2014年10月16日

「すきなことを かくさないほうがいい」と カウンシルマン氏はいった

水泳をやっていてよかったとおもえることはいくつもある。
からだを自由にうごかして およげるたのしさや、部活動でえた仲間たち。
しかし、じっさいにおよぐこと以外にも
すごくだいじだったとおもえる であいもあった。
わたしの場合は、あるコーチのいったひとことがそれで、
しっておいてよかったと いまもおもっている。

「自分が選手たちをすきなことを、かくさないほうがいい」

アメリカのインディアナ大学にいた、
カウンシルマンという有名なコーチのことばだ。
指導者として選手とせっするときに、
ついずっときびしい態度をとりつづけたり、
いまさらいわなくても、と
その選手がすきだという気もちをあらわさないことがおおい。
そうではなくて、自分はきみたちがだいすきなのだ、ということを
ことばでも態度でも、かくさないほうがいい、とカウンシルマン氏はいうのだ。
もちろんこれは、ほんとうに「すき」であることが前提となる。
「すき」なふりをするという演技のはなしではないし、
「すき」になることがそもそもかんたんなことではないから、
「すき」になれただけで、半分くらい成功してるのかもしれない。

「すき」をあらわすのは、なんとなく気はずかしくて、
いまさらそんなことをいわなくても、と
そっけなくふるまいやすい。
しかし、自分が選手だったとかんがえたら、
「すき」をうちにひめるコーチよりも、
こっちにつたわるやり方で好意をもっていることをしめしてくれたら、
どれだけ安心した気もちでトレーニングにとりくめることか。
「そんなことはわかっている」けど、これがなかなかできない。
なぜかすきなことを あえてかくしてしまう。

カウンシルマン氏のおかげで、
ネコや犬に、わたしは「すき」をかくさない。
かくす必要がもともとないし、好意をよせるはずかしさもない。
「かわいいねー」「おりこーだねー」を連発するし、
毛なみやシッポの形、行儀のよさなど、とにかくなんでもほめるから、
むこうもわるい気はしないようで、ネコかわいがりするのに身をまかせてくれる。
「だーいすき!」といわれたときの、まんざらではなさそうな動物たちの表情を
おおくのひとにしってほしいとおもう。

むすことせっするときにも、「すき」をかくさずにいこうと
意識してむきあった。
むすこがちいさかったころ、
彼がすきなことをわたしはかくさなかった。
口にだして「だいすき!」ともいったし、
おもいっきりほっぺたでスリスリしたりもした。
「すき」ということばは、まっすぐ相手にとどく。
「だいすき!」といわれたむすこは 満足そうなようすをみせ、
わたしが彼をすきかどうかなんて うたがわずにそだってくれた。
そのおかげ、といっていいとおもう、
わたしはむすこがまともな人間であることに自信をもっているし、
無意識であれ、むこうもわたしへのゆるぎない信頼がある(ような気がする)。
すきなことをかくさずにしめすのは、あんがいてれくさいけれど、
絶大な威力を発揮する。

むつかしいのが異性にむけた「すき」のあらわし方で、
恋愛感情がなくても「すき」なことはいくらでもあるのに
なかなかスマートに「すき」をだしにくい。
かといって、恋愛感情があればかくさずに「すき」をつたえられるかというと、
それもまたむつかしいわけで、
ここらへんの感情表現は、日本人だから苦手というよりも、
そのひとが基本方針として、どんなコミュニケーションをとろうとしているかに かかってくるのかもしれない。

配偶者にもさらりと「すき」をだせたら
夫婦関係はまるでちがってくるだろうけど、
こればかりはいまさらどうしようもないかんじだ。

ところで、カウンシルマン氏のことばを確認しようと
本をひっぱりだしたけど、なかなかみつからない。
記憶ちがいかとこまかくよんでいくと、

「だれでも選手が好きだということを表現する方法は見つけられる。
自分の感情を表現することを恐れるべきではない」

という語句がみつかった。
「すきなことをかくさないほうがいい」
とはえらいちがいだけど、わたしなりに拡大解釈して
そんなふうにおぼえたのだろう。
でもこっちのほうがズバッと カウンシルマン氏がいいたいことを あらわしているのではないか。
選手たちにも同僚にも友だちにも家族にも、
「すき」をかくさずにつたえられたら
世界はもっとシンプルでうつくしい。

posted by カルピス at 13:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする