2014年09月10日

『思い出のマーニー』 原作をうまくいかすのに成功した傑作

『思い出のマーニー』(米林宏昌:監督・2014年・日本)

はじめてみる米林監督の作品。
おもしろかった。はじめの5分でものがたりにひきこまれていく。
杏奈は12歳の女の子。
血のつながっていない養母にそだてられ、
自分はおばさん(養母)に愛されていないとおもいこんでいる。
世界は輪のうちがわにいるおおくの子と、
外側にいる自分とにわかれていて、
まわりとうちとけられない自分が 杏奈はすきではない。
持病の喘息のため、というよりも、
家からはなれて養母との距離をとったほうがいいという
お医者さんの判断で、夏やすみをいなかにある
おじさん・おばさんの家ですごすことになる。

おじさん・おばさんは、それぞれ自分の仕事にいそがしく
杏奈を大切におもうものの、つきっきりで世話をやくわけではない。
自分をみとめてくれつつ、適度な無関心でせっしてくれるので、
杏奈は安心して自分だけの世界をもつことができる。

児童文学では、この作品のように 家族からはなれ
理解はあるけど世話やきでないおとなとくらし、
自分の世界を再構築するはなしがよくとりあげられる。
杏奈は「湿っち屋敷」をたずね、そこにすむマーニーと
ふたりだけの世界をすごすようになる。
(外国人のシッチさんがすむからシッチ屋敷かとおもっていたら、
湿地にたっているので「湿っち屋敷」とよばれている。
これは原作どおり)。

絵のレベルはたかく、杏奈とマーニーの表情がとてもこまやかにえがかれている。
背景もうつくしい。
夜の湿地をボートがすすんでいく場面など、
1枚の絵としてずっとみていたくなった。
そのいっぽうで、たとえばボートのこぎかたはいかにもぎこちなく、
ちからをこめてオールをあつかっているようにみえない。
ボートをまるで自転車みたいにかんたんにうごかしたり、
船着場に横づけしたときにバランスをくずした様子など
ひやひやしながらみていた。
ただ、杏奈の内面が表現されるしずかな場面がおおく、
アクションのまずさは致命的ではない。

ひとことでいえば、とてもよくできた作品だ。
原作はイギリスのノーフォーク地方にある村、
そして1967年というひとむかしまえの出版なのに、
それをむりなく現代の日本に舞台をうつしている。
杏奈はマーニーとあそびながら
しだいに自分の無意識とむきあっていく。
杏奈が2つの世界をいきかうようすがうまくあらわされており、
よくここまで原作をいかしながら
アニメーション作品にしあげたものだと感心する。

杏奈は、ものがたりのおわりで養母との関係をとりもどす。
自分の生まれとそだちにひめられた謎をしったことから
そだててくれたものへの感謝と、母や祖母とのむすびつきをかんじるようなる。
湿地にやってきたときとは まったくちがう人間のように
あかるさとつよさをとりもどし、
札幌での生活にもどっていく。
ひと夏をかけて、杏奈は生まれかわった。

12歳前後というむつかしい時期に、自分をもてあましたことのあるひとは、
この作品に共感できるだろうし、いまその年頃をむかえる子どもたちのなかにも、
この作品ですくわれる子がたくさんいるのではないか。
宮崎駿さんでなくても、ジブリはこんな作品をつくれるのだ。
米林宏昌監督のすばらしい仕事をたたえたい。
映画館では、残念ながら お客がわたしと配偶者だけというさみしい鑑賞だった。
できるだけたくさんの子どもたちにみてほしい作品だ。

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2014年09月09日

『晴天の迷いクジラ』(窪美澄)そこにいてくれるだけでいい

『晴天の迷いクジラ』(窪美澄・新潮文庫)

これだけよみごたえのある本はそうないだろう。
ストーリーテリングのうまさというわけではなく、
なにか非常にふかいところで 生きるとはなにかをとわれてくる。

わたしにこの本のすばらしさをまとめるちからはなく、
かわりにすこしまえの『本の雑誌』をひっぱりだして、
おなじ著者のかいた『ふがいない僕は空を見た』が
2010年のベスト1作品であることをおもいおこしたい。
2010年のベスト10をきめるはなしあいの日、
この号をさいごに編集長をおりる椎名誠さんが、
その記念にベスト1はおれがえらんだものにしろと
圧力をかけていた。
『ハンターズ・ラン』(G・R・R・マーティン他)を一番にしろと。

椎名「わかってるんだろうな。この1月号はどんな号だ?」
宮里「椎名さんが編集長の最終号です」
椎名「そう。だから、みんなわかってるよな」
杉江「一位をよこせと浜本さんに伝え済みなんですよね」
椎名「有終の美を飾らせてほしいと頼んだんだよ」

その圧力をはねのけ、椎名さんも納得して1位をゆずったのが、
窪美澄さんのデビュー作『ふがいない僕は空を見た』だ。
デビュー作ながら強烈なインパクトがあり、
『本の雑誌』としては1位をはずすわけにいかないと判断した。
『晴天の迷いクジラ』はその窪さんの2作目で、
この作品も、ほかの作家とどこかちがう 独特なちからで
ものがたりに読者をひきずりこむ。
そして、たちなおりがむつかしい状況の3人に、
ラストではすてきなおとし場所を用意するのだ。

3人は、それぞれの理由でいきづまっている。
3人は、ある湾にまよいこみ、死にかけているクジラをみにでかけることにした。
ちゃんとした計画があったわけではない。
なりゆきにまかせたら、いつのまにかそうなっていた。
こういういきづまったときは、そうやって
なりゆきに身をまかせることが必要みたいだ。

15メートルもあるマッコウクジラが、浅瀬にのりあげたまま
身うごきがとれなくなっており、
おおくの見物客が、クジラをみに湾をおとずれていた。
人間が、そのクジラにしてやれることはほとんどない。
ただみまもるだけで、死ぬのをまっているだけともいえる。

3人は、クジラをみながら自分のこと、ほかの2人のことをかんがえる。
瀕死のクジラをみまもるうちに、ほかのひととの関係もうまれてくる。
とじこもっていた殻は、自分だけではなかなかやぶれない。
3人はほかのひととかかわることで、
ふたたび自分の人生にむきあえるちからをえる。

べつになにか特別なことをしなくても、
ただそこにいるだけでいいんだ、とよく耳にする。
この本ではのこされた側のつらさにふれることで、
それがきれいごとではなく、ほんとうの気もちであることがつたわってくる。
げんきそうにみえるひとでも、胸にひめているかなしみは
だれにもわからない。
おおくのひとが、そんなかなしみをかかえて生きている。

「どげなことしたって、そこにいてくれたらそいで(中略)
 そいだけでよかと」

これだけふかいはなしなのに、タイトルだけはベタなのがおかしい。
ほんとうに、タイトルがすべてをあらわしているのかもしれない。

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2014年09月08日

『夢で会いましょう』(村上春樹・糸井重里)1967年の女の子にあいたい

『夢で会いましょう』(村上春樹・糸井重里/講談社文庫)

本棚をながめていたら、さがしていた『夢で会いましょう』が目にはいった。
村上龍さんの本にまぎれこんでいたのが、意外な盲点となっていた。
(図書館ではないので、龍さんのとなりが春樹さんなわけではない)。
こんなところにいたのかと、おもいがけない再会をよろこぶ。
この本は、村上春樹さんと糸井重里さんによる ことばあそびの本で、
辞書やカルタみたいに、「ア」から「ワ」まで、
カタカナのことばがならべられている
(たとえば「ア」はアイゼンハワー・アシスタントなど8つ)。
そのことばに関したはなし(ショートショート)を、
ふたりが分担してかく、というスタイルだ。

だれがどのことばを担当するかはテキトーにきめたようで、
村上さんと糸井さんの作品が交互にならんでいるわけではない。
文のさいごに「i」か「m」のマークがついているので、
だれがかいたかわかるようになっているし、
村上さんのファンを名のるくらいなら、
どれが村上さん作か、すぐにみわけがつくはずだ。
村上さんがかくはなしは いかにも村上さんだし、
糸井さんのも特徴がよくでている。

といいながら、20年以上まえにはじめてよんだときは
どちらがかいたかをあてる確率が、あまりたかくなかった。
これはぜった村上さんだ、とおもっていたのに、ちがうこともよくあり、
村上さんが糸井さんの文体をあそびでマネしたにちがいない、
なんてうたぐったものだ。
その後わたしはりっぱなハルキファンにそだったはずなので、
ひさしぶりに作者あてをしながらよみかえしてみる。

クモザルやあしかがでてきたら村上さん作にきまっているし、
ビーフカツレツや季節はずれの避暑地、それに玄関マットなども
村上さんでないとまずとりあげないだろう。
こうした村上印というべきことばや、
反対に、村上さんがつかわない固有名詞などで判断すると、
グレーゾーンがだいぶ整理されてくる。
しかし、それでもなお、はずれてしまったはなしがいくつもあって、
わたしはたいした村上さんファンじゃないことがよくわかった。

たいしたファンではないけれど、それなりにすきなはなしがいくつもある。
「クールミント・ガム」では、
チャコール・グレーのフォルクスワーゲンにのった女の子がでてくる。

「彼女のドレスはとてもぴったりしていたので、
それはなんというか、とても素敵な眺めだった。
肩はすごくつるりとしていて、
おなかは画用紙のようにまっすぐで、それからほっそりとしていた。
ひとくちで言ってしまえば、
彼女は1967年の夏を一人で引き受けたような女の子だった。
彼女の部屋の戸棚には1967年の夏に関するすべてが、
整理された下着みたいにきちんと収められているんじゃないか、という気がした」

チャコール・グレーが どんな色かさえしらなかった 田舎もののわたしは、
こんなおしゃれな文章に すぐノックアウトされた。
画用紙のような まっすぐなおなかの女の子が、いまでもわたしの理想だ。
これくらいどこからみても村上さん色なら、
だれがかいたか まちがいようがない。

画用紙もそうだけど、村上さんはまえから比喩がうまく
「ブルー・スエード・シューズ」では

「二本立て映画の休憩時間みたいな感じで二年が経ち、
僕は十六歳になった」

なんて すてきなたとえがでてくる。
そんなふうにいわると、人生なんてたしかにあっという間だし、
休憩時間もしっかり生きようという気に、なるわけないか。

posted by カルピス at 21:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 村上春樹 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月07日

つぎの日のひるごはんがたのしみになる夕ごはんのメニューは きっとただしい

ゆうべはわたしが料理当番だった。
メニューは
タジン・ナン・トマトリゾット・ペペロンチーノ・サンマの塩やき
・もやしと野沢菜のいためもの。

いつもながらめちゃくちゃなくみあわせだ。
パン・ごはん・メンと、主食が3つならび、
モロッコか 地中海料理っぽいのかとおもわせるなかに、
いきなりサンマの塩やきはないだろう。
ひとつひとつはおいしくできた。
でも、炭水化物だけをそんなにたべられない。
ずいぶんお皿にのこってしまった。
バイキングじゃないんだから、
4人ぐらしとしては 夕ごはんの域をこえている。

タジンは好評で、全部なくなった。
友だちがわたしの誕生日プレゼントにくれたタジン鍋をつかっている。
水をくわえず、大量のオリーブオイルだけで弱火にかける。
やわらかく味がしみこみ、われながらザ・タジンとよべるできとなった。
ペペロンチーノもわるくはない。
ゆであがりの時間を計算し、みごとなアルデンテでテーブルにのせた。
粉チーズをかけるとみごとにおいしい。
もしほかのおかずがなかったら、すぐに大皿がからになっていただろう。
トマトリゾットも、うすあじにしあがり、バジルのかおりが食欲をそそる。
ナンだって、タジンをつつむのに適度なやわらかさがあり、
それだけでたべてもおいしかった。

こういうメニューを、もし料理研究家や栄養士のひとがみたら
どんな感想なりアドバイスがきけるだろう。
もっとバランスをかんがえて、というありきたりのものか、
主食がおおすぎます、という、そのままの直球か。
問題外として黙殺されたら わたしとしてはすこしかなしい。
いずれにしても地中海クルーズをおもいだしました、
なんて好意的な意見はひきだせそうにない。

ところが大胆なことに、わたしの配偶者は栄養士なのだ。
彼女はいつもなにもいわずにほしいものだけをたべる。
昨夜のメニューでいえば、リゾットにはみむきもしなかった。
そもそも、サンマをメインにとらえ
自分だけ白いごはんをお茶わんによそっている。
ペペロンチーノは、さいごにすこしだけお茶わんにとっていた。
もうすこしたべておかないと、夜おなかがすくから、みたいなかんじだ。
よく、愛情の反対はにくしみではなく、無関心だ、といわれるけれど、
配偶者の反応はどうとらえたものだろう。

ひらきなおっていえば、炭水化物だけでなにがわるい、という
わたしの持論がそのまま形となった確信的なメニューともいえる。
よくわからないのはサンマの塩やきと、もやしと野沢菜のいためもので、
サンマはわたしがすきだから、
いためもののほうは、ただなんとなくで、必然性はない。

夕食がおわり、のこった料理を冷蔵庫にしまうとき、
つぎの日のひるごはんがたのしみになった。
リゾットとペペロンチーノは、そのまま日曜日のおひるらしいメニューとなる。
いっぽうで、つぎの日のひるごはんがたのしみになるおかずを
夕ごはんにつくってどうするんだ、ともおもった。

今朝はいつになく6時に目がさめる。
きっと、頭とおなかが のこりもののおかずをたのしみにしたからだ。
バランスを無視したラディカルなメニューのおかげで、
はやおきができたし、ブログまでかけた。
ひるごはんがまちどおしい。

posted by カルピス at 07:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | 料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月06日

『ひとみしり道』(べつやくれい)日本人の10人に9人はひとみしり(らしい)

『ひとみしり道』(べつやくれい・メディアファクトリー)

「デイリーポータルZ」でおなじみの、べつやくれいさんによる作品だ。

たいていのひとはひとみしりにみえない。
「わたしはひとみしりで・・・」と、
そうはみえないひとから きりだされることがあるけど、
たいていはつまらない冗談か、
あるいはかんちがいしてるかのどちらかだ。
そもそもひとみしりのひとは
「わたしはひとみしりで」なんて自分からいわない。
ほんとうのひとみしりとは、
わたしみたいな人間をいうのだ、と
わたしが確信しているように、たいていのひともまた
自分がひとみしだとおもいこんでいるのだろう。
べつやくさんの調査によれば、
日本人の10人に9人はひとみしりだという
(「べつやく調べ」として、帯にかいてある)。
ひとみしりかどうかは自己申告制なので、
なにをもってひとみしりとするかは、ここではとわない。
自分がひとみしりだとおもえば、
そのひとはたしかにひとみしりだということにする。

おおくのひとがひとみしりかもしれないけど、
しかし、べつやくさんだけはぜったいにひとみしりではない、
と断言したくはるほどべつやくさんは「ひとみしり」らしくない。
派手な服をきて、大胆な仕事をし、おかしな絵をかくので、
ひとみしりとは縁のないひとにみえる。
しかしご本人がいうには
「もともと引っ込み思案の子どもに、
人見知りとしゃべり下手の英才教育をしてしまった」
ような人間なのだという。
そんなべつやくさんが、どんなひとみしり人生をあゆんできたか。

この本は、「ひとみしり」でわらいをとろうとしているのではなく、
あまり評価がたかくない「ひとみしり」という性格について、
「なぜひとみしりなのか」
「ひとみしりでなくなるには、どうしたらいいのか」と、
仮説をたてながら、できることをかならず実践している。
けっこうまじめな本かも。

幼稚園のときからほかの子たちとうまくあそべなかったと、
べつやくさんはおさないころの自分をおもいだし、
そこに「ひとみしり」の起源をみる。
そして、中学から大学までエスカレーター式の学校(女子校)だったため、
幼稚園と小学校ではぐくまれた「ひとみしり」が、
おとなになるまでそのまま温存され 熟成したのではないかと、
べつやくさんは分析している。
かいものにいったとき、お店のひとにはなしかけられても
うまくこたえられずにわらってごまかす+あとずさり、とか、
美容院でちゃんとかんがえをつたえられなかったため、
すごい髪型になったとかのおもいでがつねにつきまとう。
まあ、ひとみしりなら、これくらい当然あってしかるべき体験だ。

べつやくさんは、はなし方教室にでかけ、
接客業の体験にとフリーマーケットに出店し、
外国人観光客にはなしかけるため雷門へでかける。
ひとみしりでもできる仕事をさがし(スーパーの裏方さん)、
そのうちだんだんと自分の「ひとみしり」とつきあえるようになり、
「ひとみしり」もあんがいわるくないかも、とおもいはじめる。

わたしがおどろいたのは、スーパーでのパックづめをするうちに
「『黙々とやる単純作業の楽しさ』を知った」というはなしだ。
ひととコミュニケーションをとるわずらわしさよりも気がらくなのだという。
わたしにはないかんがえ方で、こういうひとは
悪名たかいトヨタでのながれ作業も
苦ではないのかもしれない。
単純作業というと、なかなか時計がすすまない 退屈な仕事ときめこんでいたのに、
それを「楽しい」とおもえるひとがいるとは。

よみおえても、けっきょく「ひとみしり」はよくわからない。
わからないばかりか、
コミュニケーション下手とどうちがうのか、とか
ひとみしりイコールはずかしがりやといえるのか、とか
さらにいろいろな疑問をかかえることになる。
本書でも、「おとなしい」と「ひとみしり」のちがいがとりあげられているが、
けっきょく結論はだされていない。
「ひとみしり」「おとなしい」「はずかしがりや」「コミュニケーション下手」などが、それぞれ独立しているのではなく、
複雑にからまった総体として「ひとみしり」をひきおこすのだ。
よくありがちな結論だけど、「ひとみしり」だからといって、
かならずしもネガティブにとらえなくてもいいのでは、
とべつやくさんはまとめている。

ひとみしりは、たしかに生きづらいけど、
わたしもふくめ、おとなになればたいていのひとは
「ひとみしり」しつつ仕事ができるようになる。
そうするしかないからで、まわりもまたなれてくれる。
つけくわえると、わたしは「ひとみしり」だけでなく、
存在感がきわめてうすいという、これもわりにつらい弱点をかかえている。
180センチと、からだはおおきいのに
なにかのグループにはいっていても無視されやすく、
ひどいときはスーパーのレジにならんでいても、
「いないひと」としてあつかわれてしまう。
わたしとしては残念だし不本意でもあるけれど、
どこにいても目だってしまうよりも まだましかもしれない。
このように、おおくのひとはなにかしら
おもいどおりにはいかない性格をかかえており、
それでもなんとかなるのがひとの道なのだ。
「ひとみしり道」も、そんな道のひとつにすぎない。
道をきわめるのではなく、ただその道をブラブラあるいていればいいみたいだ。

posted by カルピス at 21:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月05日

異常気象によって必死になった蚊たちの攻撃をうける

ずっと25℃くらいの日がつづいたのに、
きのうはきゅうに30.9℃まで気温があがった。
お風呂にはいったとき、窓をあけて
いつものように半身浴状態で本をよんでいると、
蚊がすぐによってくる。
1匹がうでにとまったのでたたきつぶす。

