2014年10月31日

自転車が車道をはしれる道路をのぞむ

秋の交通安全運動なのだろう、
橋のたもとにたって、とおりかかる自転車を
おまわりさんがよくとめて 指導している。
とくに問題のなさそうな自転車でも、
通学生などは のきなみとめられており、
いったいなにをはなしているのか興味がわいてくる。
わたしはまだこれにひっかかったことがなく、
いちど指導をうけたいとおもっていた。
時間帯と場所さえおさえておけば、わりあいかんたんに
「指導」してもらえそうなので、機会をうかがうことにする。

わたしがのっている自転車は、ドロップハンドルで
サドルがかなりたかめ。
ライトはまえとうしろにつけており、
足には反射テープもまいている。
完璧な自転車のりをよそおうため、
いつもはつけないヘルメットを、
この何日かは かぶってはしっていた。
きのうの夕方、やっと指導の現場にでくわした。

3人組のおまわりさんが、2台の自転車をとめ、
のっていたひとに なにやらはなしている。
わたしには なにもいわれなかったので、
3人目のおまわりさんのうごきをうかがう。
「(とまらなくて)いいですよ、気をつけていってください」と
むこうにいくよう うながされた。
せっかくの機会なので、なにについて指導しているのかを
こちらからたずねてみる。

ライトをつけてない自転車や、
イヤホンを耳にさしているひとを 指導しているのだそうだ。
「サドルのたかさは注意しないのですか?」とたずねると、
関係ないという。
よほどへんなハンドルに改造していたらとめるものの、
おもにみているのは ライトとイヤホンの2つみたいだ。

わたしがはしっていたのは道路の右側で、しかも歩道だった。
3メートル以上の幅がある歩道なので、
法的には自転車がとおってもいいのだろうが、
歩行者としたら 自転車がいきかう道路は おちついてあるけない。
おまわりさんの「指導」はライトだけでなく、
自転車は車道をはしる、というきまりの徹底にも
目をくばるべきではないのか。
本来、歩行者と自転車がおなじ通路をとおることに無理があるのだ。

タイで自転車にのっていたときに、
交通整理のおまわりさんに注意されたことがある。
日本的な感覚で、右側でもまあいいだろう、と
そのままはしっていたら、
ちゃんと左側をはしりなさい、といわれた。
この注意は、まったくただしい。
自転車は車両なのだから、左側でないとはしってはいけないし、
歩道だってとおる権利はない。
日本はそれがものすごくいいかげんになっていて、
右をはしっていても注意されることはまずないし、
歩道を自転車があたりまえにとおっている。
歩道は歩行者がとおるためのもので、
なんでそこを自転車もとおるようになってしまったのか。
信号も、自転車と歩行者を
いっしょなグループにいれられていることがおおいけど、
本来それはおかしなことだ。
自転車は車両であることを、
いいかげんはっきりさせたらどうだろうか。

自転車がはしる場所についてしらべてみると、
いくつかの例外をのぞき、原則として車道をとおることになっている。
ただ、自転車も自動車も、歩行者もよくきまりがわかっておらず、
あいまいなままになっているのが現状だ。
抜本的にみなおせばいいとおもうけど、
あまりにも混乱がおきそうなので
なかなか手がつけられないのだろう。

自転車が車道をはしるときに問題となるのは、
自転車がとおる空間を、ちゃんと確保していない道路がおおいことだ。
全部の自転車がきまりをまもって道路をはしったら、
自動車の運転手からすぐに苦情がでるだろう。
自転車専用道路をととのえないできたツケとして、
いまだに混乱をまねいている。
けっきょく、自転車は車両であると
位置づけることからはじまるのではないか。
車両なのだから、当然それがとおる道路もととのえる。
いまの自転車の位置づけと、自動車優位の道路では、
歩行者も自転車も自動車も、おたがいにあぶなっかしくて、不幸だ。

自転車にのるものからいわせてもらえば、
道路は自動車だけのものではないのだから、
もっと歩行者と自転車にスペースを提供してもらいたい。
それをしないでおいて、省エネだエコロジーだと
(「ノーマイカーデー」なんていうのが、わたしのすむ町にはある)
自転車の利用をよびかけられても、
まったくリアリティがない。
自転車にのりたくなるようなしくみを本気でかんがえれば、
いまみたいな道路は時代錯誤でしかない。
おまわりさんには、ライトやイヤホンへの指導よりも、
自転車は車道をはしるように指示してほしい。
そのときには、自転車がはしれるように
車道をととのえてと いいかえそう。

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2014年10月30日

『北緯66.6゜』(森山伸也)ラップランドを、ただあるくはなし。自由についてかんがえる

『北緯66.6゜』(森山伸也・本の雑誌社)

おもしろかった。
リュックをせおい、ただひたすらラップランドをあるく。
山のいただきをきわめるでも、縦断や一周が目的でもない。
目的はあるくことであり、自分のちからが
どれだけ自然のなかで通用するかをためすことだ。
体力だけでなく、精神的なつよさも もとめられる。
お遍路さんであるく旅をしても、
ひとや車がおおすぎて あんまりたのしくなさそうだ。
ラップランドでは、人とであうのが、トナカイをみかけるよりめずらしい。
そんな場所をあるくとき、ひとはなにをおもうのだろう。

森山さんの本は、まだよんだことがなかったけど、
「北欧ラップランド歩き旅」というコピーにひかれて
ネットで注文する。
さいわい、わたしとはウマがあいそうで、
いいヤツだなーと、なんどもおもいながらよんだ。
かるそうでいて、根がまじめなひとだ。
なぜラップランドなのか。
北欧というと、福祉の先進地としては有名でも、
旅行するには物価がたかくてたいへんだし、
太陽があまり顔をださず、年中さむくてと
わたしはあまりいいイメージをもっていなかった。
こんなふうに、北欧はトレッキングというたのしみがあったのだ。
どこにでもテントをはっていいし、焚火もできる。
水も、氷河からながれる川から、そのままのめるという。
ツンドラにはブルーベリーがはえていて、すきなだけたべられる。
そんな情報にひかれ、森山さんは北極圏のラップランドへ旅だった。

「山歩きの核心は、自分の体で背負えるまでの限界の衣食住を背負って、
いかにして命をつないで自然を歩くかということにあるような気がする。(中略)
『よっしゃ、このザックひとつで、5日間山の中で生き抜くのだ』という心意気こそが、
山歩きの真骨頂ともいえる」

「資本主義経済のうえに成り立った生活は、
ある人にとっては便利でラクチンで合理的な生き方かもしれないが、
ある人にとってはものすごく違和感があって、窮屈で、
もっと言えば命を失う危険が見え隠れするアブナイ生き方でもある。(中略)
あらゆるライフラインをすべて人任せにして
『ああ、快適、快適』などとノンキに暮らしていいのだろうか?」

「大袈裟にいえば、山を歩くことは、
『おまえたちに頼らなくたってこうして生きていけるんだぜ』
という社会へ対するアンチテーゼでもある」

わたしが野宿にひかれるのも、そのながれからだ。
ものにたよらないで、自分のちからでのりきった手ごたえがほしい。

「将来的には、電子書籍を持ってラップランドを歩く日がやってくるだろうか。
電子書籍なら好きな本を好きなだけ持っていける。
かつ、かさばらずに軽い。
夜でもヘッドライトなしで読める
電源はソーラーパネルでなんとか日中に蓄電できそうだ。
かなり便利そうではあるが、
やっぱり電子書籍を山へ持っていく気にはならない。
本というものは重さがあるからいいのだ。
かさばるからいいのだ。
どれを持っていこうか悩むからいいのだ」

キンドルがどうしたとか、自炊した本を旅行先で、なんて
こざかしいことばかり案をめぐらすわたしには、耳のいたいはなしだ。
著者のこうしたかんがえにわたしはすごく共感する。
この本をよむと、「自由とはなにか」があたまをめぐる。
◯◯がなければ、という発想は、まったく自由でない。
電子書籍があればあったで便利かもしれないが、
「◯◯がなければならない」となると、とたんにつまらなくなる。
あるものですます。なければしょうがない。

スカンジナビアの国からくるトレッカーは、
長靴にセーターと、普段着でまわっているひとがおおく、
リュックや寝袋も、お父さんやおじいさんがつかっていたものを
そのままもってきていると、森山さんが感心しながら 紹介している。
そんな、日常の延長にあるような自然とのつきあい方がかっこいい。
つまり、自由だ。

旅さきでであった旅人が、おすすめのトレイルをおしえてくれて、
つぎの機会に森山さんはその公園をおとずれる。
ネットがあたりまえの社会になっても、
旅の基本的な部分はあんがいかわらないのではないか。
スマホをあやつって情報をえるのではなく、
ずっとまえからおこなわれてきた旅行のやり方が、
ラップランドでは まだふつうにおこなわれているのがいいかんじだ。

「モノカキとしてのゴールはどこにあるのか?
おれの終の住処は、どこなのだろうか?
世知辛い世の中をどうやって生きていけばいいのだろうか?(中略)
歩くことは誰にも邪魔されず、考え続けることなんだ」

森山さんがそんなふうに、いまもなやみをかかえ、
かんがえつづけるのは好感がもてる。
しかし、わたしはかんがえないほうがいいとおもう。
かんがえをいじくりまわしていても、
ろくなところにたどりつかない。

サウナでたまたまいっしょになったトレッカーと
みじかい会話をするうちに、森山さんは気づく。

「ラップランドにやってくる北欧人の目的は『山歩き』ではなかった。
結果的には山を歩いているだけで、
ただただ極北の短い夏を楽しみにやってきているのだった」

それがひとつのこたえではないだろうか。
ただそこにいるだけでいいんだ。
人生においても、「モノカキとしてのゴール」だの
「終の住処」だのをかんがえてもしょうがないのだ。
かんがえるな!

posted by カルピス at 22:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月29日

ほぼ日「40歳は、惑う」かもしれないけど、50歳もやっぱり「惑う」

ほぼ日に「40歳は、惑う」として
糸井さんが40だったころをふりかえり、
いまの40歳へのアドバイスみたいなものをかかれている。
http://aera.1101.com/itoi.html
ゼロになってちゃんともがいたことが大切だったそうだ。

そういえば、40歳くらいのときに小説をよむと、
主人公のおおくがわたしとおなじ世代に設定されていて、
偶然なのか必然なであいなのか、不思議におもったものだ。
自分が40になったから、同世代のはなしに目がいくようになったことと、
40歳という年齢は、問題をかかえやすい時期なので ものがたりにしやすいという、
両方が原因では、と解釈している。
そうした本をよんでなにをかんじたのか、もうわすれてしまった。
たいした刺激はうけずに、かるくやりすごしたような気がする。

50代になったいまのわたしが なにをもとめているかというと、
50代の男がでてくるはなしがよみたい。
40代によんだ40代が主人公の本よりも、
もっと切実に彼らのなやみがひびいてくるのではないか。
自分の健康に自信がなくなるのは40歳でも、
ほんとうにガタがくるのは50くらいで、
もうのこり時間がたいしておおくないことを本気で意識するようになる。
親の高齢化もますます現実的な問題になるし、
自分についても、このまま年金をもらえるまではたらくのか、
べつのことをはじめるのか、
体力とのこり時間を判断材料に、なんだかんだと「惑う」のが50代だ。

糸井さんがかかれているように、
それぞれの年代が それぞれのなやみをかかえて生きるわけで、
簡単なときなんて、ない。
子どものころは、大人になったらすべてがわかりきったことになり、
あとはすいすいいけるのだときめつけていたけど、
まさかこんなにいつまでもたいへんな人生とはおもわなかった。
いろんなひとの意見や本を参考に、
できるだけ自分のやりたいことを、無理のない範囲でさがしてきたし、
いまもまだ それがつづいている。

もっとも、なやんでいるといっても、
わたしなんかのはそうたいしたものではなく、
もっとおもしろく生きるには、程度のことだ。
生きるか、死ぬかのギリギリのせとぎわにたってという
切実なものではない。
でも、あそびにこそ本質がやどる、という意味で、
「おもしろく生きる」こそ 究極で純粋な なやみなのかもしれない。

いつまでも「のらりくらり感」がきえないのは、
ゼロになって、ちゃんともがかなかったからだろうか。
しかし、わたしもまた、たしかにゼロになった。
問題があるとしたら、そのあとのもがき方だ。
真剣につきつめず、イージーにながした結果が いまのわたしというべきだろう。
それを後悔しているわけではない。
何回やっても、おなじことをくりかえしそうなので、
いまのわたしは なるべくしてなった必然であり、
おちつくべきところにおちついたのだろう。
もっと勤勉に、パワフルに生きているわたしなんか、想像できない。

それなのに、同世代の主人公のはなしがよみたいなんていいだすのは、
純粋にものがたりをたのしみたいからだ。
ありえたかもしれない もうひとりの自分は、なにをしていたか。
ためしに「50歳 男 小説」を検索してみたら、
『マディソン郡の橋』がアドバイスされていた。
そういえば、この本は典型的な50歳・男・小説だ。
日本的な感覚からすると、かっこよすぎて、ありえないけど、
たしかにこれもひとつのこたえではある。

すべての50歳はなやんでいる。
わたしのなやみも、もうしばらくつづく。

posted by カルピス at 13:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | ほぼ日 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月28日

毎月の更新がたのしみな「作家の読書道」(web本の雑誌)

web本の雑誌に「作家の読書道」というシリーズがある。
http://www.webdoku.jp/rensai/sakka/
作家たちは、どんな本をよんでそだったのか、
毎日の生活リズムや、いつ原稿をかいているか、
最近のすきな作家は、などを インタビューでききだしている。
よんだことがない作家であっても、本の履歴をしるのはおもしろく、
このサイトのなかで、わたしがいちばんすきなコンテンツだ。
このインタビューをきっかけに、よみはじめた作家もなんにんかいる。
毎月1回のペースで更新されており、
最新は黒川博行さんへのインタビューで、153人目となる。
わたしがこれまでに1冊でもよんだことがある作家をかぞえてみたら、
153人のうち34人しかいなかった。

インタビューは瀧井朝世さんがおこなっていることがおおく、
取材相手の本だけでなく、そのひとがこれまでによんできたとして
名前をあげる本の話題にも、サッとついていくのにいつもおどろかされる。
マンガ・純文学・外国の小説・ミステリーにもあかるく、
しらない本などないかのように、あらゆるジャンルの本を把握されているみたいだ。
もちろん相手によっては あまりはなしがはずまず、
きき役だけでおわることもまれにある。
林真理子さんのときはとくにやりにくそうだった。
林真理子さんの小説はおもしろいけど、
いっしょにいてたのしそうかといういと、むつかしいところなので、
よけいに瀧井朝世さんの対応が印象にのこった。

インタビューされる作家のほうも、
作家だけあって、さすがによく本をよんできている。
作家としてはぜんぜんすくない、と謙遜するひとでも、
すきな本・作家を集中的によみこんだりしているので、
読書にかたむけてきた時間はそうとうな量になるだろう。
「本がすき」程度では、小説をかくのはむつかしそうだ。

わたしの印象では、影響をうけた作家として、
太宰治や三島由紀夫の名前がよくあがる。
生きている作家としては、村上春樹・村上龍・山田詠美に人気があるし、
意外なところではホームズやクリスティーといった
ミステリーを体験してきたひとがおおい(ような気がする)。
これらの作家の名前があがるのは、あたりまえともいえる。
作家といえども、もともとは本がだいすきな少年・少女にすぎなかったのだ。
膨大な量の読書は、作家への必須条件なのだろう。
たくさん本をよむうちに、おおくの作家が自然と自分でも小説をかきはじめている。
作家になるひとは、おとなになってから職業として作家をこころざすのではなく、
ちいさなころから自分は作家になるものだと
おもいこんでいるひとがおおい(ような気がする)。

わたしがしっている作家は153人のうち34人だけ、
とかいたように、わたしの読書は質・量ともに貧弱であり、
作家たちが名前をあげた本も よんでいないものがおおい。
このインタビューをよむたびに、
「必読書」としての宿題を たくさんわたされたおもいになる。
一般教養として、どれだけの本をおさえておいたほうがいいのか、
だれか整理して、いいてびきをかいてくれないだろうか。
もうひとつおもうのは、本がすきといいながら、
本への時間をたいして確保していないことだ。
おもしろい本がたっぷりあるのに、
これではいつまでたっても必読書さえおさえきれない。
仕事をやめてから、あこがれていた晴耕雨読の生活で、なんて
まえはおもってたけど、のこされた時間をかんがえると、
ことはもっと緊急をようするのではないか。
「作家の読書道」をよむと、作家たちの膨大な読書体験におどろきながら、
こんなことをしている場合じゃないと、意味もなくあせりがわいてくる。

posted by カルピス at 22:58 | Comment(1) | TrackBack(1) | 本の雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月27日

kindle fire HDX がとどく

注文していた kindle fire HDX がとどいた。
ペーパーホワイトはもっているけど、
6インチの画面では、自炊した本がよめないことがわかった。
老眼がはじまったわたしの目には、あまりにも活字がちいさすぎる。
ページごとに画面のサイズを調整すれば、みるのは不可能ではないが、
1ページずつそんなことをやってられないので、
ほかの末端をためしてみることにした。

kindle fireは7インチで、e-inkではない、
いわゆるふつうのタブレットだ。
ipad miniとどっちにしようかとまよったけど、
わたしはアマゾンからしか電子書籍をかったことがなく、
アマゾンに最適化されている末端という意味で、
キンドルシリーズからえらんだ。
1万9800円と、ipad miniよりずっとやすいことも
もちろんおおきい。
タブレットとしてではなく、本をよむためにしかつかわない。
ペーパーホワイトの7インチか8インチがでるのをまってたけど、
かんがえてみれば、自炊しなければ6インチでいいわけだから、
アマゾンが自炊した本のことをかんがえて
7インチのペーパーホワイトをつくるわけがない。
おおきな画面が必要だったらkindle fireをかいなさい、
といいたいのだろう。

kindle fireで自炊した本をよんでみると、
もうすこしおおきかったら、
つまり8インチのipad miniだったらもうしぶんないのに、
残念ながらすこしまだ活字がちいさい。
職場にあるipad mini(8インチ)で自炊本をみると、
じゅうぶんおおきな字で表示されていたので、
7インチでもいいとおもったのがまちがいだった。
7インチと8インチとの差は、自炊本をよむときに
とても重要な分岐点なのかもしれない。
本体をもったかんじはkindle fireもipad miniも
そうたいしてかわらないのに、
活字のおおきさは確実に1インチ分ちがう。
ペーパーホワイトとちがい、画面のサイズ調整はかんたんにできるけど、
それにしてもページをめくるたびにやるのはめんどうすぎる。
まあ、つかううちになれるだろう。

(PDFファイルの余白を調整するソフト「PDF Scissors」があり、
これでギリギリまで余白をきりとってからキンドルにおくると、
すこしましになることがわかった。
とはいえ、劇的な改善はのぞめない)

kindle fireのおもさは303グラム。
8.9インチのipadでは、とても読書という気にならないけど、
303グラムなら本をもっているようなものだ。
ねっころがってよんでも つかれない。

わたしは、自炊してくれる会社にたのんで、
これまでに30冊ほどの愛読書をキンドルにいれた。
くりかえしよみたい本ばかりなので、
末端がひとつあれば、ながい旅行でも不安はない。
これまでは、文庫本を10冊くらいリュックにいれたものだ。
文庫本といえども、10冊ももてば かなりかさばるし
おもさもずいぶんになる。
その10冊を全部よむかというと、
半分くらいはいつもそのままもってかえることになる。
10冊という数は、活字をきらさないための保険みたいなものだったから、
これからの旅行はずいぶん楽になるだろう。
残念なのは、「ながい旅行」なんて、
もう何十年もでかけたことがなく、そんなときのことを想定して
あたらしい電子書籍末端をかう必要はそんなにはない、という事実だ。
わたしの頭のなかは、いつもイメージが先行する。
旅行先の安宿で、日ごろはよめない本を
ゆっくりたのしむという「イメージ」が
わたしにとっての旅行であり、
旅行がしたいのか、本をよみたいのか、
そのどちらもやりたいのか、ほんとうはどうでもいいのかが、
ときどきわからなくなる。
わからないからkindle fireをあらたにかったりしたのだ。

このかいものが、まちがっていたのか うまくいったかは、
イメージにそった旅行をしてみないとたしかめられない。
旅行先でのkindle fireのつかいごこちを、はやくブログで紹介したい。

posted by カルピス at 23:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月26日

『地方消滅』(増田寛也編)人口減少がまねく衝撃的な予想

『地方消滅』(増田寛也編・中公新書)

2040年までに、全国の896市町村で、若年女性(20〜39歳)が半減する。
「日本創成会議」による このおどろくべき試算が ことしの5月に発表され、
新聞になんどもとりあげられていた。
本書はその試算を検討し、まとめたもので、
著者である増田氏は「日本創成会議」の座長をつとめられている。
896といえば、日本全体の約5割の自治体にあたり、
そのうち人口が1万人をきる523市町村について、
とくに「消滅の可能性が高い」と予想している。
「若年女性」がへるとなぜ問題かといえば、
もちろん子どもが生まれなくなるからで、
子どもが生まれなければ その社会は消滅するしかない。
これまでみえないふりをしつづけてきた人口減少問題に、
日本はどうたちむかえばいいのか。

「まずは、政治、行政、住民が事実をきちんと認識することが大切である。
すべてはそこから始まる」

と増田氏はいわれる。

「日本の人口は確実に減少する。(中略)
すべての市区町村が人口を増やすことはもはや不可能であり、
むしろ、すべての市区町村が人口を減らすと考えたほうがよい。
そのなかで、医療や交通、教育といった生活に必要なサービスをどう維持していくか」

「『人口減少』は避けられない。であれば、
これを与件として希望ある未来を築くのが、
現世代の私たちに課せられた使命である。
今なすべきは、人口の『急減』、ひいては『極点社会』の出現を回避し、
人口減少のスピードを抑えること、
そして豊かな生活が営める社会への道筋をつけることである。
それは、ひとえに私たちの選択にかかっている」

日本の出世率は、2005年に1.26までおちたが、その後もちなおして
2012年には1.41まであがっている。
しかし、だから人口がまたふえるかというと、そう単純ではない。
短期的には、出産適齢期の女性の数がこれからもへっていくのだから
人口がふえるのはずっとさきのことになる。
「出世率はこれからも上がるだろうが、出世自体は減っていく」
「仮に2030年に出世率を2.1まで回復させることに成功したとしても、
人口減少が止まるのは60年後」
というから、増田氏がいわれるように、
人口減少はさけられないという前提にたち、
そこからどうするかを国、市町村、企業が かんがえていくことになる。
もちろん国民ひとりひとりの意識も大切で、
これまでとおなじサービスは要求できないと、覚悟したほうがいい。

わたしは、急激に高齢化がすすむことばかりに気をとられ、
「少子」についてはあまり問題だとおもっていなかった。
わかい世代が子どもをもちたいとおもわない社会なのだから、
自業自得というか、しょうがないことであるし、
それぞれの夫婦がきめることに、まわりがとやかくいえないだろう、
というかんがえからだ。
人口がへるのは、そんなにわることばかりじゃないかも、とさえおもっていた。
しかし、子どもをもちたくないのではなく、
子どもをのぞんでいるのに、事実として子どもが生まれない、
と とらえたほうがいい。
いったいなぜそんな状況がつづいてしまったのか。

わたしがすむ島根県では、若年女性が5割以上減少する市町村が
全体の8割をこえると予想されている。
IターンやUターンの成功例としてもちあげらえている隠岐諸島でさえ、
すべての町村が「消滅の可能性が高い」と位置づけられた。
老人がおおいのなら、医療や介護に職をもとめたらよさそうだけど、
その老人さえ 地方ではこれからへっていくといい、
老人にたよっていた産業はのきなみだめになって、
わかものは都会にでるしか選択がなくなっていく。

地方はうまくいかなくても、東京は大丈夫だろう、なんてことはない。
「東京圏は2040年までに現在の横浜市の人口に匹敵する『388万人の高齢者』が増え、(中略)
医療、介護における人材不足は『深刻』を通り越し、『絶望的』な状況になる」。
そして、地方から医療・介護の人材をすいあげるので、地方はますます人口がへり、
東京にながれたおおくの労働力は、子どもをそだてることもなくきえてゆく。
「地方の人口が消滅すれば、東京への人口流入がなくなり、
いずれ東京も衰退する」
東京をどうにかしないと、人口減少にはどめがかからない。

これからの日本はいったいどんな社会にすすんでいくのか。
よんでいると、あまりにも深刻な状況すぎて
理解と想像力がついていかない。
無責任にひらきなおるわけではないけど、
こわいものみたさで ながいきしたくなってきた。

posted by カルピス at 22:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月25日

小説とエッセイのおもしろさに 関係はあるか

web本の雑誌に、松井ゆかりさんが
「おもしろい小説を書く作家のエッセイがおもしろいとは限らないが、
おもしろいエッセイを書く作家の小説はほぼ例外なくおもしろい」
http://www.webdoku.jp/newshz/matsui/2014/10/22/121815.html
とかいている。
ほんとうだろうか。なんにんかの作家についてかんがえてみる。

まず「おもしろい小説を書く作家のエッセイがおもしろいとは限らない」について。
失礼だけど、吉本ばななさんがおもいうかんだ。
小説ではあんなにすてきな世界をつくるのに、
エッセイになるとやたらにくどくなり、「からまわり」をかんじる。
マンガ家では柴門ふみさん。マンガではリベラルそうなのに、
エッセイになると、とたんに保守的な面が顔をだす。
パッとおもいついたのはこのおふたりくらいだ。
こうした候補をスラスラあげるには、わたしの読書は貧弱するぎる。

「おもしろいエッセイを書く作家の小説はほぼ例外なくおもしろい」
のほうは、たしかにいくらでも名前をおもいつく。
いちいち名前をあげるまでもないほど、
すきな作家はみんな、エッセイも小説もおもしろい。
かんがえてみれば、これはあたりまえだ。

もうひとつ想定されるのは
「エッセイはおもしろいのに、小説はいまひとつ」という作家だ。
ひとりおもいついたけど、そのひとがかくのはエッセイではなくノンフィクションなので、
これには該当しないということにする。
「エッセイはおもしろいのに、小説はいまひとつ」なんて、
だれだっていわれたくないだろうから、候補者がいなくてさいわいだった。
ある作家とのであいがエッセイだった場合、
そのままエッセイばかりをよみあさり、
小説については「くわずぎらい」になってしまうことがある。
わたしの場合、椎名誠さんがそれで、
椎名さんの小説をよんだのは、ずいぶんあとになってからだ。
さいわいエッセイにおとらず、小説もおもしろかった。
こういうのは「小説もおもしろいのに、エッセイばかりよんでしまう」という、
あんがいありがちなケースかもしれない。

さいごにのこるのは
「エッセイも小説もおもしろくない」作家だ。
 そんなひと、いるのだろうか、とかきかけて、
これこそおおくの候補をかかえる宝庫かも、という気がしてきた。
もちろん、わたしのこのみでは、というはなしだけど。

posted by カルピス at 22:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月24日

自分のからだがわからない

このごろはしる回数をすこしふやしており、
そのせいか、このまえのジョギングでは
最初から最後まで、気もちよくはしれた。
はしっているうちに 足がどんどんまえにでるかんじで、
ペースがあがりすぎないように、
意識しておさえるような調子のよさだ。
やっとからだがはしるのになれてくれたかと よろこんでいた。
タイムは53分と、このコースとしてはわるくない。

そしてきのう。
お天気もよく、からだがうごきたがっていた。
あんまり気がのらないけど、とにかくはしるか、
ということがほとんどなのに、
めずらしくからだと気もちがかるい。
前回のようにいいかんじではしれたらと、
たのしみにスタートする。
でも、はしりはじめるといつもといっしょで、
足がおもく、タラタラとしかはしれない。
前回だけが特別だっただけで、またもとにもどったのだ。
ずいぶんタイムがおちただろうなー、と時計をみると、
前回とまったくおなじ53分だった。
あんなに楽にはしれた前回と、
こんなにくるしかった今回と、
おなじタイムなんてしんじられない。
実感とタイムがあわないのはよくあることだけど、
これくらいくいちがうことはめずらしい。
からだと脳はべつの感想をもっているのだ。

すこしまえに、あまりにもつかれがひどく、
とてもトレーニングにいけそうにないときがあった。
やめようか、でかけようか、しばらくまよううちに、
マッサージにいくことをおもいついた。
こんなにつかれているのなら、マッサージでつかれをとるべきだ。
でも、せっかくマッサージをしてもらうなら、
そのまえにトレーニングもして、
つかれたからだをもんでもらおうと、
貧乏性なのかまじめなのか、まずジムにでかけた。
そうしたら、さっきまでのだるさはなんだったのか、
というぐらいに からだがうごく。
けっきょくいつものメニューを、
いつも以上のおもりをつけてとりくんだ。

ひどいつかれをほんとうにかんじていたのは、
脳がブレーキをかけていたのだろう。
マッサージをおもいつくと、
サッとそのつかれがきえさって、
いままでにないほど調子よくバーベルがあがったのは、
マッサージという快楽に脳がくいついて、
「うごけないほどのつかれ」を解消してくれたのだと解釈する。
自分のからだなのに、
からだがつたえてくる情報があまりあてにならない。
自分のからだとはいえ、そう簡単にはコントロールできない。
効果的なトレーニングのためには、
からだがうったえてくるだるさに耳をかたむけず、
ときにはマッサージにあたる
なんらかのごほうびもちらつかせて、
脳をあざむく作戦が必要となる。

水泳でも、自分ではプロペラみたいにもうれつなスピードで
うでをまわしているとおもっているのに、
あとでその動画をみると、
ウォーミングアップをしてるとしかおもえない
ゆったりとしたおよぎだったりする。
脳が回転数をおさえる命令をだしているのだろうか。

トレーニングまえのだるさは、もうお約束みたいなものなので、
とにかくいったんはからだをうごかす。
もしほんとうにしんどかったら、そのときはトレーニングをやめる。
自分のからだを信用しないのはもうしわけないけれど、
つかれをかんじているのは いつものことなので、
からだの調子と相談して、
トレーニングをするかしないかをきめていては、
やすんでばかりになってしまう。

とはいえ、もうすこし楽にトレーニングをスタートしたいものだ。
からだのうったを、とりあえず否定することからはじめるのは、
あまりたのしいことではない。
なにもかんがえずに、スケジュールにあわせて
機械的にトレーニングをはじめるのが いちばんいいみたいだ。
からだに相談してはいけない。事務的に、しゅくしゅくと、がコツだ。

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2014年10月23日

いまだに「家事ハラスメント」が話題になる残念な日本

今朝の朝日新聞で「家事ハラスメント」をとりあげていた。
「家事を手伝う夫への妻のダメ出しを『妻の家事ハラ』と呼ぶ」
と旭化成ホームズが定義したところ、ネットで批判がひろがったという。

夫としては気をきかせて洗濯ものをほしたり、
お皿をあらったりしたつもりなのに、
それを妻からできていない部分について指摘されると、
夫のやる気がうせてしまい、それっきりになりやすい。
そういうこともあるだろうなー、とよんでいると、
わたしがおもっていたのとは、ぜんぜんちがっていた。
「家事ハラ」は夫へのダメだしではないのだという。
記事をよくよむと、

「『家事ハラ』はそもそも、和光大学教授の竹信三恵子さんが
著書『家事労働ハラスメント』(岩波新書)で、
家事を軽んじ、担い手を軽視することを問題にした言葉だ。
意味が全く違う。
竹信さんは抗議し、同社は謝罪した。
竹信さんは言う。『生を支える家事をなめるなと言いたい。
家事労働が再分配されなければ、女性は社会で働けない』」

