『思い出のマーニー』(J=ロビンソン・岩波少年文庫)の冒頭で、
「それから、”やってみようともしないこと”というのが、
アンナがノーフォークへ行くことになった、もう一つのわけでした」
というはなしがでてくる。
どこもわるいところはないし、頭もわるくないけど、
「この”やってみようともしないこと”ってことが、
あなたの将来をだめにしてしまうんじゃないかしら・・・」
とミセス=プレストンは心配する。
似たような体験をわたしはおもいだす。
小学校3、4年生のころ、
たとえばプリントをもらいに先生のところへいくときなど、
それまではさきをあらそって列にならぶ子だったのが、
あるときからギリギリの時間まで席でまつようになった。
どうせ最終的にはプリントをうけとるわけで、
列がみじかくなってから 先生のところへいけばいい。
はやくから列にならんだからといって、いいことなどなにもないのだ。
そしてそのとおり、あとから列にならんでも なにも問題はなかった。
列にならばなくてもいいことに味をしめ、
それ以来、やらなくてもいいことはしない、
子どもらしくない もののみかたに ひきつけられていった。
先生はそうした「子どもらしくない」態度に敏感だった。
「やる気がない・げんきがない・しらけた(死語!)子」としてマユをひそめ、
このごろへんなうごきをするようになったと、口にだして残念がった。
当時のわたしが、なにか問題をかかえていたかというと、
とくにこころあたりはない。
「世の中のひみつ」をいちはやくかぎつけたような気がして
むしろ得意がっていたかもしれない。
わたしは、自分がマーニーだった、といっているのではないけれど、
おとなが期待する子どもらしい態度をやめたことで、
なにかがはっきりかわったことをかんじていた。
だれもわたしにノーフォークゆきをすすめなかったので、
わたしの性格は、修正される機会をうしなったまま いまにいたっている。
わたしがかかえる問題のいくらかは、列にならばなくなったことで
決定的にとりこんでしまったような気がする。
いまおもえば、小学校の先生は 列にならばないわたしをみて、
ちがう世界へむかうにおいをかぎつけたのかもしれない。
わたしは、ずいぶんあぶなっかしいところをあるいていたのだろうか。
すこしまえの「今日のダーリン」に
「成功する人や伸びる人は、素直」というはなしがのっていた。
「『先輩や師匠、上司だとか先生の言うことを、
素直にきくものは、よろこばれる』ということと、
『成功する人や伸びる人は、素直なんだよなぁ』
ということとは、とてもよく似ているのだ」
なにをもって素直とみるかはかんたんではなく、
わたしは自分が素直かどうか、よくわからない。
(すきな)ひとの影響をすぐうけてしまうところは素直といえるし、
糸井さんの文をみて、
「成功したり、のびなくってもぜんぜんOK」
なんて反発したくなるところは あんまり素直とはいえない部分だ。
素直さがあっても、うまく表現できないときは、素直といえるのかどうか。
いいんだ、成功なんかしなくても。
「やってみようともしないこと」は
はたしてわるいことだろうか。
アンナにとって、すべてはわざわざやってみるにあたいしない、
どうでもいいことだった。
それを心配するおこなたちの気もちが、アンナにはまったくわからない。
具体的にどこが「よくない」かは指摘しにくいけれど、
こうした子どもらしくない態度はおとなたちを不安にさせる。
「アンナ自身は、学校のことなんかちっとも気にしていませんでした。
ほかのことと同じように、ぜんぜん、心配していませんでした。
でも、ほかの人たちは、みんな、心配しているようでした」
ノーフォークへいかず、あのままロンドンですごしていたら、
アンナはどんな子にそだっただろうか。
つよい子だったら、マーニーのちからをかりなくても
たちなおれたかもしれない。
本では いろんなひとのたすけがうまくアレンジされて、
アンナはぶじに自分をとりもどした。
おそらくアンナは「やってみようともしないこと」を
心配される環境からはなれる必要があった。
わたしは、アンナもまたプリントをもらいに
列にならばなかった子だとおもう。