そのすぐあとに3匹の蚊がまとわりついてきた。
気づかれないように、そーとしのびよって、
などという蚊らしい奥ゆかしさはなく、
とにかくすこしでもはやく血をめざす凶暴な集団だ。
血にうえている、というより、
脳(蚊に脳があるのか?)がキズつけられて、
正常な判断ができなくなった状態にみえる。
さすことしかかんがえていない蚊は、とても不気味だ。
ほとんどにげないので、すぐにしとめた。
そのあとも、血で腹をふくらませた蚊を何匹も壁にみつける。
ようやく異常事態に気づいたわたしは窓をしめる。
いったい今夜の蚊の襲撃はなんなのだ。

低温の日がつづいたあとにまた温度があがり、
今年の血をあきらめていた蚊が元気になった、というのがわたしの仮説だ。
この日をのがしたら、もう血をすえるチャンスはめぐってこないと、
本能がさわいだゆえのおおさわぎだったのではないかと想像する。
にげまわるから蚊らしいのであって、
ためらわずにむかってくると、いくら蚊でもおそろしい。
あんなにやる気にみちた蚊を はじめてみた。

代々木公園の蚊が原因といわれるデング熱も、
日本の熱帯化がすすんだだけではなく、
今年の異常気象によって、蚊が生活リズムをくずしたのだとおもう。
子孫をのこすのは今しかないと、公園の蚊たちが
決死のハンティングにでたのが要因のひとつではないか。
スキがあればさす、なんて悠長な蚊たちではなく、
血をすえるものならなんでもOKの状態なので
こんなにも被害がひろがったのだろう。
あつい日がつづいただけなら、こんなに蚊の猛攻をうけない。

蚊についてずいぶんかいたので、こんどはハエのはなし。
ロシア語講座をきいていたら
「熊の親切」ということわざがでてきた。
「余計なお世話」という意味だという。
昔ばなしがもとになっている格言なのだそうで、
熊と仲のいい人間の男がいて、
そのひとの顔にハエがとまっているのをみた熊が、
ハエをたたこうと「パチン」とやった。
そうしたら、ハエといっしょに男も死んでしまったのだそうだ。
たしかに究極の「余計なお世話」だ。

ハエはにげて、男だけが死んだのか、
ハエといっしょに「パチン」をされたのかはわすれたけど、
死んでしまった男にとってはそれほど意味のある情報ではないだろう。
熊にたたかれて死ぬなんて、ロシア人しかおもいつかない。
国がかわれば ことわざでつかわれるエネルギーの全体量が
まったくちがってくる。
熊に「パチン」とされて死ぬのは、日本人にはあまりにも残念だ。
ずいぶん残酷なはなしなのに、
ロシア的には「余計なお世話」ですんでしまうなんて、さすがに熊の国だけのことはある。
ことしの夏は、蚊とハエの活躍が記憶にのこるだろう。

posted by カルピス at 20:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月04日

松崎氏の「1日でできることを100日積み重ねる」に共感しながらもやさぐれる あつかいにくい人間

松崎純一氏がブログのなかで
「100日で1つを成し遂げようとするより、
1日でできることを100日積み重ねる」
http://jmatsuzaki.com/archives/13870
を提案されている。
「脱・完璧主義」のほうが効果的、というかんがえ方で、
それに刺激をうけて、「1日でできることを100日積み重ねる」を
自分でもやりはじめたひとがでているという。
たとえばtsukuru0704氏は

「今まで僕は、1日に成し遂げるもののハードルを、とても高いものにしていました。
それこそ初めて覚えるものであれば、かなりの時間を擁するものを、毎日続けようとしていた訳です。
(1日1時間、と決めていましが、それでも長いと今では思います。)
なので、ハードルを一気に下げました。
例えば、1日1回フォトショを開いて、1つの動作を再確認する、でもいいし
イラレで、ベジェ曲線で簡単な曲線を描く。
みたいな」
と決心をかたっている。
http://tsukurusumika.com/author/tsukuru0704/

わたしがひかれたのは、
「ハードルを一気に下げ」るかんがえ方だ。
こういうとりくみでは、どうしてもよくばってしまい
三日坊主におわりがちになる。
三日坊主でもいいから、その三日を何回もつづけたらいい、
というひともいるけど、
できればおなじとりくみ100回のほうが、
じっさいに効果を体感できそうな気がする。
100回という数字は、たしかにうまい設定だ。
1000回つづけるのはたいへんすぎるし、10回ではたいした効果はないだろう。
とはいえ100回だってそうかんたんではないので、
「ハードルを一気にさげる」工夫が必要になる。

わたしは、こういうはなしをきくと、
今西錦司氏のいわれる
「チリはいくらつもってもチリ」がきまって頭にうかぶ。
もちろんこれは「チリもつもれば山となる」のアンチテーゼであり、
コツコツやりさえすれば なんとかなるとおもうのは あまいですよ、と
今西氏はつきはなしているのだ。
日常生活において、なにもつみあげずに一発逆転はありえないと、
理屈や経験ではわかっている。
でも、努力をつみかさねることが、
なんだか道徳的に「えらい」といわれているようで、
今西氏の威をかりて「チリはいくらつもってもチリ」と抵抗したくなる。

松崎氏の提案は「脱・完璧主義」をいわれているのであり、
努力のつみかさねとは関係がない。
また、できないことを100回つづけてできるようになるのではなく、
1日でできることを100日つづけるのだから、
1日でやることはとくにむつかしいわけではない。
できることをやるのだから、自信がつくし、
つぎの活動のスイッチにもなりやすい。
また、tsukuru0704氏の
「ハードルを一気にさげ」る、という発見もすばらしいとおもう。
ほんとうに、ハードルはひくすぎるぐらいがちょうどいいのだ。
やっているうちに、いろんなことがみえてくるから、
やりながら修正したり、つぎの100回にいかせばいい。
やらないでおいて、ああだこうだいうのがいちばんよくない。

といいながら、いちにちのほんのわずかな時間、たとえ10分でも、
つみかさねたら確実な成果を得られるというのは
悪魔のささやきにもおもえてくる。
そんなにオリコーちゃんでいいのか、という
べつの問題がおきてくるのだ。
やはりわたしは「チリはいくらつもってもチリ」といいたくなる人間なのだろう。
立派すぎず、日常性からはなれ、
できるだけなんのためにもならず、
仕事にいかせないことをえらんだほうがよく、
でも、おもしろくて、10分くらいでできること。
そんなとりくみをみつけて、わたしもブログにかいてみたい。

posted by カルピス at 23:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月03日

『地図のない場所で眠りたい』(高野秀行・角幡唯介)「文章で勝負したい」という2人の探検家

『地図のない場所で眠りたい』(高野秀行・角幡唯介/講談社)

高野秀行さんと角幡唯介さん。
早稲田大学探検部出身の2人のライターによる対談だ。
高野さんはだいすきな作家とはいえ、
むかしばなしをなつかしまれてもなー、とこれまで本書を敬遠していた。
よんでみると、探検論・文章論など、いろいろな要素がつまっていて、
すごくおもしろい。

章だては以下のとおり。
・第1章 僕たちが探検家になるまで
・第2章 早稲田大学探検部
・第3章 作家として生きること
・第4章 作品を語る
・第5章 探検の現場
・第6章 探検ノンフィクションとは何か

おもしろかったところを紹介してみる。

高野さんといえば、現役の学生だったころに、
探検隊を組織してコンゴの湖にすむ(といわれている)
ムベンベという未知生物をさがしにいったひとだ
(『幻獣ムベンベを追え』集英社文庫)。
わたしは、その正当法にのっとった、りっぱな探検ぶりに
ふかく感心したのだけど、
でもまあ、ふつうのひとは、
いるかどうかわからない生物をさがしに
コンゴまででかけたりしない。
それから数年後、探検部の後輩が 千葉の松戸にすむといわれている
マツドドンをさがすといいだしたという。
コンゴまででかけた高野さんが、その後輩にむかって
「そんなもんいるわけねえだろう」といったら、
「高野さんにそんなこと言われたくない」といいあいになったそうだ。
高野さんはそれにまた「常識で考えろ」っていいかえすのだから、
まわりできいていたら、すごくおかしなやりとりだったろう。
たしかに高野さんに「そんなこと言われたく」ないし、
高野さんの「常識で考えろ」はものすごくシュールだ。

第4章の「作品を語る」では
「行為自体の完成度と作品のおもしろさを一致させるのは
なかなか難しい」(角幡)
というはなしがでる。
「入念に準備して行くと、たいていのことに驚けなくなってしまう。
『ああ、聞いたとおりだ』というだけで。(中略)
(かといって)知らないで行くっていうことは、
レベルが低い状態なわけだから、旅行記としてはいいかもしれないけど、
ノンフィクションとしてのレベルは高くならない」(高野)

これは、本書のテーマでもあり、
そのためにおふたりがどんな工夫をこらしているかを
しることができる。

第6章の「探検ノンフィクションとは何か」では
文章についてのはなしが興味ぶかかった。
おふたりとも「テーマじゃなくて文章で勝負したい」
という気もちがつよいのだという。
めずらしい場所へゆき、かわったことをしていると、
文章より素材がおもしろいからかけるんだ、とおもわれがちで、
それがすごくむなしいと。

「なにを言われていちばん嬉しいかというと、
やっぱり『文章がおもしろい』と言われることなんですよ。
『すごいことやってるね』と言われても別に嬉しくない」(角幡)

は、わたしにとってすごく意外なはなしだった。
わたしは角幡さんの文章をうまいとはおもうけど、
やっている行為についてはあまり評価していない。
たいしたことしてないのに、もっともらしくかくのがうまい、というのが
これまで角幡さんの本(『空白の五マイル』『雪男は向こうからやって来た』『アグルーカの行方』『探検家、36歳の憂鬱』)をよんできた感想だ。
角幡さんは、それでもいいのだろうか。

「俺だって本当に話したいのは文章の話なんだよ。
かといって小説家とはまったく話が合わないし、(中略)
ジャーナリストって一般に文章にこだわりがないから、
文章の話にはならないんだよね」(高野)

これも意外だった。
ジャーナリストが文章にこだわらないで、
だれが文章にこだわるのだ。
でも、こなれない文章をよんだりすると、
「文章にこだわらない」ひとがおおいという指摘は たしかにうなづける。
まえに『日本語の作文技術』(本多勝一氏)を検索したことがあり、
有名な本なので、さすがにたくさんレビューがよせられていた。
ほとんどのひとが絶讃していて、
「ただしい文章をかくコツがわかった」
「これからは気をつけて文章をかこう」
と共感しているのだけど、しかしそのへたくそさにおどろきもした。
「あなたがよんだのは、文章についての本ではなかったのか」
と本気でたずねたくなる。
世の中、文章についてこだわるひとばかりではないのだ。
ジャーナリストでさえそうなのは、なんだかがっかりだけど。

ほかにも、チャンドラーの文体を意識して『ムベンベ』をかいたとか、
バカにされるし かっこわるいけど、旅さきではウエストバッグがいちばんとか、
これまでしらなかった高野さんのひととなりをしることができる。
ノートとメモのつかいわけなど、取材道具や取材方法まで内容は多岐にわたる。
探検部OBによるオタ話ではないので、安心して、というか、
すごくおすすめできる1冊だ。

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2014年09月02日

『世界の国名地名うんちく大全』(八幡和郎) ドイツをなぜドイツとよぶようになったのか

『世界の国名地名うんちく大全』(八幡和郎・平凡社新書)

以前から国の名前に興味があった。
なぜその国を、そうよぶようになったか、という疑問だ。
フランスをフランスとよぶのはわかるけど
(フランス人が自分たちでそうよんでいるから)、
ではドイツとはいったいなんなのだ。
ドイツのひとは、自分の国をドイツとはいってないみたいだし、
英語でもフランス語でもない。だれがドイツをドイツとよぶことをきめたのだろう。
ギリシャにしても、「ギリシャ」ではぜんぜんつうじなくて旅行のときこまったし、
イタリアやスペインだって、地元ではそんないい方をしないみたいだ。
だれが、どんな原則のもとに、外国のよび名をきめるのか。
外務省なのか、地図をつくる会社なのか、国連を基準にしているのか。

この本では、すべての国をとりあげ(かぞえたら197あった)、
その国ではどんな言葉がつかわれ、正式にはどうよぶのかが紹介されている
(正式名称が複雑なときは、通称もしめされている)。
きいたことのないよび方もおおい。
けっきょく、「その国でつかわれているよび方」という原則をまもらなかったのが、
いまみたいなメチャクチャな状況をまねいた原因だろう。
まちがったよび方でも、なれてしまえばそれがあたりまえになり、
ずっと訂正されずにきょうまできた。

日本人は日本のことを「ニッポン」あるいは「ニホン」とよんでいるのだから、
わたしは、ほかの国にもそうよんでほしい。
しかし、日本だけの変更を主張してもだめで、
そのためには、ほかの国についてもおなじような配慮が必要だろう。
わたしは、韓国(正式には大韓民国。それも日本だけがそうよんでるだけ)のひとが
自分の国を「ハングク」とよんでいることを、まったくしらなかった。
ニッポンへの変更をいいだすには、
ドイツをドイチュラント、中国をチョングオなど、
おおくの国について、おなじようなみなおしが必要であり、
なかなかたいへんなとりくみになりそうだ。
それに、その国でよばれているといっても、
多言語の国はどうすればいいのか。
スイスは貨幣に4つの言語をのせるわけにいかないので、
ラテン語をとりいれているそうだし、
インドの紙幣は17の言語でかかれていることで有名だ。
そのうちのひとつだけを、特別あつかいにはできない。
ちょっとかんがえてみても 例外がゾロゾロでてきて、
かんたんにはいかないことがわかる。
その国が、対外的にどうよんでほしいかをしらべるしかないけど、
国によって、はっきりいえるところと いえないところがあるだろう。
国連に加盟したときの名称が正式といえるのだろうか。
でも、それでは現地のよび方をおもんじる、という原則からはずれるし。

ざっとこの本をよんだだけでも、国名は問題が非常に複雑であることがわかった。
国がなぜそうよばれるようになったかをしることができても、
ではどう変更したらいいのかはかんたんではない。
原則として 現地でつかわれているよび方をすればいい とまではいえても、
それからさきへはなかなかすすめない。

本書のエピローグでは
「できるだけ原語で、また、ひどく間違った読みは
修正するという基本姿勢であるべきだと思う。
まずは、社会科の教科書あたりで、
従来の表記と併記するなどしながら
正しい呼び方を浸透させていったらどうだろうか」と提案してある。

また、「訳語は、同じものは同じく」として
「同じユナイテッドを使っても『合衆国』になったり『連合王国』になったりするかと思えば、
原語が違うのに同じ『公国』になったりしてよいことなど何もない」
と指摘してある。
たしかに「アメリカ合衆国」などというまちがいは、
日本が自分でかってにこけたようなものだ。
「連合国」、あるいは「合州国」へと修正すべきだろう。
あやまりをただすのだから、ためらわずにすすめたほうがよく、
例外としてでてくる問題は、そのうえでひとつひとつ対応をがんがえる。

こうした本をよめば、すっきりするかとおもったら、
薮にすむヘビのむれをつついたようなもので、
あたらしい問題がいくらでもでてきた。
いまつかわれている国名がメチャクチャすぎるわけだから、
いっぺんにかえることは無理でも、
著者が提案するように、すこしずつ修正をかけていくしかない。
ただしい国名をとりいれるのが、こんなに複雑な問題だとはおもわなかった。

posted by カルピス at 20:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月01日

村松友視さんの「ランチ・イズ・ビューティフル」にでてくるパスタがたべたい

朝日新聞の土曜日版にのった
村松友視さんの記事「ランチ・イズ・ビューティフル」がよかった。
村松さんが、カメラマン・編集者との3人で
シチリア島一周の旅をしたときのはなしだ。
途中でさしかかった小さな村の雰囲気にそそられて、
その村のレストランで昼食をとることになった。
村のいたるところに火にかけられたドラム缶があり、
そこでトマトが煮えていたのだという。
編集者のはなしでは、この村はパスタ発祥の地(の候補のひとつ)
といわれているらしい。
もうスパゲッティ・アル・ポモドーロ(トマトソースのスパゲッティ)
をたべるしかない、というシチュエーションだ。

「ドラム缶で煮られるトマトの群れ、
店の外で眠りつづける太りすぎのオヤジ、
働き者の孝行娘のてきぱきした手さばき、
キッチンで幼児の守をしながら料理をつくる奥さんのけはい、
すべてがパスタ発祥の地といわれるこの村にふさわしい条件をみたしている」

いっしょにまわっていた3人の気もちが

「ここで出されたパスタの味が極上であったなら、
話がうますぎて、まずい。
そうなると逆にうそくさくなってしまうだろう・・・
三人の気分はそこに絞られていった」

がうまい。
絵にかいたような場面がもし期待どおりにすすんだら、
ガイドブックとしてはよくても、村松さんがかく記事としては
なんだかおもしろくない。
シチュエーションどおりに完璧なパスタがでてくるのか、
それともまったく意外などんでんがえしがあるのか、
わたしはおもわず息をのむ。
3人が同時にかんじていた微妙な緊張が、
表現者としての好奇心と良心をつたえている。

ふつうなら、そうした「いかにも」な雰囲気にまどわかされて、
でてきたパスタをつい「すばらしかった」と
絶讃してしまいやすいところだ。
ほとんどのガイドブックや旅行手記は
そうした「うそ」の記録がほとんどだろう。
しかし、さすがに村松さんは正直に事実をつたえている。
でてきたスパゲッティは、
「見事に平凡な味」だったのだそうだ。
「私たちは、シチリアの奥深さに
うなずき合ったのでありました」
にわたしもまたホッとする。

日本では、どこでも気がるにスパゲッティをたべられるし、
自分でもよくつくる。
その味にわたしはたいてい満足しているけど、
ではこのスパゲッティは、イタリア人がたべている本場の味とくらべてどうなんだと
ときどき疑問におもう。
これもわるくはないけど、ほんものはこの程度ではなく、
もっと圧倒的にすばらしい出来なのでは。
そんな心理をついてくるのか、旅行先(おおくはイタリア)でだされたスパゲッティが
いかに絶妙だったかの文章によくであう。
いままでにたべてきたスパゲッティはいったいなんだったのか、
みたいにかいてあると、
スパゲッティのためにだけでもイタリアへいきたくなる。
本場の味がすばらしかった、といわれたら、
日本でよむ読者としたら、はいそうですか、というしかないのだ。
村松さんの今回の記事は、じつは本場の味もそうたいして・・・と
世界のなりたちをおしえてくれる画期的なものだった。

わたしは村松さんの記事に感心しながら、
いっぽうで、もしかしたらほんとうは、と
すこしだけうたぐっている。
これだけすばらしいシチュエーションでありながら
「見事に平凡な味」というのはたしかにおもしろいけど、
べつのみかたをすれば、村松さんとしては
ぜったいに「すばらしかった」とだけは
かきたくないところだ。
シチュエーションからくる期待のたかさと、
おいしいとはいいたくない心境が、
だされたスパゲッティの味に影響をあたえたのではないか。

ここはやはり、イタリアへいくしかないのか。

posted by カルピス at 11:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする