きのうの「ほぼ日」にのった
「今日のダーリン」について。
ひとことでいうと、
「オフは、オンの家来じゃない」というはなしだ。
といっても、これだけではさすがになんのことかわかりにくいので、もうすこしおぎなうと、
「仕事の時間をオン、プライベートな時間をオフ」と
かんたんにわけられないのでは、という疑問がきりだしてある。
(いつも感心するのだけど、糸井さんの文章は
ひとことでいえない不思議なつくりになっていて、
引用しようとしても、たいてい うまくきりとれない。
全体でひとつのかたまりをつくっており、
ある一部だけをとりだせない関係で ことばがむすばれている)
たしかに、オンとオフをはっきりわけようとすると、
いっぺんに発想がまずしくなる。
オンとオフのとりあつかいは、わたしの長年の疑問でもある。
通勤時間に音楽をきいたり外国語の勉強もできるし、
仕事を効率よくすすめるためにオフがあるわけでもない。
まさに「オフは、オンの家来じゃない」であり、
さいごにかいてある
「たいていの二元論は、互いが含まれているようにも思える」に、
結局のところおちつくような気がする。
わたしは、勤務時間はみじかいし、
通勤時間は自転車で10分ほどだし、
ツイッターもフェイスブックもやらないし、
スマホをもってないから ネットにつかう時間もそんなにおおくない。
ギリギリまでオンをへらすのに成功したようにみえるけど、
こうなるとまた、なにがオンでなにがオフなのか わからなくなってくる。
さらにいえば、友だちがすくなく、ひとづきあいもよくないので、
ケータイに連絡がはいることはほとんどなく、
もちろんメールもこない。
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』にある
「郵便受けには郵便物はひとつも入ってなかった。
留守番電話にもメッセージは入ってなかった。
誰も私には用事がないみたいだった。
結構。私も誰にも用事はないのだ」
というところがすきで、そのことと関係あるのかないのか、
この小説をよんでから20年後のわたしは、
みごとに「誰も用事がないひと」になった。
都会にすみ、2時間かけて職場にかよい、
仕事にもたいして関心がないひとにくらべると、
わたしはこれまでに膨大な時間の「オフ」をすごしたはずで、
だからそういうひとよりもずっとしあわせな人生だったか、というと
そんなこと なかなかかんたんには こたえられない。
時間の全部がオフにみえるひきこもりのひとは、
すきで家にいるなら「ひきこもり」とはいわないわけだし。
できるだけオフがたくさんある生活がいいとはいえ、
生きる充実感は、オンの質とふかくかかわってくる。
結局、オンとオフというふたつだけで
生活をわけてかんがることに無理があるのだ。
日常生活においては、
「オフは、オンの家来じゃない」ことを意識したうえで、
あんまりオンやオフをかんがえないほうがうまくいくような気がする。
かんがえないですむ生活をおくりたいとおもう。