『北緯66.6゜』(森山伸也・本の雑誌社)
おもしろかった。
リュックをせおい、ただひたすらラップランドをあるく。
山のいただきをきわめるでも、縦断や一周が目的でもない。
目的はあるくことであり、自分のちからが
どれだけ自然のなかで通用するかをためすことだ。
体力だけでなく、精神的なつよさも もとめられる。
お遍路さんであるく旅をしても、
ひとや車がおおすぎて あんまりたのしくなさそうだ。
ラップランドでは、人とであうのが、トナカイをみかけるよりめずらしい。
そんな場所をあるくとき、ひとはなにをおもうのだろう。
森山さんの本は、まだよんだことがなかったけど、
「北欧ラップランド歩き旅」というコピーにひかれて
ネットで注文する。
さいわい、わたしとはウマがあいそうで、
いいヤツだなーと、なんどもおもいながらよんだ。
かるそうでいて、根がまじめなひとだ。
なぜラップランドなのか。
北欧というと、福祉の先進地としては有名でも、
旅行するには物価がたかくてたいへんだし、
太陽があまり顔をださず、年中さむくてと
わたしはあまりいいイメージをもっていなかった。
こんなふうに、北欧はトレッキングというたのしみがあったのだ。
どこにでもテントをはっていいし、焚火もできる。
水も、氷河からながれる川から、そのままのめるという。
ツンドラにはブルーベリーがはえていて、すきなだけたべられる。
そんな情報にひかれ、森山さんは北極圏のラップランドへ旅だった。
「山歩きの核心は、自分の体で背負えるまでの限界の衣食住を背負って、
いかにして命をつないで自然を歩くかということにあるような気がする。(中略)
『よっしゃ、このザックひとつで、5日間山の中で生き抜くのだ』という心意気こそが、
山歩きの真骨頂ともいえる」
「資本主義経済のうえに成り立った生活は、
ある人にとっては便利でラクチンで合理的な生き方かもしれないが、
ある人にとってはものすごく違和感があって、窮屈で、
もっと言えば命を失う危険が見え隠れするアブナイ生き方でもある。(中略)
あらゆるライフラインをすべて人任せにして
『ああ、快適、快適』などとノンキに暮らしていいのだろうか?」
「大袈裟にいえば、山を歩くことは、
『おまえたちに頼らなくたってこうして生きていけるんだぜ』
という社会へ対するアンチテーゼでもある」
わたしが野宿にひかれるのも、そのながれからだ。
ものにたよらないで、自分のちからでのりきった手ごたえがほしい。
「将来的には、電子書籍を持ってラップランドを歩く日がやってくるだろうか。
電子書籍なら好きな本を好きなだけ持っていける。
かつ、かさばらずに軽い。
夜でもヘッドライトなしで読める
電源はソーラーパネルでなんとか日中に蓄電できそうだ。
かなり便利そうではあるが、
やっぱり電子書籍を山へ持っていく気にはならない。
本というものは重さがあるからいいのだ。
かさばるからいいのだ。
どれを持っていこうか悩むからいいのだ」
キンドルがどうしたとか、自炊した本を旅行先で、なんて
こざかしいことばかり案をめぐらすわたしには、耳のいたいはなしだ。
著者のこうしたかんがえにわたしはすごく共感する。
この本をよむと、「自由とはなにか」があたまをめぐる。
◯◯がなければ、という発想は、まったく自由でない。
電子書籍があればあったで便利かもしれないが、
「◯◯がなければならない」となると、とたんにつまらなくなる。
あるものですます。なければしょうがない。
スカンジナビアの国からくるトレッカーは、
長靴にセーターと、普段着でまわっているひとがおおく、
リュックや寝袋も、お父さんやおじいさんがつかっていたものを
そのままもってきていると、森山さんが感心しながら 紹介している。
そんな、日常の延長にあるような自然とのつきあい方がかっこいい。
つまり、自由だ。
旅さきでであった旅人が、おすすめのトレイルをおしえてくれて、
つぎの機会に森山さんはその公園をおとずれる。
ネットがあたりまえの社会になっても、
旅の基本的な部分はあんがいかわらないのではないか。
スマホをあやつって情報をえるのではなく、
ずっとまえからおこなわれてきた旅行のやり方が、
ラップランドでは まだふつうにおこなわれているのがいいかんじだ。
「モノカキとしてのゴールはどこにあるのか?
おれの終の住処は、どこなのだろうか?
世知辛い世の中をどうやって生きていけばいいのだろうか?(中略)
歩くことは誰にも邪魔されず、考え続けることなんだ」
森山さんがそんなふうに、いまもなやみをかかえ、
かんがえつづけるのは好感がもてる。
しかし、わたしはかんがえないほうがいいとおもう。
かんがえをいじくりまわしていても、
ろくなところにたどりつかない。
サウナでたまたまいっしょになったトレッカーと
みじかい会話をするうちに、森山さんは気づく。
「ラップランドにやってくる北欧人の目的は『山歩き』ではなかった。
結果的には山を歩いているだけで、
ただただ極北の短い夏を楽しみにやってきているのだった」
それがひとつのこたえではないだろうか。
ただそこにいるだけでいいんだ。
人生においても、「モノカキとしてのゴール」だの
「終の住処」だのをかんがえてもしょうがないのだ。
かんがえるな!