そうか、日記はよみものか。
たしかに、日記の形をとった本は
よくしらないひとのものでも、
なにをたべ、なにをしているのかにひかれて ついよんでしまう。
他人の生活をのぞけるのが、日記をよむたのしさなのだろう。
わたしがかいているこのブログだって ある種の日記みたいなものだ。
ときどき自分でも「なんでかいてるのだろう」とかんがえてしまうことがある。
せんじつめれば、生きているあかし、といえるだろうか。
そのとき自分がなにをし、なにをかんがえていたのかを
記録としてのこしたいから なんやかやとかく。
なにもしていないようにおもえる日でも、
とにかく生きていたのだから、なにかしらをかく。
それがわたしにとってのレーゾンデートルなのだ、きっと。
ブログのなかには 完全に業務日誌みたいなスタイルのものもある。
どんな仕事をして何時に家にかえり、どれだけの酒をのんだか。
なにをおもったか、については ほとんどふれず、
とにかく事実をありのままに記録してある。
わたしはそういうのをよむのがわりとすきで、
たとえば目黒考二さんの『笹塚日記』(全3冊)は、よんだ本の感想などかいてなくて、
ただひたすらなにをよみ、なにをたべたか しか ふれてないのに、
それでもずるずるとよみつづけてしまう。
そんなのがびっしりと余白なくかきこんであり、
3冊をよみおえるころには、仕事と私生活ともに、
ゆるやかなうつりかわりがよみとれるようになる。
日記をよむだいごみは、あるひとにおきた人生の起伏をしることではなく、
なにもおこらないきわめて平凡な日常によりそうことではないか。
特集記事としてのっている とみさわ昭仁氏と中嶋大介氏との対談では、
とみさわ氏が新潮文庫の「マイブック」をあつめているはなしがでている。
「マイブック」といえば、日付と曜日しかはいっておらず、
1日1ページがまるまる白紙というアレだ。
わたしは本屋さんにある「マイブック」をはじめてみたとき、
いったいなんのことかわからなかった。
文庫の体裁なので、自分のものがたりをかけということか、
それともよんだ本の記録をつけるのか。
なんでもいいから自由につかってね、というのが「マイブック」のコンセプトみたいで、
きっと、いろいろなつかい方がされているのだろう。
そんな「マイブック」が、ときどきブックオフにまぎれこんでいて、
そのなかの10冊に1冊くらいは、まえのもちぬしがかきこんでいるという。
わたしはまだかったことがないけど、そんな極私的な「本」が
古本市場にまででまわっており、
なおかつそれをかいもとめるひとがいるのだから、
コレクターの多様性はわたしの想像をはるかにこえている。
わたしには「マイブック」を本としてよもうという発想はない。
ひとりが3冊ずつおすすめの日記本をあげる「わたしの偏愛日記」コーナーでは
『つげ義春日記』と『言わなければよかったのに日記』(深沢七郎)
・『富士日記』(武田百合子)、それと『腹立半分日記』(筒井康隆)を複数のひとがあげていた。よくよまれる日記本は、あんがいきわめてせまいジャンルなのかもしれない。
わたしがすきな「べつやくれい」さんも「思わず吹き出した日記三冊」をあげている。
林雄司氏の『やぎの目ゴールデンベスト』にあった
「ウコンのサプリメントから大腸菌が検出されたという事件があったことを受け、
それはもう ほとんど うんこではないか」には わらってしまった。
航海記や探検記には、日記がそのまま記録になっているものがある。
時間軸にそって事実をかきつらねていく究極の記録であり、
そこに個人的な意見や感想をまじえるよりも、
ただあったこと・みたことだけをかくほうが記録として参考にできる。
ブログに日記をかくひとは、ながい目でみると
人類(あるいは日本人)がその時代にどうすごしていたのかを
文章によって子孫(あるいは異星人)にのこしているといえる。
でも、「ウコンのサプリメントから大腸菌が検出された」
という事実だけでなく、
「それはもう ほとんど うんこではないか」と
推測をかさねたほうが よみものとしてはおもしろい。
ノンフィクションか、フィクションかという このみの差は、
ウコンでとめておくのをよしとするか、
それともうんこまでいきたいかによってきまってくる。