朝日新聞の土曜日版にのった
村松友視さんの記事「ランチ・イズ・ビューティフル」がよかった。
村松さんが、カメラマン・編集者との3人で
シチリア島一周の旅をしたときのはなしだ。
途中でさしかかった小さな村の雰囲気にそそられて、
その村のレストランで昼食をとることになった。
村のいたるところに火にかけられたドラム缶があり、
そこでトマトが煮えていたのだという。
編集者のはなしでは、この村はパスタ発祥の地(の候補のひとつ)
といわれているらしい。
もうスパゲッティ・アル・ポモドーロ(トマトソースのスパゲッティ)
をたべるしかない、というシチュエーションだ。
「ドラム缶で煮られるトマトの群れ、
店の外で眠りつづける太りすぎのオヤジ、
働き者の孝行娘のてきぱきした手さばき、
キッチンで幼児の守をしながら料理をつくる奥さんのけはい、
すべてがパスタ発祥の地といわれるこの村にふさわしい条件をみたしている」
いっしょにまわっていた3人の気もちが
「ここで出されたパスタの味が極上であったなら、
話がうますぎて、まずい。
そうなると逆にうそくさくなってしまうだろう・・・
三人の気分はそこに絞られていった」
がうまい。
絵にかいたような場面がもし期待どおりにすすんだら、
ガイドブックとしてはよくても、村松さんがかく記事としては
なんだかおもしろくない。
シチュエーションどおりに完璧なパスタがでてくるのか、
それともまったく意外などんでんがえしがあるのか、
わたしはおもわず息をのむ。
3人が同時にかんじていた微妙な緊張が、
表現者としての好奇心と良心をつたえている。
ふつうなら、そうした「いかにも」な雰囲気にまどわかされて、
でてきたパスタをつい「すばらしかった」と
絶讃してしまいやすいところだ。
ほとんどのガイドブックや旅行手記は
そうした「うそ」の記録がほとんどだろう。
しかし、さすがに村松さんは正直に事実をつたえている。
でてきたスパゲッティは、
「見事に平凡な味」だったのだそうだ。
「私たちは、シチリアの奥深さに
うなずき合ったのでありました」
にわたしもまたホッとする。
日本では、どこでも気がるにスパゲッティをたべられるし、
自分でもよくつくる。
その味にわたしはたいてい満足しているけど、
ではこのスパゲッティは、イタリア人がたべている本場の味とくらべてどうなんだと
ときどき疑問におもう。
これもわるくはないけど、ほんものはこの程度ではなく、
もっと圧倒的にすばらしい出来なのでは。
そんな心理をついてくるのか、旅行先(おおくはイタリア)でだされたスパゲッティが
いかに絶妙だったかの文章によくであう。
いままでにたべてきたスパゲッティはいったいなんだったのか、
みたいにかいてあると、
スパゲッティのためにだけでもイタリアへいきたくなる。
本場の味がすばらしかった、といわれたら、
日本でよむ読者としたら、はいそうですか、というしかないのだ。
村松さんの今回の記事は、じつは本場の味もそうたいして・・・と
世界のなりたちをおしえてくれる画期的なものだった。
わたしは村松さんの記事に感心しながら、
いっぽうで、もしかしたらほんとうは、と
すこしだけうたぐっている。
これだけすばらしいシチュエーションでありながら
「見事に平凡な味」というのはたしかにおもしろいけど、
べつのみかたをすれば、村松さんとしては
ぜったいに「すばらしかった」とだけは
かきたくないところだ。
シチュエーションからくる期待のたかさと、
おいしいとはいいたくない心境が、
だされたスパゲッティの味に影響をあたえたのではないか。
ここはやはり、イタリアへいくしかないのか。