ファイルメーカーでつけている日記に、
「夕ごはん」というあたらしいフィールドをもうけ、
これまでにどんな夕ごはんをつくってきたのかがわかるようにした。
メニューをきめる手だすけと、あまりおなじ料理がつづかないよう、
過去のデーターを参考にしようとおもったのだ。
といっても、たとえば八宝菜くらいなら毎週あってもいいし、
季節もののサンマの塩やきなら週に2回でもみとめるという、
ごくゆるいとりきめだ。
これまでに約300回の夕ごはんが記録されており、
最初のころ(13年まえ)のメニューをみると、
おこのみやきとかチャーハンの1品しかかいてないことがめずらしくない。
7時に保育園へむすこをむかえにゆき、
そのかえりにスーパーでかいものをすませて
おおいそぎでつくるのだから、どうしてもかんたんなものしかできない。
保育園へのむかえがなくなったり、仕事をおえるのがはやくなったりして、
夕ごはんの準備にあてる時間がふえてくると、
5品くらいをいつもつくるようになっている。
以前よんだ新聞記事に、1汁1菜しかつくらないお母さんが紹介されていた。
それでもむすこはりっぱにおおきくそだったのだから、
あれこれ手間をかけてたくさんのおかずを用意する必要はない、とある意味で
ひらきなおっておられる。
栄養の摂取という観点からは、1汁1菜でなんの問題もなく、
むしろたべすぎることなく健康にすごせるそうだ。
お金があまりかからないし、なによりも、
料理についやす時間が圧倒的にすくないので、
いちにちを有意義にすごせるのだという。
ゆたかすぎる食事にならないよう、ひとつの生き方として
1汁1菜というかんがえ方がたしかにあるようで、
からだのこと、地球のことをおもえば1汁1菜こそ
すべての人類がとりいれる食生活かもしれない。
ただ、子そだてのときに ここまでわりきれるひとは
あまりいないのではないか。
だからこそ新聞にのったわけで、おとなが1汁1菜を実践するのと、
そだちざかりの子どもたちにたいして 1汁1菜でとおすのは、だいぶ覚悟がちがってくる。
1汁1菜というかんがえ方の、それこそが食育なのだから、
ほんとうは子どもにだからこそ提供すべき食生活なのかもしれない。
よくいわれるように、日本人の食生活は あまりにもたくさんの料理をとりいれているので、
つくる方はメニューをきめるのがあんがいたいへんだ。
インドだったら数種類のカレーをつくればいいし、ネパールはダルバートにきまっている。モロッコだって、基本的にタジンしかたべていない。
それにくらべ、日本の夕ごはん担当者は、起伏にとんだ料理を期待されている。
人生とおなじように、可能性がたかいとかえって選択・決定はむつかしくなるのだ。
そんなことをするからたべすぎをまねくのだろうけど、
いつものメニューになれてしまうと、1汁1菜だけではかなりわびしくて、
さっさとごはんをすませ、あとの時間を有効につかいましょう、
とはなかなかならない気がする。
かいものがえりであろう、ちいさな子をつれたお母さんをみかけると、
時間がないなかでやりくりしていた すこしまえの自分をおもいだす。
女に生まれたからといって料理ができるわけではないから、
なかには夕ごはんの準備にめげているお母さんも当然いるだろう。
おこのみやきやカレーだけでも立派な夕ごはんだとわりきって、
笑顔の食卓にしてほしいとおもう。
いまはたいへんだけど、そのうち条件がととのってくるし、
料理がにがてだから1汁1菜、というのでもぜんぜんわるくない。