わたしはテレビをほとんどみないので、
芸能界やさいきんの風俗についてきわめてうとく、
なかなかおしゃべりの輪にはいっていけない、
とかきかけて、いったい世間のひとたちが、
なにを共通の話題にしているのか わたしはしらないことに気づいた。
職場のスタッフが、テレビ番組についてはなすのなんか きいたことがないし、
女性のほうがおおいので、プロ野球やサッカーでもない。
職場についてでさえしらないのだから、
たとえば女子会や会社がえりの居酒屋で、
いったいいまは なにについてはなされているのだろうと、そこからつまづいた。
なんでこんなことをきゅうにかきだしたのかというと、
わたしはいわゆるおしゃべりではないけれど、
関心のある話題については はなしのやりとりをたのしむほうだと
自分でおもっていた。
わかいころは、それこそ「いかに生きるべきか」みたいなことも
このんではなしていたような気がする。
それほどおおきな話題ではなくても、
たとえばなぜ日本人は外国語の学習が苦手なのか、
などということを、夜がふけるまではなしこんだものだ。
すこしまえに、かずすくない友人とメールをやりとりするなかで、
わたしが「技術は没個性で、だれにでも習得できる」ということを
だれもがしっている当然の事実としてメールにかいたら、
あろうことか その友だちは反論してきた。
おくられてきたメールをみると、彼は、
職人たちが身につけた名人芸とよべる技と、
だれもがある程度の訓練によって習得できる技術とをいっしょにしているのだ。
いやいやそうではなくて、ともういちどわたしは説明をこころみたけど、
そのあと何回メールをやりとりしても いっこうにラチがあかない。
わたしは だんだんめんどくさくなってきた。
わたしにとってはあたりまえで、
おおくのひとが共通認識しているとおもっていたことを、
「いや、そうではない」とまったく理解されないのにおどろいたし、
たとえそのあとメールをやりとりしても、
納得させるのがいかにたいへんか予想できた。
それに、もし技術の問題がかたづいたとしても、
それからさきもおなじように ひとことひとこと
つっかかってこられたら、 そんなおしゃべりはたのしくもなんともない。
相手にしてみたら、友だちだから 遠慮なく疑問をただしてきたのかもしれないが、
こうした議論を、わたしはもうたのしめないのがよくわかった。
相手に自分のかんがえをのべ、意見をたたかわせ、説得するのは、
仕事であっても、あそびであっても必要な手つづきなのに、
そういうのがわたしはつくづくめんどくさくなっている。
その友だちとは、むかしはなんだかんだと理屈をからませて、
議論のための議論をたのしんでいたのに。
意見をやりとりするのは、こんなにもたいへんなのか。
日本人の議論ベタは国際的にも有名なのだそうで、
ひごろから意見をたたかわせるしつけや訓練をうけていないわたしたちは、
論理的に相手を説得できず、感情的になったり、
だまりこんだり、相手の意見にいやいやながら賛成したりする。
わたしの反応は、まったく日本的なもので、
納得できないことをしつこくついてきたわたしの友だちのほうが
議論の本質をよくとらえている。
メールでのやりとりにうんざりしたわたしが どうしたかというと、
「しばらくおやすみしようとおもいます」と
まるで小学生がする絶交みたいに
一方的に中止を宣言し、関係をきってしまった。
「技術は没個性」という、とうのむかしに結論がでたようなことについてさえ、
納得できないひとと わたしははなさなくてもいいと みきってしまった。
たとえ友だちでも。かずすくない友だちだから、大切なのに。
なんて子どもっぽい反応だろうと われながらおもう。
ブログでも、もしかいてある内容について、
ひとことひとことにつっこんでこられたら
うるさくてかなわないだろう。
いくらていねいに説明や反論をこころみても、
ネット上ではなかなかすっきり決着がつきそうにない。
おおくの読者をかかえるブログはたいへんだろうとおもうし、
なんらかの対応策をもってないと、めちゃくちゃな場所になりそうだ。
わたしにとってのブログは、議論をするところではなく、
ひとりごとをつぶやく場所でしかない。
友だちとのささやかなやりとりでさえ、
めんどくさくてなげだしてしまうのだから、
わたしには 健全なサイトを運営する能力があきらかにかけている。
職場のスタッフと会話がはずまなかったり、
家族とでさえおしゃべりがとだえがちなのは、
わたしがわるいのではなく、なにがおとなのおしゃべりなのかをわきまえない、
まわりのひとたちに問題があるとおもっていたけど、
じっさいはわたしが犯人なのかもしれない。
いくら関心のある話題をふられても、
いまのわたしは知的なおしゃべりをたのしむ精神的なゆとりがない。
成熟したおとななら、もっと悠然とかまえて 無意味なことでも、
いや、無意味なことにこそ あつい議論をたたかわせたい。
老後をどう生きるかや、健康についてなど、
おしゃべりしたいことはたくさんあるのに、
たのしいやりとりにしないのはもったいない。
おしゃべりは お金のかからない究極の娯楽ともいえ、
はなせる友だちがたくさんいたほうが、老後をゆたかにすごせるだろう。
かんたんに「絶交」なんかしないで、
もうすこしおしゃべりの技術を身につけたほうが わたしのためみたいだ。