『舞妓はレディ』をみる。
先月の『思い出のマーニー』につづいて観客は2人だけだった。
みはじめてから、『舞妓はレディ』は「マイ・フェア・レディ」のオマージュなのだと気づく。
言語学者がわかい女性のなまりを矯正し、一人前の舞妓にそだてる。
映画のなかできゅうにうたがはじまったときは、
わたしがにがてなミュージカルかと がっかりする。
とくに大学の研究室での、とってつけたような うたとおどりには うんざりした。
ミュージカルにする必要なんてなかったのに。
その違和感から、なかなか映画にはいりこめない。
それに、いかにオマージュといっても、田舎からでてきたわかい女の子に
京ことばをマスターさせ、舞妓へとデビューできるかを かけるなんて、
あまりにもリアリティがない。
生まれそだったことばのアクセントをけし、
あらたに京ことばをマスターするのは
どれだけたいへんなことだろう。
それを「半年もあればやれる」と自信満々の先生に
わたしはぜんぜん共感できなかった。
しょせん、自分のおもしろさから、わかい女性の熱意を もてあそんだのではないか。
そうした反発をかんじながらも、
お茶屋の世界や京ことばの特殊性、
うたやおどりの稽古のようすときびしさ、
和服のきかたや、舞妓の髪のゆい方などはめずらしかった。
この作品をみなければ、わたしにはうかがいしれぬ世界だ。
お茶屋界のことばやたちふるまいをみていると、
自分がこれまでどう生きてきたのかを問われるような気がしてきた。
はっきり「ねえさん、おおきに」と、先輩ひとりひとりに声をかけ あたまをさげる。
挨拶ができないようではなにもはじまらないのだ。
自分とはちがう価値観のひとを、
わたしはとかく批判的にみやすいけど、
みんなそれぞれいろんな立場で生きているのだから、
ひとりの人間として敬意をはらわなくてはならない。
いまはほとんど自分と関係ないひとにおもえても、
これからどんなかかわりになるかわかならい。
挨拶をせずにやりすごすことは、そのひとだけでなく、
そのひとがすむ世界全般にたいして失礼なことなのだ。
相手からも、自分がまともな挨拶もできない人間とみられてはいけない。
どんなときも いろんなひとにみられているのであり、
それは芸妓であろうが、わたしのいまの生活であろうが、おなじことなのがわかった。
堂々とした挨拶であれば、それがどんなことば・方言であっても
きくひとのこころにとどく。
映画のあとで、携帯電話の営業所へたまたまいく用があった。
対応してくれたお店の女性は、
ちかい関係のひとからかかってきた電話をはさみ、
わたしにむきなおったときに出雲弁になっていた。
タメ口をきかれたわけではなく、ちゃんとした出雲弁だ。
わかい女性から出雲弁で仕事のはなしをされることはあまりなく、
すこしへんなかんじがしたけれど、
舞妓さんは京ことばでこれをやってるのだ、とあとから納得した。
ことばの力関係で、出雲弁はたいていネガティブな場所においやられている一方、
関西弁や京ことばは、りっぱな日本語として どこにだしても通用する。
京ことばと、それをとりまく世界にほこりをもつひとたちが、
これまでながらく まもってきたおかげだろう。
反発をかんじながらも、お茶屋の世界がもつ価値体系を
うつくしいとかんじずにおれなかった。
とくに富司純子さんのゆたかな表情は、
この世界でながく生きてきたひとにしかだせない うつくしさがあることを
みる側に気づかせてくれる。
あんなに魅力のある笑顔をみせる内面は、
どんなよろこびとかなしみにみちているのか。
エンディングのころには、ミュージカルであることに違和感がなくなり、
めでたしめでたしという気もちになれたのだから、
よくできた作品といえるだろう。
2014年10月11日
2014年10月10日
林真理子さんの新聞連載小説『マイストーリー』に、なぜか早稲田の探検部がでてきた
朝日新聞に連載されている林真理子さんの小説『マイストーリー』に、
ゴーストライターの「鈴木」さんができきた。
「何人もの作家を輩出した、早稲田の探検部という経歴である」となっている。
ほかの会社名などはぼかしてあるのに、
なんでいきなり早稲田の探検部なのか。
林さんとどんな接点があるのだろう。
この小説は、自費出版を専門にする会社と、
そこをとおして本をつくろうとするひと、
また、自費出版という事業の現状など、
個人が本をだそうとするときに なにをねがい、
どんなやり方があるかがとりあげられている。
一生にいちどのことだから、お金をかけてでも
いい本がつくりたいというひとや、
うれもしない本をたくさん印刷され、
お金のむだづかいだと、おもしろくない家族もでてくる。
本をだしたいひとたちの熱意とはまたべつに、
自費出版がどれだけ流通にのりにくいかという、
いまの出版状況も紹介されていて、
新聞小説についていけないことがおおいわたしも、
これまでのところ興味ぶかくよんでいる。
いまは「KDP」など、アマゾンでうれる電子書籍を
個人でもつくれる時代でありながら、
そして、紙の本はこれからすたれるといわれながらも、
紙でつくった自分の「本」を出版したいというおもいは、
年齢にかぎらず根づよいのかもしれない。
ゴーストライターの「鈴木さん」は、
そうした自費出版をしたいとねがいながら、
なかなか自分では文章をかけないひとのために、
かわりとなって本をかく専門のライターのことだ。
依頼人のはなしをよくきき、本人が満足するような文章をかく必要があるために、
当然ながらだれでもできる仕事ではなく、
この小説では文学賞の候補にあがる程度の実力のあるひとばかり、
ということになっている。
そのゴーストライターに、いきなり早稲田の探検部がでてきたのにおどろいた。
べつにわたしがわたしが早稲田の探検部出身というわけではないけれど、
だいすきな高野秀行さんがここのOBであるし、
そもそも探検部とサークルじたいに、したしみというか 関心をもっている。
わかいころに影響をうけた本多勝一さんが、
日本ではじめての探検部を京都大学につくっており、
梅棹忠夫さんはそこの顧問だった。
その後、ほかの大学にも探検部がつくられてゆき、
日本社会としてはユニークな人材をうみだすサークルとしてしられている。
林真理子さんが、早稲田の探検部に目をつけたねらいはなんなのだろう。
「本名高木さんは本を二冊出しています。
一冊は確か、アマゾンの奥地のオペラハウスを見に行くというノンフィクション」
とあるので、高野さんか、とおもったけど、
「彼は文章がうまいうえに、どんなジャンルもこなせるんですよ。
さっきのタレント本の他に、ビジネス本も書けます」
とつづけられているので、おそらくちがうひとがモデルだ。
いくら高野さんでも、さすがにビジネス本はかかないだろう。
きょうのはなしでは、ライターを依頼する女性が
「出来るだけ、”鈴木さん”をお願いします。
話を聞いたらなんだかとっても気になるんです」
と、これからも ものがたりにからんできそうで たのしみにしている。
ということを、エバーノートにかいていたら、
「関連するノート」に高野さんの記事がいくつかあげられていた。
よみかえしてみると、探検部のOBたちが
どんなかわったひとたちだったかがおもいおこされる。
ある先輩は・・・、と紹介しようとして、きりがないのでやめた。
きりがないくらいめちゃくちゃなひとがおおく、
ふたたび、なぜ林真理子さんが探検部の名前をだしてきたのかが気になってくる。
これからの展開をたのしみにしたい。
ゴーストライターの「鈴木」さんができきた。
「何人もの作家を輩出した、早稲田の探検部という経歴である」となっている。
ほかの会社名などはぼかしてあるのに、
なんでいきなり早稲田の探検部なのか。
林さんとどんな接点があるのだろう。
この小説は、自費出版を専門にする会社と、
そこをとおして本をつくろうとするひと、
また、自費出版という事業の現状など、
個人が本をだそうとするときに なにをねがい、
どんなやり方があるかがとりあげられている。
一生にいちどのことだから、お金をかけてでも
いい本がつくりたいというひとや、
うれもしない本をたくさん印刷され、
お金のむだづかいだと、おもしろくない家族もでてくる。
本をだしたいひとたちの熱意とはまたべつに、
自費出版がどれだけ流通にのりにくいかという、
いまの出版状況も紹介されていて、
新聞小説についていけないことがおおいわたしも、
これまでのところ興味ぶかくよんでいる。
いまは「KDP」など、アマゾンでうれる電子書籍を
個人でもつくれる時代でありながら、
そして、紙の本はこれからすたれるといわれながらも、
紙でつくった自分の「本」を出版したいというおもいは、
年齢にかぎらず根づよいのかもしれない。
ゴーストライターの「鈴木さん」は、
そうした自費出版をしたいとねがいながら、
なかなか自分では文章をかけないひとのために、
かわりとなって本をかく専門のライターのことだ。
依頼人のはなしをよくきき、本人が満足するような文章をかく必要があるために、
当然ながらだれでもできる仕事ではなく、
この小説では文学賞の候補にあがる程度の実力のあるひとばかり、
ということになっている。
そのゴーストライターに、いきなり早稲田の探検部がでてきたのにおどろいた。
べつにわたしがわたしが早稲田の探検部出身というわけではないけれど、
だいすきな高野秀行さんがここのOBであるし、
そもそも探検部とサークルじたいに、したしみというか 関心をもっている。
わかいころに影響をうけた本多勝一さんが、
日本ではじめての探検部を京都大学につくっており、
梅棹忠夫さんはそこの顧問だった。
その後、ほかの大学にも探検部がつくられてゆき、
日本社会としてはユニークな人材をうみだすサークルとしてしられている。
林真理子さんが、早稲田の探検部に目をつけたねらいはなんなのだろう。
「本名高木さんは本を二冊出しています。
一冊は確か、アマゾンの奥地のオペラハウスを見に行くというノンフィクション」
とあるので、高野さんか、とおもったけど、
「彼は文章がうまいうえに、どんなジャンルもこなせるんですよ。
さっきのタレント本の他に、ビジネス本も書けます」
とつづけられているので、おそらくちがうひとがモデルだ。
いくら高野さんでも、さすがにビジネス本はかかないだろう。
きょうのはなしでは、ライターを依頼する女性が
「出来るだけ、”鈴木さん”をお願いします。
話を聞いたらなんだかとっても気になるんです」
と、これからも ものがたりにからんできそうで たのしみにしている。
ということを、エバーノートにかいていたら、
「関連するノート」に高野さんの記事がいくつかあげられていた。
よみかえしてみると、探検部のOBたちが
どんなかわったひとたちだったかがおもいおこされる。
ある先輩は・・・、と紹介しようとして、きりがないのでやめた。
きりがないくらいめちゃくちゃなひとがおおく、
ふたたび、なぜ林真理子さんが探検部の名前をだしてきたのかが気になってくる。
これからの展開をたのしみにしたい。
2014年10月09日
いつかは参加してみたいメドックマラソン
南井正弘氏によるメドックマラソンの記事が、
「スポーツナビ」に報告されていた。
http://dosports.yahoo.co.jp/column/detail/201410080001-spnavido
メドックマラソンは、エイドステーションにワインやステーキなど、
ありえない豪華な「食事」がならぶことで有名なレースだ。
南井氏は、はじめ35キロまではワインをのまないでおこう、と用心し、
でも高橋尚子さんから「シャトー・ラフィット・ロートシルト」が
16キロ地点でだされるという情報をえると、
「16キロまでは我慢する」にきりかえる。
「しかしながら、スルーするはずの5km地点最初のワインテイスティングポイントに差し掛かったとき、ランナーたちがものすごい勢いでワインに向かう姿を見たのと、「Grand vin!」というフランス人ランナーたちの声に思わず反応して飲んでしまった」
というのは、いたしかたないところだろう。
ワインずきにはなやましいレースだ。
わたしもワインはすきだけど、そんなにアルコールにつよくない。
あれもこれもとよくばってゴールをめざせば、
冗談でなく死んでしまうような気がする。
そういえば、大学のときに「ビールレース」という
とんでもないもよおしものがあった。
わたしは水泳部に所属しており、
となりの県の大学と、恒例の定期戦が毎年おこなわれていた。
かっこつけていえばサッカーの「クラシコ」みたいなもので、
あそこだけにはまけられない、みたいな意地のはりあいみたいなところがあり
毎回ひくいレベルなりにもりあがっていた。
競技がおわったあとでは余興もあり、
そのさいごが主将どうしによるビールレースだった。
内容は、「よーい、ドン!」でプールにとびこみ50メートルをおよいだのち、
むこうのスタート台にのせてある大ビンのビールをできるだけはやくのみ、
またおよいでかえってくる、というものだ。
そのうえ、ゴールしたあとは、まちうけていた相手チームのメンバーに、
むりやりパンツをぬがされるというおまけがついている。
それまでにもけっこうのんでいるし、
いっきのみしたあと、50メートルを全力でおよぐなんて、
あんまり安全なレースではなさそうだ。
わかさゆえのバカさわぎで、あぶないなんて、だれもかんがえてない。
母校愛につきうごかされるわけではないけど、
むこうについたらパンツをぬがされるなんて、
すっかりわすれて、とにかくとなりのヤツにかとうと懸命におよいだ。
メドックマラソンは、心身ともにゆとりのあるおとなのあそびとして
参加者・関係者がたのしんでいるのだろう。
仮装してはしるランナーもおおいそうで、
レースをかねたおまつりみたいなかんじだ。
日本の常識は世界の非常識というけど、
マラソンレースでアルコールをのみ放題なんて、
いくらなんでもあぶなそうなのに、
参加してるひとたちはとびきりたのしそうにはしっている。
日本人にはしんじられないつよいからだなのだろう。
どうかんがえても、ワインをのみながらはしるなんて
わたしにはできそうにない。
シラフではしってもくるしいし、
はしらずにのんでもよっぱらってしまう。
わかいころのわたしなら、大丈夫だったろうか。
ビールをのんだのち、全力でおよいでも生きていたのだから、
すこしくらいのワインとステーキならたのしめただろう。
ビールレースなんかにうつつをぬかさないで、
世界にはずっとおしゃれでたのしいもよおしがあることを
当時のわたしにおしえてやりたかった。
でも、「これは2万円のワインだ」なんて情報がはいったら、
あたまとからだを冷静にコントロールできなかったはずだ。
きっとへんなのみ方をしてあぶない目にあっていただろう。
メドックマラソンに参加するとしたら、
ワインは前夜祭とうちあげ(そんなのがあるとしたら)だけにして、
レースはけしきをたのしむだけにしたいとおもう。
「スポーツナビ」に報告されていた。
http://dosports.yahoo.co.jp/column/detail/201410080001-spnavido
メドックマラソンは、エイドステーションにワインやステーキなど、
ありえない豪華な「食事」がならぶことで有名なレースだ。
南井氏は、はじめ35キロまではワインをのまないでおこう、と用心し、
でも高橋尚子さんから「シャトー・ラフィット・ロートシルト」が
16キロ地点でだされるという情報をえると、
「16キロまでは我慢する」にきりかえる。
「しかしながら、スルーするはずの5km地点最初のワインテイスティングポイントに差し掛かったとき、ランナーたちがものすごい勢いでワインに向かう姿を見たのと、「Grand vin!」というフランス人ランナーたちの声に思わず反応して飲んでしまった」
というのは、いたしかたないところだろう。
ワインずきにはなやましいレースだ。
わたしもワインはすきだけど、そんなにアルコールにつよくない。
あれもこれもとよくばってゴールをめざせば、
冗談でなく死んでしまうような気がする。
そういえば、大学のときに「ビールレース」という
とんでもないもよおしものがあった。
わたしは水泳部に所属しており、
となりの県の大学と、恒例の定期戦が毎年おこなわれていた。
かっこつけていえばサッカーの「クラシコ」みたいなもので、
あそこだけにはまけられない、みたいな意地のはりあいみたいなところがあり
毎回ひくいレベルなりにもりあがっていた。
競技がおわったあとでは余興もあり、
そのさいごが主将どうしによるビールレースだった。
内容は、「よーい、ドン!」でプールにとびこみ50メートルをおよいだのち、
むこうのスタート台にのせてある大ビンのビールをできるだけはやくのみ、
またおよいでかえってくる、というものだ。
そのうえ、ゴールしたあとは、まちうけていた相手チームのメンバーに、
むりやりパンツをぬがされるというおまけがついている。
それまでにもけっこうのんでいるし、
いっきのみしたあと、50メートルを全力でおよぐなんて、
あんまり安全なレースではなさそうだ。
わかさゆえのバカさわぎで、あぶないなんて、だれもかんがえてない。
母校愛につきうごかされるわけではないけど、
むこうについたらパンツをぬがされるなんて、
すっかりわすれて、とにかくとなりのヤツにかとうと懸命におよいだ。
メドックマラソンは、心身ともにゆとりのあるおとなのあそびとして
参加者・関係者がたのしんでいるのだろう。
仮装してはしるランナーもおおいそうで、
レースをかねたおまつりみたいなかんじだ。
日本の常識は世界の非常識というけど、
マラソンレースでアルコールをのみ放題なんて、
いくらなんでもあぶなそうなのに、
参加してるひとたちはとびきりたのしそうにはしっている。
日本人にはしんじられないつよいからだなのだろう。
どうかんがえても、ワインをのみながらはしるなんて
わたしにはできそうにない。
シラフではしってもくるしいし、
はしらずにのんでもよっぱらってしまう。
わかいころのわたしなら、大丈夫だったろうか。
ビールをのんだのち、全力でおよいでも生きていたのだから、
すこしくらいのワインとステーキならたのしめただろう。
ビールレースなんかにうつつをぬかさないで、
世界にはずっとおしゃれでたのしいもよおしがあることを
当時のわたしにおしえてやりたかった。
でも、「これは2万円のワインだ」なんて情報がはいったら、
あたまとからだを冷静にコントロールできなかったはずだ。
きっとへんなのみ方をしてあぶない目にあっていただろう。
メドックマラソンに参加するとしたら、
ワインは前夜祭とうちあげ(そんなのがあるとしたら)だけにして、
レースはけしきをたのしむだけにしたいとおもう。
2014年10月08日
黒田龍之助先生のロシア語講座が復活
10月はテレビやラジオの番組があたらしくなる ひとつのくぎりだ。
運転中ラジオをきいていたら、「カタツムリの上級編」として
黒田龍之助さんとカーチャさんのロシア語講座がはじまっていた
(再放送らしい)。
「上級編だからといって
不安におもわなくても大丈夫ですよ」
といいながら、
きびしいことを、あいかわらずサラッと口にされる。
「上級編なんだから、これは訳さなくてもいいですよね〜」と
さりげなくプレッシャーをかけてくる。
2回目の番組をきいていたら、前回のレッスンにでてきた
単数と複数形でかたちがまったくちがう単語について
「いやになっちゃいますよね〜。
でも、ちょーっといやになっちゃうだけで、
やめたくなるほどいやではなかったとおもいます」
とか、
「これはおぼえておいてほしいんですけど」
(おぼえてるのが上級編としては当然みたいないいかたで)と、
きくものの胸にチクチクささってくる。
黒田先生は、ことばを勉強するのが、ほんとうにすきでたまらないのだ。
外国語講座をきいていると、どんなことばもそれなりにおもしろいけど、
では、はたしてこの講座を勉強することで、
どれだけ外国語がつかえるようになるだろう。
なんといっても じっさいにひととはなすのにまさる勉強法はなく、
究極的には個人教授をうけるのが、いちばん効果的におもえる。
ほかの国でも、日本みたいにラジオやテレビでの外国語講座が じゅうじつしているのだろうか。
なんとなく、外国人はこういう いかにも訓練的な勉強法ではなく、
もっと実践的なやり方をこのむような気がする。
このまえみた映画の『最強のふたり』にでてきたドリスなんかは、
ラジオでの勉強をあたまからバカにしそうだ。
「そんなことしてないで、外にでてはなせ!」というにきまっている。
シャイな日本人は、外国人にはなしかけて、
じっさいにことばをつかう機会をみつけるより、
ひとりでラジオにむかってしこしこ勉強するのがあってるのだろう。
ただ、そればかりやっていてもたいした進歩はのぞめず、
とにかくつかってみなければ 外国語はなかなか身につかない。
もちろん おおくのひとがそうおもっているわけで、
だから「駅前留学」みたいな外国語学校の需要がある。
マンツーマンは無理としても、グループではなせれば、
ラジオとはちがう刺激をうけるだろう。
なにを目的に勉強するのか(あなたはなにをつたえたいのか)、とか、
どこまでの上達を目標にするのか、とかの みきわめも大切だけど、
とにかく、まずはなすことだ。
ひとつの外国語も ものにならなかったわたしがいうのだから
まちがいない。
テレビやラジオの外国語講座が どこまでの進歩を目的とするのかは、
勉強する側がきめることとはいえ、
ひとつのきっかけとかんがえたほうがいい。
おもしろかったら、そのさきにどんどんすすむ。
いっぽうで、まったく実用をはなれ、勉強のための勉強も
けしてわるくはないとわたしはおもっている。
目的をはなれるのは わたしの得意とするところだ。
なんのやくにもたたない勉強は、完全に自己満足の世界なので、
それはそれでたのしいし、だれの迷惑にもならない。
外国語講座の需要は、あんがいそんなところにあるのかもしれない。
「あーおもしろかった」と、きく側の好奇心を満足させるだけで、
なにも生みださない。
こんなことをいうと、黒田龍之助先生は残念におもうだろうけど、
たのしむのが目的というのも、ひとつのつきあい方だ。
運転中ラジオをきいていたら、「カタツムリの上級編」として
黒田龍之助さんとカーチャさんのロシア語講座がはじまっていた
(再放送らしい)。
「上級編だからといって
不安におもわなくても大丈夫ですよ」
といいながら、
きびしいことを、あいかわらずサラッと口にされる。
「上級編なんだから、これは訳さなくてもいいですよね〜」と
さりげなくプレッシャーをかけてくる。
2回目の番組をきいていたら、前回のレッスンにでてきた
単数と複数形でかたちがまったくちがう単語について
「いやになっちゃいますよね〜。
でも、ちょーっといやになっちゃうだけで、
やめたくなるほどいやではなかったとおもいます」
とか、
「これはおぼえておいてほしいんですけど」
(おぼえてるのが上級編としては当然みたいないいかたで)と、
きくものの胸にチクチクささってくる。
黒田先生は、ことばを勉強するのが、ほんとうにすきでたまらないのだ。
外国語講座をきいていると、どんなことばもそれなりにおもしろいけど、
では、はたしてこの講座を勉強することで、
どれだけ外国語がつかえるようになるだろう。
なんといっても じっさいにひととはなすのにまさる勉強法はなく、
究極的には個人教授をうけるのが、いちばん効果的におもえる。
ほかの国でも、日本みたいにラジオやテレビでの外国語講座が じゅうじつしているのだろうか。
なんとなく、外国人はこういう いかにも訓練的な勉強法ではなく、
もっと実践的なやり方をこのむような気がする。
このまえみた映画の『最強のふたり』にでてきたドリスなんかは、
ラジオでの勉強をあたまからバカにしそうだ。
「そんなことしてないで、外にでてはなせ!」というにきまっている。
シャイな日本人は、外国人にはなしかけて、
じっさいにことばをつかう機会をみつけるより、
ひとりでラジオにむかってしこしこ勉強するのがあってるのだろう。
ただ、そればかりやっていてもたいした進歩はのぞめず、
とにかくつかってみなければ 外国語はなかなか身につかない。
もちろん おおくのひとがそうおもっているわけで、
だから「駅前留学」みたいな外国語学校の需要がある。
マンツーマンは無理としても、グループではなせれば、
ラジオとはちがう刺激をうけるだろう。
なにを目的に勉強するのか(あなたはなにをつたえたいのか)、とか、
どこまでの上達を目標にするのか、とかの みきわめも大切だけど、
とにかく、まずはなすことだ。
ひとつの外国語も ものにならなかったわたしがいうのだから
まちがいない。
テレビやラジオの外国語講座が どこまでの進歩を目的とするのかは、
勉強する側がきめることとはいえ、
ひとつのきっかけとかんがえたほうがいい。
おもしろかったら、そのさきにどんどんすすむ。
いっぽうで、まったく実用をはなれ、勉強のための勉強も
けしてわるくはないとわたしはおもっている。
目的をはなれるのは わたしの得意とするところだ。
なんのやくにもたたない勉強は、完全に自己満足の世界なので、
それはそれでたのしいし、だれの迷惑にもならない。
外国語講座の需要は、あんがいそんなところにあるのかもしれない。
「あーおもしろかった」と、きく側の好奇心を満足させるだけで、
なにも生みださない。
こんなことをいうと、黒田龍之助先生は残念におもうだろうけど、
たのしむのが目的というのも、ひとつのつきあい方だ。
2014年10月07日
『最強のふたり』フィリップが笑顔をとりもどすまでのものがたり
『最強のふたり』
(エリック=トレダノ&オリヴィエ=ナカシュ監督/脚本・2011年フランス)
実話なのだそうだ。
脊髄損傷で首からしたがマヒしている金もちの男性(フィリップ)のところで、
介護経験のない若者(ドリス)がはたらくことになる。
そだった環境のちがうふたりなのに、なぜだか妙にウマがあい、
障害をおってからは体験しなかったような 新鮮な気もちをフィリップはとりもどす。
気むずかしい障害者と、はちゃめちゃな若者という、
よくありそうなはなしを、陳腐にならないよう とてもうまくまとめている。
オープニングで観客の興味をじょうずにつかみ、
これからどうなるかとおもっていると、
そこからいったん、ふたりのであいへとはなしがもどっていく。
介護担当者としての採用をきめる面接で、
ほかの応募者は「障害者をたすけたい」「ひとがすき」「お金のため」と
もっともらしくこたえている。
しかしドリスは、はじめからうかるつもりなどなく、
就職活動の実績づくりにきただけだった。
その傍若無人ぶりにひかれ、フィリップはドリスを採用する。
介護についてはなにもしらなくても、そしてそだちはわるくても、
ドリスは人間として上等な精神をもちあわせていた。
わるいことはわるいといい、金もちにも権威者にも卑屈にならず、
自分のかんがえを堂々と主張する。
修羅場をかいくぐってきた経験をいかし、
フィリップがパニックをおこしても冷静に対応できるし、
町のチンピラなんかには、ちからずくでいうことをきかせてしまう。
なぜあんな男を、とフィリップのしりあいがドリスをやとわないよう忠告すると、
「彼だけがわたしを対等にあつかう」とフィリップはいう。
この、障害者を「対等にあつかう」のがどれだけむつかしいことか。
同情や、うえからみくだした態度は相手のいごこちをわるくするし、
たとえ相手を心配しての対応であったとしても、
介護をうける側の自尊心をキズつけてはならない。
ドリスとはなすときのフィリップが、いつもほほえみをたやさないのは、
自分が対等にあつかわれていることへの満足感であり、
ふたりの関係に 自分の障害がまったく関係しないことの よろこびからだった。
プロの介護者は、自分の感情をおしころし、
障害者の要求にたいし、正確に対応する。
しかしその場合、ふたりの関係は介護するものとされるものであり、
ドリスとフィリップのような友情は期待できないし、期待しないほうがいい。
ドリスのすばらしさは、仕事としてフィリップにせっしていながら、
同時に友だちとしてそばにいられることだ。
フィリップが秘書に口述筆記をしている場面がある。
ととのった環境のもとでは、このように
たとえ障害があっても ある程度はやりたいことを実行できる。
こまかなうごきをつたえてくれる電動車いすもあるし、
口にくわえた棒でページをめくりながら本もよめる。
フィリップはそうした日常生活にいちおう満足しているようにみえる。
それはそれで、すばらしいことだけど、
そこにあたらしい風をドリスはもちこんだ。
口述筆記で女性への手紙をかくフィリップに、
「そんなまだるっこしいことをいつまでもしてないで、さっさと電話しろ」という。
べつの場面では、
自分がジョギングするスピードについてこれないフィリップにたいし、
「もっとはやくはしれ」と無理をいい、
電動車いすを時速12キロのスピードがでるように改造する。
あぶなくないようにスピードをおさえるなんて 余計なお世話で、
事故がおきたときの責任は、自分がおえばいいのだ。
もうひとつあった。車いすを自動車にのせるときにも、
「霊柩車じゃないんだから」と、
車いすにすわったままリフトでのせる車をドリスはイヤがり、
スポーツタイプの高級セダンの助手席にフィリップをのせる。
そんな、介護としてはふつうでない、
しかし友だちとしてならあたりまえの対応をするドリスが、
フィリップはもう、うれしくてたまらなかったんじゃないだろうか。
オープニングでは、ひげがのびほうだいの浮浪者が助手席にすわっていた。
あれはいったいだれだったのだろうと、ずっと気にしてみていたら、
ドリスがいなくなって以来、なげやりになっていたフィリップの姿だった。
以前のほほえみをうしない、身のまわりをととのえる気になれないほど
フィリップはこころをとざしていた。
ドリスの家族をおもい、自分のところでの仕事をやめるよう ドリスに提案したのはフィリップのほうだ。
しかし、障害者だからと、自分を特別な目でみないドリスのあとでは、
どんなひとが介護にあたっても、フィリップのこころはもはやみたされない。
ものがたりはここで オープニングの時点においつき、
これからあたらしい展開がはじまる。
自分なしでは フィリップが生きていけないようではこまるので、
ドリスはあるしかけをほどこした。
おもいがけない演出に、フィリップはとまどい、
そしてたのしくてたまらないときの笑顔をふたたびとりもどす。
この映画は、なんといっても フィリップの笑顔が印象にのこる。
下半身がマヒしていていようが いまいが、だからこそ まわりのものは
フィリップに人間としての魅力をかんじている。
ドリスとせっすることで、フィリップはいつもほほえみをみせていた。
ドリスがしめす対等な態度がうれしくてたまらなかった。
そして、さいごの場面でフィリップがみせたのは、
それまでのほほえみとはすこしちがう意味をもつ。
自分への自信をとりもどせたよろこびによる、
こころのそこからわきだす笑顔だった。
実話では、ドリスはアルジェリアからの移民なのだそうだ。
フランス人がみれば、移民のアルジェリア人から連想される
さまざまな情報があるのだろうが、
外国人にはそのニュアンスがつたわりにくい。
映画ではドリスが 貧民街にそだった黒人に設定してあり、
だれがみても ちがう階層でそだったふたりとわかるようになっている。
構成のうまさとともに、こうした 整理された設定のおかげで、
理解しやすく、したしみやすい作品にしあがっている。
余談ながら、
フィリップとの仕事からはなれ、
ドリスがまた職安へかよいはじめたときのこと。
窓口の女性から経歴についての質問をうけていて、
相手のいったことばが たまたま韻をふんでいるのに気づいて感心したり、
壁にかけてある絵をほめたりと、
おもいがけず身についた教養が ポロッとこぼれるのがおかしかった。
女性の担当官もドリスに好意をにじませる。
知性は人生をたのしくするのだ。
(エリック=トレダノ&オリヴィエ=ナカシュ監督/脚本・2011年フランス)
実話なのだそうだ。
脊髄損傷で首からしたがマヒしている金もちの男性(フィリップ)のところで、
介護経験のない若者(ドリス)がはたらくことになる。
そだった環境のちがうふたりなのに、なぜだか妙にウマがあい、
障害をおってからは体験しなかったような 新鮮な気もちをフィリップはとりもどす。
気むずかしい障害者と、はちゃめちゃな若者という、
よくありそうなはなしを、陳腐にならないよう とてもうまくまとめている。
オープニングで観客の興味をじょうずにつかみ、
これからどうなるかとおもっていると、
そこからいったん、ふたりのであいへとはなしがもどっていく。
介護担当者としての採用をきめる面接で、
ほかの応募者は「障害者をたすけたい」「ひとがすき」「お金のため」と
もっともらしくこたえている。
しかしドリスは、はじめからうかるつもりなどなく、
就職活動の実績づくりにきただけだった。
その傍若無人ぶりにひかれ、フィリップはドリスを採用する。
介護についてはなにもしらなくても、そしてそだちはわるくても、
ドリスは人間として上等な精神をもちあわせていた。
わるいことはわるいといい、金もちにも権威者にも卑屈にならず、
自分のかんがえを堂々と主張する。
修羅場をかいくぐってきた経験をいかし、
フィリップがパニックをおこしても冷静に対応できるし、
町のチンピラなんかには、ちからずくでいうことをきかせてしまう。
なぜあんな男を、とフィリップのしりあいがドリスをやとわないよう忠告すると、
「彼だけがわたしを対等にあつかう」とフィリップはいう。
この、障害者を「対等にあつかう」のがどれだけむつかしいことか。
同情や、うえからみくだした態度は相手のいごこちをわるくするし、
たとえ相手を心配しての対応であったとしても、
介護をうける側の自尊心をキズつけてはならない。
ドリスとはなすときのフィリップが、いつもほほえみをたやさないのは、
自分が対等にあつかわれていることへの満足感であり、
ふたりの関係に 自分の障害がまったく関係しないことの よろこびからだった。
プロの介護者は、自分の感情をおしころし、
障害者の要求にたいし、正確に対応する。
しかしその場合、ふたりの関係は介護するものとされるものであり、
ドリスとフィリップのような友情は期待できないし、期待しないほうがいい。
ドリスのすばらしさは、仕事としてフィリップにせっしていながら、
同時に友だちとしてそばにいられることだ。
フィリップが秘書に口述筆記をしている場面がある。
ととのった環境のもとでは、このように
たとえ障害があっても ある程度はやりたいことを実行できる。
こまかなうごきをつたえてくれる電動車いすもあるし、
口にくわえた棒でページをめくりながら本もよめる。
フィリップはそうした日常生活にいちおう満足しているようにみえる。
それはそれで、すばらしいことだけど、
そこにあたらしい風をドリスはもちこんだ。
口述筆記で女性への手紙をかくフィリップに、
「そんなまだるっこしいことをいつまでもしてないで、さっさと電話しろ」という。
べつの場面では、
自分がジョギングするスピードについてこれないフィリップにたいし、
「もっとはやくはしれ」と無理をいい、
電動車いすを時速12キロのスピードがでるように改造する。
あぶなくないようにスピードをおさえるなんて 余計なお世話で、
事故がおきたときの責任は、自分がおえばいいのだ。
もうひとつあった。車いすを自動車にのせるときにも、
「霊柩車じゃないんだから」と、
車いすにすわったままリフトでのせる車をドリスはイヤがり、
スポーツタイプの高級セダンの助手席にフィリップをのせる。
そんな、介護としてはふつうでない、
しかし友だちとしてならあたりまえの対応をするドリスが、
フィリップはもう、うれしくてたまらなかったんじゃないだろうか。
オープニングでは、ひげがのびほうだいの浮浪者が助手席にすわっていた。
あれはいったいだれだったのだろうと、ずっと気にしてみていたら、
ドリスがいなくなって以来、なげやりになっていたフィリップの姿だった。
以前のほほえみをうしない、身のまわりをととのえる気になれないほど
フィリップはこころをとざしていた。
ドリスの家族をおもい、自分のところでの仕事をやめるよう ドリスに提案したのはフィリップのほうだ。
しかし、障害者だからと、自分を特別な目でみないドリスのあとでは、
どんなひとが介護にあたっても、フィリップのこころはもはやみたされない。
ものがたりはここで オープニングの時点においつき、
これからあたらしい展開がはじまる。
自分なしでは フィリップが生きていけないようではこまるので、
ドリスはあるしかけをほどこした。
おもいがけない演出に、フィリップはとまどい、
そしてたのしくてたまらないときの笑顔をふたたびとりもどす。
この映画は、なんといっても フィリップの笑顔が印象にのこる。
下半身がマヒしていていようが いまいが、だからこそ まわりのものは
フィリップに人間としての魅力をかんじている。
ドリスとせっすることで、フィリップはいつもほほえみをみせていた。
ドリスがしめす対等な態度がうれしくてたまらなかった。
そして、さいごの場面でフィリップがみせたのは、
それまでのほほえみとはすこしちがう意味をもつ。
自分への自信をとりもどせたよろこびによる、
こころのそこからわきだす笑顔だった。
実話では、ドリスはアルジェリアからの移民なのだそうだ。
フランス人がみれば、移民のアルジェリア人から連想される
さまざまな情報があるのだろうが、
外国人にはそのニュアンスがつたわりにくい。
映画ではドリスが 貧民街にそだった黒人に設定してあり、
だれがみても ちがう階層でそだったふたりとわかるようになっている。
構成のうまさとともに、こうした 整理された設定のおかげで、
理解しやすく、したしみやすい作品にしあがっている。
余談ながら、
フィリップとの仕事からはなれ、
ドリスがまた職安へかよいはじめたときのこと。
窓口の女性から経歴についての質問をうけていて、
相手のいったことばが たまたま韻をふんでいるのに気づいて感心したり、
壁にかけてある絵をほめたりと、
おもいがけず身についた教養が ポロッとこぼれるのがおかしかった。
女性の担当官もドリスに好意をにじませる。
知性は人生をたのしくするのだ。
2014年10月06日
「勝手に」がいまのキーワードではないか
このごろよく耳をすることばとして「勝手に」がある。
「勝手にたべほうだい」
「勝手に応援歌」
あ、「デイリーポータルZ」がらみだけか。
いや そんなことはない。ちょっとまえに「勝手連」があったし、
ふるくは「勝手にシンドバッド」が有名だ。
そうあたらしいことばではないのはたしかだけど、
それがまた 復活してきた。
「本の雑誌」の杉江さんが「炎の営業日誌」で
宮田珠己さんの『日本全国津々うりゃうりゃ』のことを
「宮田珠己が勝手に注目する日本各地の(観光)スポットを旅するエッセイ」
と紹介しているから(2012年3月23日)、
「勝手に」はそのころすでにでまわっていたようだ。
ふるくからあった、といいながら、
2012年のはなしをもちだすのは、
ことばとしての「勝手に」はまえからつかわれていたとしても、
いまとむかしでは、意味するところがすこしちがってくるからだ。
ここでいう「勝手に」はまわりからの評価に関係なく、
もちろん依頼されたわけでもなく、
完全に個人的な関心からうごくときの「勝手に」であり、
「勝手」がこうした意味をもったのはそうふるいことではない。
ギアでいえば、まえでもうしろでもなく、ニュートラルにある状態。
善悪は関係なくて、ただ自分がなにをしたいかだけが頭にある。
この「勝手に」こそ、
いまという時代のおもしろさをあらわすキーワードではないかと
おもえてきた。「勝手に」だけど。
わたしが小学校のときに「勝手(かって)」という名字の同級生がいた。
そいつがすごく勝手なやつだったかというと、ぜんぜんそんなことはなく、
ただ いまおもえば 大人になったときに名字が「勝手」では
あんまりいい印象をあたえないのでは、と想像する。
おぼえてもらいやすいかもしれないけど、
「ほら あのわがままなひと」みたいに
まちがっておぼえられるのなら、印象がうすいほうがまだましだ。
もうひとつ「勝手」でおもいだされるのが『幸福の黄色いハンカチ』だ。
おれみたいなやつをまってないで、
ほかの男と結婚しろ、と強引に離婚届を奥さんにおしつける健さん。
奥さんである倍賞千恵子がなみだながらにいったのが
「あんたって、勝手なひとだねー」なのだ(うろおぼえ)。
「勝手」といった場合、けしてほめてはないけど、
ひとの迷惑をかえりみず、というほどきつくとがめてはないようにおもう。
わたしが「勝手」にひかれるのは、「勝手」と「自由」がよくにているからかもしれない。
「勝手」を「自由」におきかえても、たいして意味はかわらないくらいよくにている。
「自由」はネガティブに、「勝手」はポジティブに
自分のやりたいことを主張しているのであって、
「勝手」も「自由」もだいたいいっしょ、と外国人に説明しても それほどまちがいではない。
「勝手に」のニュアンスをいろいろ説明しようとしたけど、
けっきょく「デイリーポータルZ」の企画よりわかりやすい「勝手に」をおもいつかなかった。
・「勝手にたべほうだい」
(お店が「たべほうだい」の設定をしてなくても、
勝手に満腹になるまでたべれば
それが自分の「たべほうだい」だ)
・「勝手に応援歌」
(どこからも依頼されてないけど、勝手に応援歌をつくる)
すべての権威や標準や前例や相手の都合とは関係なしに、
やりたければただ「勝手に」やればいいし、たいていのことは「勝手に」できると、
「デイリーポータルZ」はあたらしいもののみかたをおしえてくれた。
主催者がいくらきばってみても、
「勝手に」やるひとをとめることはできない。
勝手にやるひとは、本質的に自由だ。
「勝手にたべほうだい」
「勝手に応援歌」
あ、「デイリーポータルZ」がらみだけか。
いや そんなことはない。ちょっとまえに「勝手連」があったし、
ふるくは「勝手にシンドバッド」が有名だ。
そうあたらしいことばではないのはたしかだけど、
それがまた 復活してきた。
「本の雑誌」の杉江さんが「炎の営業日誌」で
宮田珠己さんの『日本全国津々うりゃうりゃ』のことを
「宮田珠己が勝手に注目する日本各地の(観光)スポットを旅するエッセイ」
と紹介しているから(2012年3月23日)、
「勝手に」はそのころすでにでまわっていたようだ。
ふるくからあった、といいながら、
2012年のはなしをもちだすのは、
ことばとしての「勝手に」はまえからつかわれていたとしても、
いまとむかしでは、意味するところがすこしちがってくるからだ。
ここでいう「勝手に」はまわりからの評価に関係なく、
もちろん依頼されたわけでもなく、
完全に個人的な関心からうごくときの「勝手に」であり、
「勝手」がこうした意味をもったのはそうふるいことではない。
ギアでいえば、まえでもうしろでもなく、ニュートラルにある状態。
善悪は関係なくて、ただ自分がなにをしたいかだけが頭にある。
この「勝手に」こそ、
いまという時代のおもしろさをあらわすキーワードではないかと
おもえてきた。「勝手に」だけど。
わたしが小学校のときに「勝手(かって)」という名字の同級生がいた。
そいつがすごく勝手なやつだったかというと、ぜんぜんそんなことはなく、
ただ いまおもえば 大人になったときに名字が「勝手」では
あんまりいい印象をあたえないのでは、と想像する。
おぼえてもらいやすいかもしれないけど、
「ほら あのわがままなひと」みたいに
まちがっておぼえられるのなら、印象がうすいほうがまだましだ。
もうひとつ「勝手」でおもいだされるのが『幸福の黄色いハンカチ』だ。
おれみたいなやつをまってないで、
ほかの男と結婚しろ、と強引に離婚届を奥さんにおしつける健さん。
奥さんである倍賞千恵子がなみだながらにいったのが
「あんたって、勝手なひとだねー」なのだ(うろおぼえ)。
「勝手」といった場合、けしてほめてはないけど、
ひとの迷惑をかえりみず、というほどきつくとがめてはないようにおもう。
わたしが「勝手」にひかれるのは、「勝手」と「自由」がよくにているからかもしれない。
「勝手」を「自由」におきかえても、たいして意味はかわらないくらいよくにている。
「自由」はネガティブに、「勝手」はポジティブに
自分のやりたいことを主張しているのであって、
「勝手」も「自由」もだいたいいっしょ、と外国人に説明しても それほどまちがいではない。
「勝手に」のニュアンスをいろいろ説明しようとしたけど、
けっきょく「デイリーポータルZ」の企画よりわかりやすい「勝手に」をおもいつかなかった。
・「勝手にたべほうだい」
(お店が「たべほうだい」の設定をしてなくても、
勝手に満腹になるまでたべれば
それが自分の「たべほうだい」だ)
・「勝手に応援歌」
(どこからも依頼されてないけど、勝手に応援歌をつくる)
すべての権威や標準や前例や相手の都合とは関係なしに、
やりたければただ「勝手に」やればいいし、たいていのことは「勝手に」できると、
「デイリーポータルZ」はあたらしいもののみかたをおしえてくれた。
主催者がいくらきばってみても、
「勝手に」やるひとをとめることはできない。
勝手にやるひとは、本質的に自由だ。
2014年10月05日
『私たちがプロポーズされないのには、101の理由があってだな』 (ジェーン=スー)
『私たちがプロポーズされないのには、101の理由があってだな』
(ジェーン=スー・ポプラ社)
『貴様いつまで女子でいるつもりだ問題』につづき、
2冊目となるジェーン=スーさんの本だ。
出版はこちらのほうがさきで、テイストはだいたいいっしょ。
未婚のプロとしての発言だ。
「はじめに」で、はっきりとこう おことわりしてある。
「この本は結婚できるようになるハウツー本ではございません。
どちらかと言えば、『ここに書いてあることをやり続けていると
私たちのような未婚のプロになるぞ!』という警告書です」
「この本は、結婚を奨励しているわけでも、
結婚してない方を筆者未婚のまま責めているわけでもありません。
101の理由を読んで、ご自身に思い当たるフシがあるならば、
反面教師にしていただくもよし、
独身をとことん楽しんでやると腹を括っていただくもよし。
未婚のプロ予備軍の方々に、笑って楽しんで頂けたら本望です」
101の理由は、ジェーン=スーさんが
未婚友だちとファミレスでもりあがっていたときに、
誰かが「プロポーズされない理由を考えて、ここで書き出してみよう!」
といいだしたのがきっかけという。
「さんざん盛り上がった小一時間、
『私たちがプロポーズされない理由』リストは
優に100を超えていました。
そのリストをみんなで回し見しながら
『こりゃ〜できるわけがない!』とゲラゲラ笑って
フゥーとおおきくため息をついた夜。
あの虚無感はなかなかのものでした・・・。」
この本のコンセプトは、
「さぁ、世界一役に立たない結婚指南書である本書を手に、
あなたも私たちと一緒に独身チキンレースに参加しませんか?」だ。
ひとつの理由もみおとさないよう、目次からていねいによんでいく。
・彼が連れて行ってくれるレストランで、
必ず空調や店員の態度にケチをつける。
・彼の方が稼ぎが少ないことをあなたはなんとも思っていないが、
買い物に行くとあなただけ大人買いをする。
・彼を、元彼と比べて寸評したことがある。
・女子力が高まりすぎている。
それぞれの項目に、具体的な解説がそえてある。
「女が『プロポーズ、OKするから大丈夫だよ!』と、
キャッチャーミットをわかりやすく出しておかないと、
球がミットに収まることはない」(039)
「彼氏が身を置いている環境の常識=彼氏の常識です」(047)
ゆたかな失敗の経験がいかされた珠玉のアドバイス集というべきか。
101も理由があるときけば、
わたしなんかがよく結婚できたものだと幸運に感謝したくなるけど、
これらは女性にとっておもいあたる理由であり、
男のわたしが なにかをあらためなければならないのではない。
あーよかった、と、おもわせておいて、じつは手ばなしで安心できない。
そんなめんどくさい男なら、無理してプロポーズをもとめなくても、
という本音がみえかくれしているからで、
「(それぐらいで)いちいち不機嫌になるような男だったら、
次行きましょう、次!」
というのが本書の基本方針なのだ。
そして、よんでいるうちに どの項目もさほど胸にとどかないことに気づく。
理由なんていくらでもつくれるから、
それが理由だとおもえば それが理由になるのだ。
ここにあげてある項目が原因というより、
「あとがきにかえて」にあるように、けっきょくは
「自分が大好きで、自分が大切で、
人生の舵はなにがなんでも、自分で取りたい」からだろう。
ことばのあそびをたのしむ本であり、
あーおもしろかった、でとどめたほうがいい。
あんまり本気でつきあうと、肩すかしをくう。
101のリストのあとに、
「楽しすぎる独身生活を手放せない私が、
嫁にいけないその他3つの理由」という
べつだての章がもうけられている。
1 「男のプライド」問題
2 「男の特性わからん」問題
3 「結婚、二の次」問題
など、101の理由をさらに10のカテゴリーに分類し、分析される。
きれいに分類されて 問題を整理できるかと期待していると、
すっきりしてるのは本人だけで、
わたしは なんどくりかえしよんでも 意味がわからなかった。
この章がなければ、101も理由があってたいへんだったねー、ですむし、
さいごの「あとがきにかえて」がきれいなまとめになっているのに、
このべつだての章がわたしには意味不明だった。
気がるなエッセイかとおもってたら、
きゅうにフェミニズムの視線から分析がはいったようなかんじ。
よくかんがえてみると、
男のわたしがこの本をよむ理由はなんだろう。
女性の側からみた101の理由であっても、
男のほうがしっていてわるいわけではないので、
もしかしてあるかもしれない 2どめのプロポーズにいかせるかもしれない。
とはいえ、わたしもまた101くらいはプロポーズできない理由がありそうなので、
本書が結婚の指南書にならないのとおなじくらい
わたしの2どめもわずかな可能性しかないだろう。
とちゅうまでおもしろくよんでいたのに、
さいごになって理解できないかったのは残念だった。
わたしはジェーン=スーさんがいっていることを、
ほんとうはぜんぜんわかっていないような気がして ひっかかっている。
(ジェーン=スー・ポプラ社)
『貴様いつまで女子でいるつもりだ問題』につづき、
2冊目となるジェーン=スーさんの本だ。
出版はこちらのほうがさきで、テイストはだいたいいっしょ。
未婚のプロとしての発言だ。
「はじめに」で、はっきりとこう おことわりしてある。
「この本は結婚できるようになるハウツー本ではございません。
どちらかと言えば、『ここに書いてあることをやり続けていると
私たちのような未婚のプロになるぞ!』という警告書です」
「この本は、結婚を奨励しているわけでも、
結婚してない方を筆者未婚のまま責めているわけでもありません。
101の理由を読んで、ご自身に思い当たるフシがあるならば、
反面教師にしていただくもよし、
独身をとことん楽しんでやると腹を括っていただくもよし。
未婚のプロ予備軍の方々に、笑って楽しんで頂けたら本望です」
101の理由は、ジェーン=スーさんが
未婚友だちとファミレスでもりあがっていたときに、
誰かが「プロポーズされない理由を考えて、ここで書き出してみよう!」
といいだしたのがきっかけという。
「さんざん盛り上がった小一時間、
『私たちがプロポーズされない理由』リストは
優に100を超えていました。
そのリストをみんなで回し見しながら
『こりゃ〜できるわけがない!』とゲラゲラ笑って
フゥーとおおきくため息をついた夜。
あの虚無感はなかなかのものでした・・・。」
この本のコンセプトは、
「さぁ、世界一役に立たない結婚指南書である本書を手に、
あなたも私たちと一緒に独身チキンレースに参加しませんか?」だ。
ひとつの理由もみおとさないよう、目次からていねいによんでいく。
・彼が連れて行ってくれるレストランで、
必ず空調や店員の態度にケチをつける。
・彼の方が稼ぎが少ないことをあなたはなんとも思っていないが、
買い物に行くとあなただけ大人買いをする。
・彼を、元彼と比べて寸評したことがある。
・女子力が高まりすぎている。
それぞれの項目に、具体的な解説がそえてある。
「女が『プロポーズ、OKするから大丈夫だよ!』と、
キャッチャーミットをわかりやすく出しておかないと、
球がミットに収まることはない」(039)
「彼氏が身を置いている環境の常識=彼氏の常識です」(047)
ゆたかな失敗の経験がいかされた珠玉のアドバイス集というべきか。
101も理由があるときけば、
わたしなんかがよく結婚できたものだと幸運に感謝したくなるけど、
これらは女性にとっておもいあたる理由であり、
男のわたしが なにかをあらためなければならないのではない。
あーよかった、と、おもわせておいて、じつは手ばなしで安心できない。
そんなめんどくさい男なら、無理してプロポーズをもとめなくても、
という本音がみえかくれしているからで、
「(それぐらいで)いちいち不機嫌になるような男だったら、
次行きましょう、次!」
というのが本書の基本方針なのだ。
そして、よんでいるうちに どの項目もさほど胸にとどかないことに気づく。
理由なんていくらでもつくれるから、
それが理由だとおもえば それが理由になるのだ。
ここにあげてある項目が原因というより、
「あとがきにかえて」にあるように、けっきょくは
「自分が大好きで、自分が大切で、
人生の舵はなにがなんでも、自分で取りたい」からだろう。
ことばのあそびをたのしむ本であり、
あーおもしろかった、でとどめたほうがいい。
あんまり本気でつきあうと、肩すかしをくう。
101のリストのあとに、
「楽しすぎる独身生活を手放せない私が、
嫁にいけないその他3つの理由」という
べつだての章がもうけられている。
1 「男のプライド」問題
2 「男の特性わからん」問題
3 「結婚、二の次」問題
など、101の理由をさらに10のカテゴリーに分類し、分析される。
きれいに分類されて 問題を整理できるかと期待していると、
すっきりしてるのは本人だけで、
わたしは なんどくりかえしよんでも 意味がわからなかった。
この章がなければ、101も理由があってたいへんだったねー、ですむし、
さいごの「あとがきにかえて」がきれいなまとめになっているのに、
このべつだての章がわたしには意味不明だった。
気がるなエッセイかとおもってたら、
きゅうにフェミニズムの視線から分析がはいったようなかんじ。
よくかんがえてみると、
男のわたしがこの本をよむ理由はなんだろう。
女性の側からみた101の理由であっても、
男のほうがしっていてわるいわけではないので、
もしかしてあるかもしれない 2どめのプロポーズにいかせるかもしれない。
とはいえ、わたしもまた101くらいはプロポーズできない理由がありそうなので、
本書が結婚の指南書にならないのとおなじくらい
わたしの2どめもわずかな可能性しかないだろう。
とちゅうまでおもしろくよんでいたのに、
さいごになって理解できないかったのは残念だった。
わたしはジェーン=スーさんがいっていることを、
ほんとうはぜんぜんわかっていないような気がして ひっかかっている。
2014年10月04日
ロコモシンドロームのチェックテストが かなりきびしかったこと
このごろあるくのがたのしくて、
ちかくのスーパーに 自転車ではなく
あるいてでかけるようになっている。
ためしにどれくらいあるけるか はかってみようと、
きょうはちょっとながめのおでかけにしてみた。
DVDをかりにゆき、そのあとすこしとおくのスーパーでかいものをする。
52分。歩数でいると、5000歩くらいだろう。
意外とたいしたことない。
気もちよくあるけたけど、いちにちに1万歩というのが
どれだけたいへんかが すこしだけわかった。
けさの朝日新聞be版に、ロコモティブシンドロームがとりあげられていた。
「骨や関節、筋肉といった体を動かす『運動器』がうまく働かず、
しまいには動けなくなる」ことをいうそうだ。
きいたことはあったけど、
バランスがわるいとか、極端に筋力がなくてうごけないなど、
「ねたりきり」を心配する高齢者だけの問題かとおもっていたら、
わかいころから気をつけてないと、
はやくから介護が必要なからだになるという。
記事にはチェック表がのっており、
40〜60代なら40センチの台から片足でたちあがれないといけない。
もちろんわたしはできるだろうと、ためしてみたら、ギリギリだった。
とくに左足がよわいようで、表情がかわるぐらいちからをいれて
なんとかたてる、というレベルだ。
60代後半になったとき、いまの筋力が維持できているとは とてもおもえない。
いつも はしったり およいだりしているわたしが、
ロコモのチェックにつまずくなんて がっくりくるし、納得がいかない。
きびしすぎるチェック項目ではないのかと 苦情をいいたくなるし、
ランナーとしてのほこりがキズつけられた。
くやしいので、なんどもくりかえすうちに コツがつかめてくる。
あんがいかんたんにたてるようになったけど、
こういうのは「実力」とはいわないだろう。
「わかいうちからの予防」は、まさにわたしにむけられたことばとうけとめよう。
もうひとつのチェックテストに「2ステップ測定」があり、
これはできるだけおおまたで2歩すすみ、
その合計を身長でわった数字を参考にする。
これもわたしはやってみたけど、やっと平均という数値でしかなかった。
ほんとにこれはロコモ度をはかるテストなのか。
英才教育にむけ、才能のあるわかものを選別しているのではないかとおもえるほど
わたしには無念さをかんじてしまう結果だった。
とくに片足でのたちあがりは、くりかえすうちに
ヒザがマヒしてきたようにちからがはいらなくなり、
筋力がないとはこういう状態をいうのかと
自称トレーニングずき人間としては ショックがおおきかった。
職場のスタッフに、医者から運動をすすめられたひとがいて、
どんなやり方があるかいっしょにかんがえたことがあるけど、
これまで運動の習慣がなかったひとに
魅力的なとりくみは なかなかおもいつかない。
都会なら ひと駅まえで電車をおりてあるく、なんてよくきくけど、
地方都市では自動車による移動がほぼ唯一の手段となる。
運動としておもいつくのは、はやおきや 仕事のあとで時間をつくり、近所を散歩するくらいか。
記事にある「働き盛り世代は、運動をする時間を確保するのが難しいのが実情です」は、
まさにそのとおりで、
仕事熱心なひとほど運動量がすくなくて、
生活習慣にとりいれにくく、したがってからだをこわしやすい。
自分のからだなのだから、自分でまもるしかないとはいえ、
やすみの日にたっぷりあるいたつもりで52分なのだから、
いちにち1万歩など、よほどの計画性とやる気が必要だ。
こんどロコモ度チェックテストをやってもらい、
ショックから運動への意欲をかきたててもらおうか。
きっとこのロコモのチェックテストは、これからもロコモ度のめやすとして
おこなわれていくだろう。
だれがかんがえたのかしらないが、
たしかに筋力とバランス力をあぶりだす わかりやすいテストだ。
わたしは片足たちと2ステップ測定の練習を地道につづけ、
ちゃっかりこのテストに特化した能力をたかめようとおもう。
70歳になったとき、片足で40センチの台から笑顔でたちあがり、
2ステップ歩行も、おおまたながらきれいなフォームできめる。
超70歳レベルの老人として測定者をおどろかせたい。
それにしても、ひごろのトレーニング効果は
いったいどこにきえてしまうのだろう。
いまのトレーニングに さらにアンチロコモ運動がくわわると、
「やらなければならない運動」がどんどんふえてゆき、
おもいえがいていた しずかでおだやかな老後への道とは、
まるでちがったものになる。
知的な能力は いまのレベルをうけいれられても、
運動能力となると 意地をはりたくなるのは なぜだろう。
ちかくのスーパーに 自転車ではなく
あるいてでかけるようになっている。
ためしにどれくらいあるけるか はかってみようと、
きょうはちょっとながめのおでかけにしてみた。
DVDをかりにゆき、そのあとすこしとおくのスーパーでかいものをする。
52分。歩数でいると、5000歩くらいだろう。
意外とたいしたことない。
気もちよくあるけたけど、いちにちに1万歩というのが
どれだけたいへんかが すこしだけわかった。
けさの朝日新聞be版に、ロコモティブシンドロームがとりあげられていた。
「骨や関節、筋肉といった体を動かす『運動器』がうまく働かず、
しまいには動けなくなる」ことをいうそうだ。
きいたことはあったけど、
バランスがわるいとか、極端に筋力がなくてうごけないなど、
「ねたりきり」を心配する高齢者だけの問題かとおもっていたら、
わかいころから気をつけてないと、
はやくから介護が必要なからだになるという。
記事にはチェック表がのっており、
40〜60代なら40センチの台から片足でたちあがれないといけない。
もちろんわたしはできるだろうと、ためしてみたら、ギリギリだった。
とくに左足がよわいようで、表情がかわるぐらいちからをいれて
なんとかたてる、というレベルだ。
60代後半になったとき、いまの筋力が維持できているとは とてもおもえない。
いつも はしったり およいだりしているわたしが、
ロコモのチェックにつまずくなんて がっくりくるし、納得がいかない。
きびしすぎるチェック項目ではないのかと 苦情をいいたくなるし、
ランナーとしてのほこりがキズつけられた。
くやしいので、なんどもくりかえすうちに コツがつかめてくる。
あんがいかんたんにたてるようになったけど、
こういうのは「実力」とはいわないだろう。
「わかいうちからの予防」は、まさにわたしにむけられたことばとうけとめよう。
もうひとつのチェックテストに「2ステップ測定」があり、
これはできるだけおおまたで2歩すすみ、
その合計を身長でわった数字を参考にする。
これもわたしはやってみたけど、やっと平均という数値でしかなかった。
ほんとにこれはロコモ度をはかるテストなのか。
英才教育にむけ、才能のあるわかものを選別しているのではないかとおもえるほど
わたしには無念さをかんじてしまう結果だった。
とくに片足でのたちあがりは、くりかえすうちに
ヒザがマヒしてきたようにちからがはいらなくなり、
筋力がないとはこういう状態をいうのかと
自称トレーニングずき人間としては ショックがおおきかった。
職場のスタッフに、医者から運動をすすめられたひとがいて、
どんなやり方があるかいっしょにかんがえたことがあるけど、
これまで運動の習慣がなかったひとに
魅力的なとりくみは なかなかおもいつかない。
都会なら ひと駅まえで電車をおりてあるく、なんてよくきくけど、
地方都市では自動車による移動がほぼ唯一の手段となる。
運動としておもいつくのは、はやおきや 仕事のあとで時間をつくり、近所を散歩するくらいか。
記事にある「働き盛り世代は、運動をする時間を確保するのが難しいのが実情です」は、
まさにそのとおりで、
仕事熱心なひとほど運動量がすくなくて、
生活習慣にとりいれにくく、したがってからだをこわしやすい。
自分のからだなのだから、自分でまもるしかないとはいえ、
やすみの日にたっぷりあるいたつもりで52分なのだから、
いちにち1万歩など、よほどの計画性とやる気が必要だ。
こんどロコモ度チェックテストをやってもらい、
ショックから運動への意欲をかきたててもらおうか。
きっとこのロコモのチェックテストは、これからもロコモ度のめやすとして
おこなわれていくだろう。
だれがかんがえたのかしらないが、
たしかに筋力とバランス力をあぶりだす わかりやすいテストだ。
わたしは片足たちと2ステップ測定の練習を地道につづけ、
ちゃっかりこのテストに特化した能力をたかめようとおもう。
70歳になったとき、片足で40センチの台から笑顔でたちあがり、
2ステップ歩行も、おおまたながらきれいなフォームできめる。
超70歳レベルの老人として測定者をおどろかせたい。
それにしても、ひごろのトレーニング効果は
いったいどこにきえてしまうのだろう。
いまのトレーニングに さらにアンチロコモ運動がくわわると、
「やらなければならない運動」がどんどんふえてゆき、
おもいえがいていた しずかでおだやかな老後への道とは、
まるでちがったものになる。
知的な能力は いまのレベルをうけいれられても、
運動能力となると 意地をはりたくなるのは なぜだろう。
2014年10月03日
「101の理由があってね」と「101の理由があってだな」のあいだによこたわるふかい谷
アマゾンに注文していた
『私たちがプロポーズされないのには、101の理由があってだな』
(ジェーン=スー・ポプラ社)がとどく。
とどいたことをパソコンの日記にかきこむとき、うっかり
「101の理由があってね」とうちこんでいた。
「あってね」だと ぜんぜんかんじがちがってくる。
すごくかわいい。プロポーズしたくなるくらいかわいい。
「101の理由があるんだ」でも
わたしとしてはわるくない。
ひるがえって、「101の理由があってだな」なんていう女性には、
あまりちかづかないほうがいいよう気がする。
この本が主張する「理由」をつたえるためには、
当然ながら「だな」でなければならなかったわけで、
日本語のゆたかな表現力におどろかされる
(「そんなにびっくりしなさんな」とジェーン=スーさんはいうけれど)。
柴田元幸さんの『佐藤君と柴田くん』(新潮文庫)に、
『タッチ』のことばづかいが分析されていた。
「足の爪を切っている達也に向かって
『ああ、下手クソだなァ。かして。南が切ってあげる。・・・気持ちいいでしょ?』
これが、青春フェミニン体。
『下手くそね。南が切ってあげるわ』
では、二人の関係が全然ちがってしまう」
日本語ならではのビミョーなニュアンスに感心するいっぽう、
では、外国語だとそこらへんをどうあつかっているのかが
しりたくなってくる。
日本語にあるくらいだから、
外国語でもことばづかいによって
ちがうニュアンスをつたえるとかんがえたほうが自然だろう。
わたしたちがよんでいる翻訳された本は、そうした全体の雰囲気が
できるだけ日本の読者につたわるよう 配慮された日本語になっているはずだ。
たとえばライ麦のホールデンくんがはなすホールデン語は、
原文を日本語にうつすときに、ホールデンくんの雰囲気がつたわるよう
野崎孝さん、そして村上春樹さんが工夫されている。
これまで翻訳本にジェーン=スーさんのような文体がなかったのは、
世界的にあまり例のないはなし方だからかもしれない。
アラフォーの独身女性は世界的にテリトリーをひろげているはずで、
そのなかで日本語の本が先頭をきったのは自慢できる。
外国人にジェーン=スー語のニュアンスをつたえるとき、
たとえば日本語教室で、
「101の理由があってだな」はこんな意味あいをふくんでいて、それが
「101の理由があってね」だとカクカクシカジカなんです、と
説明できるだろうか。
ここらへんにくると、外国語についてのセンスよりも、
アラフォー女子、しかも未婚のプロという種族への理解がもとめられてきそうだ。
そうかんがえると『SEX AND THE CITY』にでてくる4人グループは、
ジェーン=スーさんみたいなことばをはなしていたのかもしれない。
もちろん かきことばとはなしことばは いっしょではなく、
「理由があってだな」なんて 女性が口にしないことは
いくらわたしでもしっているけれど、
そうはいっても 未婚のプロのアラフォーが、
ほかの女性とおなじことばをしゃべるわけがない。
国籍よりも生態系によって ことばづかいは独自の発展をみせるはずだ
(あくまでも気がするだけです)。
もういちど日本語教室のはなしにもどると、
上級者になれば 自分ではつかわなくても、
いわれたとき、あるいはよんだときに そのニュアンスを理解できなければならず、
教室の先生がどれだけ適切な説明をしているのか しりたくなってくる。
ジェーン=スー語は、日本語としてこれまでなかったわけではないけれど、
アラフォーの女性が口にすることばではなかった。
つかう側の性別や年齢がちがってくると、
ことばの意味もまた もともとあったところからはなれてくる。
女性がはなす「理由があってだな」は、
アラフォー女子の、しかも未婚のプロと、
条件をすごく限定することで 生きかえった文体である。
「ふるきをたずねて あたらしきをしる」とは
こういうことをいうのだ
(たぶんちがってるけど)。
『私たちがプロポーズされないのには、101の理由があってだな』
(ジェーン=スー・ポプラ社)がとどく。
とどいたことをパソコンの日記にかきこむとき、うっかり
「101の理由があってね」とうちこんでいた。
「あってね」だと ぜんぜんかんじがちがってくる。
すごくかわいい。プロポーズしたくなるくらいかわいい。
「101の理由があるんだ」でも
わたしとしてはわるくない。
ひるがえって、「101の理由があってだな」なんていう女性には、
あまりちかづかないほうがいいよう気がする。
この本が主張する「理由」をつたえるためには、
当然ながら「だな」でなければならなかったわけで、
日本語のゆたかな表現力におどろかされる
(「そんなにびっくりしなさんな」とジェーン=スーさんはいうけれど)。
柴田元幸さんの『佐藤君と柴田くん』(新潮文庫)に、
『タッチ』のことばづかいが分析されていた。
「足の爪を切っている達也に向かって
『ああ、下手クソだなァ。かして。南が切ってあげる。・・・気持ちいいでしょ?』
これが、青春フェミニン体。
『下手くそね。南が切ってあげるわ』
では、二人の関係が全然ちがってしまう」
日本語ならではのビミョーなニュアンスに感心するいっぽう、
では、外国語だとそこらへんをどうあつかっているのかが
しりたくなってくる。
日本語にあるくらいだから、
外国語でもことばづかいによって
ちがうニュアンスをつたえるとかんがえたほうが自然だろう。
わたしたちがよんでいる翻訳された本は、そうした全体の雰囲気が
できるだけ日本の読者につたわるよう 配慮された日本語になっているはずだ。
たとえばライ麦のホールデンくんがはなすホールデン語は、
原文を日本語にうつすときに、ホールデンくんの雰囲気がつたわるよう
野崎孝さん、そして村上春樹さんが工夫されている。
これまで翻訳本にジェーン=スーさんのような文体がなかったのは、
世界的にあまり例のないはなし方だからかもしれない。
アラフォーの独身女性は世界的にテリトリーをひろげているはずで、
そのなかで日本語の本が先頭をきったのは自慢できる。
外国人にジェーン=スー語のニュアンスをつたえるとき、
たとえば日本語教室で、
「101の理由があってだな」はこんな意味あいをふくんでいて、それが
「101の理由があってね」だとカクカクシカジカなんです、と
説明できるだろうか。
ここらへんにくると、外国語についてのセンスよりも、
アラフォー女子、しかも未婚のプロという種族への理解がもとめられてきそうだ。
そうかんがえると『SEX AND THE CITY』にでてくる4人グループは、
ジェーン=スーさんみたいなことばをはなしていたのかもしれない。
もちろん かきことばとはなしことばは いっしょではなく、
「理由があってだな」なんて 女性が口にしないことは
いくらわたしでもしっているけれど、
そうはいっても 未婚のプロのアラフォーが、
ほかの女性とおなじことばをしゃべるわけがない。
国籍よりも生態系によって ことばづかいは独自の発展をみせるはずだ
(あくまでも気がするだけです)。
もういちど日本語教室のはなしにもどると、
上級者になれば 自分ではつかわなくても、
いわれたとき、あるいはよんだときに そのニュアンスを理解できなければならず、
教室の先生がどれだけ適切な説明をしているのか しりたくなってくる。
ジェーン=スー語は、日本語としてこれまでなかったわけではないけれど、
アラフォーの女性が口にすることばではなかった。
つかう側の性別や年齢がちがってくると、
ことばの意味もまた もともとあったところからはなれてくる。
女性がはなす「理由があってだな」は、
アラフォー女子の、しかも未婚のプロと、
条件をすごく限定することで 生きかえった文体である。
「ふるきをたずねて あたらしきをしる」とは
こういうことをいうのだ
(たぶんちがってるけど)。
2014年10月02日
俵かつぎリレーで目ざめた 能力のいかし方
アジア大会の陸上をみていると、
日本選手もトラック競技で上位にくいこむ成績をのこしている。
このレベルの大会、というと失礼だけど、
世界大会よりいちだんひくいレベルだと、
日本人でもまだ通用するのだ。
筋肉にはスピードをだすときにつかう速筋と、
持久的なちからをだす遅筋にわけることができるそうで、
その比率はあるていど生まれもってきまっているという。
だからオリンピックの100メートル決勝では、
黒人選手がおおくのこっているし、
距離がみじかいほど日本人には苦手な種目となる。
速筋は、1分以上になると無酸素状態でうごけないといい、
それからいえば400メートルまでが短距離で、
5000メートル以上が長距離、
そのあいだが中距離というわけかたになる。
中距離は、有酸素運動と無酸素運動の両方がふくまれるため、
いちばん過酷な競技と一般的にいわれている。
わたしは、その中距離が専門だった。
陸上ではなく水泳の、そして平およぎのはなしだ。
200メートル平およぎは競技時間でいうと2分30秒〜3分なので、
陸上でいえば1500メートルにあたるから、
中距離といっても あながちおおげさではない。
200メートルが専門というのもほんとうで、
100メートルよりも きまって200メートルの順位がよかった。
このごろの幼稚園や学校では、
勝敗をはっきりきめるのをさけるために、
順位がつかない「競争」になるよう、
運動会などで「配慮」されているときいたことがある。
わたしが小学校のころは、短距離がおそい子(わたしのことだ)は
1年生から6年生まで、運動会の順位がほぼきまっていた。
背の順番だったり、出席番号順だったりしても、
おそい子は、いつもまちがいなくおそい。
練習や努力によってどうにもならないものを、
何年もおなじようにつづけるのは、
なんという無神経かと 子どもながらにおもった。
わたしは、運動はとくいでも、短距離がおそく、
ひとことでいえばノロマな子どもだった。
わたしは高校のとき農業高校にかよっており、
そこでの運動会は、農業高校らしく「俵かつぎ」があった。
30キロほどのおもい俵を 200メートルずつのリレーではこぶ。
小・中学校の運動会でおこなわれる徒競走で、
ずっとかなしいおもいをしてきたわたしは、
この「俵かつぎ」でもはしるまえから
「どうせオレなんか」といじけた気もちで順番をまっていた。
それが、いざ俵をかついではしりだすと、
となりの走者においていかれないばかりか、ジリジリと順位をあげて、
まるで水泳の大会みたいに ぬきつぬかれつの レース展開ができた。
中距離で、しかも俵をかつぐという特殊な状況は、
わたしの能力を発揮するのにいちばん適していたのだろう。
はしる競争でいいおもいができたのは、
わたしの生涯でこのときだけだ。
教訓はこうだ。
自分の専門をしり、そのフィールドを仕事にえらべば、
そしてさらに、俵をかつぐような自分に有利なルールをもちこめば、
不得意とおもっていたジャンルでも そこそこの活躍ができる。
よく、すきなことを仕事にするのではなく、
得意なことを仕事にしろ、というけれど、
得意なこと(自分の専門=自分のつよみ)をもっといかすために
もうひとつべつの条件をくみあわせたら 勝負にもちこみやすい。
かてるケンカしかしない、とは、すこしちがう。
ただの徒競走ではノロマで万年ビリたったわたしが、
中距離で、俵をかつぐというルールのもとでは
エースになりうる。
だいじなのは、なにかをくみあわせて
自分に得意な条件をつくることだ。
すでにあるものとのくみあわせ、という意味では、
アイデアとよくにている。
かけっこで、となりの走者にまけないというのは、
わたしにとって不思議な、感動的な体験だった。
ただこれは、本当に自分の専門かどうかを確認したほうがいい。
何年も競技をはなれ、もうすっかり能力がさびついてしまっているのに、
自分だけがまだ「専門」とおもっているのかもしれない。
たとえば、わたしはもう中距離の専門ではなく、
水泳だろうが陸上だろうが、競技時間が3分以上でも以下でも、
ひと目をひくような活躍はできない。
よほど自分にしかできない特殊な「なにか」をみつけないうちは
ひとと競争しようなどと おもわないほうがいいだろう。
自分のよさは自分でわからないもので、
「200メートル」「俵かつぎ」みたいな条件は、
よほど冷静な観察者でないと みつけにくい。
ひとからのアドバイスにも きく耳をもち、
なにかをくみあわせて得意な条件をみつけられたら、
あんがいかんたんにレースがつくれるのではないか。
日本選手もトラック競技で上位にくいこむ成績をのこしている。
このレベルの大会、というと失礼だけど、
世界大会よりいちだんひくいレベルだと、
日本人でもまだ通用するのだ。
筋肉にはスピードをだすときにつかう速筋と、
持久的なちからをだす遅筋にわけることができるそうで、
その比率はあるていど生まれもってきまっているという。
だからオリンピックの100メートル決勝では、
黒人選手がおおくのこっているし、
距離がみじかいほど日本人には苦手な種目となる。
速筋は、1分以上になると無酸素状態でうごけないといい、
それからいえば400メートルまでが短距離で、
5000メートル以上が長距離、
そのあいだが中距離というわけかたになる。
中距離は、有酸素運動と無酸素運動の両方がふくまれるため、
いちばん過酷な競技と一般的にいわれている。
わたしは、その中距離が専門だった。
陸上ではなく水泳の、そして平およぎのはなしだ。
200メートル平およぎは競技時間でいうと2分30秒〜3分なので、
陸上でいえば1500メートルにあたるから、
中距離といっても あながちおおげさではない。
200メートルが専門というのもほんとうで、
100メートルよりも きまって200メートルの順位がよかった。
このごろの幼稚園や学校では、
勝敗をはっきりきめるのをさけるために、
順位がつかない「競争」になるよう、
運動会などで「配慮」されているときいたことがある。
わたしが小学校のころは、短距離がおそい子(わたしのことだ)は
1年生から6年生まで、運動会の順位がほぼきまっていた。
背の順番だったり、出席番号順だったりしても、
おそい子は、いつもまちがいなくおそい。
練習や努力によってどうにもならないものを、
何年もおなじようにつづけるのは、
なんという無神経かと 子どもながらにおもった。
わたしは、運動はとくいでも、短距離がおそく、
ひとことでいえばノロマな子どもだった。
わたしは高校のとき農業高校にかよっており、
そこでの運動会は、農業高校らしく「俵かつぎ」があった。
30キロほどのおもい俵を 200メートルずつのリレーではこぶ。
小・中学校の運動会でおこなわれる徒競走で、
ずっとかなしいおもいをしてきたわたしは、
この「俵かつぎ」でもはしるまえから
「どうせオレなんか」といじけた気もちで順番をまっていた。
それが、いざ俵をかついではしりだすと、
となりの走者においていかれないばかりか、ジリジリと順位をあげて、
まるで水泳の大会みたいに ぬきつぬかれつの レース展開ができた。
中距離で、しかも俵をかつぐという特殊な状況は、
わたしの能力を発揮するのにいちばん適していたのだろう。
はしる競争でいいおもいができたのは、
わたしの生涯でこのときだけだ。
教訓はこうだ。
自分の専門をしり、そのフィールドを仕事にえらべば、
そしてさらに、俵をかつぐような自分に有利なルールをもちこめば、
不得意とおもっていたジャンルでも そこそこの活躍ができる。
よく、すきなことを仕事にするのではなく、
得意なことを仕事にしろ、というけれど、
得意なこと(自分の専門=自分のつよみ)をもっといかすために
もうひとつべつの条件をくみあわせたら 勝負にもちこみやすい。
かてるケンカしかしない、とは、すこしちがう。
ただの徒競走ではノロマで万年ビリたったわたしが、
中距離で、俵をかつぐというルールのもとでは
エースになりうる。
だいじなのは、なにかをくみあわせて
自分に得意な条件をつくることだ。
すでにあるものとのくみあわせ、という意味では、
アイデアとよくにている。
かけっこで、となりの走者にまけないというのは、
わたしにとって不思議な、感動的な体験だった。
ただこれは、本当に自分の専門かどうかを確認したほうがいい。
何年も競技をはなれ、もうすっかり能力がさびついてしまっているのに、
自分だけがまだ「専門」とおもっているのかもしれない。
たとえば、わたしはもう中距離の専門ではなく、
水泳だろうが陸上だろうが、競技時間が3分以上でも以下でも、
ひと目をひくような活躍はできない。
よほど自分にしかできない特殊な「なにか」をみつけないうちは
ひとと競争しようなどと おもわないほうがいいだろう。
自分のよさは自分でわからないもので、
「200メートル」「俵かつぎ」みたいな条件は、
よほど冷静な観察者でないと みつけにくい。
ひとからのアドバイスにも きく耳をもち、
なにかをくみあわせて得意な条件をみつけられたら、
あんがいかんたんにレースがつくれるのではないか。
2014年10月01日
トレーダージョーズのトートバッグを注文する
きゅうにおもいついてトートバッグを注文する。
自転車でないときは、いつもトートバッグをもってでかけており、
そろそろあたらしいのがほしくなった。
いまつかっているのは14年まえにかったものだ。
いいかげんくたびれてきたし、致命的なのが
醤油のシミがついていることで、
あまりにも日常をアピールしてしまう。
そういいながら、研修会や旅行など、
リュックでない場面では いつもお世話になっているけど。
注文したのはアマゾンのカタログにのっていた
トレーダージョーズのものだ。
あらい綿製で、質実剛健タイプのエコバッグ。
おもっていたよりおおきくて、このなかに
これまでつかっていたのがらくにはいってしまう。
とっては肩にかけるとちょうどいいながさで、
底がひろいせいか、床においたときにへたれこまず、
ある程度じぶんでたっている。
「自立」とまではよべない、中途半端なたちかたで、
それがトートバッグにおいて どれだけ意味があるのかはわからないけど、
なんとなくがんばりをみとめたい気になる。
わたしがほしいもうひとつのカバンは、
13インチのマックブックエアーをいれるためだ。
わたしは自転車で移動することがほとんどで、
ノートパソコンをもちあるくことなどまずないし、
そもそも13インチのマックブックエアーをもってない。
もってないのにほしいのは、
あくまでもイメージだからだ。
細身のカバンにマックブックエアーと最小限の書類をいれ、
仕事さきで優雅にパソコンをとりだしすわたし。
そして、こういうふうにイメージが先行してのかいものは、
たいてい失敗することが これまでの経験からわかってきた。
必要にせまられて、よくかんがえずにかったもののほうが、
あとあとまで役にたっている。必要だからだろう。
なにかがほしくなり、それをあたまでいじくりまわすとよくないみたいだ。
必要だからかうのではなく、ほしいからかうのであり、
もっともらしい理由をさがしてるだけで、
けっきょくは必要ないのにかってしまう。
そして、こりずにおなじ失敗をくりかえすから 自分でもよくわからない。
そのものじたいは必要ないけど、かいものすることで
なにかがみたされたのだろう。
13インチのマックブックエアーでノマドするわたし、という
妄想の世界にはいらないうちに、
しばらくカバンの検索からとおざかろう。
肝心のトートバッグは、実物をみないでかったにもかかわらず、
おおむね気にいっている。
あんまりあたまのなかでいじくりまわさないうちに、
サッときめたからよかったのだとおもう。
しょせん「もの」であり、完璧なんてありえないので、
とどいた品にわたしがなじんでいけばいい。
たくさんものがはいるし、肩にかけてあるきやすい。
なにより醤油のシミがついてないので、
どんな場所にでももっていける。
L.L.Beanのものほど断固とした主張がなくて、わたしむきだとおもっている。
自転車でないときは、いつもトートバッグをもってでかけており、
そろそろあたらしいのがほしくなった。
いまつかっているのは14年まえにかったものだ。
いいかげんくたびれてきたし、致命的なのが
醤油のシミがついていることで、
あまりにも日常をアピールしてしまう。
そういいながら、研修会や旅行など、
リュックでない場面では いつもお世話になっているけど。
注文したのはアマゾンのカタログにのっていた
トレーダージョーズのものだ。
あらい綿製で、質実剛健タイプのエコバッグ。
おもっていたよりおおきくて、このなかに
これまでつかっていたのがらくにはいってしまう。
とっては肩にかけるとちょうどいいながさで、
底がひろいせいか、床においたときにへたれこまず、
ある程度じぶんでたっている。
「自立」とまではよべない、中途半端なたちかたで、
それがトートバッグにおいて どれだけ意味があるのかはわからないけど、
なんとなくがんばりをみとめたい気になる。
わたしがほしいもうひとつのカバンは、
13インチのマックブックエアーをいれるためだ。
わたしは自転車で移動することがほとんどで、
ノートパソコンをもちあるくことなどまずないし、
そもそも13インチのマックブックエアーをもってない。
もってないのにほしいのは、
あくまでもイメージだからだ。
細身のカバンにマックブックエアーと最小限の書類をいれ、
仕事さきで優雅にパソコンをとりだしすわたし。
そして、こういうふうにイメージが先行してのかいものは、
たいてい失敗することが これまでの経験からわかってきた。
必要にせまられて、よくかんがえずにかったもののほうが、
あとあとまで役にたっている。必要だからだろう。
なにかがほしくなり、それをあたまでいじくりまわすとよくないみたいだ。
必要だからかうのではなく、ほしいからかうのであり、
もっともらしい理由をさがしてるだけで、
けっきょくは必要ないのにかってしまう。
そして、こりずにおなじ失敗をくりかえすから 自分でもよくわからない。
そのものじたいは必要ないけど、かいものすることで
なにかがみたされたのだろう。
13インチのマックブックエアーでノマドするわたし、という
妄想の世界にはいらないうちに、
しばらくカバンの検索からとおざかろう。
肝心のトートバッグは、実物をみないでかったにもかかわらず、
おおむね気にいっている。
あんまりあたまのなかでいじくりまわさないうちに、
サッときめたからよかったのだとおもう。
しょせん「もの」であり、完璧なんてありえないので、
とどいた品にわたしがなじんでいけばいい。
たくさんものがはいるし、肩にかけてあるきやすい。
なにより醤油のシミがついてないので、
どんな場所にでももっていける。
L.L.Beanのものほど断固とした主張がなくて、わたしむきだとおもっている。