人類の起源についての本をよんでいると、
なぜおおむかしにわたしたちの子孫は
アフリカをでて世界じゅうへひろがっていったのか、いつも気になる。
200万年まえにアウストラロピテクス(原人)が、
そして20万年まえにホモ・サピエンスが、
ともにアフリカで誕生し、そこからほかの大陸へとうつりすんでいる。
もちろんそのときの人類に、アフリカをでる、という自覚はなかっただろう。
しかし、すみなれた土地をはなれ、
みたことのない風景へとすすんでいったのはまちがいない。
シベリアからアリューシャン列島をわたって北アメリカ大陸、
さらには南アメリカ大陸へとすすんでいくし、
アジアにいた人類は、オセアニアへと船でこぎだしている。
おとずれたことのない土地へふみこんだり、
さきになにがまっているかわからない海へ こぎだしていくエネルギーは
いったいどこからくるものなのか。
10万年まえのアフリカには、1万人程度しかひとがすんでいなかったそうだから、
ひとがおおすぎてアフリカをはなれたわけではないだろう。
ゆたかな食料をえるために、では説明がつかない。
いまいる場所をはなれたら、どんな環境がまっているかもしれないのに、
うまれそだった土地に執着せず、みしらぬ土地へととびだしていく。
現代に生きるわたしとしては、こうした行動を
勇気や好奇心としてとらえたくなるけれど、
ほんとうのところ、なにが彼らを新世界へとかきたてたのだろう。
いまのわたしたちが旅行ずきだったり、旅にロマンティシズムをかんじるのは、
おおむかしの祖先からひきついだ血がさわぐからだろうか。
アメリカでの西部開拓の歴史も、
いまとくらべれば人口密度がさほどたかくなかったのにもかかわらず、
とにかく西へ西へとめざしているから、
にたような未知へのあこがれがあったのかもしれない。
まだひとが足をふみいれていない土地に やっとこさたどりつき、
自分たち以外にだれもいないほうが清々するという感覚は、
はるかむかしから 人類にそなわったものなのだろうか。
用心ぶかい野生動物をみていると、
人類だけがノーテンキに生きていたはずはない。
つよい猛獣におそわれる心配もあっただろう。
まるでリスクをかんじずに、前途洋々で移動したとはおもえない。
さきのことはわからないし、もちろん年金をもらえるあてもない。
おなかをすかせたり、死んだりという
将来への不安をかんじる思考がなかったのか。
死をおそれず、あるいは 死をかんがえないですごしていたのか。
はるかむかしの祖先をおもうと、
不思議なことばかりだ。
なぜ人類だけが環境の変化をためらわず、生活圏をひろげようとしたのか。
このフロンティア精神がなければ、人類はいまのように
世界中のあゆる場所でくらすようにはならなかったはずだ。
ひとがだれもすまない あらあらしい風景の写真をみると、
わたしはそこへたちむかう意欲をかきたてられるよりも、
おそろしさに足がすくんでしまう。
水も食料もなく、なにがまっているかわからない場所へふみだしていく勇気がない。勇敢だった人類の末裔とはおもえないほど 心配性で軟弱にそだった。
アフリカで生まれた人類の先祖たちは、
いったいなにをおもってすみなれた土地をはなれたのだろう。