「2つ前から継承する日本代表」という記事で
http://www.sponichi.co.jp/soccer/yomimono/column/nishibe/index.html
日本代表の興味深い傾向として、1つ前のチームは無視して、2つ前から始めるということに気がついた。
とのべている。
おもしろい指摘ではあるけれど、かんがえてみれば
たいていのあたらしい体制は、まえの方針の否定からはじめるだろう。
「前監督の方針がすばらしかったから、
わたしもそれを継承します」
とは、ふつういわない。
この記事で重要なのは、
わざわざ2歩下がってから始めるのも悪くないが、こうなっているのは技術委員会が機能していないからだろう。毎回、総括をいい加減にして次を急ぐだけの体質がこうした無駄を生んでいるのではないか。
にある。このままでは、いつまでたっても日本のサッカーといえるものが
つみあげられない。
「修羅場をくぐっている人物」
「コミュニケーションがとれる」
「外国人のプロ監督」
「世界を知っている」
など、日本サッカー協会は 代表監督を いろいな視点からえらんできた。
そのつどいうことがちがっており、
監督就任の歴史をおっかけてみると、迷走といってもおおげさでないゆれ方だ。
こうしたことは、もちろんサッカー日本代表だけではなく、
おおくの組織にあてはまるだろう。
まえを否定したくなるのはわかるけど、
どんなところにむかっているかをはっきりさせないと、
また「うしなわれた4年間」となり、小手先だけの変化におわってしまう。
Wカップでの内容がよくなかったスペインとブラジルは、
どんな総括のもとにこれからの4年間をおくるのだろう。
とはいえ、どちらも独自のサッカーがすでにできあがっており、
根本的な改革をすすめるとはおもえない。
ほかにもポルトガル・イングランド・イタリアと、
おもったような成績がのこせなかった国はおおいけれど、
これらはいずれもスタイルができあがっている国だ。
日本の「総括」は、これからの羅針盤として こうした国より さらに重要性がたかい。
なんだかいつも「総括」といいながら、
その「総括」をいつまでたってもきいたことがない。
今回もまた、なんとなくアギーレ監督の体制がはじまってしまった。
会社の代表者がかわるのはよっぽどのことだけど、
サッカーの監督は ちょっとまけがこむだけでかえられてしまう。
というか、まけてなく、首位をはしっていてもかえられるからおそろしい。
今シーズンのJ1では、サガン鳥栖、昨シーズンでは大宮アルディージャが
首位のときに監督を交代させた。
首位でもそうなのだから、成績がわるければ首はすぐにあぶなくなる。
今シーズンはセレッソ大阪が2人目の監督交代をおこなったし、
さきにあげた鳥栖と、清水・仙台・大宮も、シーズン途中でかわっている。
これぐらいかんたんに監督がかわれば、
監督のほうだって「そういうものだ」とわりきれるのではないか。
たまたまチームと自分の戦術との相性がわるかっただけとおもえるし、
主力選手にケガがつづいて運がなかったのかもしれない。
かえられる理由は成績不振やチームの将来性をかんがえてのことがおおく、
監督の人間性までが否定されたわけではない。
敗北者のレッテルをはられることのない、ある意味やりなおしのきく世界だ。
べつのチームにいけば、じゅうぶん通用すると主張できるし、
あたらしい監督をむかえるチームも、あまりおおきな期待はせずに
「うまくいけばもうけもの」と、イチかバチかで採用する。
もちろん監督だけでなく、選手だってかんたんにほかのチームへうつっていく。
プレミアムリーグやセリエAなどにいけばおおさわぎされるけど、
実力のおとろえによって J1からJ2にいくことだっていくらでもあるし、
それでもだめならFIFAランキングのひくいアジアや、
ヨーロッパでも2部リーグが市場としてある。
もし、そこで通用するとおもえば、そして相手も自分を必要としてくれたら
世界のどこへでもいける。
サッカーならではの自由さをかんじるけど、
かんがえてみれば サッカーでなくてもそうやって
世界を相手に生きていけばいいわけだ。
世界のおおくのひとは、それを当然のこととして頭においているし、
ことばの壁をかんじてしまう日本人のなかにも、
世界のいろんな場所で 自分にあった生き方をしているひとがいる。
ちからをぬいて、たのしそうにくらしている そうしたひとをみていると、
その自由さをこのましくおもい、行動力がうらやましくなる。
サッカーでは総括が大切などといいながら、
生活においては数年さきの計画さえたてず、
なりゆきにまかせてわたしは生きてきた。
もう のこり時間があまりなくなってきたので
(べつに余命を宣告されたわけではない)、
やりたいことを いいかげん はっきりさせる時期なのだろう。
日本サッカー協会に批判めいたことをかいたけど、
とてもひとのことをわるくいえるほど
自分がりっぱではないことはあきらかだ。
自由がだいじなことは はっきりしている。
でも、それだけではなにもきまらない。