「クールジャパン」で写真をとりあげていた。
スマホやケータイで たくさんの写真をとり 保存したりはだれもがするけど、
デジタル画像をかんたんに修正したり、
マンガ化したり、背後霊をだしたりできるアプリは、
日本ならではのたのしみ方のようだ。
わたしが子どものころから、
カメラをもち、メガネをかけていたら日本人だと、自虐的にかたられていた。
それで出っ歯なら、まちがいないらしい。
あんまりだれもかれもがカメラをぶらさげているので、
カメラなんてもたずに旅行すべきだ、などという見当ちがいな意見まで口にするひともいた。
それくらい、日本人はむかしからカメラ、つまり写真がだいすきで、
その後も日本人の写真ずきは独自の進化をとげ、
ついには世界的にも例をみない文化へと発展させてきた。
番組のご意見番は荒俣宏さんだ。
荒俣さんは、日本人の写真ずきについて、俳句を例に説明される。
わたしたちの祖先は写真が一般的な文化になるまえに、
俳句をたしなむ体験をもっている。
プロや 一流のレベルにあるひとの作品を鑑賞するだけでなく、
おおくのひとが 自分でも俳句や浄瑠璃をたのしんできたのだ。
その延長線に写真があり、さらにいえばブログがある。
日本人は、そうやって自分も当事者としてあそぶのがすきで、
すきだからますますその方向へ文化が発展した。
日本人にとって、俳句も写真も「あそび」でくくることができる、
というのが荒俣さんのとらえ方だ。
ブログについていえば、世界でいちばんおおいのは、
英語でも中国語でもなく、日本語によるブログらしい。
日本人は歳をとったからといって
文化的ないとなみをあきらめたりしない。
技術のたかい・ひくいや年齢に関係なく、
だれもが好奇心をもっていて、自分もあそんでしまうのが 日本的なたのしみ方だ。
そういえば、カラオケもそうだった。
プロの歌手がうたうのをきいて満足するだけでなく、
自分でもうたったほうがたのしい。
写真と俳句がひとつのながれとすれば、
カラオケは浄瑠璃の発展形だろう。
日本の文化がいかに大衆的かをあらわしている。
俳句について、桑原武夫氏が論文『第二芸術』で論争をひきおこしている。
俳句はだれがつくってもたいしたちがいはなく、
1流の芸術というよりも、2級の芸術として区別したほうがいい、
という挑発的な内容だ。
俳句のよさがまったくわからないわたしは、
桑原氏の大胆な発言に溜飲をさげたのだけど、
梅棹忠夫氏は、まったくべつの角度から
「第二芸術」でいいんだ、と俳句を肯定している。
「第一芸術」、つまり美術や文学などの一流の芸術はどこの国にもある。
ないのはむしろ「第二芸術」のほうで、
だれもが俳句をつくってたのしめるのは、日本ならではのよさだという指摘だ。
外国へいくと、公園でボーっとしている老人をよくみかけるのに、
日本の老人はせっせと俳句をよみ、盆栽をそだて、
歳をとっても文化的な活動にいそしんでいるのは
すばらしいことではないか、と梅棹さんはいう。
梅棹さんの「知的生産」は、本をよんだり芸術を鑑賞したりという 消費活動だけではなく、
自分からも情報をどんどん発信しようというものだろう。
自分で発信したほうがおもしろいし、その伝統が日本には蓄積されている。
発信したからといって、そのみかえりをもとめないのが日本的なつきあい方で、
「あーおもしろかった」でいいではないか、というのが梅棹流だ。
そのためにはどうしたら効果的に生産がおこなえるかの問題を、
技術的にととのえる。
こうやって のらりくらりと毎日ブログをかくのも、世界的にみれば
いかにも日本的なたのしみ方なのだろう。
自分では俳句などとぜんぜんちがったことをしているつもりでも、
歴史的なながれをみると、まったくおなじ価値観にそっているのが
すごいというか、残念というか。