ほぼ日に「40歳は、惑う」として
糸井さんが40だったころをふりかえり、
いまの40歳へのアドバイスみたいなものをかかれている。
http://aera.1101.com/itoi.html
ゼロになってちゃんともがいたことが大切だったそうだ。
そういえば、40歳くらいのときに小説をよむと、
主人公のおおくがわたしとおなじ世代に設定されていて、
偶然なのか必然なであいなのか、不思議におもったものだ。
自分が40になったから、同世代のはなしに目がいくようになったことと、
40歳という年齢は、問題をかかえやすい時期なので ものがたりにしやすいという、
両方が原因では、と解釈している。
そうした本をよんでなにをかんじたのか、もうわすれてしまった。
たいした刺激はうけずに、かるくやりすごしたような気がする。
50代になったいまのわたしが なにをもとめているかというと、
50代の男がでてくるはなしがよみたい。
40代によんだ40代が主人公の本よりも、
もっと切実に彼らのなやみがひびいてくるのではないか。
自分の健康に自信がなくなるのは40歳でも、
ほんとうにガタがくるのは50くらいで、
もうのこり時間がたいしておおくないことを本気で意識するようになる。
親の高齢化もますます現実的な問題になるし、
自分についても、このまま年金をもらえるまではたらくのか、
べつのことをはじめるのか、
体力とのこり時間を判断材料に、なんだかんだと「惑う」のが50代だ。
糸井さんがかかれているように、
それぞれの年代が それぞれのなやみをかかえて生きるわけで、
簡単なときなんて、ない。
子どものころは、大人になったらすべてがわかりきったことになり、
あとはすいすいいけるのだときめつけていたけど、
まさかこんなにいつまでもたいへんな人生とはおもわなかった。
いろんなひとの意見や本を参考に、
できるだけ自分のやりたいことを、無理のない範囲でさがしてきたし、
いまもまだ それがつづいている。
もっとも、なやんでいるといっても、
わたしなんかのはそうたいしたものではなく、
もっとおもしろく生きるには、程度のことだ。
生きるか、死ぬかのギリギリのせとぎわにたってという
切実なものではない。
でも、あそびにこそ本質がやどる、という意味で、
「おもしろく生きる」こそ 究極で純粋な なやみなのかもしれない。
いつまでも「のらりくらり感」がきえないのは、
ゼロになって、ちゃんともがかなかったからだろうか。
しかし、わたしもまた、たしかにゼロになった。
問題があるとしたら、そのあとのもがき方だ。
真剣につきつめず、イージーにながした結果が いまのわたしというべきだろう。
それを後悔しているわけではない。
何回やっても、おなじことをくりかえしそうなので、
いまのわたしは なるべくしてなった必然であり、
おちつくべきところにおちついたのだろう。
もっと勤勉に、パワフルに生きているわたしなんか、想像できない。
それなのに、同世代の主人公のはなしがよみたいなんていいだすのは、
純粋にものがたりをたのしみたいからだ。
ありえたかもしれない もうひとりの自分は、なにをしていたか。
ためしに「50歳 男 小説」を検索してみたら、
『マディソン郡の橋』がアドバイスされていた。
そういえば、この本は典型的な50歳・男・小説だ。
日本的な感覚からすると、かっこよすぎて、ありえないけど、
たしかにこれもひとつのこたえではある。
すべての50歳はなやんでいる。
わたしのなやみも、もうしばらくつづく。