2014年09月06日

『ひとみしり道』(べつやくれい)日本人の10人に9人はひとみしり(らしい)

『ひとみしり道』(べつやくれい・メディアファクトリー)

「デイリーポータルZ」でおなじみの、べつやくれいさんによる作品だ。

たいていのひとはひとみしりにみえない。
「わたしはひとみしりで・・・」と、
そうはみえないひとから きりだされることがあるけど、
たいていはつまらない冗談か、
あるいはかんちがいしてるかのどちらかだ。
そもそもひとみしりのひとは
「わたしはひとみしりで」なんて自分からいわない。
ほんとうのひとみしりとは、
わたしみたいな人間をいうのだ、と
わたしが確信しているように、たいていのひともまた
自分がひとみしだとおもいこんでいるのだろう。
べつやくさんの調査によれば、
日本人の10人に9人はひとみしりだという
(「べつやく調べ」として、帯にかいてある)。
ひとみしりかどうかは自己申告制なので、
なにをもってひとみしりとするかは、ここではとわない。
自分がひとみしりだとおもえば、
そのひとはたしかにひとみしりだということにする。

おおくのひとがひとみしりかもしれないけど、
しかし、べつやくさんだけはぜったいにひとみしりではない、
と断言したくはるほどべつやくさんは「ひとみしり」らしくない。
派手な服をきて、大胆な仕事をし、おかしな絵をかくので、
ひとみしりとは縁のないひとにみえる。
しかしご本人がいうには
「もともと引っ込み思案の子どもに、
人見知りとしゃべり下手の英才教育をしてしまった」
ような人間なのだという。
そんなべつやくさんが、どんなひとみしり人生をあゆんできたか。

この本は、「ひとみしり」でわらいをとろうとしているのではなく、
あまり評価がたかくない「ひとみしり」という性格について、
「なぜひとみしりなのか」
「ひとみしりでなくなるには、どうしたらいいのか」と、
仮説をたてながら、できることをかならず実践している。
けっこうまじめな本かも。

幼稚園のときからほかの子たちとうまくあそべなかったと、
べつやくさんはおさないころの自分をおもいだし、
そこに「ひとみしり」の起源をみる。
そして、中学から大学までエスカレーター式の学校(女子校)だったため、
幼稚園と小学校ではぐくまれた「ひとみしり」が、
おとなになるまでそのまま温存され 熟成したのではないかと、
べつやくさんは分析している。
かいものにいったとき、お店のひとにはなしかけられても
うまくこたえられずにわらってごまかす+あとずさり、とか、
美容院でちゃんとかんがえをつたえられなかったため、
すごい髪型になったとかのおもいでがつねにつきまとう。
まあ、ひとみしりなら、これくらい当然あってしかるべき体験だ。

べつやくさんは、はなし方教室にでかけ、
接客業の体験にとフリーマーケットに出店し、
外国人観光客にはなしかけるため雷門へでかける。
ひとみしりでもできる仕事をさがし(スーパーの裏方さん)、
そのうちだんだんと自分の「ひとみしり」とつきあえるようになり、
「ひとみしり」もあんがいわるくないかも、とおもいはじめる。

わたしがおどろいたのは、スーパーでのパックづめをするうちに
「『黙々とやる単純作業の楽しさ』を知った」というはなしだ。
ひととコミュニケーションをとるわずらわしさよりも気がらくなのだという。
わたしにはないかんがえ方で、こういうひとは
悪名たかいトヨタでのながれ作業も
苦ではないのかもしれない。
単純作業というと、なかなか時計がすすまない 退屈な仕事ときめこんでいたのに、
それを「楽しい」とおもえるひとがいるとは。

よみおえても、けっきょく「ひとみしり」はよくわからない。
わからないばかりか、
コミュニケーション下手とどうちがうのか、とか
ひとみしりイコールはずかしがりやといえるのか、とか
さらにいろいろな疑問をかかえることになる。
本書でも、「おとなしい」と「ひとみしり」のちがいがとりあげられているが、
けっきょく結論はだされていない。
「ひとみしり」「おとなしい」「はずかしがりや」「コミュニケーション下手」などが、それぞれ独立しているのではなく、
複雑にからまった総体として「ひとみしり」をひきおこすのだ。
よくありがちな結論だけど、「ひとみしり」だからといって、
かならずしもネガティブにとらえなくてもいいのでは、
とべつやくさんはまとめている。

ひとみしりは、たしかに生きづらいけど、
わたしもふくめ、おとなになればたいていのひとは
「ひとみしり」しつつ仕事ができるようになる。
そうするしかないからで、まわりもまたなれてくれる。
つけくわえると、わたしは「ひとみしり」だけでなく、
存在感がきわめてうすいという、これもわりにつらい弱点をかかえている。
180センチと、からだはおおきいのに
なにかのグループにはいっていても無視されやすく、
ひどいときはスーパーのレジにならんでいても、
「いないひと」としてあつかわれてしまう。
わたしとしては残念だし不本意でもあるけれど、
どこにいても目だってしまうよりも まだましかもしれない。
このように、おおくのひとはなにかしら
おもいどおりにはいかない性格をかかえており、
それでもなんとかなるのがひとの道なのだ。
「ひとみしり道」も、そんな道のひとつにすぎない。
道をきわめるのではなく、ただその道をブラブラあるいていればいいみたいだ。

posted by カルピス at 21:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする