじゅうぶん承知しながらも、
メッシとしてふるまうかんちがいのひともまわりはたまらない。
正規職員のおじさんが、派遣やパートの女性よりまるではたらかないのに、
態度だけメッシというのは さぞかし腹がたつ存在にちがいない。
こうしてかんがえてみると、
「戦術はメッシ」はきわめてなりたちにくいスタイルだ。
ほんとうにメッシなみの 突出した実力がなければ
「おれはメッシ的な存在だから、やるときはやるからね
(でもいまはかんべんしてね)」
なんて通用しないのだ。
メッシを口にするのは、移動する距離を比較するときだけにしたほうがいいだろう。
全員がはしりまわるドイツが優勝したので、
「戦術はメッシ」が成功したとはいいがたい大会となった。
しかし、サッカーをはなれ、どんなはたらき方がのぞましいかといえば、
あるいてもゆるされるアルゼンチンのプレースタイルだろう。
決勝や準決勝で、たいした結果をださなかったメッシなのに、
そうとがめられたわけではないから、
かならずしもゴールがすべてと 悲壮な覚悟をきめなくてもいいかもしれない。
チームとして、集団の規律を尊重しすぎると、
いきつくさきは日本型の組織のような気がする。
全員がおたがいの目を気にしてはたらく職場にしあわせはない。
サッカーはドイツのように、仕事はアルゼンチンのように、が
これからのトレンドとなるだろう。