『グレート・ギャツビー』をよんだあと、
新・旧の『華麗なるギャツビー』(1974年・2013年製作)をつづけてみる。
原作をよんだ印象がうすれないうちに、とおもって
すぐに映画をみたのだけれど、
もともと原作のよみがあさいこともあり、
映画をみながらなんども「一時停止」をおして
本とくらべながらみてしまう。
原作と映画2本に頭がこんがらがり、なにがなんだかわからなくなってきた。
ざっとかんじたことをかいてみる。
原作に忠実なのは旧作のほうだ。
ただ、忠実なだけでは「ギャツビー」の世界がつたわってこないわけで、
本をよんでないひとがこの作品をみたら、
なんでこんなものをわざわざ映画にしたのか わからないのではないか。
それほど退屈で、原作のストーリーをなぞっただけにみえる。
ギャツビー邸での ど派手なパーティーはうまく再現されていた。
新作は旧作の10倍ぐらいおおげさになっており、
あそこまでいくとついていけない。
あれではほんとうにアミューズメントパークだ。
ディカプリオのほうの新作は、
原作に忠実なところもあるし、ずいぶんかえてしまっているところもある。
原作のイメージを独自の解釈でふくらませたといえ、
原作、というか村上春樹訳の雰囲気をつたえるのは こちらの方だろう。
原作をよんでなくてもたのしめるだろうし、
よんでいても違和感があまりなく、作品の世界にひきこまれる。
ただ、おおげさすぎる映像がときどきハナについた。
映画の技術が進歩して、なんでもできるのがかえってアダになったかんじだ。
もっとシンプルにつくればいいのに。
どちらのギャツビーも、わたしのイメージといまひとつちがっている。
レッドフォードとディカプリオとも、
ニック役のほうがむいているかんじで、
ではだれがギャツビーならいいのかについて、いい提案ができない。
ふたりともギャツビーとしては かるすぎるようにおもう。
わたしが想像するギャツビーは、もっとゴージャスな人物だ。
たのしみにしていた「オールド・スポート」は、
旧作の字幕では完全に無視されていたのにたいし、
新作では「友よ」「わが友」として、
ときどき訳されている(すべての発言についてではない)。
だいじなセリフなのだから、なかったことにするよりも、
「友よ」と形にのこした新作の訳のほうが 親切といえるだろう。
ひと夏のものがたりとしては、旧作の出来に軍配があがる。
登場人物がいつも顔に汗をうかべており、
あつくるしいロングアイランドの夏をかんじさせた。
この作品における「あつさ」は ひとつのキーポイントであり、
旧作はそれをおろそかにしなかった。
新作のリアリティは、パーティーそのものより、
パーティーがおわってからの あとかたづけにあらわれた。
あのどんちゃんはいったいなんだったのか。
にもかかわらず、ギャツビー邸の使用人たちは
テキパキとプールにおちたビンをひろい、
のみのこしの酒をバケツにあける。
おおくのことが、このように 本番よりもあとかたづけのほうで 本質をかんじさせる。
結論として、原作の再現を期待するなら
満足はしないだろうが 旧作のほうをすすめるし、
原作をよまずにみるなら新作のほうがいいとおもう。
原作にただよう「かなしさ」「はかなさ」は、
新旧2作とも、もうひとつ表現しきれていない。
もういちど本をよみかえし 確認したたほうがいいだろう。
作品で重要とおもわれるファッションと音楽については、
評価するだけの知識がわたしにはない。
どちらの作品も、主人公であるギャツビーにかけていた
ゴージャスさをたのしめた。