今朝の朝日新聞で「家事ハラスメント」をとりあげていた。
「家事を手伝う夫への妻のダメ出しを『妻の家事ハラ』と呼ぶ」
と旭化成ホームズが定義したところ、ネットで批判がひろがったという。
夫としては気をきかせて洗濯ものをほしたり、
お皿をあらったりしたつもりなのに、
それを妻からできていない部分について指摘されると、
夫のやる気がうせてしまい、それっきりになりやすい。
そういうこともあるだろうなー、とよんでいると、
わたしがおもっていたのとは、ぜんぜんちがっていた。
「家事ハラ」は夫へのダメだしではないのだという。
記事をよくよむと、
「『家事ハラ』はそもそも、和光大学教授の竹信三恵子さんが
著書『家事労働ハラスメント』(岩波新書)で、
家事を軽んじ、担い手を軽視することを問題にした言葉だ。
意味が全く違う。
竹信さんは抗議し、同社は謝罪した。
竹信さんは言う。『生を支える家事をなめるなと言いたい。
家事労働が再分配されなければ、女性は社会で働けない』」
梅棹忠夫さんは、家事をろんじるとき、
家族で分担してひとりひとりの負担をすくなくするのは あともどりだといい、
やらなくてもいい方向にむけるのがいちばん、
とかいている。
そのかんがえ方と、竹信さんの発言
「生を支える家事をなめるなと言いたい。
家事労働が再分配されなければ、女性は社会で働けない」
とは、いったいどちらがさきに発表されたものなのか。
梅棹さんが家事労働の方向性をしめしたのが
40年以上むかしのこととは、とてもおもえない。
いまだに「生を支える家事をなめるな」なんて発言がきかれるとは。
梅棹さんは「◯◯であるべき」「◯◯でなければならない」というかんがえ方はしない。
社会でおきているできごとを観察・分析し、
これからむかう道すじを予想する。
倫理的にのぞましいからそちらにむかうのではなく、
歴史的なながれとして、梅棹さんには それが必然としてみとおせる。
一般的な発想では、ふるくからつたわる伝統や文化、それにしつけなどとからめるし、
むかしからの価値観をひきずってしまうので、
家事をやらないほうがいい、とは、なかなかいえないものだ。
とにかく、歴史的な必然では、女性が家事に埋没されない社会がくるはずだった。
おおむね社会はその方向にうごいているとおもう。
しかし、今回のように「家事ハラ」とか「ダメだし」とかが
いまだに問題になっているようでは、
まだまだ社会全体の共通認識までに いたっていないのだろう。
「家事労働が再分配されなければ、女性は社会で働けない」
の「再分配」がなにを意味するのかわたしはしらない。
もし、家族で「再分配」するのであれば、
梅棹さんのかんがえからすると、ずいぶんうしろむきの発想である。
もちろんわるいのは いつまでも女性の家事労働にたよろうとする男であり、
それを前提になりたっている社会と会社ということになる。