梅棹忠夫さんは、家事をろんじるとき、
家族で分担してひとりひとりの負担をすくなくするのは あともどりだといい、
やらなくてもいい方向にむけるのがいちばん、
とかいている。
そのかんがえ方と、竹信さんの発言
「生を支える家事をなめるなと言いたい。
家事労働が再分配されなければ、女性は社会で働けない」
とは、いったいどちらがさきに発表されたものなのか。
梅棹さんが家事労働の方向性をしめしたのが
40年以上むかしのこととは、とてもおもえない。
いまだに「生を支える家事をなめるな」なんて発言がきかれるとは。

梅棹さんは「◯◯であるべき」「◯◯でなければならない」というかんがえ方はしない。
社会でおきているできごとを観察・分析し、
これからむかう道すじを予想する。
倫理的にのぞましいからそちらにむかうのではなく、
歴史的なながれとして、梅棹さんには それが必然としてみとおせる。
一般的な発想では、ふるくからつたわる伝統や文化、それにしつけなどとからめるし、
むかしからの価値観をひきずってしまうので、
家事をやらないほうがいい、とは、なかなかいえないものだ。
とにかく、歴史的な必然では、女性が家事に埋没されない社会がくるはずだった。

おおむね社会はその方向にうごいているとおもう。
しかし、今回のように「家事ハラ」とか「ダメだし」とかが
いまだに問題になっているようでは、
まだまだ社会全体の共通認識までに いたっていないのだろう。
「家事労働が再分配されなければ、女性は社会で働けない」
の「再分配」がなにを意味するのかわたしはしらない。
もし、家族で「再分配」するのであれば、
梅棹さんのかんがえからすると、ずいぶんうしろむきの発想である。
もちろんわるいのは いつまでも女性の家事労働にたよろうとする男であり、
それを前提になりたっている社会と会社ということになる。

posted by カルピス at 21:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月22日

『僕たちは就職しなくてもいいのかもしれない』(岡田斗司夫) 評価経済への希望

『僕たちは就職しなくてもいいのかもしれない』(岡田斗司夫・PHP新書)

タイトルがうまい。
わたしのよわいところをついてくる。
「就職しなくてもいい」と断言されるよりも、
こういういい方をされると かえって気もちがうごく。
わたしは「就職しなくてもいい」のだろうか。

「就職がしんどい」なんて異常だ、という疑問から本書はスタートする。
なぜこんな状況になったのか。
生きていくためにはお金が必要だから、というけど、
じっさいは、生きるだけならそんなにお金はかからない。
「好きなことをするために働く」というひともいるけれど、
月曜から金曜まではたらいたストレスを
お金をかけて土日で解消しているだけではないか。

岡田さんは、お金にならない仕事もふくめて、
50種類の仕事をしようと提案している。なぜか。

「目先の稼ぎよりも他者から感謝されることのほうに、
ずっと価値があると考えているからです。
評価を集めて、その評価の使い道を考えること。
これがいま、貨幣経済に取って代わろうとしている『評価経済』です」

「(評価経済の)世界では『お金持ち』は決して優位な人ではありません。
お金でお米を買うひとは『お金しか手段をもたない、かわいそうなひと』です。(中略)
お金のいらない世界の到来を実感して、
徐々にその世界へと足を踏み入れている人もいれば、
まったく理解できず、準備や心構えが何もできていない人がいます」

「昭和から平成のはじめくらいまでは『学歴が必要』でした。
平成の途中くらいから『キャリアをもたなければ』ということになりました。
いま転職や独立を考えている人は、どういうふうにしてキャリアをもっているように見せかけるかとか、どんな資格を取るかとか、
そんなことにばかり頭を使っています。
でも、肝心なのはコミュニティを育てられるかどうか、ですね。
自分が所属する人間関係です。
お手伝いを流通させることができるコミュニティです」

そして、「ポイントはキャラクター」だと。

「『平凡だけどいい人だ』
これでOK。キャラクターとは、特殊なおもしろキャラというわけではありません。
平凡な『いい人』の上に、ほんのちょっとしたトッピングが載っているみたいな感じで、
『いい人なんだけど、ちょっとヘンなところもあって』くらいで十分なのです」

「いい人」といっても、ほんとうに「いい人」でなくても大丈夫なのだそうだ。
みた目がよければそれでいい。
「いい人」になるのはたいへんそうだけど、
「ふり」をするのならわたしにもできそうだ。
みかけだけでも「いい人」なら、まわりが気にかけてくれたり、
仕事をまわしてくれる。

このさき景気がよくなることはのぞめず、
国全体が貧乏になっていく。
人手がないのに、医療・介護の需要はますますたかまる。
お金のやりとりだけでは、どうにもならない社会になってきたのだ。
そうした状況へ、まちがいなくすすんでいるいまの日本で、
評価経済はおおくの問題にヒントをあたえてくれる。

岡田さんはなにをめざしているのかというと、
「勇者」なのだという。
ロールプレイングゲームでいうところの勇者だ。

「そのためには、何でも知っていて、何でもできる必要があります。
つまり・・・その『何でも知っていて何でもできて、
いろんな知り合いがいる自分』になるために、
僕たちは仕事をするのです」(中略)
「生活の基本は冒険です。勇者なのですから。
一ヶ所にとどまらない。
行く先々で困った人を助け、仲間を増やす」

これって、きっと鷹の爪がめざしている世界征服のことだ。

そんな社会で生きるために、わたしはセンスをみがいてきたのだと、
気もちがかるくなってきた。
きらいなひとに愛想をふりまいたり、
フェイスブックで「いいね!」を連発するなんてできないけど、
「いい人」のふりならまだハードルがひくい。
貧乏をおそれず無駄づかいをしないのも、わたしの資質とあっている。

以前よんだ『ぼくはお金を使わずに生きることにした』(マーク=ボイル・紀伊国屋書店)にも、おなじことがかいてあった気がする。
「スキルを売るのではなく分かち合う」というかんがえ方だ。

わたしは、農的生活にあこがれてきたけど、
商品としての野菜づくりには興味がない。
まっすぐで きれいなきゅうりや大根しかうれないのだとしたら
野菜をつくっていても おもしろくない。
でも、お米をつくり、手つだってくれたひとにわけたり、あげたりして、
かわりになにかを提供してもらえたら
お金はかからないし、たのしい生活になりそうだ。
お米をうってもいいけど、基本的には「わかちあう」ものとしたほうが
お米の価値をいかせるのではないか。
農業で商品をつくり、その収入でくらしていくのはたいへんだけど、
仲間といっしょにとりくめばひろがりがもてるし、
いくつもある仕事のひとつだとおもえば気もちの負担がかるくなる。
ネットによるゆるいつながりもいかせそうだ。

「評価経済」ということばをきいたのは はじめてだけど、
そのかんがえ方にはしばらくまえから関心があった。
これまでによんできた「就職しなくても大丈夫」みたいな本よりも、
本書はずっとよく整理され、説得力があった。
そもそも、視点がまったくちがっている。
わたしは、「勇者」にはきっとなれない。
でも、なにかひとのやくにたてることはあるだろう。
なんとかたのしく生きていけそうな気がしてきた。

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2014年10月21日

中川安奈さんの死をいたむ

ラジオでNHK-FM「音楽遊覧飛行」のオープニングがはじまった。
耳なれた音楽のあと、女性アナウンサーが
「中川安奈さんは急死されました」とつたえる。
きょうの放送は、先週放送した分の再放送だという。
「えーっ!!」
きのう中川さんの番組をきいたばかりなのに。
あまりにもきゅうな死のしらせだ。
きのうは「ロビン・ウィリアムス作品集」だった。
番組のとちゅうからきいたので気づかなかったが、
番組がはじまるまえに、きょうのように中川さんがなくなったことをつたえ、
これが再放送であることをことわったのだろう。
亡くなったばかりのひとが、亡くなったばかりのひとの作品集を紹介するのは
かなしすぎるけど、これもなにかのめぐりあわせか。

中川さんは、きっちりと、いかにもきまじめそうに
ひとこと ひとことをていねいにはなす。
はじめは、なにもここまでおさえたしゃべり方をしなくても、と
かたぐるしさをかんじていたけど、じきになれた。
中川さんがえらぶ映画音楽は、きいたことがないものがおおかったのに、
中川さんが紹介してくれるだけで
特別な空気をまとうような気がした。
このひと、ほんとうにこの作品をみたのだろうか、と
うたがったりしてもうしわけなかった。
中川さんが、みてもいない作品を紹介したりするわけがない。
きのうの放送では、あの中川さんが
ロビン=ウィリアムスのまねをして
「グーーーーーーーードモーニング、ベトナーーム!!」
とやってくれた。
ロビン=ウィリアムスを追悼する番組なら
やらないわけにいかなかったのだろう。
あんまりにてなかったけど、中川さんだからいいのだ。

きょうの放送は「宇宙」がテーマだったので、
「スターウォーズ」や「未知との遭遇」を紹介してくれた。
この放送を収録したときに元気だった中川さんが
もういないなんて、まったくしんじられない。

ロビン=ウィリアムスの死がつたえられたときには、
「いいやつはみんな死ぬ」というマルコのことばをおもいだした。
いいやつはみんな死ぬ。ほんとうだ。
いいやつは はやく死に、あとにはろくでもないやつばかりがのこる。
『グッドモーニング、ベトナム』でみせたロビン=ウィリアムスの笑顔が
わたしはだいすきだった。

中川安奈さんと、ロビン=ウィリアムスさんのご冥福をおいのりする。

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2014年10月20日

『紙の月』(角田光代)よんでいるうちに おそろしくなってくる 心理小説

『紙の月』(角田光代・ハルキ文庫)

プロローグは、主人公の女性(梨花)がチェンマイで逃亡生活をおくっている場面。
つとめていた銀行から、1億円を横領したという。
そのお金をどうつかったのか、いまもまだもっているのかはあかされていない。
この本は、事件がおきたところからスタートし、そこからさかのぼって、
ありふれた日常生活が、なぜこんな事件に発展してしまったかの経緯がかたられる。

といっても、1億円という大金は、
銀行強盗や なにかの大作戦で手にいれたわけではなく、
ささいなつみかさねの結果であり、
はじまりは ほんのわずかな金額にすぎない。
なにかのきっかけにより、ひとはどんな状況にもおちいってしまうのだと、
よんでいるうちに おそろしくなってくる小説だ。

たまたまであった若者(光太)との関係が、ふとしたことからふかまっていく。
服をかい エステを予約し たかい料理をたべ よいワインをえらび ゴージャスな部屋をかりる。
むこうからたのまれてではなく、ぜんぶ梨花が自分からやったことだ。
はじめはただの若者にすぎなかった光太なのに、
いつのまにか自分をひとりの女とみとめてくれる
かけがえのない存在となり、
たのまれてもいないのに、光太の借金をかたがわりし、
旅行費用をたてかえ、部屋までかしあたえる。
どうにもぬけだせないワナにかかったように、
梨花の金づかいはどんどんエスカレートしていく。

たまたまもっているお金がたりなかったとき、
たまたまお客から現金をあつかる依頼があり、
そのお金をほんの一時的にかりたのがはじまりだった。
そうしたいろいろな要素が偶然にかさなり、
気づいたときには お金に依存した生活からぬけだせなくなっていた。

なにが原因でそんなことになったのか。
もともとの性格か、夫との生活への不満か。
誠実に仕事をこなし、お客からも信頼をえて、
なんも問題なく くらしていたのに。
きっかけはいろいろあるものの、
そのどれもが直接の原因とはおもえない。
いっけんありえそうにないのに、
じつはだれにでもおこりうることだと
リアリティをもたせるのが角田さんはとてもうまい。
いったいお金をいくらつかったのかが
だんだんわからなくなっていくこわさを、
まるで自分の身におきているようにかんじながらページをめくる。
お金とは、こんなふうにかんたんになくなっていくものなのだ。
事件などと 関係あるはずがないとおもっている わたしの生活も、
じっさいは どっちにころぶかわからない、きわめてふたしかなものにすぎない。

わたしは1億円を横領しての逃亡生活ということから、
そしてチェンマイの町をさまようプロローグから、
お金を武器に当局とわたりあい、へろへろになりながら
東南アジアの国々を移動しつづけるはなしかと期待していた。
角田さんは、こういうにげまわる設定がすきみたいだし、
しょぼい逃亡はもういくつも本にしてきたので、
今回は1億円にものをいわせてエンタテインメントにしあげるのかと。
残念ながらわたしのねがいはかなわなかったけれど、
いつかはゆたかな旅行経験をいかして
あっとおどろく逃亡小説にしあげてくれるのを期待したい。

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2014年10月19日

なかなかスマホにきりかえられない

ウィルコムが「ワイモバイル」にかわったことをしらせる封筒がとどいた。
イーモバイルとウィルコムがくっついて
ワイモバイルという会社になったようだ。
キャンペーン企画として、機種変更が無料になるという。
携帯のバッテリーを2012年の12月にかえたことから、
2年契約のしばりでまだうごけないとおもっていたので、
とどいたパンフをもってさっそく近所のお店をたずねる。
こんどかえるときは、ルーター機能をもつ携帯に、と
まえからねらっていたのだ。

しかしその携帯は、すでに生産されていないそうで、
それならあっさりスマホにかえちゃってください、とすすめられる。
スマホでテザリングすればいいです、
どっちみち、ルーター機能の携帯はスピードがおそくて、
つかえなかったですよ、ということだ。
いよいよわたしもスマホデビューかと、
すこしうれしくもあり、めんどくさくもあり。
料金についてたずねると、
スマホではいちばんやすい1ギガのプランで3758円になる。
携帯をかえるとなれば3000円、ルーターをかえば3696円と、
それぞれなやましい。

ルーター機能がほしかったといっても、
わたしがそとでパソコンをつかう機会などめったにない。
旅行にでたり野宿をしたりは頭だけのことで、
いきたいといいながらなかなかでかけられない。
それに、わたしの携帯のつかい方は、ほとんど通話だけにかぎられ、
メールさえおくったことがない。
梅棹忠夫さんは、ハードがあればソフトがついてくると、
特殊な研究機関にかぎられていたコンピューターを、
1970年代の民族学博物館に導入した。
つかったことがないから、需要もないのだ、
つかううちにどんどん必要性がたかまってくる、というよみで、
さきをみるたしかさが いかにも梅棹さんらしい。

しかし、わたしがスマホをもったとしても、
画期的なつかい方にめざめるとはおもえない。
LINEやSNSをするわけではなく、
こまかい画面をみるのが苦痛なことから
スケジュール管理やエバーノートにもつかいそうにない。
ほんのときたまルーター機能があれば、というだけにすぎないのだ。
そんなことをお店のひとにいうと、
だったら、いまつかっている携帯を、そのままつかえば、
とさらっといわれてしまった。
「いまのが つかえないわけじゃないですよね」と
とても末端屋さんとはおもえない、商売けのないことをいう。
たしかにそうだ。それだと1ヶ月に2503円ですむ。

わたしがいまつかっている携帯は8年まえにかったもので、
当時は携帯(正確にはPHS)からネットにつなげられる機能がめずらしかった。
とりだしてみせると、
「アンテナがついてるのがむかしふうですね」といわれた。
そうだ。むかしはどの携帯にもアンテナがついており、
それをもちあげて電波をうけやすくしたものだった。
気がつかないうちにアンテナがなくなり、
いつしかスマホがあたりまえになった。
「ガラケー」なんてよくいわれるけど、
8年もまえになると、ガラケーともいわないのでは、とすこし得意でもある。

このごろ「あるきスマホ」の危険性が指摘されるけど、
「あるき」どころか自転車スマホをこのごろよくみかけるようになり、
ほんとうにあぶない。
そんなことをしてるのは わかい男性がおおく、
しょっちゅうあぶない目にあうので、
ラリアートをおみまいしたくなってきた。
スマホごと道路になげだされたら、すこしはこりるのではないか。

50代以降はスマホにうつらず 携帯のままのひとがおおく、
そのうちのおおくがメールさえしない、とネットの記事にかいてあった。
まさしくわたしのことだ。
なんだかんだ理由をつけながら、けっきょくあたらしいものについていけないだけなのかもしれない。
いまはわたしとおなじように、
自分を時代からとりのこそうとするスマホに
反感をもっているおじさんがたくさんいるにちがいない。
ラリアートでスマホをだめにしたくなければ、
自転車スマホだけはやめたほうがいいと忠告したい。

posted by カルピス at 21:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | スマホ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月18日

1泊2日の小旅行で海士町へ

1泊2日の小旅行で 隠岐諸島にある海士町へでかける。
とちゅう2ヶ所ほかの島へよるので、3時間ちょっとの船旅だ。
隠岐諸島には、おおきな島が4つと、
たくさんのちいさな島からなっており、
わたしはこれまでに ほかの3つの島をたずねたことがある。
今回は、さいごにのこった4つめの島として 海士町(中ノ島)をえらんだ。
この町は「ないものはない」のスローガンで有名になっている。
文字どおり、すべてがあるのだ、という意味と、
「ないものはない」からそれでやっていくんだ、
というひらきなおりと。
141018amatyou.jpg
海士町の観光協会が管理しているレンタサイクルは、
24時間で1500円とたかすぎるから、
島へは自転車をもっていくことにした。
ふつう輪行というと、ハンドルやペダルをはずして
かなりコンパクトにするけど、
めんどーなので、まえとうしろのタイヤをはずすだけで、
ハンドルの部分はむきだしの「なんちゃって輪行」ですます。
フェリーにはつりを目的に、おおきな荷物をもちこむひとがいるので、
わたしの自転車もそう違和感がない。

フェリーは予定どおり3時間ほどで、海士町にある菱浦港につく。
片道3240円。
港には「キンニャモニャセンター」があり、
フェリーの発着場だけでなく、観光協会やお店が一体となって
いい雰囲気をだしている。

観光協会で島の地図をもらい、自転車でキャンプ場をめざす。
とちゅうに町の図書館があったのでよってみると、
ちいさいけれど、いごこちがよさそうにととのえられていた。
ちいさな町の図書館というと、倉庫みたいなところに
本がならべられているだけ、というのがよくあるパターンだけど、
ここの図書館はちゃんと生きているのがすぐにわかる。
じっさい、ちいさな子や、わかい女性がしずかに本とむきあっていた。
本屋さんもあった。文庫本を中心に、あたらしい本もおさえてある。
ねむっていない図書館と本屋さんがあるのは、
町のおおきな財産だろう。
IターンやUターンでしられる海士町の活気は
(人口2300人のうち330人がIターン)、
キンニャモニャセンターと図書館のようすからもうかがえる。

隠岐諸島は、きょねんジオパークに指定されたことから
地形や植生をいかしたとりくみにちからをいれている。
とはいえ、知識がなければ「きれいな海岸だなー」
くらいでおわってしまうだろう。

キャンプ場のある明屋海岸は、港から8キロのところにある。
とちゅう、道の両側に田んぼがひろがる、日本的な風景があらわれる。
でも、町のサイトをみると、これらの水田は
「隠岐ではめずらしい風景」なのだそうだ。
田んぼをめずらしいなんて、そんなこといわれてもなー、とこまってしまう。
たとえば牛の放牧を隠岐のひとにみせ、
「本土ではめずらしい風景です」といっても
ほとんどありがたくないのといっしょではないか。
海士町の水田風景は、ある場所でめずらしいということが、
どんな意味をもつのか かんがえてしまった。
「ないものはない」のだから、
水田があるのはけっこうなことなのだけど。

キャンプ場にほかの利用者はおらず、わたしひとりだった。
炊事場もトイレもあるし、夏はシャワーもつかえるようだ。
すぐそばまで波がうちよせており、
海には日本的でない形の岩が きれいにつきだしている。
波のうちよせる音がかなりおおきくきこえる。
海岸のかたちが波をいっそう迫力あるものにしているようだ。
じっさい、海からつきでた岩でつりをしていたひとが、
波のたかさからもどれなくなり、
あわてているようすがキャンプ場からみえた。
むかえにいった船が岩にちかづけず、
いったんひきかえして別の船が救助にやってきた。
つりをしていたひとは、そうとうこわかったのではないか。
夜になってテントでねていると、波の音はますますおおきくきこえる。
まるで台風がやってきたみたいな「ザッバーン!」という音に、
なんどもハッとする。
テントが波にもっていかれるようで、心配になるほどの音だ。
夜中におきだして波のつよさを確認すると、
音のおおきさほど海はあれていない。
波の音でねむれなかった、なんていうと、
町そだちのかぼそい精神をわらってしまいがちだけど、
ここのキャンプ場できく波の音は ほんとうに迫力がある。

夕ぐれもよかったし、朝の海岸もまたうつくしい。
隠岐諸島でいちばんおおきな隠岐の島がとおくにみえ、
フェリーやつり船がときどき沖をいきかう。
なんといっても、岩の形が絶妙で、まるでタイのビーチみたいだ。
本土の海岸線をみなれたものにとって、
はるばるやってきたかいがある。
たしかにこの景色は、ジオパークとして自慢したくなる。

