2014年08月23日

『グレート・ギャツビー』(スコット=フィッツジェラルド)村上さんの訳で ようやくよみおえる

『グレート・ギャツビー』(スコット=フィッツジェラルド・中央公論新社)

『グレート・ギャツビー』をよみおえる。
村上春樹氏の訳によるものだ。

お盆で配偶者の実家にいったとき、たいくつしのぎに
「ブックオフ」タイプの古本屋さんによると、
108円コーナーに『グレート・ギャツビー』がおいてあった。
まだきれいであたらしいのに108円なんて。
家にあることがわかっていても、こんな値段がついていると
かわないわけにいかない。
この本は、村上さんの訳がでたときに本屋さんでかい、
本棚にならべたままになっていた。
8年ちかく新刊をほったらかしていたのに、
古本屋におかれた108円の『グレート・ギャツビー』を
そのままにしておけなかった心理が自分でもわからない。
所有欲ではないとおもう。あえていえば、村上さんへの敬意だろうか。
村上さんがナンバーワン小説にあげているこの本を、
ちゃんとよみとおしてないことへのうしろめたさ。
その本へのスイッチが、108円ではいったのだから、やすいといえばやすい。

新潮文庫版の『華麗なるギャツビー』(野崎孝訳)は、
たしか10代のころ手にとったことがあるけれど、
ちゅうでなげだしてしまった。
ロバート=レッドフォード(映画版)の写真が表紙にのっている本だ。
わかいころ、さいごまでよみとおせなかったのは
当時のわたしの読書力からすれば、無理からぬことだっただろう。
さいわい今回は村上さんの訳にたすけられ、
おくゆきのあるものがたりとして味わうことができた。

村上春樹さんによる「訳者あとがき」がすばらしい。
村上さんは自分の小説に「あとがき」をかかないのに、
翻訳した本にはていねいな「あとがき」がのせられる。
わたしは村上さんのかいた「あとがき」がすきで
いつもたのしみにしているけれど
(村上さんによる「あとがき」をあつめたら
おもしろ本になりそうだ)、
この本にかかれた「あとがき」はそのなかでもとくに興味ぶかかった。
『グレート・ギャツビー』が村上さんにとってどんな本であったか、
翻訳するときにこころがけたこと、
フィッツジェラルドの略歴が、
ひとつのよみものとしてきれいにまとめられている。

村上さんにとって、『グレート・ギャツビー』は特別な小説なのに、
「そんなにすごい作品なんですかね?」
みたいなことをなんどもたずねられるそうだ。
そうした反応にたいし不満をかんじながらも、
この小説は、それだけ翻訳がむつかしいことを
村上さんは承知している。

「『グレート・ギャツビー』はすべての情景が
きわめて繊細に鮮やかに描写され、
すべての情念や感情がきわめて精緻に、
そして多義的に言語化された文学作品であり、
英語で一行一行丁寧に読んでいかないことには
その素晴らしさが十全に理解できない、というところも
結局はあるからだ」

しかし、だからといって原文をすすめられるほど、
『グレート・ギャツビー』はかんたんにできていない。

「空気の微妙な流れにあわせて色合いや模様やリズムを刻々と変化させていく、
その自由自在、融通無碍な美しい文体についていくのは、
正直言ってかなりの読み手でないとむずかしいだろう。
ただある程度英語ができればわかる、というランクのものではない」

やくすのはむつかしいし、原文も非常にデリケートだという。
よみ方によっては、自分(村上)の訳への自信にもうけとれ、
それをいっちゃあ、おしまいだろう、という気もするけど、
そうおもわせないのは「はじめに」のかきだしで、
60歳になったら訳そうとおもっていた、というはなしがあるからだ。
そのころには、この本を訳せるだけのちからがついているだろう、
という希望と期待。
それくらい、『グレート・ギャツビー』は
とりあつかいのむつかしい小説みたいだ。

その理由のひとつが冒頭と結末の部分をどう訳すかにあった。

「告白するなら、冒頭と結末を思うように訳す自信がなかったからこそ、
僕はこの小説の翻訳に二十年も手をつけずにきたのだ」

「極端ないい方をするなら、
僕はこの『グレート・ギャツビー』という小説を翻訳することを最終的な目標にし、
そこに焦点を合わせて、これまで翻訳家としての道を歩んできたようなものである」

また、村上さんは、ほかの翻訳と
自分のかんがえる『グレート・ギャツビー』のイメージが、
ずいぶんちがうものとして うけとめられているようにかんじていた。
だからこそ、こうして訳す機会をえたからには、
自分のイメージとしての『グレート・ギャツビー』を
読者にも体験してほしいとねがった。

「僕はこの小説について僕がこれまで個人的に抱いてきたイメージを明確にし、
その輪郭や色合いやテクスチャーをできるだけ具体的な、
触知できる文脈で読者のみなさんに差し出すことを目的として、
この翻訳をおこなった。
訳文としてはあっているけれど
どういうことなのか実質がよくつかめない、ピンと来ない、
ということは極力避けるように努めた」

ほかの翻訳とくらべることはできないが、
『グレート・ギャツビー』という小説のもつかなしさを
わたしはあじわえたとおもっている。
そのおおくは村上さんの訳のおかげではないだろうか。

映画版をくらべてみたい気はする。
レッドフォード対ディカプリオ、という意味ではなく、
新旧2つの作品は、原作のとらえかたにちがいがあるそうだから、
どんなしあがりになっているのか興味がわいてくる。
『華麗なるギャツビー』の比較は、ことしの夏のおもいでになってくれるだろう。

posted by カルピス at 22:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする