『最強のふたり』
(エリック=トレダノ&オリヴィエ=ナカシュ監督/脚本・2011年フランス)
実話なのだそうだ。
脊髄損傷で首からしたがマヒしている金もちの男性(フィリップ)のところで、
介護経験のない若者(ドリス)がはたらくことになる。
そだった環境のちがうふたりなのに、なぜだか妙にウマがあい、
障害をおってからは体験しなかったような 新鮮な気もちをフィリップはとりもどす。
気むずかしい障害者と、はちゃめちゃな若者という、
よくありそうなはなしを、陳腐にならないよう とてもうまくまとめている。
オープニングで観客の興味をじょうずにつかみ、
これからどうなるかとおもっていると、
そこからいったん、ふたりのであいへとはなしがもどっていく。
介護担当者としての採用をきめる面接で、
ほかの応募者は「障害者をたすけたい」「ひとがすき」「お金のため」と
もっともらしくこたえている。
しかしドリスは、はじめからうかるつもりなどなく、
就職活動の実績づくりにきただけだった。
その傍若無人ぶりにひかれ、フィリップはドリスを採用する。
介護についてはなにもしらなくても、そしてそだちはわるくても、
ドリスは人間として上等な精神をもちあわせていた。
わるいことはわるいといい、金もちにも権威者にも卑屈にならず、
自分のかんがえを堂々と主張する。
修羅場をかいくぐってきた経験をいかし、
フィリップがパニックをおこしても冷静に対応できるし、
町のチンピラなんかには、ちからずくでいうことをきかせてしまう。
なぜあんな男を、とフィリップのしりあいがドリスをやとわないよう忠告すると、
「彼だけがわたしを対等にあつかう」とフィリップはいう。
この、障害者を「対等にあつかう」のがどれだけむつかしいことか。
同情や、うえからみくだした態度は相手のいごこちをわるくするし、
たとえ相手を心配しての対応であったとしても、
介護をうける側の自尊心をキズつけてはならない。
ドリスとはなすときのフィリップが、いつもほほえみをたやさないのは、
自分が対等にあつかわれていることへの満足感であり、
ふたりの関係に 自分の障害がまったく関係しないことの よろこびからだった。
プロの介護者は、自分の感情をおしころし、
障害者の要求にたいし、正確に対応する。
しかしその場合、ふたりの関係は介護するものとされるものであり、
ドリスとフィリップのような友情は期待できないし、期待しないほうがいい。
ドリスのすばらしさは、仕事としてフィリップにせっしていながら、
同時に友だちとしてそばにいられることだ。
フィリップが秘書に口述筆記をしている場面がある。
ととのった環境のもとでは、このように
たとえ障害があっても ある程度はやりたいことを実行できる。
こまかなうごきをつたえてくれる電動車いすもあるし、
口にくわえた棒でページをめくりながら本もよめる。
フィリップはそうした日常生活にいちおう満足しているようにみえる。
それはそれで、すばらしいことだけど、
そこにあたらしい風をドリスはもちこんだ。
口述筆記で女性への手紙をかくフィリップに、
「そんなまだるっこしいことをいつまでもしてないで、さっさと電話しろ」という。
べつの場面では、
自分がジョギングするスピードについてこれないフィリップにたいし、
「もっとはやくはしれ」と無理をいい、
電動車いすを時速12キロのスピードがでるように改造する。
あぶなくないようにスピードをおさえるなんて 余計なお世話で、
事故がおきたときの責任は、自分がおえばいいのだ。
もうひとつあった。車いすを自動車にのせるときにも、
「霊柩車じゃないんだから」と、
車いすにすわったままリフトでのせる車をドリスはイヤがり、
スポーツタイプの高級セダンの助手席にフィリップをのせる。
そんな、介護としてはふつうでない、
しかし友だちとしてならあたりまえの対応をするドリスが、
フィリップはもう、うれしくてたまらなかったんじゃないだろうか。
オープニングでは、ひげがのびほうだいの浮浪者が助手席にすわっていた。
あれはいったいだれだったのだろうと、ずっと気にしてみていたら、
ドリスがいなくなって以来、なげやりになっていたフィリップの姿だった。
以前のほほえみをうしない、身のまわりをととのえる気になれないほど
フィリップはこころをとざしていた。
ドリスの家族をおもい、自分のところでの仕事をやめるよう ドリスに提案したのはフィリップのほうだ。
しかし、障害者だからと、自分を特別な目でみないドリスのあとでは、
どんなひとが介護にあたっても、フィリップのこころはもはやみたされない。
ものがたりはここで オープニングの時点においつき、
これからあたらしい展開がはじまる。
自分なしでは フィリップが生きていけないようではこまるので、
ドリスはあるしかけをほどこした。
おもいがけない演出に、フィリップはとまどい、
そしてたのしくてたまらないときの笑顔をふたたびとりもどす。
この映画は、なんといっても フィリップの笑顔が印象にのこる。
下半身がマヒしていていようが いまいが、だからこそ まわりのものは
フィリップに人間としての魅力をかんじている。
ドリスとせっすることで、フィリップはいつもほほえみをみせていた。
ドリスがしめす対等な態度がうれしくてたまらなかった。
そして、さいごの場面でフィリップがみせたのは、
それまでのほほえみとはすこしちがう意味をもつ。
自分への自信をとりもどせたよろこびによる、
こころのそこからわきだす笑顔だった。
実話では、ドリスはアルジェリアからの移民なのだそうだ。
フランス人がみれば、移民のアルジェリア人から連想される
さまざまな情報があるのだろうが、
外国人にはそのニュアンスがつたわりにくい。
映画ではドリスが 貧民街にそだった黒人に設定してあり、
だれがみても ちがう階層でそだったふたりとわかるようになっている。
構成のうまさとともに、こうした 整理された設定のおかげで、
理解しやすく、したしみやすい作品にしあがっている。
余談ながら、
フィリップとの仕事からはなれ、
ドリスがまた職安へかよいはじめたときのこと。
窓口の女性から経歴についての質問をうけていて、
相手のいったことばが たまたま韻をふんでいるのに気づいて感心したり、
壁にかけてある絵をほめたりと、
おもいがけず身についた教養が ポロッとこぼれるのがおかしかった。
女性の担当官もドリスに好意をにじませる。
知性は人生をたのしくするのだ。