きょうは自転車で散歩にでかけた。
島というと、なんとなくあるいてまわれるせまい空間をおもいうかべるけど、
じっさいにやってくると、はるかにひろくて
あんまり「島」というかんじがしない。
つりが目的だったり、島にしりあいがいるひとはいいけど、
そうでなければ、移動手段がないと どうにもならない。
それに、なにもすることがないときでも、
サイクリングさえすれば しっかりうごきまわった気になれる。
とはいえ、海岸ぞいのおおくの土地がそうであるように、
この島もまたのぼり・くだりがはげしくて、
のんびり自転車をこげる たいらな場所はそうおおくない。
きょうの散歩も、たいてい自転車をおして坂をのぼるか、
きゅうすぎるくだり坂に、ブレーキをひきつづけるかで、
散歩というよりトレーニングの気配がこゆかった。
かえりのフェリーをかんがえると、2時には港にはいっていたいので、
時間を気にしながら、2時間かけて半島をめぐった。

今回の小旅行は、『野宿野郎』のかとうちあきさんの影響がつよい。
はじめはとうぜん寝袋だけのつもりだったけど、
手ごろな寝場所がなかったときのことを心配して
けっきょくテントにたよってしまった。
冬の東北で、ためらいもなく野宿するかとうさんはすごい。
テントがあれば、さむさと風をふせげるし、
身をまもられているかんじが寝袋だけとは全然ちがうのに。
ただ、テント泊はそれだけ荷物がおもくなる。
かとうさんがテントをつかわないは、
きっと単純にめんどくさいのだろう。
寝袋とマットだけでどうにでもできるひとは、
テントのありがたさをあまりかんじないのかもしれない。

10月のキャンプ場は、夕方の6時をすぎると あたりがもうくらくなる。
はやめの夕ごはん(島のお店でかった鍋やきうどんといなりずし)をたべるともうすることがなく、
テントにはいって本をよんですごした。
これもまた、えがたい経験とはいえ、
ひとりでの野宿は時間をどうつぶすかがむつかしい。
宿にとまらなければ、当然まっくらな場所ですごすことになるのに、
わかっていながら ながすぎる夜をもてあましてしまった。
仲間がいれば、お酒をのんでおしゃべりすればいい場面であり、
いっしょにあそんでくれる仲間がほしくなった。
とはいっても、自転車にのって、キャンプにつきあってくれるひとは
そんなにいないから、けっきょく今回みたいに ひとりででかけることになる。

お天気にめぐまれ、さむくもなく、たのしい小旅行となった。
なによりも、野宿にむけての欲求が これですっかりみたされた。
ジオパークについては、なんのことかよくわからなかったけど、
海からみる海士町のよさは、観光船にのらないと体験しにくいので、
自転車による旅行はこんなものだろうと満足している。

(かかった費用)
・フェリー往復 6,480円
・食費     3,274円
 合計     9,754円

「ないものはない」ので、島にコンビニはない。
スーパーもないので、自炊でお金を節約するのがあんがいむつかしい。

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2014年10月17日

モロッコの旅番組にひかれれる

このごろよくモロッコがテレビ番組でとりあげられる。
バス旅行の番組をこのまえみたし、
今夜は「こんなところに日本人」でもとりあげられていた。
砂漠があって名前がなんとなくとおくの国っぽいし、
「異国情緒」をてっとりばやくあじわえそうな気がするのではないか。
モロッコといえば、ふるくは『月の砂漠』、ちょっとまえ(だいぶまえ?)では
聖子ちゃんのうたった『マラケシュ』が なんとなくあたまにうかぶ。
イメージをつくったという意味では、
映画の『カサブランカ』もはずせない。
すごくとおくではあるけど、ヨーロッパにちかくて
アフリカとしては でかけにくいとはいえない。
そもそもアフリカといっても、アフリカ大陸にあるだけで、
文化圏でいえばアラブであり、地中海であり、イスラムだ。

わたしもずいぶんまえにモロッコへいったことがあり、
テレビがうつす町の雰囲気が、当時とあまりかわらないのにうれしくなった。
車はひとむかしまえのデザインだし、ロバもまだ現役で荷物をひいている。
じっさいにいけば、おじさんたちまでもスマホをあやつってたりして、
ときのうつりかわりを ためくことになるのだろう。

きのうみた番組では、シェフシャウエンがとりあげられていた。
青を基調としてうつくしい町だという。
ほんの何日かまえにも、この町をおとずれている番組をみた
(たまたま再放送された時期がかさなったようだ)。
わたしもたしかこの町へいったことがあるはずなのに、
「いったことがあるはず」しかおぼえていない。

市場でタマネギをうっているひとに声をかけると、
「ここのタマネギは自然のめぐみをいっぱいにうけてるから
健康にいいんだ」という。「それにすごくうまいぞ」とも。
畑でメロンを収穫しているおばさんは、
「ここのメロンは味がこゆくてすごくおいしい」、とおきまりみたいにいうし、
シェフシャウエンの町についてわかい女性にたずねると、
「みんなやさしくて家族みたいだから、この町がだいすき」、なのだそうだ。
川で洗濯しているおばあさんは
「ゆたかな水に感謝しながら洗濯してるんだ、
水さえあれば、なにもこまることはない」、と堂々とこたえる。

町の女子高生たちが、おすすめの料理をおしえてくれていたけど、
マメのスープはまだしも、のこりの2つはタジンにクスクスだった。
この町のタジンとクスクスは特別、といわれても、
それはおそらくモロッコ全土に共通することなので
そのまましんじる気にはなれない。

みんながもう自分の町に自信満々だ。
まあこれは、モロッコにかぎったことではなく、
外国を紹介する番組をみるかぎり、どこの国のひとも
自分の国や町について、とにかく自慢げにはなす。
どの番組でも おなじようなこたえがかえってくることがおおく、
たずねられたひとは、きっとサービス精神から、
期待されていることをはなしてくれているのだろう。

とはいえ、日本でおなじような質問をしたら、
「さー、ここのはからだにいいって、むかしからいわれてますけどね」
くらいのひかえめなこたえがかえってくるのだろう。
日本人のこうした謙遜というか、遠慮する精神はかなり特殊みたいで、
それ以外の国はストレートな自慢があたりまえだ。

こうなんどもモロッコがでてくる番組をみると、
モロッコへまたいきたくなってくる。
歳をとったせいか、いったことがない国よりも、
感傷旅行にひかれるようだ。
アフリカの国としては、わりといきやすい、と
はじめにかいたけれど、もちろん日本からはそうとうとおい
(だからこそ旅番組が成立するのだ)。
自分さがしなんかではなく、ただの観光旅行として 気らくにまわりたい。
路線バスにのりながら、「どっかいいところはありませんか?」みたいに
よさそうな町へテキトーにむかうバス旅行の番組は
そんなわたしの気もちをうまくつついた。
あれだけ堂々と自分の町を自慢されると、
おおげさとはしりつつも、そこまでいうなら、と
のっかりたい気がしてくる。

posted by カルピス at 08:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月16日

「すきなことを かくさないほうがいい」と カウンシルマン氏はいった

水泳をやっていてよかったとおもえることはいくつもある。
からだを自由にうごかして およげるたのしさや、部活動でえた仲間たち。
しかし、じっさいにおよぐこと以外にも
すごくだいじだったとおもえる であいもあった。
わたしの場合は、あるコーチのいったひとことがそれで、
しっておいてよかったと いまもおもっている。

「自分が選手たちをすきなことを、かくさないほうがいい」

アメリカのインディアナ大学にいた、
カウンシルマンという有名なコーチのことばだ。
指導者として選手とせっするときに、
ついずっときびしい態度をとりつづけたり、
いまさらいわなくても、と
その選手がすきだという気もちをあらわさないことがおおい。
そうではなくて、自分はきみたちがだいすきなのだ、ということを
ことばでも態度でも、かくさないほうがいい、とカウンシルマン氏はいうのだ。
もちろんこれは、ほんとうに「すき」であることが前提となる。
「すき」なふりをするという演技のはなしではないし、
「すき」になることがそもそもかんたんなことではないから、
「すき」になれただけで、半分くらい成功してるのかもしれない。

「すき」をあらわすのは、なんとなく気はずかしくて、
いまさらそんなことをいわなくても、と
そっけなくふるまいやすい。
しかし、自分が選手だったとかんがえたら、
「すき」をうちにひめるコーチよりも、
こっちにつたわるやり方で好意をもっていることをしめしてくれたら、
どれだけ安心した気もちでトレーニングにとりくめることか。
「そんなことはわかっている」けど、これがなかなかできない。
なぜかすきなことを あえてかくしてしまう。

カウンシルマン氏のおかげで、
ネコや犬に、わたしは「すき」をかくさない。
かくす必要がもともとないし、好意をよせるはずかしさもない。
「かわいいねー」「おりこーだねー」を連発するし、
毛なみやシッポの形、行儀のよさなど、とにかくなんでもほめるから、
むこうもわるい気はしないようで、ネコかわいがりするのに身をまかせてくれる。
「だーいすき!」といわれたときの、まんざらではなさそうな動物たちの表情を
おおくのひとにしってほしいとおもう。

むすことせっするときにも、「すき」をかくさずにいこうと
意識してむきあった。
むすこがちいさかったころ、
彼がすきなことをわたしはかくさなかった。
口にだして「だいすき!」ともいったし、
おもいっきりほっぺたでスリスリしたりもした。
「すき」ということばは、まっすぐ相手にとどく。
「だいすき!」といわれたむすこは 満足そうなようすをみせ、
わたしが彼をすきかどうかなんて うたがわずにそだってくれた。
そのおかげ、といっていいとおもう、
わたしはむすこがまともな人間であることに自信をもっているし、
無意識であれ、むこうもわたしへのゆるぎない信頼がある(ような気がする)。
すきなことをかくさずにしめすのは、あんがいてれくさいけれど、
絶大な威力を発揮する。

むつかしいのが異性にむけた「すき」のあらわし方で、
恋愛感情がなくても「すき」なことはいくらでもあるのに
なかなかスマートに「すき」をだしにくい。
かといって、恋愛感情があればかくさずに「すき」をつたえられるかというと、
それもまたむつかしいわけで、
ここらへんの感情表現は、日本人だから苦手というよりも、
そのひとが基本方針として、どんなコミュニケーションをとろうとしているかに かかってくるのかもしれない。

配偶者にもさらりと「すき」をだせたら
夫婦関係はまるでちがってくるだろうけど、
こればかりはいまさらどうしようもないかんじだ。

ところで、カウンシルマン氏のことばを確認しようと
本をひっぱりだしたけど、なかなかみつからない。
記憶ちがいかとこまかくよんでいくと、

「だれでも選手が好きだということを表現する方法は見つけられる。
自分の感情を表現することを恐れるべきではない」

という語句がみつかった。
「すきなことをかくさないほうがいい」
とはえらいちがいだけど、わたしなりに拡大解釈して
そんなふうにおぼえたのだろう。
でもこっちのほうがズバッと カウンシルマン氏がいいたいことを あらわしているのではないか。
選手たちにも同僚にも友だちにも家族にも、
「すき」をかくさずにつたえられたら
世界はもっとシンプルでうつくしい。

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2014年10月15日

『5アンペア生活をやってみた』(斉藤健一郎)1ヶ月の電気代は190円

『5アンペア生活をやってみた』(斉藤健一郎・岩波ジュニア新書)

斉藤さんの1ヶ月の電気代は190円なのだそうだ。
そんなことが、いまの日本でできることへのおどろき。
5アンペアとは、いったいどれだけの電気がつかえるのだろう。

斉藤さんは、お金をけちりたくて5アンペア生活をはじめたのではない。
2011年3月におきた東日本大震災のとき、
斉藤さんは福島県郡山市にある朝日新聞の支局ではたらいていた。
地震の被害を取材しているうちに、
福島第一原発からの放射能でしらないうちに被曝し、
目にみえない放射能のおそろしさを 身にしみて体験する。
また、人間関係をふくめ、それまでのくらしをめちゃくちゃにしてしまった
原発事故へのかなしみといかりがたかまってくる。
そして、それまで国や電力会社のいうままに
「安全」をうたがわなかった自分へのいらだち。
「原発が危険なものだとわかった以上、
もう二度と、動かしてはいけない」
というおもいから、斉藤さんは5アンペア生活の実践をきめた。

斉藤さんによると、電力会社によって電気代のしくみがちがうそうだ。
関西・中国・四国・沖縄の4電力会社は1ヶ月300円ほどの基本料金と、
つかった量におうじて加算される料金をしはらう。
それ以外の電力会社は、「契約アンペア制」といって、
いちどにながせるアンペア数におうじて 基本料金が設定されており、
その基本料金プラス、電気をつかった分だけしはらうやり方だ。
「5アンペア」というのは、契約のうつでいちばんひくいアンペア数であり、
具体的にはエアコン・電子レンジ・トースター・炊飯器・ドライヤーはつかえない。
掃除機も、「弱」なら5アンペアなのでギリギリ大丈夫だけど、
「強」にすると10アンペアとなり、ブレーカーがおちてしまう。

斉藤さんは、5アンペア生活をはじめたことで、
どんな電気のつかい方がアンペア数をたかくするかがわかってくる。
けっきょく電気を熱としてつかうものに無駄がおおいのだ。
電気で熱をだそうとすると、アンペア数がすぐにあがる。
エアコンが10アンペアを必要とするのにくらべ、
扇風機なら0.3アンペアですむという。

「電気は電気らしく、パソコンやテレビといった
電気でしか動かせないもののために使うほうが、
財布にも環境にも優しい、賢いやり方」

ということだ。

5アンペア生活をするうちに、
斉藤さんは「家電って、ほんとうに必要だろうか」と
根源的な疑問をもつようになる。
「人が家電を使いこなしているつもりで、
逆に家電に使われていないか、
本来なら必要のないものまで電気を使って動かしていないか」

掃除機をつかわなくてもホウキではけばいいし、
電子レンジのかわりはむし器でつとまる。
電気炊飯器がなくてもガスのほうがおいしくたけるぐらいだし、
トースターではなくフライパンでパンをやけばいい。
そしてついに冷蔵庫までやめてみる。
「思い切って手放してみると、快適だと信じていたものが、
実は快適だと思い込まされているだけだったり、
古き良きものが新製品を上回る実力を持っていたりすることがわかりました」

斉藤さんの5アンペア生活へのこころみをよんでいると、
ひとりぐらしだからできたのでは、とどうしてもおもってしまう。
まわりからもそういわれたそうで、
それに自分の家で電気をつかわないだけであり、
会社のエアコンやかいものにいくコンビニの電気はどうなんだ、という批判もうけたという。自己満足にすぎないのでは、とも。
そうした批判は、もっともそうにきこえるけれど、
斉藤さんは自分にできることを自分のやり方でためしたのであり、
まわりがとやかくいうことではない。
それまであたりまえだとおもっていた生活を、
国や電力会社にたよらないで、自分でかえたのだ。
この本をよんでいると、仕事やすむ家をかえたり、
べつにおおげさな「決断」がなくても、
電気とのつきあい方をかえられることがわかる。

斉藤さんが「おわりに」でかいているのは、
「電気をほとんど使わないという一見突拍子もない暮らしが
実はだれにでもできて、
ひとりの『変人』だけのものではないと、
どう表現すればわかってもらえるのか」
というなやみだ。
斉藤さんは5アンペアですませるために
いろいろな工夫をし、やめたこともあったけれど、
無理をして我慢したのではなく、その生活をたのしんでいた。
わたしもよんでいるうちに影響をうけて、自分でもためしてみたくなった。
5アンペアは無理でも、つかわずにすむ電気はたくさんある
(さっそくお風呂あがりのドライヤーをやめてみた)。
この本のよさは、原子力発電への口さきだけの批判におわらず、
ほんとうは電気がどれだけ必要なのかを
じっさいにためしたことだ。
そして、それが我慢ではなく たのしそうなので、まわりへも影響をあたえている。
斉藤さんのもとに、読者からのたくさんの反響があったそうだし、
友人たちのなかにも5アンペア生活にきりかえるひとがでているという。

「ひとりぐらしだからできたのでは」とかいたけれど、
斉藤さんは2014年の3月に結婚されたのちも
5アンペア生活をつづけておられる。
奥さんに我慢してもらっているのではなく、
奥さんによると、べつにたのしくはないけど、つらくもない、そうだ。

わたしは、電気代というものは 1ヶ月に1万円くらい、どうしてもかかるのかとおもっていた。
つかう道具をみなおすことで、それがたった190円になるなんて。
老後の生活を心配して、年金以外に3千万円が必要、なんて記事をよくみかけるけど、
斉藤さんのようにお金をつかわない生活がたのしめたら、
電気代だけにとどまらず、ずいぶん節約できるだろう。
これからの生活をかんがえるうえで、おおきなヒントとなる一冊だ。
こういう本は、「おもしろかった」でとどめてしまっては意味がない。
影響をうけたというからには、実践がとわれてくる。

posted by カルピス at 11:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月14日

『ラフカディオ・ハーンのクレオール料理読本』ハーン体験をすませて ほっとする

『ラフカディオ・ハーンのクレオール料理読本』
(河島弘美監修・鈴木あかね訳/TBSブリタニカ)

ラフカディオ=ハーン(小泉八雲)は
日本において、どれだけしられた存在なのだろう。
名前はきいたことがなくても、『怪談』や『耳なし芳一』といった
ふるくからつたわる日本のむかしばなしを、
なんとなく耳にしたおぼえがあるのではないか。
島根県、とくに松江市にすむものには、
小泉八雲といえばぜったいにはずせない人物であり、
超有名人といえる。
いまでこそほかの資源をいかして
観光客をよびこむ姿勢をみせているものの、
すこしまえまでは、小泉八雲だけで松江の観光をなりたたせようとしていた印象があったほど、完全によりかかっている。
ハーンがじっさいに松江でくらしたのは1年と2ヶ月にすぎず、
そのあと熊本・神戸、そして東京へとうつっているのにもかかわらず、
松江におけるハーンの存在は、
いまでもひじょうにおおきなものがある。

と、えらそうなことをかいているけれど、
わたしは松江にすんでいながら
これまでいちどもハーンの本をよんだことがなかった。
図書館にいくと、子ども室にさえ
けっこうな数のハーンによる著作があるにもかかわらず、
まともに手にしたことがないのは、
市民としてよろしくないのでは、と
もうしわけないような気もちをひきずっていた。
日本人でありながら三島由紀夫や川端康成の作品をまともによんでいないみたいな(わたしだ)。
今回まがりなりにもハーンの著作をよみとおせたのは、
長年の責務をはたせたようで とてもうれしい。

よみおえたといっても、
ハーンが日本でまとめたむかしばなしではなく、
ニューオーリンズで新聞記者をしていた時代にかいた
料理についての本だ。
ハーンはギリシャのレフカダ島に生まれ、
2歳のときにアイルランドへわたり、と
いくつもの町でくらしており、
日本にくるまえはニューオーリンズで新聞記者をしていたという。
『クレオール料理読本』は、そのときにかかれたもので、
料理にむけた好奇心とともに、
こうあらねばならないという厳格な面をうかがいしることができる。

この本は、ハーンがじっさいにつくりながらおぼえたというよりも、
おいしい料理にであったときに
料理人や主婦たちからつくり方をききだして、
記事にしながら一冊にまとめたものらしい。
料理の本といっても、日本のように小さじ1/2とかいった繊細なものではなく、
たとえば「亀のスープ」では

「朝早いうちに牛あるいは仔牛8ポンド、
ハムかベーコン1ポンド、タマネギ8個をこしょう、塩、香草で漬け込んでおく」

などといった、量的にも質的にも
日本人の感覚とはかなりちがったもので、
ためしにつくってみようという気になる料理はひとつもなかった。
こんなに肉やあぶらをつかった料理にかこまれていたハーンが
日本ではどんな食生活をおくっていたのかが、かえって気になってくる。
ベーコンやクリームは当時の松江で手にはいりにくかっただろうし、
料理にかかせないワインやブランデーはどうしていたのか。
読者としてかんじるのは、ある土地の料理について、
ハーンがどんな態度でむきあっていたかの新聞記者らしい好奇心であり、
こうした熱意を 日本ではむかしばなしの取材にむけたのだろう想像する。

こまかな点までおさえた料理があるかとおもえば、
すごくそっけないものもある。
チキンカレーなど、

「鶏を切り分け、煮込み料理の要領で煮込む。
できあがったらカレー粉を大さじ1加える。
米を添えて食卓へ」

とかいてあるだけで、このアンバランスはなんなのか不思議におもう。
たしかにこれでチキンカレーはできるかもしれないが、
料理の本と名のるからには、もうすこし愛想よくしてほしいものだ。

おかしかったのが「タルタルソースの作り方」で、

「タルタルソースを作るには二とおりのやり方がある。
どちらでも好きなほうを試してみるがよい。
急を要する場合は後者の方法が望ましいであろう。
第一の方法。若いタタール人をつかまえる。
老いたものは歯ざわりが悪いし汁気が少ない。(中略)
タタール人を手中にしたらこっそりと隠密に殺害すること。(中略)
第二の方法は次のとおりである。
固ゆで卵の黄身一個、マスタード小さじ一、
オリーブ油大さじ一、酢少々、
パセリ少々ときゅうりのピクルスを細かく刻み、混ぜる。これだけだ」

ハーンにこうした「わらい」があるとはしらなかった。
まじめでかたぐるしそうな印象だったハーン先生に、したしみがわいてくる。
料理の本らしくない料理の本なので 気らくによめたし、
おかげでめずらしいハーン体験ができたことをよろこんでいる。
料理の本というと、ラフカディオ=ハーンの仕事としては異端におもえるけれど、
取材対象がすこしちがうだけで、
ハーンとしては ずっとおなじようにフィールドワークをしていただけのつもりかもしれない。

posted by カルピス at 13:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月13日

『日本観光ガイド』(酒井順子)外国人むけ、とおもわせてじつは日本人を対象にしたクールジャパン解説

『日本観光ガイド』(酒井順子・光文社)

日本をおとずれた外国人にむけてかかれた観光ガイド、
とおもわせておいて、
じつは日本人もほんとうはよくわかっていない 日本の文化と風俗を
日本人に説明するのを目的としている。
とはいいながら、本来の目的どおり、外国人がもしよめば、
絶好の日本入門書ともなるという、非常にいりくんだ構造をとっている。
もちろん、無理やりややこしいことをいわなくても、
外国人がよんでも、日本人がよんでも、
新鮮な情報を わかりやすく説明してくれる たのしい本なのだけど、
日本語でかかれているし、「小説宝石」の連載がまとめられたものなので、
外国人の旅行者が目にする機会は あまりおおくなかったかもしれない。
よんでいるうちに、外国人観光客になって日本を旅行している気分になる、
たいへんおとくな本にしあがっている。

酒井さんは大学で観光学をまなんでおり、
あまりにもおそすぎた専門分野でのデビューといえるかもしれない。
その後、作家としてのゆたかな経験をつみ、
するどい観察眼と 適度なかるさを身につけた酒井さんにとって、
本書の企画は 上品にあそべる絶好の舞台となったようだ。

・成田空港
・お辞儀
・秋葉原
・スシ

など、25の項目について、
外国人(そして日本人も)が日本をたずねるときに、
しっていたらたのしい情報がたくみに解説されている。
外国人むけにかかれた ちょっとへんな日本語(もちろんわざと)がおかしい。

「私達はいったん工夫とか改良とかを始めてしまったら、
行き着く所まで行かないと、納得できない性質。
便器も肛門も内蔵も、全てクリーンに除菌した未来の私達の姿を、
いつかまた、見にきてくださいね」(トイレ)

「多くの日本人女性は、お洒落や化粧、そしてダイエットが大好きなので、
とてつもないデブとかブスといった
規格から大きく外れた外見をしている人が少ないことに、
まず気付くのではないでしょうか」(美人)

「よさこいソーランはつまり、日本の世の中が
グッドセンス化してしまったが故にくすぶっていたバッドセンスを、
一気に放出させる役割を果たしたのでした。
日本にはまだまだヤンキーセンスを隠し持つ人が大量に棲息していたからこそ、
新しいお祭りであるにもかかわらず、
よさこいソーランはここまで急激に広まったのです」(ヤンキー)

「日本古来の城かと思ったら、個人宅。
西洋の城かと思ったら、ラブホ。
教会があったと思ったら、結婚式場。・・・となったら、
ああ、日本人の考えってわからない!と、
あなたの頭の中は混乱してくるかもしれません。
そんな混乱した頭で歩いていたら、おお、目の前にあるのは、
いかにも伝統ある寺院という感じの建物。
「これでこそ日本!こんな時はお寺を見学して、
気持ちを落ち着けなくては」と思ったあなたは、
建物の中に入っていきます。
すると、何だか様子がおかしいのです。(中略)
そう、あなたが寺院かと思って入った建物は、銭湯です」(城)

「だから日本の女性達は、
『私は心身ともに成熟していませんよ』
ということを異性にアピールするため、
カン高い声で舌足らずに話したり、
口をとがらせて首をかしげてみたり、
内股に立ったりと、つまりは幼女の真似をするのです」(カワイイ)

「こうしてみると、やはりテレビというのは日本社会の縮図なのです。
キャメロン・ディアスがCM画面の中をいくら闊歩していようと、
女子アナの扱い方と彼女達の意識を見れば、
やはり日本の人々が心の中では今もちょんまげを切っていないことが、
よくわかることでしょう」(テレビ)

北海道の紹介では、財政が破綻した夕張をとりあげ、『夕張夫妻』という
いかにもまずしそうな夫婦がキャラクター化されているという。
「つまり夕張は今、『あれも駄目、これも駄目。であるならば・・・』と、
自虐の道を歩こうとしているのです」とあり、
きのうのブログにわたしがかいた、
島根の自虐ネタが最初という主張があやしくなってくる。

この本によると、日本は2003年より
「ビジット・ジャパン・キャンペーン」を展開しており、
2010年までに1000万人の外国人を誘致する目標をかかげていたそうだ。
2002年には520万人だった外国からの観光客が、
2008年に835万人とおおきくのびているので、
うまくいくかとおもわれたこのキャンペーンは、
リーマン・ブラザーズなどの世界的な不況によって
ブレーキがかかることになる。
しかし、日本の魅力は、景気とか円高に左右されるのではなく、
もっとうちにひめた恥部にこそあるのでは、
というのが酒井さんの指摘である。

「日本における国際化は、諸外国の皆さんが驚くほど進んでいないと思った方がいいでしょう。
しかし日本における最もおおきな観光資源は、実はその部分なのではないかと、筆者は考えます。(中略)
少し前の日本人は、『ガイジンさんから見られても恥ずかしくないように』と、
何事も頑張ってきました。(中略)
しかし今、私達は『ガイジンさんには、恥ずかしいところを見ていただいた方がいいのではないか』
という気持ちになりつつあります」

ここに気づいた酒井さんはさすがにするどい。
自分の短所は、ほかのひとからみれば長所にうつるように、
これまで「恥ずかしい」とおもっていた日本の後進性が、
いまの時代ではクールジャパンにばけた。

「観光立国を進める日本においてこれから必要となってくるのは、
開かれている部分と閉ざされている部分の、
強いコントラストなのだと思います。
交通機関や宿泊施設などは世界の誰もが使用しやすいように整備しつつも、
最も日本らしいねっとりとした部分は、
無理に風通しを良くして国際化など図らずに、そっと残しておく。
日本観光の未来は、そのコントラストの妙にかかってくるのではないかと思うのです」

日本の将来にむけた、すばらしいまとめといえるだろう。

文章をかくときに、「だれにむけてかくのか」「対象はだれなのか」を
はっきりさせるようにと、よくいわれるけれど、
それらの鉄則を酒井さんはじょうずにスルーするのに成功した。
だれかにむけてかかれたおもしろい文章は、
だれがよんでもおもしろいのだ。
外国人むけにかかれたかたちをとる本書の文体によって、
酒井さんの魅力が絶妙にいかされている。
外国人にもわかるやさしいことばをえらびながら、
そのリズムは独特であり、自由自在にあそびまわる。
上品でありながらビミョーにちからのぬけた文章に感心し、
何枚のフセンをはったことか。
また酒井さんの文体は、お金をかけてあそんできた
ゆたかな体験があってこそいきてくる。
ファッションや芸能界、歌舞伎からメイドカフェまで、
なんでもしっている酒井さんは、
外国人に日本を紹介するときだけでなく、
日本人に日本のクールさをつたえるときにおいても、最高のガイドだ。

posted by カルピス at 14:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | 酒井順子 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月12日

「鷹の爪団の島根自虐カレンダー」(卓上版)の発売がのびたこと

近所の本屋さんに「鷹の爪団の島根自虐カレンダー」(壁かけ版)がうられていた。
http://matome.naver.jp/odai/2135402839827267301
1500円ほどする。
自虐カレンダーとは、島根県の過疎性を逆手にとって、
自虐ネタのフレーズを毎月のカレンダーにいれたものだ。
今年のカレンダーを例にいえば、
「今でしょ!がいまだにはやらない」
「また来るぜ!と言っていたバンドが二度と来ない」
など、島根県の現状ならびに常識がかかれていて、
島根県民にとってはあまりにもあたりまえなので、
なぜこれが自虐ネタなのかわからないものもある。
とにかく、いまでこそ全国的に自虐ネタがはやっているけど、
そのさきがけは島根県であり、鷹の爪なのだ。

「鷹の爪」のファンとしては手もとにおきたいところだが、
きょねん、おととしと、これまでに2回かったものの、
月がかわるごとに 紙をきりはなすのがもったいなくて
わたしには カレンダーとしてつかえないことがわかってきた。
来年のカレンダーうり場でしばらくにらめっこしたのち、
ほしい本をかうと、お金がたりなくなるので、
とにかくきょうはやめとこうと、その場をはなれる。
800円の卓上版が月末に発売になるので、
今年は それだけにしようと いまはおもっている。

その卓上版について、
ポータブルのDVD再生機にうつる総統と吉田くんが、
発売が延期になった経緯を説明をしている。
「2015年自虐カレンダーに関する重大なお知らせとお詫び」なのだそうだ。
https://www.youtube.com/watch?v=kP01izBO9ow
かなしそうなBGMとともに
総統と吉田くんが記者会見でただひたすらあやまっている。
9月は30日までしかないのに、あやまって31日をいれたのと、
10月を神無月にしてしまったという(島根だけは神在月という)。
ほかにも誤植がいくつかあったと、
めずらしく はじめからさいごまで まじめにあやまっている。
ほんとにミスがあったのかわからないけど、
壁かけ版と卓上版の販売をずらしても いいことはないので、
ほんとうに なんらかの不都合があったのだろう。

本屋さんでエンドレスにながれるDVD再生機がわたしはきらいで、
いぜんは店員さんにかくれてボリュームをさげていた。
本をえらぼうとするときに、関係ない宣伝をずっとしゃべられるのは
いらいらさせられる。
電子機器からの音は、本屋さんになじまないとわたしはおもう。
そんなわたしが、たとえ鷹の爪がうつっていたからといって、
画面をじっとながめるようになるとは、われながらかなしい堕落ぶりだ。

ほかにもスーパーやホームセンターでかいものをしたときに、
レジではられる赤いテープに腹をたてていた。
リュックにいれるから袋はいらなというと、
「ありがとうございます」といいながら、テープをはろうとするのだ。
かった商品であるしるしとして テープが必要だという。
「テープはきらいだからはらないでください」、といっても
たいていは「きまりですから」と不満そうな態度をしめされる。
いつもおなじようなやりとりがつづくので、もうめんどくさくなり、
このごろはなにもいわないで 袋にいれられるままにしている。
なんだか わたしのたたかいは まけてばかりだ。

ちなみに、「NO!レジ袋」運動にひとやくかっているのが「鷹の爪」の吉田くんだ。
松江市のスーパーでは、あちこちで吉田くんのポスターがエコ運動をうったえている。
スーパーでのかいものに、自分の袋をつかうのが省エネなように、
はらなくてもいい赤いテープをはらないのも省エネではないだろうか。
マニュアルにそって、レジのひとから
「袋はおもちですか?」とたずねられるたびに
吉田くんのいちばんの理解者だとおもっているわたしが、
かんたんにたたかいをやめてしまったさみしさをおもう。

posted by カルピス at 10:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | 鷹の爪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする