すこしまえの「今日の言いまつがい」(ほぼ日)に、
私「せっかく、私が
嬉々らんらんと
買って来たのに!」
夫「‥‥そんな言葉、ない」
(ありそうじゃん!)
というのがのっていた。
「嬉々らんらん」。
わたしはまったく違和感がなかった。
いかにもありそうで、ないのが不思議なくらいだ。
きいただけで雰囲気がつたわってくる。
すぐにつっこんだ「夫」もえらいけど、
ただしいか、ただしくないかはともかくとして、
「嬉々らんらん」はすごくいいことばだ。
どんどんつかっていけば、そのうち「まつがい」じゃなくなりそう。
本をよんでいると、ときどき「ママ」という表示にであう。
一般的はそういわないけど、原文のママ、という意味みたいだ。
「ママ」とだれかがかいてくれるから、
安心して「嬉々らんらん」をつかえばいいとおもった。
ラジオの英語番組で、クリームシチューのつくり方を説明していた。
「じゃがいもの芽をとりのぞく」を、
「じゃがいもの目を」といったような気がして
あとで辞書をみると、ほんとに「目」だった。
じゃがいもの「芽」は、英語で「目」というのをはじめてしった。
そういえば、じゃがいもの芽は目にみえなくもない。
機能的には芽なのに、目にみえるから「目」というのだろうか。
もうひとつ英語ネタでは、
1時間を an hour とかくことにいまさらながら気づいた。
次にくる単語が母音ではじまるときだけに「an」をつかうのとおもっていたのだ。
辞書をみると
a か 、anなのか は「綴字ではなく実際の発音できまる」とある。
「a と an の意味は同じですが、使い方に違いがあります。
上の例で言えば、次にくる単語の最初のアルファベットの発音が、
英語の母音の場合だけ an を使うということです。
※ a UFO は正しく、 an UFO はまちがいということになります」
つぎにくる語の発音によって「a」にするか「an」なのかがきまるというのでは、
はなしがややこしくなる。
規則によって理解するのではなく、
ちからずくでおぼえるしかない。
おぼえるといえば、ロシア語の講座で
「日本語の形容詞は動詞によってかわり、
ロシア語は名詞に影響される」
というようなことを 黒田龍之助先生がはなしておられた。
なんでロシア語は形容詞さえも
ややこしく変化するのかとおもっていたけど、
ロシア語は名詞がややこしく変化するのだから、
それにともなって形容詞も性がかわるというのはよくわかる。
よくわかるけど、ややこしい変化なので
とても暗記などできそうにないことにかわりはない。
日本語も英語も、ロシア語も、
人工的につくられたことばではないので、
合理的でないきまりがたくさんある。
ひどいはなしだとおもうし、おもしろいとおもうこともある。
「嬉々らんらん」はぜひ生きのびてほしい。
じゃがいもの「目」よりもずっといいセンスだ。
2014年11月30日
2014年11月29日
「マイナス8個のタコヤキと3個のタコヤキをたしたら」 かんたんにはわからないほうが ただしいかも
きのうの朝日新聞で、これまでじゅうぶんな教育をうける機会がなかった
バングラディシュやフィリピンの子どもたちに、
動画をつかった授業をとどけるこころみが紹介されていた。
「教えるのがうまい先生の授業を動画に収録し、
『最高の授業を世界の果てまで』届ける」のだという。
といっても、ここにかくのは教育格差についてではなく、
わたしがしっかり数学を理解できていない、というはなしだ。
動画をつかったある教室で、
「正の数と負の数を足したら、どうなるかな」
という問題にとりくむようすが紹介されていた。
これくらいなら、わたしにもまだついていけそうだ。
でも、すこしかんがえてみて、
わたしはただしく負の数について理解していないことがわかった。
自分では計算できても、とても子どもたちにおしえられない。
負の数字というのは概念上のはなしであり、
だれもマイナスの状態のものなんか みたことがないはずだ。
マイナスを理解できるかどうかは、
おそらく頭のよしあしよりも、
その概念をうけいれられるかどうかにかかっている。
マイナス8個のタコヤキと3個のタコヤキをたしたら・・・、
マイナス8リットルの水、なんてあるわけないのだ。
わかるほうがおかしいような気もしてくる。
そういえば、いったいマイナスって なんなのだろう。
わたしはいちおうマイナスをふくむ計算もできるようになった。
でも、負の数字をただしく理解していないことはあきらかだ。
目にみえないこんなむつかしいことを、
かんたんに理解できないほうが「ただしい」のではないか。
温度がマイナス3℃、というのはわかる。
とりあえずの基準として、ある地点を〇℃とし、
それよりもひくければマイナスの温度となる。
でも、ものの数のマイナスはわからない。
これを理論的にただしく理解できたひとは、
そのあともなにか壮大な発見をするかもしれない。
基本となる部分がしっかりしているから。
わたしみたいに、とりあえずは計算できるけど、
ほんとうによく理解しているわけではないものは、
応用がきかず、その場かぎりの正解でおわるだろう。
そんなことをいいだせば、
わたしの知識はどれもひどく大雑把で、
生活するうえではこまらないものの、
教育としてとらえたときには失敗した例だとおもう。
なぜそうなのかを、あいまいなまま ごまかしつづけた結果が、
つくろいだらけのわたしの知識だ。
きっとだから経済がわからないし、化学記号に拒絶反応をしめすし、
フランス語の冠詞がいつまでもおぼえられない。
基本がなければ応用がきかないのだ。
おしえ方のじょうずな先生の授業を動画でみたら、
わたしもただしくマイナスの概念を理解できるだろうか。
こういうのはセンスの問題であり、
「教えるのがうまい先生」が動画でおしえてくれても、
わたしの大雑把な把握はすくえない気がする。
バングラディシュやフィリピンの子どもたちに、
動画をつかった授業をとどけるこころみが紹介されていた。
「教えるのがうまい先生の授業を動画に収録し、
『最高の授業を世界の果てまで』届ける」のだという。
といっても、ここにかくのは教育格差についてではなく、
わたしがしっかり数学を理解できていない、というはなしだ。
動画をつかったある教室で、
「正の数と負の数を足したら、どうなるかな」
という問題にとりくむようすが紹介されていた。
これくらいなら、わたしにもまだついていけそうだ。
でも、すこしかんがえてみて、
わたしはただしく負の数について理解していないことがわかった。
自分では計算できても、とても子どもたちにおしえられない。
負の数字というのは概念上のはなしであり、
だれもマイナスの状態のものなんか みたことがないはずだ。
マイナスを理解できるかどうかは、
おそらく頭のよしあしよりも、
その概念をうけいれられるかどうかにかかっている。
マイナス8個のタコヤキと3個のタコヤキをたしたら・・・、
マイナス8リットルの水、なんてあるわけないのだ。
わかるほうがおかしいような気もしてくる。
そういえば、いったいマイナスって なんなのだろう。
わたしはいちおうマイナスをふくむ計算もできるようになった。
でも、負の数字をただしく理解していないことはあきらかだ。
目にみえないこんなむつかしいことを、
かんたんに理解できないほうが「ただしい」のではないか。
温度がマイナス3℃、というのはわかる。
とりあえずの基準として、ある地点を〇℃とし、
それよりもひくければマイナスの温度となる。
でも、ものの数のマイナスはわからない。
これを理論的にただしく理解できたひとは、
そのあともなにか壮大な発見をするかもしれない。
基本となる部分がしっかりしているから。
わたしみたいに、とりあえずは計算できるけど、
ほんとうによく理解しているわけではないものは、
応用がきかず、その場かぎりの正解でおわるだろう。
そんなことをいいだせば、
わたしの知識はどれもひどく大雑把で、
生活するうえではこまらないものの、
教育としてとらえたときには失敗した例だとおもう。
なぜそうなのかを、あいまいなまま ごまかしつづけた結果が、
つくろいだらけのわたしの知識だ。
きっとだから経済がわからないし、化学記号に拒絶反応をしめすし、
フランス語の冠詞がいつまでもおぼえられない。
基本がなければ応用がきかないのだ。
おしえ方のじょうずな先生の授業を動画でみたら、
わたしもただしくマイナスの概念を理解できるだろうか。
こういうのはセンスの問題であり、
「教えるのがうまい先生」が動画でおしえてくれても、
わたしの大雑把な把握はすくえない気がする。
2014年11月28日
『自殺』(末井昭)「死なないで」いろんな面から自殺についてかんがえる
『自殺』(末井昭・朝日出版社)
『本の雑誌 12月号』の特集は
「天才編集者・末井昭に急接近!」だ。
この特集をよむまで、わたしは末井さんのことをしらなかった。
『小説マガジン』『写真時代』『パチンコ必勝ガイド』の編集長をつとめ、
ストリーキングのシメとして、はだかで道路のうえをころがり、
からだ全体をつかってイラストレーションをかいたり、
エロ雑誌をつくって発禁になったり、
不動産やさきもの取引にはまり、3億円の借金をかかえたり。
「前からやってた先物もそうだけど、
競馬、麻雀、パチンコ・・・思い返せば、
どうしようもない生活だった。
チンチロリンで一晩で1700万円勝ったり、
麻雀で300万円負けたりとか、そんなことをやってた。
愛人がいて、家に帰っても嘘ばっかり言ってたし、
借金もすごかったし、
本当に死んでもいいような状態だった」
(末井・『本の雑誌 12月号』より)
「特集」には「末井昭語録」ものっている。
・「目標を持て」なんて悪魔のささやきです
・嘘は孤独のはじまりである
・常識は暴力でもある
・今を楽しく暮らすことを考えればいい
・ちいさいオッパイは大きいオッパイより温かい
など、わたしには絶対にいえないことばが紹介されている。
天才とはおもわないけど(かなり庶民的ななやみもかかえているので)、
大人物であり、そうとうかわっていることはまちがいない。
どんなひとなのかもっとしりたくなり、
2012年に出版された『自殺』をよんでみる。
自殺についてはなかなかはなしがしにくいところがある。
でも、末井さんがかけば おおくのひとに関心をもってもらえるのではと、
出版社から原稿の依頼がきたそうだ。
末井さんのお母さんは、末井さんが7歳のときに
となりの家のわかい男性と心中したのだという。
ダイナマイトをからだにまきつけての心中であり、
それ以来 末井さんのまわりで 何人ものしりあいが自殺されている。
自殺のことばかりがかいてあるわけではなく、
前半は末井さんの自伝をよんでいるみたいだ。
そのうちにポツリ・ポツリと自殺のはなしにはいり、
一冊をとおして「生きること」「自殺とは」について
かんがえるような構成となっている。
インタビューには、なかなかはなしがきけないひとが登場する。
・日本一自殺がおおい秋田県で自殺をへらそうとしている研究者
・自殺の名所となっている富士山の樹海で活動する作家
・薬物依存症や自殺未遂といったひとたちをあつめた
「こわれ者の祭典」の主催者
・イエスの方舟の責任者
わたしは自殺をしようとおもったことはないけれど、
この一冊をよめば、自殺しなくてもいいかなーとおもえるのではないか。
自殺したひともふくめ、いろんなひとがでてきて
かなり悲惨な状態でも生きているし、自分のやりたいことをして、
そんな自分をわらってもいるひともいる。
「お金のことで抜き差しならなくなるシチュエーションは
いろいろ想像できますが、
お金のことで死ぬなんて馬鹿馬鹿しい、(中略)
お金のことなんかで死んで欲しくありません。
そんなことで深刻になる必要はまったくありません」
都道府県べつの自殺死亡率(2011年)では、
島根が6位、鳥取が9位と山陰の2県が上位にランクされている。
宮崎県や沖縄県も上位なので、日照時間だけでは説明がつかない。
それだけ山陰にはまじめなひとがおおいのだろうか。
わたしの印象では、こういうネガティブな調査になると 島根県はかならず顔をだし、
反対にポジティブな調査では最下位をあらそうことがおおい。
「どうせロクでもない社会なんだから、
真面目に自分を突き詰めるんじゃなくて、
もっといい加減に生きたらいいのに、
と思う僕は強い者だからでしょうか」(末井)
さいごの章は「迷っている人へ」となっている。
「本当は、生きづらさを感じている人こそ、社会にとって必要な人です。
そういう人が感じている生きづらさの要因が
少しずつ取り除かれていけば、社会は良くなります。
取り除かれないにしても、生きづらさを感じている人同士が、
その悩みを共有するだけでも
生きていく力が得られます。
だから,生きづらさを感じている人こそ
死なないで欲しいのです。
もしいまあなたが、自殺しようかどうしようか迷っているのでしたら、
どうか死なないでください。
そこまで自分を追い込んだらもう充分です。(中略)
それでも自殺を思い留まることができなかったら、
とりあえず明日まで待ってください。
その一日が、あなたを少し変えてくれます。
時間にはそういう力があります。
ほんの少し、視点が変わるだけで、気持ちも変わります。
そして、いつか笑える日が来ます。
きっとー。」
自殺をかんがえているひとが もしまわりにいたら、
ぜひこの本をすすめてほしい。
『本の雑誌 12月号』の特集は
「天才編集者・末井昭に急接近!」だ。
この特集をよむまで、わたしは末井さんのことをしらなかった。
『小説マガジン』『写真時代』『パチンコ必勝ガイド』の編集長をつとめ、
ストリーキングのシメとして、はだかで道路のうえをころがり、
からだ全体をつかってイラストレーションをかいたり、
エロ雑誌をつくって発禁になったり、
不動産やさきもの取引にはまり、3億円の借金をかかえたり。
「前からやってた先物もそうだけど、
競馬、麻雀、パチンコ・・・思い返せば、
どうしようもない生活だった。
チンチロリンで一晩で1700万円勝ったり、
麻雀で300万円負けたりとか、そんなことをやってた。
愛人がいて、家に帰っても嘘ばっかり言ってたし、
借金もすごかったし、
本当に死んでもいいような状態だった」
(末井・『本の雑誌 12月号』より)
「特集」には「末井昭語録」ものっている。
・「目標を持て」なんて悪魔のささやきです
・嘘は孤独のはじまりである
・常識は暴力でもある
・今を楽しく暮らすことを考えればいい
・ちいさいオッパイは大きいオッパイより温かい
など、わたしには絶対にいえないことばが紹介されている。
天才とはおもわないけど(かなり庶民的ななやみもかかえているので)、
大人物であり、そうとうかわっていることはまちがいない。
どんなひとなのかもっとしりたくなり、
2012年に出版された『自殺』をよんでみる。
自殺についてはなかなかはなしがしにくいところがある。
でも、末井さんがかけば おおくのひとに関心をもってもらえるのではと、
出版社から原稿の依頼がきたそうだ。
末井さんのお母さんは、末井さんが7歳のときに
となりの家のわかい男性と心中したのだという。
ダイナマイトをからだにまきつけての心中であり、
それ以来 末井さんのまわりで 何人ものしりあいが自殺されている。
自殺のことばかりがかいてあるわけではなく、
前半は末井さんの自伝をよんでいるみたいだ。
そのうちにポツリ・ポツリと自殺のはなしにはいり、
一冊をとおして「生きること」「自殺とは」について
かんがえるような構成となっている。
インタビューには、なかなかはなしがきけないひとが登場する。
・日本一自殺がおおい秋田県で自殺をへらそうとしている研究者
・自殺の名所となっている富士山の樹海で活動する作家
・薬物依存症や自殺未遂といったひとたちをあつめた
「こわれ者の祭典」の主催者
・イエスの方舟の責任者
わたしは自殺をしようとおもったことはないけれど、
この一冊をよめば、自殺しなくてもいいかなーとおもえるのではないか。
自殺したひともふくめ、いろんなひとがでてきて
かなり悲惨な状態でも生きているし、自分のやりたいことをして、
そんな自分をわらってもいるひともいる。
「お金のことで抜き差しならなくなるシチュエーションは
いろいろ想像できますが、
お金のことで死ぬなんて馬鹿馬鹿しい、(中略)
お金のことなんかで死んで欲しくありません。
そんなことで深刻になる必要はまったくありません」
都道府県べつの自殺死亡率(2011年)では、
島根が6位、鳥取が9位と山陰の2県が上位にランクされている。
宮崎県や沖縄県も上位なので、日照時間だけでは説明がつかない。
それだけ山陰にはまじめなひとがおおいのだろうか。
わたしの印象では、こういうネガティブな調査になると 島根県はかならず顔をだし、
反対にポジティブな調査では最下位をあらそうことがおおい。
「どうせロクでもない社会なんだから、
真面目に自分を突き詰めるんじゃなくて、
もっといい加減に生きたらいいのに、
と思う僕は強い者だからでしょうか」(末井)
さいごの章は「迷っている人へ」となっている。
「本当は、生きづらさを感じている人こそ、社会にとって必要な人です。
そういう人が感じている生きづらさの要因が
少しずつ取り除かれていけば、社会は良くなります。
取り除かれないにしても、生きづらさを感じている人同士が、
その悩みを共有するだけでも
生きていく力が得られます。
だから,生きづらさを感じている人こそ
死なないで欲しいのです。
もしいまあなたが、自殺しようかどうしようか迷っているのでしたら、
どうか死なないでください。
そこまで自分を追い込んだらもう充分です。(中略)
それでも自殺を思い留まることができなかったら、
とりあえず明日まで待ってください。
その一日が、あなたを少し変えてくれます。
時間にはそういう力があります。
ほんの少し、視点が変わるだけで、気持ちも変わります。
そして、いつか笑える日が来ます。
きっとー。」
自殺をかんがえているひとが もしまわりにいたら、
ぜひこの本をすすめてほしい。
2014年11月27日
河合隼雄さんの「人殺し以外だったら、なんでもやりまっせー」にしびれる
河合隼雄さんというと おもいだすのが
「人殺し以外だったら、なんでもやりまっせー」だ。
こまかいところまではおぼえていないけど、
だいたいそんないい方だったとおもう。
たしか村上春樹さんの本に紹介されていた。
たくさんの仕事をかかえ、めちゃくちゃいそがしいだろうに、
「なんでもやりまっせー」とわらっていえるのがいいかんじだ。
心理学者として、ひとのこころの
こまやかなうごきをさぐるひとが
いうことばとは、とてもおもえない。
気力・体力が、充実していると自分にいいきかせ、
たとえカラ元気でも、
そうやってあかるくふるまえるひとは いっしょにいてたのしい。
河合さんの真意がどこにあるのか、ほんとうはわからないけど、
「なんでもやりまっせー」なんていってもらえたら、
だれでも河合さんをすきになってしまう。
べつのところで、やはり河合隼雄さんが
「めんどくさい」なんていっていたら、死ぬしかない、
みたいなことをかいておられた。
きっとこのふたつは、おなじことをいわれているのだ。
河合さんだって、まえむきな気もちになれるときばかりではないだろうけど、
河合さんは、「めんどくさい」といわないことにしてるのだろう。
生きていくうえで、「めんどくさい」ことはきりもなくある。
そんなことをいちいち「めんどくさい」といってたら、
なにもできず、死ぬしかない。
このごろのわたしは、なにかにつけ
「どうせもうすぐ死ぬんだし」みたいなかんがえが頭をかすめる。
50歳をすぎたのだから まったくまちがっているわけではないにしても、
なにもいまから「死ぬ」ことをつよく意識しなくてもいい年齢ではある。
まえもかんがえなかったわけではないけど、
40歳のころよりずっとリアルになった。
うかんでくるのは「のこり時間」のことだ。
たとえばあの「1万時間の法則」では、
一流のレベルにたっするには、1万時間かかる、といわれている。
ちがういいかたをすれば、
1万時間かければ だれでも一流になれるわけで、
ところがわたしには、なにかにその1万時間をついやす余裕は、もうない。
うしろむきな発想というよりも、
事実の確認であり、ここが再スタート地点だ。
わかいころには、そんなこと おもってもみなかった。
ところが、そんなふうに さきがそうながくない現実も、
河合さんのことばをおもいだすと どうでもよくなってくる。
こまかいことをゴチャゴチャいってないで、
「なんでもやりまっせー」という姿勢は究極にポジティブだ。
「でもー」「だってー」「だけど」、なんていいわけをはさまず
「やりまっせー!」とまえをむいたほうがぜったいたのしい。
1万時間かけて一流になれなくても、
初心者レベルであそべばいいではないか。
深刻な顔をしてかんがえこむよりも、
「なんでもやりまっせー」と
からだをうごかすことで ものごとはまえにすすみだす。
どうせ死ぬんだから、なにをしてもいっしょ、というのは
たしかにただしいけど、
それをいったらすべてがどうでもよくなってしまうので、
とりあえず どこかへしまっておく。
どうせ死ぬんだから、いまのうちにやっておこう、
のほうがおもしろそうだ。
さきのことをかんがえると めんどくさくなってしまう。
めんどくさいとおもっていると、死ぬしかない。
「人殺し以外はなんでも」やるつもりで、
よけいなことをかんがえずにからだをうごかす。
河合さんの処方箋はきっとただしい。
「人殺し以外だったら、なんでもやりまっせー」だ。
こまかいところまではおぼえていないけど、
だいたいそんないい方だったとおもう。
たしか村上春樹さんの本に紹介されていた。
たくさんの仕事をかかえ、めちゃくちゃいそがしいだろうに、
「なんでもやりまっせー」とわらっていえるのがいいかんじだ。
心理学者として、ひとのこころの
こまやかなうごきをさぐるひとが
いうことばとは、とてもおもえない。
気力・体力が、充実していると自分にいいきかせ、
たとえカラ元気でも、
そうやってあかるくふるまえるひとは いっしょにいてたのしい。
河合さんの真意がどこにあるのか、ほんとうはわからないけど、
「なんでもやりまっせー」なんていってもらえたら、
だれでも河合さんをすきになってしまう。
べつのところで、やはり河合隼雄さんが
「めんどくさい」なんていっていたら、死ぬしかない、
みたいなことをかいておられた。
きっとこのふたつは、おなじことをいわれているのだ。
河合さんだって、まえむきな気もちになれるときばかりではないだろうけど、
河合さんは、「めんどくさい」といわないことにしてるのだろう。
生きていくうえで、「めんどくさい」ことはきりもなくある。
そんなことをいちいち「めんどくさい」といってたら、
なにもできず、死ぬしかない。
このごろのわたしは、なにかにつけ
「どうせもうすぐ死ぬんだし」みたいなかんがえが頭をかすめる。
50歳をすぎたのだから まったくまちがっているわけではないにしても、
なにもいまから「死ぬ」ことをつよく意識しなくてもいい年齢ではある。
まえもかんがえなかったわけではないけど、
40歳のころよりずっとリアルになった。
うかんでくるのは「のこり時間」のことだ。
たとえばあの「1万時間の法則」では、
一流のレベルにたっするには、1万時間かかる、といわれている。
ちがういいかたをすれば、
1万時間かければ だれでも一流になれるわけで、
ところがわたしには、なにかにその1万時間をついやす余裕は、もうない。
うしろむきな発想というよりも、
事実の確認であり、ここが再スタート地点だ。
わかいころには、そんなこと おもってもみなかった。
ところが、そんなふうに さきがそうながくない現実も、
河合さんのことばをおもいだすと どうでもよくなってくる。
こまかいことをゴチャゴチャいってないで、
「なんでもやりまっせー」という姿勢は究極にポジティブだ。
「でもー」「だってー」「だけど」、なんていいわけをはさまず
「やりまっせー!」とまえをむいたほうがぜったいたのしい。
1万時間かけて一流になれなくても、
初心者レベルであそべばいいではないか。
深刻な顔をしてかんがえこむよりも、
「なんでもやりまっせー」と
からだをうごかすことで ものごとはまえにすすみだす。
どうせ死ぬんだから、なにをしてもいっしょ、というのは
たしかにただしいけど、
それをいったらすべてがどうでもよくなってしまうので、
とりあえず どこかへしまっておく。
どうせ死ぬんだから、いまのうちにやっておこう、
のほうがおもしろそうだ。
さきのことをかんがえると めんどくさくなってしまう。
めんどくさいとおもっていると、死ぬしかない。
「人殺し以外はなんでも」やるつもりで、
よけいなことをかんがえずにからだをうごかす。
河合さんの処方箋はきっとただしい。
2014年11月26日
旅行の準備をすすめる
義母の3回忌があり、配偶者の実家へでかける。
お経のなかやすみに、繊維関係の仕事をしている親戚すじと 近況をはなす。
このごろは中国にしたうけをださなくなったので、
中国への出張はなくなったけど、
かわりにベトナムへいかされるそうだ。
わたしはあそびでベトナムとラオスをまわるのに、
そのひとは仕事としてベトナムにいけるわけで、
すこしかんがえれば あそびでいくほうがいいにきまっているのに、
なんだか かるくガクッときてしまった。
わたしは有給やおこづかいをやりくりして、
やっと(というのはちょっとおおげさだけど)
旅行にでかけるのに、というヒガミだ。
これが中国だと、「仕事とはいえ たいへんだなー」になるから
ヒガミの心理はややこしい。
旅行まであと3週間ほどになり、
すこしずつ準備をすすめている。
今回は、タブレットをもっていくので
本は2,3冊におさえて、なんておもってたのに、
このごろおもしろそうな本によくみかけてしまい、
けっきょくいつものように10冊くらいのリストになりそうな
たしかな予感がある。
旅行まえは、いつも今回こそかるい荷物で、とおもうのに、
いつもカバンいっぱいになってしまう。
こんどもまたおなじことがくりかえされるのだろう。
3年前にカンボジアへいったときは、
直前に『ジェノサイド』(高野和明)をよみはじめてしまい、
逆上して600グラムもあるその本までもっていった。
パソコンも、いまではつくられていない「iBook」という
ふるい13インチのもので、2.3キロもあった。
こうなると、すこしくらい荷物をかるくするなんて どうでもよくなり、
けっきょくカバンにいっぱいの荷物になったのだ。
外国へいくから荷物がおおいかといえば、
残念ながらそうではなく、
国内を、ほんの1泊するだけでもけっこうな荷物にしてしまう。
「みじかい」という油断から、
まずよまないだろうという本や、
くらいところでの読書にとあかりにまで気をくばり、
ズルズルとカバンをふくらませる。
わたしが負担にかんじずにもてるのは、8キロまでであり、
どこへいくにも8キロのカバンになるのがわたしの旅行準備だ。
今回も、いきさきが東南アジアなのに、
わざわざ夏用の寝袋までもっていく。
タイの冬はそれなりにさむいので、あったほうがいいのはたしかとはいえ、
なしでもきっと問題はない。
これはもう、わたしのスタイルだからしょうがないとうけいれている。
図書館でかりたガイドブックをながめる。
『地球の歩き方』というシリーズで、
まえはバックパッカーむけのガイドブックとしてしられていたけれど、
いまひらくとレストランやショッピングガイド(宝石・アクセサリーも)、
スパやエステにナイトライフと、
お金もちの旅行者でもつかえるようになっている。
もっていくカバンも、まえは当然バックパックをすすめていたのに、
いまは「荷物がたくさん入ってパッキングがしやすく、
しかも頑丈なスーツケースが便利」
と、かなり方針がかわっている。
『地球の歩き方』は、まえだとすべてのわかい旅行者が、
といえるくらい、旅行先で黄色の表紙をみかけたものだけど、
さすがにいまは事情がちがってきてるだろう。
むかしは(むかし!)、ほかにえらびようがなかったのだ。
あんまりだれもがもっているので、わざわざ自分でもたなくても、
むこうでだれかにみせてもらおうと、
『地球の歩き方』をもたずにでかけたことがある。
わたしには男のつれがいて、
わりとひろい道路のむこうからわかい女性のグループがあるいてきた。
手にはお約束の『地球の歩き方』がみえたので、
「あのー、『地球の歩き方』をみせてもらえませんか?」と相棒が声をかけたら
「わたしたち、そんなのもってません!」とものすごくひかれてしまった。
ちょうどそのころ女性の旅行者がまきこまれる事件があり、
わかい女性の心理として、むこうからくるわけのわからない男たちは警戒すべき対象だったのだろう。
女性たちの人数が5,6人と、集団心理がうまれやすかったのもよくなかった。
とはいっても、なにもあんなふうにさけなくてもいいのに、
まるで日本の路上でナンパ男になにかされたような反応だ。
ガイドブックをもっているのがみえてるのに、
「もってない!」といいはりたくなるほど
わたしの相棒がいかがわしそうだったことを もうしわけなくおもった。
『地球の歩き方』は、そんなふうにトラブルのネタになるくらい
だれもがあたりまえにもって旅行していた時代があった。
お経のなかやすみに、繊維関係の仕事をしている親戚すじと 近況をはなす。
このごろは中国にしたうけをださなくなったので、
中国への出張はなくなったけど、
かわりにベトナムへいかされるそうだ。
わたしはあそびでベトナムとラオスをまわるのに、
そのひとは仕事としてベトナムにいけるわけで、
すこしかんがえれば あそびでいくほうがいいにきまっているのに、
なんだか かるくガクッときてしまった。
わたしは有給やおこづかいをやりくりして、
やっと(というのはちょっとおおげさだけど)
旅行にでかけるのに、というヒガミだ。
これが中国だと、「仕事とはいえ たいへんだなー」になるから
ヒガミの心理はややこしい。
旅行まであと3週間ほどになり、
すこしずつ準備をすすめている。
今回は、タブレットをもっていくので
本は2,3冊におさえて、なんておもってたのに、
このごろおもしろそうな本によくみかけてしまい、
けっきょくいつものように10冊くらいのリストになりそうな
たしかな予感がある。
旅行まえは、いつも今回こそかるい荷物で、とおもうのに、
いつもカバンいっぱいになってしまう。
こんどもまたおなじことがくりかえされるのだろう。
3年前にカンボジアへいったときは、
直前に『ジェノサイド』(高野和明)をよみはじめてしまい、
逆上して600グラムもあるその本までもっていった。
パソコンも、いまではつくられていない「iBook」という
ふるい13インチのもので、2.3キロもあった。
こうなると、すこしくらい荷物をかるくするなんて どうでもよくなり、
けっきょくカバンにいっぱいの荷物になったのだ。
外国へいくから荷物がおおいかといえば、
残念ながらそうではなく、
国内を、ほんの1泊するだけでもけっこうな荷物にしてしまう。
「みじかい」という油断から、
まずよまないだろうという本や、
くらいところでの読書にとあかりにまで気をくばり、
ズルズルとカバンをふくらませる。
わたしが負担にかんじずにもてるのは、8キロまでであり、
どこへいくにも8キロのカバンになるのがわたしの旅行準備だ。
今回も、いきさきが東南アジアなのに、
わざわざ夏用の寝袋までもっていく。
タイの冬はそれなりにさむいので、あったほうがいいのはたしかとはいえ、
なしでもきっと問題はない。
これはもう、わたしのスタイルだからしょうがないとうけいれている。
図書館でかりたガイドブックをながめる。
『地球の歩き方』というシリーズで、
まえはバックパッカーむけのガイドブックとしてしられていたけれど、
いまひらくとレストランやショッピングガイド(宝石・アクセサリーも)、
スパやエステにナイトライフと、
お金もちの旅行者でもつかえるようになっている。
もっていくカバンも、まえは当然バックパックをすすめていたのに、
いまは「荷物がたくさん入ってパッキングがしやすく、
しかも頑丈なスーツケースが便利」
と、かなり方針がかわっている。
『地球の歩き方』は、まえだとすべてのわかい旅行者が、
といえるくらい、旅行先で黄色の表紙をみかけたものだけど、
さすがにいまは事情がちがってきてるだろう。
むかしは(むかし!)、ほかにえらびようがなかったのだ。
あんまりだれもがもっているので、わざわざ自分でもたなくても、
むこうでだれかにみせてもらおうと、
『地球の歩き方』をもたずにでかけたことがある。
わたしには男のつれがいて、
わりとひろい道路のむこうからわかい女性のグループがあるいてきた。
手にはお約束の『地球の歩き方』がみえたので、
「あのー、『地球の歩き方』をみせてもらえませんか?」と相棒が声をかけたら
「わたしたち、そんなのもってません!」とものすごくひかれてしまった。
ちょうどそのころ女性の旅行者がまきこまれる事件があり、
わかい女性の心理として、むこうからくるわけのわからない男たちは警戒すべき対象だったのだろう。
女性たちの人数が5,6人と、集団心理がうまれやすかったのもよくなかった。
とはいっても、なにもあんなふうにさけなくてもいいのに、
まるで日本の路上でナンパ男になにかされたような反応だ。
ガイドブックをもっているのがみえてるのに、
「もってない!」といいはりたくなるほど
わたしの相棒がいかがわしそうだったことを もうしわけなくおもった。
『地球の歩き方』は、そんなふうにトラブルのネタになるくらい
だれもがあたりまえにもって旅行していた時代があった。
2014年11月25日
『ネコ学入門』(クレア=ベサント)ネコかわいがりをやめる必要はありません
『ネコ学入門』(クレア=ベサント・築地書館)
朝日新聞の書評欄で、横尾忠則さんが紹介されていた。
横尾さんは、もっとこの本とはやくであっていれば、と残念におもっている。
「猫をペットとして一方的な愛情を押しつけ、
猫を私物化することであなたは猫の最も軽蔑すべき対象となり、
追えば追うほど猫から無縁の存在になっていくのだ。
猫が好む人間はむしろ猫に無関心。
猫は独立、独歩、自立心が強いために
余計なお世話には耐えられない。
大方の愛猫家は過剰なおせっかいをし、
その結果は嫌がられるのが落ち」
なのだそうだ。
なんだかわたしのことをかかれているような気がしてきた。
わたしはネコにとってうとましい存在で、
わたしのしていることはまちがっているのか。
でも、ネコかわいがりしないで、ネコとくらすよろこびがあるのか。
さいわい本書が図書館にあったので(2000円もする本なのだ)、
かりてきて、すぐに目をとおした。
ネコの特徴と、ネコといっしょにくらすときに注意すべきことが
こまかくかかれている。
各章のおわりには、その章のまとめが箇条がきになっていて、
わかりやすい。
よんでみると、横尾さんはよほどひねくれた目で
愛猫家のアラさがしをしたのでは、とおもえてくる。
冒頭で紹介した
「大方の愛猫家は過剰なおせっかいをし、
その結果は嫌がられるのが落ち」
なんて意味あいの記述はなく、よほど拡大解釈をしないと
そんなよみ方はできない。
「猫を追いかけて注目を押しつけてはいけない。
猫はもっとあなたから遠ざかるだけだ」
とはかいてあった。
でも、このことと横尾さんの解釈とはずいぶんちがう。
「老猫の世話」という項目では
「起きているときは、頻繁に愛情をこめて触れてやることが必要だ。
そっとグルーミングしてやれば猫はリラックスするし、
体を清潔に保ち、自尊心を失わずにいられる。
また、あなたと猫に可能なかぎり、家庭生活に参加させることも大切だ」
食欲がおちているネコについては
「そういう猫を看病するときは優しくしてやることが何よりも重要だ。
餌をやりながら励まし、話しかけよう。
猫がのこした餌は必ず新しいものと取り替えること」
まさしくわたしがピピにたいしてやっていることがかかれているので安心した。
はげまし、はなしかける効果はたしかにある。
クリア=ベサント氏は、そうしたつきあい方を大切にするひとだ。
横尾さんの紹介がなければよまなかった本で、
そういう意味では横尾さんの「おかげ」ではあるけれど、
横尾さんはいったいどういうよみ方をしているのか 不思議におもえてくる。
「訳者あとがき」で、
ご自身もネコずきであるという三木直子さんが感想をよせている。
三木さんがいわれるように、この本は基本的にそとへあそびにいくネコについてかかれており(イギリスではそれが一般的)、
家のなかだけでかうのは「家猫」という表現で
わけてあつかわれている。
家だけでかうときも、それはそれでネコもひともしあわせなのだろうが、
家のなかだけでかっていてはわからないことも たしかにある。
「猫という生物の正体は、
家猫だけを見ていたのでは半分しかわからないのかもしれない」
と三木さんはおもうようになる。
「好きなときに外に出かけ、
好きなときに家に帰ってくる。
気が向けば一日家の中で過ごすこともあるが、
ぷいと出かけて丸一日以上戻ってこないこともある。
家にいるときは、人の膝に乗り、
嬉しそうにゴロゴロ言いながらよだれを垂らし、
お腹の上でフミフミし、
昼だろうが夜だろうが我が物顔で人間のベッドで寝る甘えん坊のくせに、
一度外に出れば俊敏な野生動物に変貌する。(中略)
猫というとても身近な動物の中には、
消そうとしても消して消せない野性があるのだ」
三木さんのいわれることは、とてもよくわかる。
ネコといっしょにくらすとき、
ベタベタにかわいがり、ネコもそれをもとめてきても、
ほんの一瞬で野性の表情にきりかわることがある。
遺伝子にひきつがれ、いまもおおむかしからの記憶が支配する
むこう側の世界にさっとはいってしまう。
その野性がネコの魅力であり、
わたしはそれにひかれ、尊重したいとおもう。
ネコの野性がもとめる行動は、
たとえいっしょにくらす人間でも とめることができない。
朝日新聞の書評欄で、横尾忠則さんが紹介されていた。
横尾さんは、もっとこの本とはやくであっていれば、と残念におもっている。
「猫をペットとして一方的な愛情を押しつけ、
猫を私物化することであなたは猫の最も軽蔑すべき対象となり、
追えば追うほど猫から無縁の存在になっていくのだ。
猫が好む人間はむしろ猫に無関心。
猫は独立、独歩、自立心が強いために
余計なお世話には耐えられない。
大方の愛猫家は過剰なおせっかいをし、
その結果は嫌がられるのが落ち」
なのだそうだ。
なんだかわたしのことをかかれているような気がしてきた。
わたしはネコにとってうとましい存在で、
わたしのしていることはまちがっているのか。
でも、ネコかわいがりしないで、ネコとくらすよろこびがあるのか。
さいわい本書が図書館にあったので(2000円もする本なのだ)、
かりてきて、すぐに目をとおした。
ネコの特徴と、ネコといっしょにくらすときに注意すべきことが
こまかくかかれている。
各章のおわりには、その章のまとめが箇条がきになっていて、
わかりやすい。
よんでみると、横尾さんはよほどひねくれた目で
愛猫家のアラさがしをしたのでは、とおもえてくる。
冒頭で紹介した
「大方の愛猫家は過剰なおせっかいをし、
その結果は嫌がられるのが落ち」
なんて意味あいの記述はなく、よほど拡大解釈をしないと
そんなよみ方はできない。
「猫を追いかけて注目を押しつけてはいけない。
猫はもっとあなたから遠ざかるだけだ」
とはかいてあった。
でも、このことと横尾さんの解釈とはずいぶんちがう。
「老猫の世話」という項目では
「起きているときは、頻繁に愛情をこめて触れてやることが必要だ。
そっとグルーミングしてやれば猫はリラックスするし、
体を清潔に保ち、自尊心を失わずにいられる。
また、あなたと猫に可能なかぎり、家庭生活に参加させることも大切だ」
食欲がおちているネコについては
「そういう猫を看病するときは優しくしてやることが何よりも重要だ。
餌をやりながら励まし、話しかけよう。
猫がのこした餌は必ず新しいものと取り替えること」
まさしくわたしがピピにたいしてやっていることがかかれているので安心した。
はげまし、はなしかける効果はたしかにある。
クリア=ベサント氏は、そうしたつきあい方を大切にするひとだ。
横尾さんの紹介がなければよまなかった本で、
そういう意味では横尾さんの「おかげ」ではあるけれど、
横尾さんはいったいどういうよみ方をしているのか 不思議におもえてくる。
「訳者あとがき」で、
ご自身もネコずきであるという三木直子さんが感想をよせている。
三木さんがいわれるように、この本は基本的にそとへあそびにいくネコについてかかれており(イギリスではそれが一般的)、
家のなかだけでかうのは「家猫」という表現で
わけてあつかわれている。
家だけでかうときも、それはそれでネコもひともしあわせなのだろうが、
家のなかだけでかっていてはわからないことも たしかにある。
「猫という生物の正体は、
家猫だけを見ていたのでは半分しかわからないのかもしれない」
と三木さんはおもうようになる。
「好きなときに外に出かけ、
好きなときに家に帰ってくる。
気が向けば一日家の中で過ごすこともあるが、
ぷいと出かけて丸一日以上戻ってこないこともある。
家にいるときは、人の膝に乗り、
嬉しそうにゴロゴロ言いながらよだれを垂らし、
お腹の上でフミフミし、
昼だろうが夜だろうが我が物顔で人間のベッドで寝る甘えん坊のくせに、
一度外に出れば俊敏な野生動物に変貌する。(中略)
猫というとても身近な動物の中には、
消そうとしても消して消せない野性があるのだ」
三木さんのいわれることは、とてもよくわかる。
ネコといっしょにくらすとき、
ベタベタにかわいがり、ネコもそれをもとめてきても、
ほんの一瞬で野性の表情にきりかわることがある。
遺伝子にひきつがれ、いまもおおむかしからの記憶が支配する
むこう側の世界にさっとはいってしまう。
その野性がネコの魅力であり、
わたしはそれにひかれ、尊重したいとおもう。
ネコの野性がもとめる行動は、
たとえいっしょにくらす人間でも とめることができない。
2014年11月24日
『日本全国津々うりゃうりゃ』(宮田珠己)合コンでみかけるアンボイナガイのこわさ
『日本全国津々うりゃうりゃ』(宮田珠己・廣済堂出版)
すこしまえにこの本をブログで紹介した。
自分の家の庭を一周する「旅」がおもしろかったからで、
しかし、そのあと宮田さんの本をあたらしく数冊よみ、
そしてふるい本をよみかえしていたら、
わたしは宮田さんのことをよく理解していなかったことがわかった。
つまり、これまでは 身のまわりでおきたことを、
おもしろおかしくかくのがじょうずな作家、
くらいのおさむい評価でしかなかった。
もちろんおもしろさは大切だけど、
そればかりに目をむけていると、
宮田さんのべつの資質をみすごすことになる。
たとえば。
(石ひろいについて)
「といっても石を拾って、これが火山石で、
これがチャートでなんて分類したってつまらない。
宝石のような金になりそうな石を拾いたいわけでもない。
ただ海岸や河原にゴロゴロしているなかから、いい感じの石を拾いたいだけなのだ。
何でもそうなのだが、私が書きたいのは、
何かに関する知識や情報でなくて、その感じである」
(『スットコランド日記』より)
石とか便所サンダルとか、あつめても意味がなさそうだし
役にもたたないとおもえるものに
つよくひかれるひとがいるのはしっていたけれど、
そういうひとはふつう本なんかかない。
そのひとにとって、ほかのひとがどうおもうかは関係ないからで、
でも宮田さんは その魅力を どうにかしてつたえようとする。
宮田さんにとって大切なのは「感じ」なのだ。
高野秀行さんも宮田さんのおもしろさをたかく評価しており、
出版社のひとに宮田さんの本をだすようすすめるそうだ。
高野さんの担当者は宮田さんの本をみとめてくれるけれど、
問題は、宮田さんのおもしろさが説明しにくいことで、
出版社の会議でたとえ宮田さんの本をとりあげてみても、
「で、どこがおもしろいの?」と
あまりあたたかい反応が期待できそうにない。
いわゆるエッセイ集でもないし、ふつうに紀行本とはいいたくないし。
起伏にとむストーリーでよませるタイプともちがう。
おそらくこれからも宮田さんの本が大ベストセラーになることはないだろう。
しかし、そのショボさやうしろむきの姿勢にすくわれるひとは
けしてすくなくないはずだ。
この本では、アンボイナガイという貝のおそろしさを紹介しながら、
まったく関係ないようにみえる
合コンでの注意点をおしえてくれている。
「海にはさまざまな危ない生物がいるが、
なかでも最も気をつけなければならないのが
アンボイナという巻貝である。
アンボイナガイの恐ろしいのは、その見た目だ」
しかし、本文のよこにある絵からは
まったくその危険性がつたわってこない。
「え、何?身の毛がよだたない?
いや、そうなのである。
これが困ったぐらいふつうの見た目なのだ。
玄人にはわかるのかもしれないが、
素人にはまるで判別がつかない」
アンボイナガイが危険な貝であるのは ほんとうらしく、
さされると治療法がなく、死ぬこともおおいという。
「だが、ここで冷静に考えてみてほしい。
見た目もさほどの派手さはなく、
大人しそうで、動きもゆっくり。
むこうから積極的に攻めてくる気配もない。
これがもし合コンだったらどうか」
「ふふふ。じわじわとアンボイナガイの恐ろしさがわかってきたであろう。
つまり、うっかり手をつけてしまったが最後、
生きて帰ることはほぼ不可能。
むしろそれこそが相手の思う壺だということである」
アンボイナガイのおそろしさから、きゅうに合コンにはなしをふられると、
一瞬とまどってしまうけれど、
かんがえてみれば、たしかにこのふたつはふかい関係でむすばれている。
そうなのだ。みるからにおそろしくて、ほんとうにおそろしい毒がある
動物や植物のほうが、どれだけありがたいか。
わたしたちはみかけにビビり、そうしたあぶなそうな相手にはちかづかないようにする。
みかけがおとなしそうなアンボイナガイのような生物からは、
どこからもあぶないサインをよみとれないので ほんとうにおそろしい。
アンボイナガイや合コンでしずかにすごす相手に、
わたしたちはどう対応したらいいのだろう。
しかし、もうすこしかんがえてみると、
わたしたちはほんとうの複雑さに気づくことになる。
みかけからすでにおそろしい女性と、
アンボイナガイのように いっけんおとなしそうだけど、
じつはおそろしい女性がいる場合、
わたしたちにはどんな選択があるというのだ。
可能性としてかんがえられるのは、
・いっけんハデで、みかけどおりおっかない女性
・アンボイナガイみたいに地味にみえて、じつはこわいひと
というふたつにくわえて、
・いっけんハデだけど、じつは性格のいい女性
・アンボイナガイみたいに地味にみえ、そのみかけどおり 危険のないひと
というくみあわせも ありえるわけで、
合コンでどうふるまったらいいのか ますますわからなくなってくる。
けっきょくわたしたちには確実に安全な方法などないわけで、
ハデなお姉さんにちかづいて失敗するのもよし、
地味なアンボイナガイタイプの女性で墓穴をほるのもまた人生だと、
すべてをうけいれる覚悟がもとめられることになる。
肝心の宮田さんは、本文のなかで
そこまで親切にアンボイナガイ問題のこわさをおしえてはくれない。
むすこさんに海であそんだ感想を宮田さんがたずねたら
「ウルトラマンもウニ踏んだら痛い?」
ときかれたそうだ。
「痛いかどうか知らんが、だいぶ踏んでるやろうなあ実際」
というのが宮田のこたえというか 感想だ。
役にはたたないけど、ウソではないところが
宮田さんの奥ぶかさにつながっているのかもしれない。
すこしまえにこの本をブログで紹介した。
自分の家の庭を一周する「旅」がおもしろかったからで、
しかし、そのあと宮田さんの本をあたらしく数冊よみ、
そしてふるい本をよみかえしていたら、
わたしは宮田さんのことをよく理解していなかったことがわかった。
つまり、これまでは 身のまわりでおきたことを、
おもしろおかしくかくのがじょうずな作家、
くらいのおさむい評価でしかなかった。
もちろんおもしろさは大切だけど、
そればかりに目をむけていると、
宮田さんのべつの資質をみすごすことになる。
たとえば。
(石ひろいについて)
「といっても石を拾って、これが火山石で、
これがチャートでなんて分類したってつまらない。
宝石のような金になりそうな石を拾いたいわけでもない。
ただ海岸や河原にゴロゴロしているなかから、いい感じの石を拾いたいだけなのだ。
何でもそうなのだが、私が書きたいのは、
何かに関する知識や情報でなくて、その感じである」
(『スットコランド日記』より)
石とか便所サンダルとか、あつめても意味がなさそうだし
役にもたたないとおもえるものに
つよくひかれるひとがいるのはしっていたけれど、
そういうひとはふつう本なんかかない。
そのひとにとって、ほかのひとがどうおもうかは関係ないからで、
でも宮田さんは その魅力を どうにかしてつたえようとする。
宮田さんにとって大切なのは「感じ」なのだ。
高野秀行さんも宮田さんのおもしろさをたかく評価しており、
出版社のひとに宮田さんの本をだすようすすめるそうだ。
高野さんの担当者は宮田さんの本をみとめてくれるけれど、
問題は、宮田さんのおもしろさが説明しにくいことで、
出版社の会議でたとえ宮田さんの本をとりあげてみても、
「で、どこがおもしろいの?」と
あまりあたたかい反応が期待できそうにない。
いわゆるエッセイ集でもないし、ふつうに紀行本とはいいたくないし。
起伏にとむストーリーでよませるタイプともちがう。
おそらくこれからも宮田さんの本が大ベストセラーになることはないだろう。
しかし、そのショボさやうしろむきの姿勢にすくわれるひとは
けしてすくなくないはずだ。
この本では、アンボイナガイという貝のおそろしさを紹介しながら、
まったく関係ないようにみえる
合コンでの注意点をおしえてくれている。
「海にはさまざまな危ない生物がいるが、
なかでも最も気をつけなければならないのが
アンボイナという巻貝である。
アンボイナガイの恐ろしいのは、その見た目だ」
しかし、本文のよこにある絵からは
まったくその危険性がつたわってこない。
「え、何?身の毛がよだたない?
いや、そうなのである。
これが困ったぐらいふつうの見た目なのだ。
玄人にはわかるのかもしれないが、
素人にはまるで判別がつかない」
アンボイナガイが危険な貝であるのは ほんとうらしく、
さされると治療法がなく、死ぬこともおおいという。
「だが、ここで冷静に考えてみてほしい。
見た目もさほどの派手さはなく、
大人しそうで、動きもゆっくり。
むこうから積極的に攻めてくる気配もない。
これがもし合コンだったらどうか」
「ふふふ。じわじわとアンボイナガイの恐ろしさがわかってきたであろう。
つまり、うっかり手をつけてしまったが最後、
生きて帰ることはほぼ不可能。
むしろそれこそが相手の思う壺だということである」
アンボイナガイのおそろしさから、きゅうに合コンにはなしをふられると、
一瞬とまどってしまうけれど、
かんがえてみれば、たしかにこのふたつはふかい関係でむすばれている。
そうなのだ。みるからにおそろしくて、ほんとうにおそろしい毒がある
動物や植物のほうが、どれだけありがたいか。
わたしたちはみかけにビビり、そうしたあぶなそうな相手にはちかづかないようにする。
みかけがおとなしそうなアンボイナガイのような生物からは、
どこからもあぶないサインをよみとれないので ほんとうにおそろしい。
アンボイナガイや合コンでしずかにすごす相手に、
わたしたちはどう対応したらいいのだろう。
しかし、もうすこしかんがえてみると、
わたしたちはほんとうの複雑さに気づくことになる。
みかけからすでにおそろしい女性と、
アンボイナガイのように いっけんおとなしそうだけど、
じつはおそろしい女性がいる場合、
わたしたちにはどんな選択があるというのだ。
可能性としてかんがえられるのは、
・いっけんハデで、みかけどおりおっかない女性
・アンボイナガイみたいに地味にみえて、じつはこわいひと
というふたつにくわえて、
・いっけんハデだけど、じつは性格のいい女性
・アンボイナガイみたいに地味にみえ、そのみかけどおり 危険のないひと
というくみあわせも ありえるわけで、
合コンでどうふるまったらいいのか ますますわからなくなってくる。
けっきょくわたしたちには確実に安全な方法などないわけで、
ハデなお姉さんにちかづいて失敗するのもよし、
地味なアンボイナガイタイプの女性で墓穴をほるのもまた人生だと、
すべてをうけいれる覚悟がもとめられることになる。
肝心の宮田さんは、本文のなかで
そこまで親切にアンボイナガイ問題のこわさをおしえてはくれない。
むすこさんに海であそんだ感想を宮田さんがたずねたら
「ウルトラマンもウニ踏んだら痛い?」
ときかれたそうだ。
「痛いかどうか知らんが、だいぶ踏んでるやろうなあ実際」
というのが宮田のこたえというか 感想だ。
役にはたたないけど、ウソではないところが
宮田さんの奥ぶかさにつながっているのかもしれない。
2014年11月23日
『ぼくは眠れない』(椎名誠)ねむりとはなにか。不眠症と どうつきあうか
『ぼくは眠れない』(椎名誠・新潮新書)
アウトドアあそびがすきで、
仲間をあつめてキャンプやたきびをたのしみ、
外国・国内のあちこちをいそがしく移動しつづけ、
自分の家ですごす日はあまりなく、
体力があって酒につよく、
ちいさなことは気にせずに すぐねてしまうひと、
だとおもっていた椎名さんは、35年来
不眠症をかかえていた。
ねむれないことが、どんなふうにたいへんかが、
椎名さんの体験からかかれているわけだけど、
その椎名さんの不眠症も、
「専門家からいえばまったくどうってことのないもので、
本当の不眠症とは言えない」程度なのだそうだ。
本格的な不眠症になってしまうと、睡眠薬などきかなくて、
ひじょうに治療のむつかしい、というか
基本的にはなおらない症状だという。
本格的な不眠症でないとはいえ、
頭のなかにすむもうひとりの自分がいて、
そいつと一生つきあっていかなければならないことを
椎名さんは覚悟している。
「『不眠症状』というものをくすりなど使わず
根本から正常睡眠に戻していこう、
などという方針は捨てた。
覚醒している頑固な自分の神経を考えたときに、
その向こう側にいる、ひねくれて悪質な鏡の中の自分である
『睡眠妨害』の意欲に燃えたそいつを意識し、
その都度うまくおりあいをつけてやっていこう、と考えているのだ」
わたしはこの本を なんにちかかけて 夜ねるまえによんだ。
このところ1時くらいまでだらだらおきている日がつづいてしまい、
ねむくてたまらない。
ねむけをこらえて「 ねむれない」という本をよむのは
なんだかへんかかんじだった。
ねむれないつらさをわたしはほとんどあじわったことがないけれど、
時差でねむれない日が2,3日つづいたときは
かなりくるしかった。
こんなのがずっとつづけば さぞたいへんなのは
わたしにも想像がつく。
この本によると、基本的によわい動物は睡眠時間がみじかい。
ゆっくりねむっている余裕がないからで、
ウマは平均2.9時間というから、ずいぶんみじかい。
反対につよい動物、たとえばライオンは13.5時間もねむるという。
椎名さんは、安全な家で快適なふとんにくるまって、
たいして用事があるわけでもないのに ねむれない自分を はずかしくおもっている。
椎名さんが不眠症になったのは、サラリーマンをやめ
作家としての生活をはじめてからだ。
いくつかの原因があげられているけど、
原稿をかくことで興奮状態にある脳は
仕事がおわったからといってすぐにはねむってくれない。
椎名さんが作家になってだした本は、これまでに235冊といい(文庫をのぞく)
それだけの原稿をかきづづけてきたツケが生活全般におよび、
不眠症というかたちで椎名さんのからだに影響をあたえている。
35年というながい期間 不眠症とつきあううちに、
椎名さんはいくつかのコツをつかんでいる。
フランスからとりよせた塩による入浴法と、
落語のCDをねるときにきくといいそうで、
数百枚あるという落語のCDのなかから おなじはなしをえらんで、
噺家によるちがいをたのしむ。
本には「寝床」をシリーズとしてきいたことが 例としてあげてある。
わたしは桂枝雀の「寝床」しかしらないので、
あのおおさわぎの落語と ねむりとの関係が意外だったけど、
そうやってなにかにかるく意識をむけている、という状態がいいのだろう。
本にもこの効果はあって、よみながらねむけをおぼえ、
そのままねてしまえるときは すごく気もちいい。
もっとも、本の場合はどれでもいいというわけではなく、
むつかしくなく、でもおもしろすぎない、というかねあいがむつかしい。
なぜわたしたちはねむるのか。
ねむるとは、ガレージに車をとめてエンジンをきることとは まったくちがうそうだ。
ねむっているあいだも内蔵はうごきをとめないのとおなじように、
脳もまた活動をつづけている。
むしろねむっているときのほうが はるかに活発に活動しているそうで、
「睡眠のさいには覚醒時の意識が一時的に終わり、
もう一種類の意識がそれを引き継ぐという見方である。(中略)
夜寝床に横になるときに、自分は活動を停止するのではなく、
睡眠の王国へと離陸するのだと感じるようになることである」
(『スリープ・ウォッチャー』・W=C=デメント)
とうとらえ方が紹介してある。
わかったようでいて、人類は睡眠について しらないことがまだたくさんある。
この本をよむと、不眠症状がけして特別なひとだけのなやみではなく、
なにかをきっかけに、どんなひとにもおとずれることがわかる。
「不眠症や鬱を誘発するストレスは、人生のなかにいくらでもある。
どんな人にも、基本的にはぼくと同じような
『思いがけない』外側からの攻撃によって、
精神のバランスをめちゃくちゃにされてしまう危険が存在する」
医者にいっても睡眠薬を処方されるくらいで、
根本的な解決にはならない。
どうすればいいのか、だれにもわからない。
椎名さんは本をかくにあたって、何十冊ものねむりについての本をよんだけれど、
けっきょく たしかなことはわからなかったそうだ。
そういうはなしをきくと、なんだか腰痛とよくにているとおもう。
たくさんのひとがなやんでいるのに、決定的な解決法はなく、
それぞれが自分で工夫するしかない。
そしておおくの場合、自分とおりあいをつけることになる。
敵は外側にいるのではなく、自分の内面にひそんでいるからだ。
アウトドアあそびがすきで、
仲間をあつめてキャンプやたきびをたのしみ、
外国・国内のあちこちをいそがしく移動しつづけ、
自分の家ですごす日はあまりなく、
体力があって酒につよく、
ちいさなことは気にせずに すぐねてしまうひと、
だとおもっていた椎名さんは、35年来
不眠症をかかえていた。
ねむれないことが、どんなふうにたいへんかが、
椎名さんの体験からかかれているわけだけど、
その椎名さんの不眠症も、
「専門家からいえばまったくどうってことのないもので、
本当の不眠症とは言えない」程度なのだそうだ。
本格的な不眠症になってしまうと、睡眠薬などきかなくて、
ひじょうに治療のむつかしい、というか
基本的にはなおらない症状だという。
本格的な不眠症でないとはいえ、
頭のなかにすむもうひとりの自分がいて、
そいつと一生つきあっていかなければならないことを
椎名さんは覚悟している。
「『不眠症状』というものをくすりなど使わず
根本から正常睡眠に戻していこう、
などという方針は捨てた。
覚醒している頑固な自分の神経を考えたときに、
その向こう側にいる、ひねくれて悪質な鏡の中の自分である
『睡眠妨害』の意欲に燃えたそいつを意識し、
その都度うまくおりあいをつけてやっていこう、と考えているのだ」
わたしはこの本を なんにちかかけて 夜ねるまえによんだ。
このところ1時くらいまでだらだらおきている日がつづいてしまい、
ねむくてたまらない。
ねむけをこらえて「 ねむれない」という本をよむのは
なんだかへんかかんじだった。
ねむれないつらさをわたしはほとんどあじわったことがないけれど、
時差でねむれない日が2,3日つづいたときは
かなりくるしかった。
こんなのがずっとつづけば さぞたいへんなのは
わたしにも想像がつく。
この本によると、基本的によわい動物は睡眠時間がみじかい。
ゆっくりねむっている余裕がないからで、
ウマは平均2.9時間というから、ずいぶんみじかい。
反対につよい動物、たとえばライオンは13.5時間もねむるという。
椎名さんは、安全な家で快適なふとんにくるまって、
たいして用事があるわけでもないのに ねむれない自分を はずかしくおもっている。
椎名さんが不眠症になったのは、サラリーマンをやめ
作家としての生活をはじめてからだ。
いくつかの原因があげられているけど、
原稿をかくことで興奮状態にある脳は
仕事がおわったからといってすぐにはねむってくれない。
椎名さんが作家になってだした本は、これまでに235冊といい(文庫をのぞく)
それだけの原稿をかきづづけてきたツケが生活全般におよび、
不眠症というかたちで椎名さんのからだに影響をあたえている。
35年というながい期間 不眠症とつきあううちに、
椎名さんはいくつかのコツをつかんでいる。
フランスからとりよせた塩による入浴法と、
落語のCDをねるときにきくといいそうで、
数百枚あるという落語のCDのなかから おなじはなしをえらんで、
噺家によるちがいをたのしむ。
本には「寝床」をシリーズとしてきいたことが 例としてあげてある。
わたしは桂枝雀の「寝床」しかしらないので、
あのおおさわぎの落語と ねむりとの関係が意外だったけど、
そうやってなにかにかるく意識をむけている、という状態がいいのだろう。
本にもこの効果はあって、よみながらねむけをおぼえ、
そのままねてしまえるときは すごく気もちいい。
もっとも、本の場合はどれでもいいというわけではなく、
むつかしくなく、でもおもしろすぎない、というかねあいがむつかしい。
なぜわたしたちはねむるのか。
ねむるとは、ガレージに車をとめてエンジンをきることとは まったくちがうそうだ。
ねむっているあいだも内蔵はうごきをとめないのとおなじように、
脳もまた活動をつづけている。
むしろねむっているときのほうが はるかに活発に活動しているそうで、
「睡眠のさいには覚醒時の意識が一時的に終わり、
もう一種類の意識がそれを引き継ぐという見方である。(中略)
夜寝床に横になるときに、自分は活動を停止するのではなく、
睡眠の王国へと離陸するのだと感じるようになることである」
(『スリープ・ウォッチャー』・W=C=デメント)
とうとらえ方が紹介してある。
わかったようでいて、人類は睡眠について しらないことがまだたくさんある。
この本をよむと、不眠症状がけして特別なひとだけのなやみではなく、
なにかをきっかけに、どんなひとにもおとずれることがわかる。
「不眠症や鬱を誘発するストレスは、人生のなかにいくらでもある。
どんな人にも、基本的にはぼくと同じような
『思いがけない』外側からの攻撃によって、
精神のバランスをめちゃくちゃにされてしまう危険が存在する」
医者にいっても睡眠薬を処方されるくらいで、
根本的な解決にはならない。
どうすればいいのか、だれにもわからない。
椎名さんは本をかくにあたって、何十冊ものねむりについての本をよんだけれど、
けっきょく たしかなことはわからなかったそうだ。
そういうはなしをきくと、なんだか腰痛とよくにているとおもう。
たくさんのひとがなやんでいるのに、決定的な解決法はなく、
それぞれが自分で工夫するしかない。
そしておおくの場合、自分とおりあいをつけることになる。
敵は外側にいるのではなく、自分の内面にひそんでいるからだ。
2014年11月22日
「三谷幸喜 ありふれた生活」にでてくる、チープなコスチュームの「よわいバットマン」にひかれる
きのうの朝日新聞に掲載された三谷幸喜さんの
『ありふれた生活』で、バットマンがとりあげられていた。
バットマンといっても映画版ではなく、
47年前に放送されたアメリカのテレビシリーズのことだ。
三谷さんの記憶では「コメディ色が強い」シリーズだったらしく、
47年ぶりにみると、その記憶よりもさらに輪をかけてあそんでいたようで、
「ここまでふざけているとは」と三谷さんはおどろいている。
わたしは映画版もテレビシリーズもみたことがなく、
みたことがないものについて、ああだこうだいえないけれど、
どうもかなりかわったシリーズだったみたいだ。
三谷さんは、ふるい作品をふたたびみてなつかしかったわけではなく、
自分の記憶とずいぶんちがうバットマンに
おもってもみなかったおもしろさを発見している。
三谷さんがシリーズのコンセプトを 以下のようにまとめている。
「バットマンのコスチュームが、まずチープ過ぎる。
全身タイツに近いおっさん
(体型も決して若々しくはない)」
「そもそもバットマンは超能力もなければ、
ものすごく力が強いわけでもない。
一般人と違うのは、お金持ちということくらい。
様々な発明品を駆使して、悪人と戦うバットマンだが、
基本的に普通の人なので、すぐに窮地にたたされる。
それを頭脳と圧倒的な運の良さで毎回、切り抜けていく」
すごい。わたしがイメージしていたバットマンとぜんぜんちがう。
「基本的に普通の人なので、すぐに窮地にたたされる」
バットマンをわたしもみてみたい。
つよくもない金もちのおじさんが、
仮面をつけ、タイツをはき、
悪とたたかってすぐにおいこまれるなんて(なにしにでてくるのだ?)、
ソフィスティケートされたいまふうの美意識ではないか。
アメリカ人が「よわいバットマン」をうけいれたのが意外だし、
よくそんな企画がテレビシリーズになったものだとおもう。
よわいロボットやよわい関係など、
いまはよわさが注目をあつめているけれど、
たたまたなにかの拍子にはやっているのではなく、
人間は基本的によわさにひかれるのかもしれない。
つよさはコミュニケーションを必要としないが、
よわければ たくさんのひとにささえられて やっていくしかない。
圧倒的なつよさにへきえきしていたひとたちが、
そうした「よわいバットマン」に溜飲をさげたのだろう。
そういえば、「鷹の爪団」もダメなひとたちだ。
正義の味方も悪役も、つよさだけではひとびとの共感を得られない。
なにかひとひねりが必要であり、バットマンの場合、それがよわさだった。
というのは わたしの想像にすぎず、
どんな事情で「よわいバットマン」のシリーズがつくられたのか、
ほんとうのところはわからない。
そもそも三谷さんは「よわいバットマン」なんてひとこともかいていない。
でもまあ、そんなふうに 「よわいバットマン」だからこそ、
みんなに愛されていた、ととらえたほうがおもしろいし、
「よわいバットマン」が「つよいアメリカ」の時代につくられたのも
なにかの必然におもえてくる。
わたしもまたよわさにひかれるほうで、
きっぱりとつよく・ただしい正義の味方では
みていてつかれてしまう。
「よわいロボット」のなにもできないよさをみとめるし、
反対に『水戸黄門』や『大岡越前』の
ゆるぎないつよさは いまではまったく魅力的でない。
なんてかいておきながら、でも、かんがえてみれば
アメリカ映画のひとつのおおきなながれとして、
ふつうのひとが努力してつよいものをやっつける、というのもあきらかにある。
『ロッキー』にしても『がんばれベアーズ』にしても、
つよいものがつよいのではなく、
よわいものがつよくなる過程がこのまれているのだ。
そうした視点でみると、「よわいバットマン」は、
いかにもアメリカ的な発想であり、
アメリカンドリームを体現した作品だったともいえる。
チープなコスチュームに身をつつんだバットマンこそが
アメリカ人の基本的な価値観をあらわしているのかもしれない。
『ありふれた生活』で、バットマンがとりあげられていた。
バットマンといっても映画版ではなく、
47年前に放送されたアメリカのテレビシリーズのことだ。
三谷さんの記憶では「コメディ色が強い」シリーズだったらしく、
47年ぶりにみると、その記憶よりもさらに輪をかけてあそんでいたようで、
「ここまでふざけているとは」と三谷さんはおどろいている。
わたしは映画版もテレビシリーズもみたことがなく、
みたことがないものについて、ああだこうだいえないけれど、
どうもかなりかわったシリーズだったみたいだ。
三谷さんは、ふるい作品をふたたびみてなつかしかったわけではなく、
自分の記憶とずいぶんちがうバットマンに
おもってもみなかったおもしろさを発見している。
三谷さんがシリーズのコンセプトを 以下のようにまとめている。
「バットマンのコスチュームが、まずチープ過ぎる。
全身タイツに近いおっさん
(体型も決して若々しくはない)」
「そもそもバットマンは超能力もなければ、
ものすごく力が強いわけでもない。
一般人と違うのは、お金持ちということくらい。
様々な発明品を駆使して、悪人と戦うバットマンだが、
基本的に普通の人なので、すぐに窮地にたたされる。
それを頭脳と圧倒的な運の良さで毎回、切り抜けていく」
すごい。わたしがイメージしていたバットマンとぜんぜんちがう。
「基本的に普通の人なので、すぐに窮地にたたされる」
バットマンをわたしもみてみたい。
つよくもない金もちのおじさんが、
仮面をつけ、タイツをはき、
悪とたたかってすぐにおいこまれるなんて(なにしにでてくるのだ?)、
ソフィスティケートされたいまふうの美意識ではないか。
アメリカ人が「よわいバットマン」をうけいれたのが意外だし、
よくそんな企画がテレビシリーズになったものだとおもう。
よわいロボットやよわい関係など、
いまはよわさが注目をあつめているけれど、
たたまたなにかの拍子にはやっているのではなく、
人間は基本的によわさにひかれるのかもしれない。
つよさはコミュニケーションを必要としないが、
よわければ たくさんのひとにささえられて やっていくしかない。
圧倒的なつよさにへきえきしていたひとたちが、
そうした「よわいバットマン」に溜飲をさげたのだろう。
そういえば、「鷹の爪団」もダメなひとたちだ。
正義の味方も悪役も、つよさだけではひとびとの共感を得られない。
なにかひとひねりが必要であり、バットマンの場合、それがよわさだった。
というのは わたしの想像にすぎず、
どんな事情で「よわいバットマン」のシリーズがつくられたのか、
ほんとうのところはわからない。
そもそも三谷さんは「よわいバットマン」なんてひとこともかいていない。
でもまあ、そんなふうに 「よわいバットマン」だからこそ、
みんなに愛されていた、ととらえたほうがおもしろいし、
「よわいバットマン」が「つよいアメリカ」の時代につくられたのも
なにかの必然におもえてくる。
わたしもまたよわさにひかれるほうで、
きっぱりとつよく・ただしい正義の味方では
みていてつかれてしまう。
「よわいロボット」のなにもできないよさをみとめるし、
反対に『水戸黄門』や『大岡越前』の
ゆるぎないつよさは いまではまったく魅力的でない。
なんてかいておきながら、でも、かんがえてみれば
アメリカ映画のひとつのおおきなながれとして、
ふつうのひとが努力してつよいものをやっつける、というのもあきらかにある。
『ロッキー』にしても『がんばれベアーズ』にしても、
つよいものがつよいのではなく、
よわいものがつよくなる過程がこのまれているのだ。
そうした視点でみると、「よわいバットマン」は、
いかにもアメリカ的な発想であり、
アメリカンドリームを体現した作品だったともいえる。
チープなコスチュームに身をつつんだバットマンこそが
アメリカ人の基本的な価値観をあらわしているのかもしれない。
2014年11月21日
韓国のひとが絶讃する日本のインスタントラーメン
「一度日本のカップラーメンを食べたら、韓国のカップラーメンは食べられない」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141120-00000021-rcdc-cn
韓国のひとが日本のカップメンを絶讃している記事をよんだ。
「インスタント食品に関しては親日派になるしかない」など、
ずいぶんおおげさに感激してくれている。
ひごろあたりまえにたべているカップメンって、そんなにおいしかったのか。
ほんとうは、わたしはカップメンをそんなによくたべているわけではなく、
一年間でカップメンはゼロ、袋ラーメンが10くらいではないか。
袋ラーメンにしても、ひと袋ぜんぶだと、味にあきてしまう。
すこしだけたべると、あんがいおいしい気がするけど、
サイトで絶讃されているほど おどろきの味とはおもえない。
職場から韓国へ旅行にいったとき、
ツアーのコースにおみやげ屋さんがはいっており、
ノリやらキムチをかわなければならない ながれになっていた。
それらはあまりほしくなかったので なんとかやりすごし、
わたしはコンビニにあった韓国のインスタントラーメンをおみやげにえらんだ。
外国のインスタントラーメンがおみやげなんて、
ちょっとひねっていておもしろいかも、とおもったのだ。
とうがらし味で、そんなにおいしくはないけど、まずくもなかった。
韓国のひとに、日本へのおみやげとして袋ラーメンをえらんだといったら、
ものすごく気のきかない選択だとおもわれるかもしれない。
でも、おいしいからおみやげにするわけではなく、
はなしのタネになれば目的をはたせるのだから、
コンビニでの韓国ラーメンも あんがいわるくない かいもののような気がする。
そもそもわたしは「おみやげかわない主義者」で、
たとえ外国へいっても 基本的におみやげをかわずにやってきた。
家族や職場に義理だてしようとすると、
けっこうな荷物になるので、かわずにすませるとすごく楽だ。
おみやげが もってきたカバンにはいりきらないので、
旅行さきであたらしいカバンを配偶者がかったとき、
なんでそんなにしてまで おみやげが必要なのか、わたしはまったく理解できなかった。
しかし、「かわない」と英断できるのは わかいうちだけで、
歳をとってくると 「かわない主義だから」とばかりはいっておれなくなる。
職場はいそがしいなか やすみをとらせてくれたのだし、
家族にも協力してもらっている。
わかいころは、自分ひとりで生きてるようなつもりだったのだろう。
それが、オヤジになるにつれて、だんだん現実がわかってくる。
このまえむすこが学校から大阪へ1泊2日の研修旅行にでかけ、
あべのハルカスでおみやげをかってきてくれた。
親でさえなんとなくためらって、できればかわずにすませようとするのに、
いまの高校生はそんな気づかいもできるのか。
もちろんむすこだけでなく、ほかの生徒たちもおみやげをかっており、
おみやげをかう文化が すたれないで うけつがれていることに感心した。
世の中、かわることと、かわらないことが たしかにある。
スマホをいじるいまの高校生が、やってることは30年前とおなじなのがおもしろい。
もっとも、そんなのをおもしろがるほうがどうかしてるので、
小学生だっておみやげはかうだろう。
おみやげの精神は、何歳ごろ日本人に、
あるいは人類にインプットされるのだろう。
外国での袋ラーメンについてもうすこしかくと、
朝ごはんをたべようとソウルで食堂にはいったら、
ふつうに袋ラーメンがでてきた。
手をぬいたわけではなく、料理として堂々と袋ラーメンがつかわれている。
あとからおモチがいれられて、すこしはにぎやかになっていたけど、
外国にきてまで袋ラーメンがたべたいわけがない。
わたしとしてはすごく残念な朝ごはんだった。
カンボジアでは、昼ごはんに食堂で「なんとかヌードル」をたのんだら、
袋ラーメンがでてきた。
アジアの屋台でよくあるようなメンがたべたかったのに、
野菜がたくさんはいっているものの、あきらかに袋ラーメンであり、
たべてもそんなにおいしくない。
どうやら袋ラーメンはりっぱなメニューとしてみとめられており、
というよりも、袋ラーメンのほうが屋台のメンより 格上としてあつかわれているみたいだ。
日本における袋ラーメンは、食堂のラーメンの代用品としてスタートしたのにくらべ、
外国では 袋ラーメンはあくまでも袋ラーメンであり、
なにかのかわりではないのだ。
日本のインスタントラーメンがいかにすばらしいかは、
ほかの国のひとにいわれないと なかなかわからない。
そして、なにがおみやげとしてよろこばれるかも、
日本人にはわからないことだ。
日本人だと国内旅行では「名物」をかってくるけど、
外国人が「なんとかセンベイ」や「なんとかまんじゅう」はえらばないだろう。
以前だとやすくて性能のいい電気製品が日本を象徴するもので、
いまだとコンビニのインスタントラーメンが、クールなおみやげになるみたいだ。
ノリやキムチではなく、韓国旅行におけるおみやげは、なにがクールだったのだろう。
とかいていて おもいだした。
まえにいた事業所で、利用者とグアムへあそびにいったことがある。
そのときに、食事として日本のカップヌードルをかってたべた職員がいて、
まわりからさんざんバカにされていた。
外国のカップメンならまだしも、わざわざ日本製をえらばなくてもよさそうなものなのに。
でも、いまおもえば その職員の選択は究極にクールだったのではないか。
外国で日本料理店にいくのがありなのだから、
グアムで日清のカップヌードルをたべるのも にたようなものだ。
彼のようなひとたちが、バカにされながらも 伝道師としてひろめたおかげで
日本製カップメンは、いま これだけたかい地位をえているのだろう。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141120-00000021-rcdc-cn
韓国のひとが日本のカップメンを絶讃している記事をよんだ。
「インスタント食品に関しては親日派になるしかない」など、
ずいぶんおおげさに感激してくれている。
ひごろあたりまえにたべているカップメンって、そんなにおいしかったのか。
ほんとうは、わたしはカップメンをそんなによくたべているわけではなく、
一年間でカップメンはゼロ、袋ラーメンが10くらいではないか。
袋ラーメンにしても、ひと袋ぜんぶだと、味にあきてしまう。
すこしだけたべると、あんがいおいしい気がするけど、
サイトで絶讃されているほど おどろきの味とはおもえない。
職場から韓国へ旅行にいったとき、
ツアーのコースにおみやげ屋さんがはいっており、
ノリやらキムチをかわなければならない ながれになっていた。
それらはあまりほしくなかったので なんとかやりすごし、
わたしはコンビニにあった韓国のインスタントラーメンをおみやげにえらんだ。
外国のインスタントラーメンがおみやげなんて、
ちょっとひねっていておもしろいかも、とおもったのだ。
とうがらし味で、そんなにおいしくはないけど、まずくもなかった。
韓国のひとに、日本へのおみやげとして袋ラーメンをえらんだといったら、
ものすごく気のきかない選択だとおもわれるかもしれない。
でも、おいしいからおみやげにするわけではなく、
はなしのタネになれば目的をはたせるのだから、
コンビニでの韓国ラーメンも あんがいわるくない かいもののような気がする。
そもそもわたしは「おみやげかわない主義者」で、
たとえ外国へいっても 基本的におみやげをかわずにやってきた。
家族や職場に義理だてしようとすると、
けっこうな荷物になるので、かわずにすませるとすごく楽だ。
おみやげが もってきたカバンにはいりきらないので、
旅行さきであたらしいカバンを配偶者がかったとき、
なんでそんなにしてまで おみやげが必要なのか、わたしはまったく理解できなかった。
しかし、「かわない」と英断できるのは わかいうちだけで、
歳をとってくると 「かわない主義だから」とばかりはいっておれなくなる。
職場はいそがしいなか やすみをとらせてくれたのだし、
家族にも協力してもらっている。
わかいころは、自分ひとりで生きてるようなつもりだったのだろう。
それが、オヤジになるにつれて、だんだん現実がわかってくる。
このまえむすこが学校から大阪へ1泊2日の研修旅行にでかけ、
あべのハルカスでおみやげをかってきてくれた。
親でさえなんとなくためらって、できればかわずにすませようとするのに、
いまの高校生はそんな気づかいもできるのか。
もちろんむすこだけでなく、ほかの生徒たちもおみやげをかっており、
おみやげをかう文化が すたれないで うけつがれていることに感心した。
世の中、かわることと、かわらないことが たしかにある。
スマホをいじるいまの高校生が、やってることは30年前とおなじなのがおもしろい。
もっとも、そんなのをおもしろがるほうがどうかしてるので、
小学生だっておみやげはかうだろう。
おみやげの精神は、何歳ごろ日本人に、
あるいは人類にインプットされるのだろう。
外国での袋ラーメンについてもうすこしかくと、
朝ごはんをたべようとソウルで食堂にはいったら、
ふつうに袋ラーメンがでてきた。
手をぬいたわけではなく、料理として堂々と袋ラーメンがつかわれている。
あとからおモチがいれられて、すこしはにぎやかになっていたけど、
外国にきてまで袋ラーメンがたべたいわけがない。
わたしとしてはすごく残念な朝ごはんだった。
カンボジアでは、昼ごはんに食堂で「なんとかヌードル」をたのんだら、
袋ラーメンがでてきた。
アジアの屋台でよくあるようなメンがたべたかったのに、
野菜がたくさんはいっているものの、あきらかに袋ラーメンであり、
たべてもそんなにおいしくない。
どうやら袋ラーメンはりっぱなメニューとしてみとめられており、
というよりも、袋ラーメンのほうが屋台のメンより 格上としてあつかわれているみたいだ。
日本における袋ラーメンは、食堂のラーメンの代用品としてスタートしたのにくらべ、
外国では 袋ラーメンはあくまでも袋ラーメンであり、
なにかのかわりではないのだ。
日本のインスタントラーメンがいかにすばらしいかは、
ほかの国のひとにいわれないと なかなかわからない。
そして、なにがおみやげとしてよろこばれるかも、
日本人にはわからないことだ。
日本人だと国内旅行では「名物」をかってくるけど、
外国人が「なんとかセンベイ」や「なんとかまんじゅう」はえらばないだろう。
以前だとやすくて性能のいい電気製品が日本を象徴するもので、
いまだとコンビニのインスタントラーメンが、クールなおみやげになるみたいだ。
ノリやキムチではなく、韓国旅行におけるおみやげは、なにがクールだったのだろう。
とかいていて おもいだした。
まえにいた事業所で、利用者とグアムへあそびにいったことがある。
そのときに、食事として日本のカップヌードルをかってたべた職員がいて、
まわりからさんざんバカにされていた。
外国のカップメンならまだしも、わざわざ日本製をえらばなくてもよさそうなものなのに。
でも、いまおもえば その職員の選択は究極にクールだったのではないか。
外国で日本料理店にいくのがありなのだから、
グアムで日清のカップヌードルをたべるのも にたようなものだ。
彼のようなひとたちが、バカにされながらも 伝道師としてひろめたおかげで
日本製カップメンは、いま これだけたかい地位をえているのだろう。
2014年11月20日
『本の雑誌』の経営危機をおもいだす
『スットコランド日記』(宮田珠己)をよんでいたら、
2008年の12月にかかれた日記に
「それはそうと、編集後記に本の雑誌経営危機なんて書いてあって、驚いた」
とある。
そうだ。そんなことがあった。
あのときは、実質的な編集長をしりぞいていた椎名誠さんが、
「もう少し這いつくばってでも出していこう、
というスタッフみんなの決意」をつたえ、
『本の雑誌』の購読をうったえる記事をかいていた。
それからも 『本の雑誌』はとぎれることなく発行されているので、
経営危機はおそらくさけられたのだろう。
うれる本をつくったり(「本の雑誌社」は出版社でもある)、
経費削減をされたのだとおもう。
具体的にどんな点にちからをいれたとか、
それまでの方針とかえたこと、などは、
そのごの紙面にのることはなかった。
それは、まあ当然だ。
つぶれるかどうかの心配を、毎回 読者にさせるわけにはいかない。
宮田さんはつづけて
「『本の雑誌』がもし廃刊になったら、
それまで知らなかった面白い本に出会うチャンスがますます減って、
出版界は加速度的に白色矮星化するだろう」
とかいている。
わたしもこの雑誌がなくなってはこまるので、
それからはかかさず毎月かうようになった。
その経営危機のことはわすれてしまったけど、
その記憶がまだあたまにのこっているので、
同社がだす本をできるだけかう習慣が いまもつづいている。
わたしにできる協力は、本をかうことしかない
(あまりにもつまらなかった号のとき、いちどだけ苦情のメールをだした)。
どれだけのひとが、わたしとおなじように、
「この雑誌がなくなったら、こまる」とおもったのだろう。
社員のみなさんが、会社がつぶれてしまわないように
がんばったのはもちろんだろうけど、
なくなってほしくない、なくなってはこまる、と
おおくのひとがおもうような雑誌をつくってきたことが、
経営危機をすくう おおきなちからになったのはまちがいない。
会社ではたらくひとにとって、職場をうしなうのはこまるだろうが、
それとはまたべつのはなしとして、
おおくのひとにとって、なくなってはこまる雑誌にそだっていた。
本と読書がすきなひとにとって、
この記事はおもいもよらぬしらせであり、
『本の雑誌』の危機をしったひとたちから、
『本の雑誌』のファンです、と声をかけられたり、
書店や執筆者のかたから「なにか協力できることは?」と
もうしでがあったりして、とてもありがたかった、
と、のちの号で紹介されている。
会社がこまっている状態であることは、
声にださなければ まわりにはなかなかわからない。
『本の雑誌』がそうやって声をあげると、
いつもお世話になっているひとが「そんな状態だとはおもわなかった」
と、おどろいて なんとかちからになろうとした。
こうしてみると、会社をつぶさない要点が3つあげられる。
・つぶれてはこまると、たくさんのひとにおもってもらえるような
いい仕事をすること。
でもまあ、そんなことおもいながらは はたらけないので、
けっきょく手をぬかず、自分がなっとくできる仕事をすること。
・会社があぶなくなったときは、だまってないで たすけをもとめること。
・社員の熱意
たすけをもとめるのは、なんだか気がひけるけど、
いってもらわないとわからないし、
つぶれないのは、みんなのためでもあるので、
いざとなったらためらわずに 声をあげたほうがいい。
まっとうな会社であればまわりがほっておかないし、
まわりがそうおもわないような会社なら
なくなってもしょうがないのかもしれない。
そして、さいごには社員の熱意がものをいう。
(記事を確認するために『本の雑誌』のふるい号をよむと すごくおもしろかった。
なにがかいてあったかなんて、もうすっかりわすれているので、
あたらしい号をよむようなものだ。
ふるい新聞もいいけど、ふるい雑誌も2どめをたのしめる。
たとえば「男前の女」なんて、
最近つかわれるようになったことばかとおもっていたら、
2008年にすでに『本の雑誌』にでてくる)
2008年の12月にかかれた日記に
「それはそうと、編集後記に本の雑誌経営危機なんて書いてあって、驚いた」
とある。
そうだ。そんなことがあった。
あのときは、実質的な編集長をしりぞいていた椎名誠さんが、
「もう少し這いつくばってでも出していこう、
というスタッフみんなの決意」をつたえ、
『本の雑誌』の購読をうったえる記事をかいていた。
それからも 『本の雑誌』はとぎれることなく発行されているので、
経営危機はおそらくさけられたのだろう。
うれる本をつくったり(「本の雑誌社」は出版社でもある)、
経費削減をされたのだとおもう。
具体的にどんな点にちからをいれたとか、
それまでの方針とかえたこと、などは、
そのごの紙面にのることはなかった。
それは、まあ当然だ。
つぶれるかどうかの心配を、毎回 読者にさせるわけにはいかない。
宮田さんはつづけて
「『本の雑誌』がもし廃刊になったら、
それまで知らなかった面白い本に出会うチャンスがますます減って、
出版界は加速度的に白色矮星化するだろう」
とかいている。
わたしもこの雑誌がなくなってはこまるので、
それからはかかさず毎月かうようになった。
その経営危機のことはわすれてしまったけど、
その記憶がまだあたまにのこっているので、
同社がだす本をできるだけかう習慣が いまもつづいている。
わたしにできる協力は、本をかうことしかない
(あまりにもつまらなかった号のとき、いちどだけ苦情のメールをだした)。
どれだけのひとが、わたしとおなじように、
「この雑誌がなくなったら、こまる」とおもったのだろう。
社員のみなさんが、会社がつぶれてしまわないように
がんばったのはもちろんだろうけど、
なくなってほしくない、なくなってはこまる、と
おおくのひとがおもうような雑誌をつくってきたことが、
経営危機をすくう おおきなちからになったのはまちがいない。
会社ではたらくひとにとって、職場をうしなうのはこまるだろうが、
それとはまたべつのはなしとして、
おおくのひとにとって、なくなってはこまる雑誌にそだっていた。
本と読書がすきなひとにとって、
この記事はおもいもよらぬしらせであり、
『本の雑誌』の危機をしったひとたちから、
『本の雑誌』のファンです、と声をかけられたり、
書店や執筆者のかたから「なにか協力できることは?」と
もうしでがあったりして、とてもありがたかった、
と、のちの号で紹介されている。
会社がこまっている状態であることは、
声にださなければ まわりにはなかなかわからない。
『本の雑誌』がそうやって声をあげると、
いつもお世話になっているひとが「そんな状態だとはおもわなかった」
と、おどろいて なんとかちからになろうとした。
こうしてみると、会社をつぶさない要点が3つあげられる。
・つぶれてはこまると、たくさんのひとにおもってもらえるような
いい仕事をすること。
でもまあ、そんなことおもいながらは はたらけないので、
けっきょく手をぬかず、自分がなっとくできる仕事をすること。
・会社があぶなくなったときは、だまってないで たすけをもとめること。
・社員の熱意
たすけをもとめるのは、なんだか気がひけるけど、
いってもらわないとわからないし、
つぶれないのは、みんなのためでもあるので、
いざとなったらためらわずに 声をあげたほうがいい。
まっとうな会社であればまわりがほっておかないし、
まわりがそうおもわないような会社なら
なくなってもしょうがないのかもしれない。
そして、さいごには社員の熱意がものをいう。
(記事を確認するために『本の雑誌』のふるい号をよむと すごくおもしろかった。
なにがかいてあったかなんて、もうすっかりわすれているので、
あたらしい号をよむようなものだ。
ふるい新聞もいいけど、ふるい雑誌も2どめをたのしめる。
たとえば「男前の女」なんて、
最近つかわれるようになったことばかとおもっていたら、
2008年にすでに『本の雑誌』にでてくる)
2014年11月19日
村上龍さんの本に 山田詠美さんがかいた すごい解説
『本の雑誌 12月号』の「◯◯の10冊」は、
山田詠美さんがとりあげられている。
「読み物作家ガイド」シリーズであり、いわゆる「山田詠美の10冊」だ。
詠美さんの本は、よんでいないものがいくつもあり、
わたしには「10冊」をあげる資格がない。
わたしとしては『学問』がはいっていないのが残念だった。
山田詠美さんでおもいだすのは、
『本の雑誌 8月号』にのった倉本さおりさんの記事だ。
倉本さんによると、詠美さんは
村上龍さんの『すべての男は消耗品である。』の解説で、
さんざんその本のことをけなしている。
「私は、この本が大嫌いである」
「いくつかある彼の素晴らしい小説までもを、
田舎臭いイメージの中におとしめる
最悪のエッセイ集だと私は思っている」
おもっていることを、これだけズバッとかけるひとはそういない。
『すべての男は消耗品である。』についてくわしくはおぼえていないけど、
たぶんわたしはよんでいて、
龍さんの「貧乏人は快楽をしらない」みたいなことばによろこんだとおもう。
20年ほどまえ、わたしは龍さんの本にいかれていたときがあり、
まだわかく、よわかったわたしは 大胆な発言におどろきながら おおくの影響をうけた。
貧乏やうつくしくない女性について、なんのいいわけもせずに
ただきりすてるその傲慢さは魅力があった。
その龍さんをバッサリきりつけるなんて、詠美さんでないとできない。
「弱い男は、どのように説明しても、ただ弱いだけ」
「村上龍は、本当に、意味のない言葉に、
あえて読み手を疲れさせる意味づけをするのが得意である」
かいた詠美さんもすごいけど、依頼して 採用した龍さんもいいかんじだ。
倉本さんの
「なんにせよ、この作品が幸運だったのは、
解説をエイミーこと山田詠美が担当していることだろう」
という指摘はするどく、おそらくただしい。
それはだれかがかくべきだったし、それには山田詠美がもっともふさわしい。
詠美さんでなければ、膨大なことばをついやしたとしても
真意はつたわらないだろう。
村上龍さんは、その本をよんでいないのに
ある本の解説をかいていたので おどろいたことがある。
龍さんのことだから、堂々と、わたしはよんでない、と
はじめにバラしている。
よんでない本の解説をかく龍さんもすごいけど、
依頼された本が大嫌いという内容で 解説をかく詠美さんもすごい。
詠美さんと龍さんの関係においてのみ可能だった解説であり、
そうやって筋をとおしていく詠美さんが(おそらく龍さんも)かっこいい。
山田詠美さんがとりあげられている。
「読み物作家ガイド」シリーズであり、いわゆる「山田詠美の10冊」だ。
詠美さんの本は、よんでいないものがいくつもあり、
わたしには「10冊」をあげる資格がない。
わたしとしては『学問』がはいっていないのが残念だった。
山田詠美さんでおもいだすのは、
『本の雑誌 8月号』にのった倉本さおりさんの記事だ。
倉本さんによると、詠美さんは
村上龍さんの『すべての男は消耗品である。』の解説で、
さんざんその本のことをけなしている。
「私は、この本が大嫌いである」
「いくつかある彼の素晴らしい小説までもを、
田舎臭いイメージの中におとしめる
最悪のエッセイ集だと私は思っている」
おもっていることを、これだけズバッとかけるひとはそういない。
『すべての男は消耗品である。』についてくわしくはおぼえていないけど、
たぶんわたしはよんでいて、
龍さんの「貧乏人は快楽をしらない」みたいなことばによろこんだとおもう。
20年ほどまえ、わたしは龍さんの本にいかれていたときがあり、
まだわかく、よわかったわたしは 大胆な発言におどろきながら おおくの影響をうけた。
貧乏やうつくしくない女性について、なんのいいわけもせずに
ただきりすてるその傲慢さは魅力があった。
その龍さんをバッサリきりつけるなんて、詠美さんでないとできない。
「弱い男は、どのように説明しても、ただ弱いだけ」
「村上龍は、本当に、意味のない言葉に、
あえて読み手を疲れさせる意味づけをするのが得意である」
かいた詠美さんもすごいけど、依頼して 採用した龍さんもいいかんじだ。
倉本さんの
「なんにせよ、この作品が幸運だったのは、
解説をエイミーこと山田詠美が担当していることだろう」
という指摘はするどく、おそらくただしい。
それはだれかがかくべきだったし、それには山田詠美がもっともふさわしい。
詠美さんでなければ、膨大なことばをついやしたとしても
真意はつたわらないだろう。
村上龍さんは、その本をよんでいないのに
ある本の解説をかいていたので おどろいたことがある。
龍さんのことだから、堂々と、わたしはよんでない、と
はじめにバラしている。
よんでない本の解説をかく龍さんもすごいけど、
依頼された本が大嫌いという内容で 解説をかく詠美さんもすごい。
詠美さんと龍さんの関係においてのみ可能だった解説であり、
そうやって筋をとおしていく詠美さんが(おそらく龍さんも)かっこいい。
2014年11月18日
めんどくささとは なにか
このごろ宮田珠己さんの本についてかくことがおおく、
きょうもまたそれなので すこし気がひける。
でもまあ日記なんだし、かたいことはいわないで、
きのうかいた「めんどくさい」問題を
宮田さんの『スットコランド日記』(幻冬舎文庫)からもうすこしつづけてみる。
宮田さんは旅について「めんどくさい」とかいているけれど、
もちろんこの原則は ほかのどの場面でもいきてくる。
「旅立つときはいつもそうだが、もう全面的に面倒くさい。
毎回、もっと気力充実してから出発したいと思うけれども、
そうやって待っていても気力はとくに充実しないのであって、
まだそのときじゃないのかな、と思ったときが実は潮時である。
条件が整い、気力が高まってから行動しようと思っていたら、
いつまでたっても人生何も起こらないのだ。
それよりとにかく何でもいいから出発してしまって、
それから決心を固めていくほうが早い」
わたしが12月に予定している旅行について
ためらっているから この文章を引用したわけではない。
よく「旅行は準備をしているときがいちばんたのしい」なんてきくけど、
優等生すぎる発想におもえ、すこしちがったことをいいたくなってきた。
自分があれほどのぞんでいた旅行でも、
いろんなことがはっきりするまでの期間は たしかにめんどくさい。
宮田さんのべつの本、『だいたい四国八十八カ所』(本の雑誌社)には
こんな記述がある。
「なんのために、なんて考えていると、
旅はいつまでたっても始まらない。
意味を考える前に計画を立て、結論が出る前に出発してしまう。
これが大切である」
「めんどくさい」ということばはつかっていないけれど、
旅をはじめられないのは「めんどくさい」からなので、
旅だちへのぐずつきは、すべて「めんどくさい」問題がからんでいる。
そんなにめんどくさいのは、ほんとうはやりたくないからだろう、
というひとへの反論は
「何事もやってからだんだん面白くなるのであって、
やる前はどんなことでも面倒くさいに決っている」
と宮田さんはあんがい頑固だ。
宮田さんは、「かんがえる」ことについても
根源的な疑問をかんじているようにみえる。
「結論が出る前に出発してしまう」
これが、あんがいふかい。かんがえない。かんがえると うごけなくなる。
よりよく実行するためにかんがえをかさね、ふかめるのだろうけど、
かんがえたあげくに「やーめた」になってはぜんぜん意味がない。
そんなことなら、とにかく出発したほうがよっぽどましなわけで、
きめることと かんがえることは、なにも関係ないばかりか、
むしろかんがないほうがうまくいく例を、宮田さんはたくさん体験してきているのだろう。
「かんがえる」ことは、かなり用心してかかったほうがいい。
それにしても、いったいなぜ「めんどくさい」とおもってしまうのだろう。
めんどくさがる心理とは、いったいなにか。
宮田がいわれるように「面倒くさいは、性欲、睡眠欲とならんで
人間の三大欲望のひとつ」(11月17日のブログ参照)
がほんとうなら、めんどくささの説明なんてできっこないことになる。
ねむたいのに理由がないとおなじで、
めんどくささにも理由なんてないのだ、基本的な欲求だから。
『だいたい四国八十八カ所』には、もうひとつおそるべき発言がある。
「何事も最後までやり抜くよりも、
途中でサボるほうが難しく、
ステージの高い行為だということがわかる。
なぜなら、やり抜くのは惰性であって、
サボるのは決断だからだ」
そんなことをいわれると、だれだってさぼりたくなる。
「途中でサボる」は「途中でやめる」とおなじ意味なのだろうか。
かんがえはじめると、ブログをつづけてかくのが惰性におもえてくるから
こういうささやきには耳をかさないほうがいい。
きょうもまたそれなので すこし気がひける。
でもまあ日記なんだし、かたいことはいわないで、
きのうかいた「めんどくさい」問題を
宮田さんの『スットコランド日記』(幻冬舎文庫)からもうすこしつづけてみる。
宮田さんは旅について「めんどくさい」とかいているけれど、
もちろんこの原則は ほかのどの場面でもいきてくる。
「旅立つときはいつもそうだが、もう全面的に面倒くさい。
毎回、もっと気力充実してから出発したいと思うけれども、
そうやって待っていても気力はとくに充実しないのであって、
まだそのときじゃないのかな、と思ったときが実は潮時である。
条件が整い、気力が高まってから行動しようと思っていたら、
いつまでたっても人生何も起こらないのだ。
それよりとにかく何でもいいから出発してしまって、
それから決心を固めていくほうが早い」
わたしが12月に予定している旅行について
ためらっているから この文章を引用したわけではない。
よく「旅行は準備をしているときがいちばんたのしい」なんてきくけど、
優等生すぎる発想におもえ、すこしちがったことをいいたくなってきた。
自分があれほどのぞんでいた旅行でも、
いろんなことがはっきりするまでの期間は たしかにめんどくさい。
宮田さんのべつの本、『だいたい四国八十八カ所』(本の雑誌社)には
こんな記述がある。
「なんのために、なんて考えていると、
旅はいつまでたっても始まらない。
意味を考える前に計画を立て、結論が出る前に出発してしまう。
これが大切である」
「めんどくさい」ということばはつかっていないけれど、
旅をはじめられないのは「めんどくさい」からなので、
旅だちへのぐずつきは、すべて「めんどくさい」問題がからんでいる。
そんなにめんどくさいのは、ほんとうはやりたくないからだろう、
というひとへの反論は
「何事もやってからだんだん面白くなるのであって、
やる前はどんなことでも面倒くさいに決っている」
と宮田さんはあんがい頑固だ。
宮田さんは、「かんがえる」ことについても
根源的な疑問をかんじているようにみえる。
「結論が出る前に出発してしまう」
これが、あんがいふかい。かんがえない。かんがえると うごけなくなる。
よりよく実行するためにかんがえをかさね、ふかめるのだろうけど、
かんがえたあげくに「やーめた」になってはぜんぜん意味がない。
そんなことなら、とにかく出発したほうがよっぽどましなわけで、
きめることと かんがえることは、なにも関係ないばかりか、
むしろかんがないほうがうまくいく例を、宮田さんはたくさん体験してきているのだろう。
「かんがえる」ことは、かなり用心してかかったほうがいい。
それにしても、いったいなぜ「めんどくさい」とおもってしまうのだろう。
めんどくさがる心理とは、いったいなにか。
宮田がいわれるように「面倒くさいは、性欲、睡眠欲とならんで
人間の三大欲望のひとつ」(11月17日のブログ参照)
がほんとうなら、めんどくささの説明なんてできっこないことになる。
ねむたいのに理由がないとおなじで、
めんどくささにも理由なんてないのだ、基本的な欲求だから。
『だいたい四国八十八カ所』には、もうひとつおそるべき発言がある。
「何事も最後までやり抜くよりも、
途中でサボるほうが難しく、
ステージの高い行為だということがわかる。
なぜなら、やり抜くのは惰性であって、
サボるのは決断だからだ」
そんなことをいわれると、だれだってさぼりたくなる。
「途中でサボる」は「途中でやめる」とおなじ意味なのだろうか。
かんがえはじめると、ブログをつづけてかくのが惰性におもえてくるから
こういうささやきには耳をかさないほうがいい。
2014年11月17日
『ウはウミウシのウ』海にすむへんな生きもの、それはこんなカタチだ
『ウはウミウシのウ』(宮田珠己・小学館)
いちにちのうちで本をよむ時間はゼロ、という大学生が
4割をこえたと 新聞にとりあげられていた。
電子書籍での読書をいれた数字だという。
わかものの読書ばなれはずっとまえから指摘されている。
ほんとうだろうか、そして、
この調査は本とのつきあい方の現状を
正確にあらわしているのか。
すべての文化に優劣がないように、
読書の調査も「本である」ことにおいて相対主義だ。
どんな本をよんでも1時間は1時間で、
哲学書や純文学がたかくあつかわれたりはしない。
内容をといはじめたら ややこしすぎる問題におちいるので、
けっきょく時間ではかるしかないのだろう。
わたしはこのごろ宮田珠己さんの脱力系エッセイをよむことがおおく、
宮田さんの本だからたいしたことない、なんていわないけど、
わたしのこの読書でも、ゼロ時間の大学生よりましなのだろうかと
こそばゆいかんじだ。
読書時間の調査は、時間以外になにかをあらわしているのだろうか。
読書をすすめている本が図書館にあったので、
ざっと目をとおしてみた。
本をよむことがどんなにすばらしいかが
あつくかたられている。
どんな本にであって自分がすっかりかわったか、
なんてこともかいてあった。
さいごのページにある著者プロフィールには
「◯◯を読み、突如として△△を志す」
「周りの猛反対を押し切り・・・」
なんて なんだか得意そうだ。
たくさん本をよんでも こんな気のきかないことしか かけないのなら、
本なんてよまないほうがいいかも、みたいな文章だ。
本についてかたるのは、自分にそのままふりかかってくるので とてもむつかしい。
宮田珠己さんの『ウはウミウシのウ』をよむ。
本文にはいるまえに、「この本の収益の一部を・・・」
とかいてあった。
おっ、とおもってつづきをよむと、
「かけがえのない世界の海と
そこに棲む生きものたちを、
わたしが見に行くために捧げたい」
つまりは、そういう本だ。
この本は、宮田さんがいろいろな海でシュノーケリングをした記録がまとめられている。
宮田さんは海にすむかわった形の生きものがすきでたまらないのだ。
魚ではだめだという。
魚はどうみても魚であり、宮田さんの感性が刺激されない。
へんなかたちの生きものとは、たとえばイソギンチャクだ。
「誰でも知っているので、
ちっとも変なカタチには見えないかもしれないけれど、
襟を正して心安らかにして見るならば、
どうかしてるんじゃないかというような変なカタチである」
そんなことをいったら、すべての生きものは
じっとよくみるとへんなかたちだとおもうけど、
宮田さんは「へんなカタチ」にこだわり、
こうして1冊の本にしてしまった。
シュノーケルでもぐることはすきでも、
宮田さんはおよぐのが苦手なのだという。
「中学生になっても苦手意識は消えず
学校の水泳大会で自由形や平泳ぎレースを避けて
浮輪レースに出場したら、
これが優勝してしまって大いにかっこ悪かったのである。
クラス対抗だったからその場はいいところを見せたような形であったが、
思えば何もかっこよくない。
浮輪を肩から斜めにかければ速いということを知っていたのは、
中学生でわたしだけだったのだ」
わたしもしらなかった。
宮田さんはこのように、ささやかだけど とても役にたつ知識をたくさん身につけており、
なんまいもフセンをはってのじゅうじつした読書となった。
このおかしさを、読書時間がゼロの大学生にもおしえてあげたい。
宮田さんがシュノーケリングをこのむのは、
ダイビングはたくさんの用具をつかわなければならず、めんどくさいからで、
こわいとかケチだからとは関係がない。
わたしもこの意見に全面的に賛成するもので、
シュノーケルとフィンだけでじゅうぶんだとおもう。
「この面倒くさいという真摯な気持ちは、
なぜか世間では不当に虐げられていて、
面倒くさいじゃ理由にならんといわれることが多いのだが、
みな何か勘違いしているとしか思えない。
面倒くさいは、性欲、睡眠欲とならんで
人間の三大欲望のひとつである。(中略)
歴史上のさまざまな事件は人間のあくなき欲望によって起こったが、
一方で面倒くさいことによって多くの事件が起こらなかったのである。
もし人間が面倒くさがらなかったら、
もっともっと世界は大変なことになっていただろう」
「面倒くさ」さのもつちからには、わたしもまえから目をつけていた。
めんどくさいんじゃあ、ほんとうに しょうがないのだ。
それだけでもうなにも反論できないつよさがある。
いちにちのうちで本をよむ時間はゼロ、という大学生が
4割をこえたと 新聞にとりあげられていた。
電子書籍での読書をいれた数字だという。
わかものの読書ばなれはずっとまえから指摘されている。
ほんとうだろうか、そして、
この調査は本とのつきあい方の現状を
正確にあらわしているのか。
すべての文化に優劣がないように、
読書の調査も「本である」ことにおいて相対主義だ。
どんな本をよんでも1時間は1時間で、
哲学書や純文学がたかくあつかわれたりはしない。
内容をといはじめたら ややこしすぎる問題におちいるので、
けっきょく時間ではかるしかないのだろう。
わたしはこのごろ宮田珠己さんの脱力系エッセイをよむことがおおく、
宮田さんの本だからたいしたことない、なんていわないけど、
わたしのこの読書でも、ゼロ時間の大学生よりましなのだろうかと
こそばゆいかんじだ。
読書時間の調査は、時間以外になにかをあらわしているのだろうか。
読書をすすめている本が図書館にあったので、
ざっと目をとおしてみた。
本をよむことがどんなにすばらしいかが
あつくかたられている。
どんな本にであって自分がすっかりかわったか、
なんてこともかいてあった。
さいごのページにある著者プロフィールには
「◯◯を読み、突如として△△を志す」
「周りの猛反対を押し切り・・・」
なんて なんだか得意そうだ。
たくさん本をよんでも こんな気のきかないことしか かけないのなら、
本なんてよまないほうがいいかも、みたいな文章だ。
本についてかたるのは、自分にそのままふりかかってくるので とてもむつかしい。
宮田珠己さんの『ウはウミウシのウ』をよむ。
本文にはいるまえに、「この本の収益の一部を・・・」
とかいてあった。
おっ、とおもってつづきをよむと、
「かけがえのない世界の海と
そこに棲む生きものたちを、
わたしが見に行くために捧げたい」
つまりは、そういう本だ。
この本は、宮田さんがいろいろな海でシュノーケリングをした記録がまとめられている。
宮田さんは海にすむかわった形の生きものがすきでたまらないのだ。
魚ではだめだという。
魚はどうみても魚であり、宮田さんの感性が刺激されない。
へんなかたちの生きものとは、たとえばイソギンチャクだ。
「誰でも知っているので、
ちっとも変なカタチには見えないかもしれないけれど、
襟を正して心安らかにして見るならば、
どうかしてるんじゃないかというような変なカタチである」
そんなことをいったら、すべての生きものは
じっとよくみるとへんなかたちだとおもうけど、
宮田さんは「へんなカタチ」にこだわり、
こうして1冊の本にしてしまった。
シュノーケルでもぐることはすきでも、
宮田さんはおよぐのが苦手なのだという。
「中学生になっても苦手意識は消えず
学校の水泳大会で自由形や平泳ぎレースを避けて
浮輪レースに出場したら、
これが優勝してしまって大いにかっこ悪かったのである。
クラス対抗だったからその場はいいところを見せたような形であったが、
思えば何もかっこよくない。
浮輪を肩から斜めにかければ速いということを知っていたのは、
中学生でわたしだけだったのだ」
わたしもしらなかった。
宮田さんはこのように、ささやかだけど とても役にたつ知識をたくさん身につけており、
なんまいもフセンをはってのじゅうじつした読書となった。
このおかしさを、読書時間がゼロの大学生にもおしえてあげたい。
宮田さんがシュノーケリングをこのむのは、
ダイビングはたくさんの用具をつかわなければならず、めんどくさいからで、
こわいとかケチだからとは関係がない。
わたしもこの意見に全面的に賛成するもので、
シュノーケルとフィンだけでじゅうぶんだとおもう。
「この面倒くさいという真摯な気持ちは、
なぜか世間では不当に虐げられていて、
面倒くさいじゃ理由にならんといわれることが多いのだが、
みな何か勘違いしているとしか思えない。
面倒くさいは、性欲、睡眠欲とならんで
人間の三大欲望のひとつである。(中略)
歴史上のさまざまな事件は人間のあくなき欲望によって起こったが、
一方で面倒くさいことによって多くの事件が起こらなかったのである。
もし人間が面倒くさがらなかったら、
もっともっと世界は大変なことになっていただろう」
「面倒くさ」さのもつちからには、わたしもまえから目をつけていた。
めんどくさいんじゃあ、ほんとうに しょうがないのだ。
それだけでもうなにも反論できないつよさがある。
2014年11月16日
『戦略大作戦』戦場での合法的な銀行強盗
『戦略大作戦』(1970年・アメリカ・ブライアン=G=ハットン監督)
BSプレミアムでやっていた『戦略大作戦』をみる。
おふざけの戦争映画で、深刻ぶらずたのしい。
ドイツ軍がある町の銀行に1,600万ドル相当の 金ののべ棒を保管しており、
その情報をかぎつけた米軍の小隊が、
軍の作戦とは関係なしに、自分たちでそのお宝をものにしようとする。
彼らの隊長がいいかげんなひとで、
部隊に3日間の休暇をあたえておいて、
自分はぶんどったヨットをパリへはこぼうとでかけていった。
のこされた部隊は、自分たちだけで1.600万ドルを山わけしようと
作戦に必要な資材と仲間をあつめて
ドイツ軍が占領している町へむかった。
テリー=サバラスとクリント=イーストウッドが主役だけど、
ふたりをくってしまったのがドナルド=サザーランドだ。
戦車兵のぶっとんだおにーさんがはまり役で、
この役のために生まれたみたいに存在感がある。
テリー=サバラスは意外にもまじめな上官役で、
めちゃくちゃな部下たちに手をやいている。
イーストウッドは、ラストで戦争作品をウェスタンにしてしまった。
『MASH』にはついていけなかったけど、
この作品くらいのあそびはだいすきだ。
しかし、こうした映画はバランス感覚がむつかしく、
ふざけ方にリアリティがないと、のりきれずに しらけてしまう。
町にいくとちゅうでドイツ軍の偵察部隊と戦闘になり、
2人の犠牲者をだす。
イーストウッドたちは、かなしそうな態度をしめすものの、
そのまま町にむかってあるきはじめる。
多少の犠牲にたじろかないで、作戦をすすめるつよい精神力、
みたいな場面だったかもしれないけど、
あれでは なんの手あてもなく 畑にほったらかしにされた2人の遺体がうかばれない。
認識番号のついたタグをはずしたり、お墓をほったり、なぜしなかったのか。
町にはいりこみ、目標とする銀行のまわりをしらべると、
タイガー戦車が3台がいすわっている。
イーストウッドたちは奇襲をしかけ、いいところまでいくけど、
さいごにのこったタイガー戦車1台にはばまれて、
どうにもならなくなった。
(以下、ネタばれ)
イーストウッドたちは、相手の戦車兵にはなしをもちかける。
おたがいしがない兵士でしかなく、
そんなにがんばらないで、あの銀行にある 金ののべ棒を山わけしないか、
という交渉だ。
タイガー戦車にむかって、まるで西部劇のガンマンみたいに
イーストウッド・テリー=サバラス・ドナルド=サザーランドが
しずしずとむかっていく場面がうまい。音楽もピッタリだ。
「わけまえをやるから、タイガーで銀行のドアをぶっとばしてくれよ」
といわれたときの戦車兵の顔がおかしかった。
ドイツ兵がそんな提案にのるとはおもえないけど、
そこらへんはじょうずにつくってあって、きれいにラストまでもっていく。
『プライベート・ライアン』や『バンド・オブ・ブラザース』とくらべるまでもなく、
戦争をこうしたあそび感覚でえがく作品はほとんどない。
それがわるいというわけではなく、ああしたいいかげんさが
戦場ではあんがいありえたかも、とおもわせるリアリティがもうすこしほしかった。
そうでなければ、こんなふざけた作戦のまきぞえをくってしんだ兵隊は死にきれない。
戦争映画にむちゃをいうようだけど、だれも死なない脚本がほしかった。
1970年とふるい作品なのに、タイガー戦車やシャーマン戦車がそれらしくつくられていたし、
うごきもよかった。戦闘シーンだってたいしたものだ。
娯楽作品でありながら、そこらへんは手をぬいていない。
タイガー戦車がエンジンをかけると、うしろについたドラム缶みたいなマフラーから、
盛大にけむりがあがる。
こうしたこまやかな配慮がわたしはうれしかった。
ドナルド=サザーランドがえんじる超楽観的な戦車兵が印象にのこる。
きっとあのひとは心配なんかしないで、いい面ばかりをみることができるのだろう。
となりにいたらたまらないタイプだけど、
味方としてはたよりがいがある。
イーストウッドとテリー=サバラスだけではこの作品はなりたたなかった。
ドナルド=サザーランドの存在がこの作品のかるさを上質なものにしている。
BSプレミアムでやっていた『戦略大作戦』をみる。
おふざけの戦争映画で、深刻ぶらずたのしい。
ドイツ軍がある町の銀行に1,600万ドル相当の 金ののべ棒を保管しており、
その情報をかぎつけた米軍の小隊が、
軍の作戦とは関係なしに、自分たちでそのお宝をものにしようとする。
彼らの隊長がいいかげんなひとで、
部隊に3日間の休暇をあたえておいて、
自分はぶんどったヨットをパリへはこぼうとでかけていった。
のこされた部隊は、自分たちだけで1.600万ドルを山わけしようと
作戦に必要な資材と仲間をあつめて
ドイツ軍が占領している町へむかった。
テリー=サバラスとクリント=イーストウッドが主役だけど、
ふたりをくってしまったのがドナルド=サザーランドだ。
戦車兵のぶっとんだおにーさんがはまり役で、
この役のために生まれたみたいに存在感がある。
テリー=サバラスは意外にもまじめな上官役で、
めちゃくちゃな部下たちに手をやいている。
イーストウッドは、ラストで戦争作品をウェスタンにしてしまった。
『MASH』にはついていけなかったけど、
この作品くらいのあそびはだいすきだ。
しかし、こうした映画はバランス感覚がむつかしく、
ふざけ方にリアリティがないと、のりきれずに しらけてしまう。
町にいくとちゅうでドイツ軍の偵察部隊と戦闘になり、
2人の犠牲者をだす。
イーストウッドたちは、かなしそうな態度をしめすものの、
そのまま町にむかってあるきはじめる。
多少の犠牲にたじろかないで、作戦をすすめるつよい精神力、
みたいな場面だったかもしれないけど、
あれでは なんの手あてもなく 畑にほったらかしにされた2人の遺体がうかばれない。
認識番号のついたタグをはずしたり、お墓をほったり、なぜしなかったのか。
町にはいりこみ、目標とする銀行のまわりをしらべると、
タイガー戦車が3台がいすわっている。
イーストウッドたちは奇襲をしかけ、いいところまでいくけど、
さいごにのこったタイガー戦車1台にはばまれて、
どうにもならなくなった。
(以下、ネタばれ)
イーストウッドたちは、相手の戦車兵にはなしをもちかける。
おたがいしがない兵士でしかなく、
そんなにがんばらないで、あの銀行にある 金ののべ棒を山わけしないか、
という交渉だ。
タイガー戦車にむかって、まるで西部劇のガンマンみたいに
イーストウッド・テリー=サバラス・ドナルド=サザーランドが
しずしずとむかっていく場面がうまい。音楽もピッタリだ。
「わけまえをやるから、タイガーで銀行のドアをぶっとばしてくれよ」
といわれたときの戦車兵の顔がおかしかった。
ドイツ兵がそんな提案にのるとはおもえないけど、
そこらへんはじょうずにつくってあって、きれいにラストまでもっていく。
『プライベート・ライアン』や『バンド・オブ・ブラザース』とくらべるまでもなく、
戦争をこうしたあそび感覚でえがく作品はほとんどない。
それがわるいというわけではなく、ああしたいいかげんさが
戦場ではあんがいありえたかも、とおもわせるリアリティがもうすこしほしかった。
そうでなければ、こんなふざけた作戦のまきぞえをくってしんだ兵隊は死にきれない。
戦争映画にむちゃをいうようだけど、だれも死なない脚本がほしかった。
1970年とふるい作品なのに、タイガー戦車やシャーマン戦車がそれらしくつくられていたし、
うごきもよかった。戦闘シーンだってたいしたものだ。
娯楽作品でありながら、そこらへんは手をぬいていない。
タイガー戦車がエンジンをかけると、うしろについたドラム缶みたいなマフラーから、
盛大にけむりがあがる。
こうしたこまやかな配慮がわたしはうれしかった。
ドナルド=サザーランドがえんじる超楽観的な戦車兵が印象にのこる。
きっとあのひとは心配なんかしないで、いい面ばかりをみることができるのだろう。
となりにいたらたまらないタイプだけど、
味方としてはたよりがいがある。
イーストウッドとテリー=サバラスだけではこの作品はなりたたなかった。
ドナルド=サザーランドの存在がこの作品のかるさを上質なものにしている。
2014年11月15日
「おひさしぶり」のテクノロジーよりも、ベタ語のほうに お蔵いりしてほしい
すこしまえのラジオ番組で「おひさしぶりね」についてはなしていた。
そんなタイトルの歌もあったけど、
その歌のことではなく、ものやことばで「おひさしぶり」なものをとりあげている。
たとえばレーザーディスクやMD、それにカセットテープなど、
いまではまったく目にしなくなった、なんてことだ。
「おひさしぶりね」なんて話題は、
むかしをなつかしむ安易な内容になりやすく、
わたしはさけるようにしているけど、
わざわざそんなことを意識しなければらなないのは、
だいすきなうらがえしなのかもしれない。
宮田珠己さんの『スットコランド日記』をよんでいたら、
「携帯音楽環境はMDプレーヤーで止まっている。
カセットテープ→CD→MDまでは時代についていったのだが、
そのへんで力尽きた」
とある。2008年7月にかかれた日記だから、
6年まえにMDはすでに そのやくわりをおえていたのだ。
わたしはMDを経験せずに、CDからiPodへうつったので、
MDについてまったく「おひさしぶり」感はない。
いまはまだCD売上なんていっているけれど、
CDの寿命もそうながくないのではないか。
職場の20代前半の女性スタッフにカセットテープをしっているかたずねたところ、
「名前はしっているけど、つかったことはない」
そうだ。
スマホ世代にはケータイだってずいぶんふるくさい製品だろうし、
パソコンでさえ これからはひとにぎりのひとしかつかわない機械になるかもしれない。
いまはつかわれなくなった「おひさしぶり」のことばでは、
「あとは若い二人にまかせて」
「それは言わない約束だよ。おとっつぁん」
「きーっ!くやしい!」
など。
というのはウソで、これらは『ベタ辞典』にのっていた
鉄板のベタ語だから、きっとまだつかわれている。
番組でなにをとりあげていたかわすれてしまった。
マイクのテストで「本日は晴天なり」なんて、いまもいうのだろうか。
ベタな話題としては、
筋肉痛のはなしになると、つぎの日にいたみがでるうちはまだよくて、
なんていいだすひとがかならずいるし、
くしゃみがでれば「だれかがうわさ話を」となぜだかいまでもいうし、
血液型の性格診断はいまだに本気でしんじられているし、
お天気がのぞまれるイベントでは「◯◯さんは雨男だから」という話題になる。
これらはぜんぶ死語としてお蔵にほおりこんでおきたいのに、
何10年もかたりつがれているのはなぜなのだろう。
気になるというか、やつあたりというか、理解できない現象に、
川柳をおもしろがるひとたちがいる。
サラリーマン川柳など、やたらと◯◯川柳がつくられており、
ラジオ番組でよくよみあげられるけど、気のきいた作品はほとんどない。
おもしろくないのに「おもしろいでしょ〜」と、
おもしろさをひけらかしているところがまったくイキでない。
これは川柳の罪というよりは、それをもちあげる側のセンスのなさがレベルをさげているわけだから、
ゴロがあっていればいいというものではないと、
よい手本をしめしてほしいところだ。
こんなヤボなことをいいだすオヤジも
そのうち「おひさしぶり」からお蔵いりになって、
という発想も、ずいぶんベタだったりして。
そんなタイトルの歌もあったけど、
その歌のことではなく、ものやことばで「おひさしぶり」なものをとりあげている。
たとえばレーザーディスクやMD、それにカセットテープなど、
いまではまったく目にしなくなった、なんてことだ。
「おひさしぶりね」なんて話題は、
むかしをなつかしむ安易な内容になりやすく、
わたしはさけるようにしているけど、
わざわざそんなことを意識しなければらなないのは、
だいすきなうらがえしなのかもしれない。
宮田珠己さんの『スットコランド日記』をよんでいたら、
「携帯音楽環境はMDプレーヤーで止まっている。
カセットテープ→CD→MDまでは時代についていったのだが、
そのへんで力尽きた」
とある。2008年7月にかかれた日記だから、
6年まえにMDはすでに そのやくわりをおえていたのだ。
わたしはMDを経験せずに、CDからiPodへうつったので、
MDについてまったく「おひさしぶり」感はない。
いまはまだCD売上なんていっているけれど、
CDの寿命もそうながくないのではないか。
職場の20代前半の女性スタッフにカセットテープをしっているかたずねたところ、
「名前はしっているけど、つかったことはない」
そうだ。
スマホ世代にはケータイだってずいぶんふるくさい製品だろうし、
パソコンでさえ これからはひとにぎりのひとしかつかわない機械になるかもしれない。
いまはつかわれなくなった「おひさしぶり」のことばでは、
「あとは若い二人にまかせて」
「それは言わない約束だよ。おとっつぁん」
「きーっ!くやしい!」
など。
というのはウソで、これらは『ベタ辞典』にのっていた
鉄板のベタ語だから、きっとまだつかわれている。
番組でなにをとりあげていたかわすれてしまった。
マイクのテストで「本日は晴天なり」なんて、いまもいうのだろうか。
ベタな話題としては、
筋肉痛のはなしになると、つぎの日にいたみがでるうちはまだよくて、
なんていいだすひとがかならずいるし、
くしゃみがでれば「だれかがうわさ話を」となぜだかいまでもいうし、
血液型の性格診断はいまだに本気でしんじられているし、
お天気がのぞまれるイベントでは「◯◯さんは雨男だから」という話題になる。
これらはぜんぶ死語としてお蔵にほおりこんでおきたいのに、
何10年もかたりつがれているのはなぜなのだろう。
気になるというか、やつあたりというか、理解できない現象に、
川柳をおもしろがるひとたちがいる。
サラリーマン川柳など、やたらと◯◯川柳がつくられており、
ラジオ番組でよくよみあげられるけど、気のきいた作品はほとんどない。
おもしろくないのに「おもしろいでしょ〜」と、
おもしろさをひけらかしているところがまったくイキでない。
これは川柳の罪というよりは、それをもちあげる側のセンスのなさがレベルをさげているわけだから、
ゴロがあっていればいいというものではないと、
よい手本をしめしてほしいところだ。
こんなヤボなことをいいだすオヤジも
そのうち「おひさしぶり」からお蔵いりになって、
という発想も、ずいぶんベタだったりして。
2014年11月14日
柚木麻子さんにひかれて『シュガータイム』(小川洋子)をよむ
『シュガータイム』(小川洋子・中公文庫)
柚木麻子さんが「作家の読書道」でこの本についてはなしていた。
http://www.webdoku.jp/rensai/sakka/michi120_yuzuki/20111116_3.html
「大食いになってしまう女の子」というのでおもしろそうだ。
主人公の女性に あるときから異常な食欲がおとずれる。
いつまでもたべつづけてしまうので、ふんぎりをつけるために、
彼女はなにをたべたのか 日記につけはじめる。
ふんぎりというのは、もうそれくらいでたべるのはおしまいにする、という
くぎりのことだ。
日記にむかえば、それ以上はたべないで
あとはなにを どれだけたべたかという記録の段階にはいる。
記録、といっても、やせようとしての レコーディングダイエットではない。
日記にかきだすことで、もういちどその日にたべたものをあじわえることに
気づいたからだ。
「几帳面にゆっくりと、食べ物の名前を書き付けていった。
そうすることでやっと、
その日一日のわたしの食欲は完結した」
たとえば4月22日(火)にたべたものは、
・フレンチトースト4切れ(シナモンをかけすぎた)
・セロリのさらだ 醤油ドレッシング
・ほうれん草のココット
・ハーブティー(口に残ったシナモンの香りを消すために)
・草加せんべい5枚(ハーブの匂いを消すために)
・ドーナツ7個
・キムチ150グラムくらい(ドーナツが甘すぎて胸焼けしたから)
・フランスパン1本(口の中がひりひりしたから)
・ハヤシライス2杯
・フライドチキン8本
・ソルトクラッカー1箱
・あんずジャム1口
「わたし」がつきることのない食欲をもついっぽう、
弟のからだは成長をとめてしまったままだ
(子ども時代のメッシ選手の病気みたいに)。
恋人の吉田さんは、誠実だけどなにかわけがありそうで、
どんな問題をかかえているのか、「わたし」にはなしてくれない。
「わたし」はこれだけの量をたべても まったくふとらない。
大量のかいものに必要だったはずの お金についてもかいてない。
ものがたりのなかに、いろいろな記号がちりばめてある。
これは、わたしが苦手とする純文学作品だ。
わたしには、それらがなにを意味するのかわからない。
それでもさいごまでよめたのは、
おもしろそうにすすめている柚木さんのおかげだ。
『シュガータイム』の感想として、
「すごく可愛らしくて、おいしそうで。
卵とバターの匂いに満ちた小説でした」
とある。
ちりばめられた記号の解釈ができなくても、
小説の雰囲気をつかめたらそれでいいや、と気がらくになる。
柚木さんは、その本になにがかいてあるのかの、本質的な部分をのがさない。
ややこしいはなしでも、自分が興味のもてる
いまふうな意味にサッと とらえなおして おもしろがる。
「バルザックだったと思うんですが、
修道院あがりの娘を嫁にするのはヤバイ、と言っているんです。
バルザックって有吉弘行みたいなことを言う人だと思うんですけれど、
修道院出身の女同士は本当におしゃべりで、
夫に対する感謝の念がないぞ、って。
ゴンクール兄弟も
『あいつらは何も学んでいないくせに、
なんでも知っている』と言っている。
それって修道院だけじゃなくて
女子校のすべてをついているなと思って、
それで卒論のテーマが決まりました」
「あいつらは何も学んでいないくせに、
なんでも知っている」
いうほうも、いわれるほうもすごいけど、
そんなセリフを記憶する柚木さんも いいところをみている。
柚木麻子さんが「作家の読書道」でこの本についてはなしていた。
http://www.webdoku.jp/rensai/sakka/michi120_yuzuki/20111116_3.html
「大食いになってしまう女の子」というのでおもしろそうだ。
主人公の女性に あるときから異常な食欲がおとずれる。
いつまでもたべつづけてしまうので、ふんぎりをつけるために、
彼女はなにをたべたのか 日記につけはじめる。
ふんぎりというのは、もうそれくらいでたべるのはおしまいにする、という
くぎりのことだ。
日記にむかえば、それ以上はたべないで
あとはなにを どれだけたべたかという記録の段階にはいる。
記録、といっても、やせようとしての レコーディングダイエットではない。
日記にかきだすことで、もういちどその日にたべたものをあじわえることに
気づいたからだ。
「几帳面にゆっくりと、食べ物の名前を書き付けていった。
そうすることでやっと、
その日一日のわたしの食欲は完結した」
たとえば4月22日(火)にたべたものは、
・フレンチトースト4切れ(シナモンをかけすぎた)
・セロリのさらだ 醤油ドレッシング
・ほうれん草のココット
・ハーブティー(口に残ったシナモンの香りを消すために)
・草加せんべい5枚(ハーブの匂いを消すために)
・ドーナツ7個
・キムチ150グラムくらい(ドーナツが甘すぎて胸焼けしたから)
・フランスパン1本(口の中がひりひりしたから)
・ハヤシライス2杯
・フライドチキン8本
・ソルトクラッカー1箱
・あんずジャム1口
「わたし」がつきることのない食欲をもついっぽう、
弟のからだは成長をとめてしまったままだ
(子ども時代のメッシ選手の病気みたいに)。
恋人の吉田さんは、誠実だけどなにかわけがありそうで、
どんな問題をかかえているのか、「わたし」にはなしてくれない。
「わたし」はこれだけの量をたべても まったくふとらない。
大量のかいものに必要だったはずの お金についてもかいてない。
ものがたりのなかに、いろいろな記号がちりばめてある。
これは、わたしが苦手とする純文学作品だ。
わたしには、それらがなにを意味するのかわからない。
それでもさいごまでよめたのは、
おもしろそうにすすめている柚木さんのおかげだ。
『シュガータイム』の感想として、
「すごく可愛らしくて、おいしそうで。
卵とバターの匂いに満ちた小説でした」
とある。
ちりばめられた記号の解釈ができなくても、
小説の雰囲気をつかめたらそれでいいや、と気がらくになる。
柚木さんは、その本になにがかいてあるのかの、本質的な部分をのがさない。
ややこしいはなしでも、自分が興味のもてる
いまふうな意味にサッと とらえなおして おもしろがる。
「バルザックだったと思うんですが、
修道院あがりの娘を嫁にするのはヤバイ、と言っているんです。
バルザックって有吉弘行みたいなことを言う人だと思うんですけれど、
修道院出身の女同士は本当におしゃべりで、
夫に対する感謝の念がないぞ、って。
ゴンクール兄弟も
『あいつらは何も学んでいないくせに、
なんでも知っている』と言っている。
それって修道院だけじゃなくて
女子校のすべてをついているなと思って、
それで卒論のテーマが決まりました」
「あいつらは何も学んでいないくせに、
なんでも知っている」
いうほうも、いわれるほうもすごいけど、
そんなセリフを記憶する柚木さんも いいところをみている。
2014年11月13日
ベトナム・ラオス旅行がうごきだす
旅行の予約をする。
今回は、ホーチミンにはいってラオスをまわり、バンコクからかえるコースだ。
12月14日に出発し、1月6日にかえってくる。
冬やすみをはさむとはいえ、3週間やすめるのはありがたいことだ。
計画をたててから すこしあたためたのち、きょう旅行会社に連絡して
チケット代と席のあきぐあいをしらべてもらった。
わたしがはじめにおもっていた日程と
すこしちがってきたけど、おおむね希望がかなう。
3年ぶりの旅行がこれでうごきだした。
このコースは、1957年に梅棹忠夫さんが大阪大学の探検隊をひきいてまわっている。
その旅行の記録は、のちに『東南アジア紀行』として出版された。
梅棹さんの隊は、バンコクからスタートし、
北部タイの森林地帯をまわって隊員の配置をおえたあと、
再スタートしてカンボジア・ベトナム・ラオスをたずねている。
わたしの旅行は、このベトナム以降とほぼおなじコースになる。
梅棹さんがおこなった旅行をなぞるわけではないけれど、
すこしくらいは意識して旅行さきにえらんだのかもしれない。
いまから50年以上まえに梅棹さんがとおった道は、
いまどんなふうにかわっただろうか。
サラリーマンが3週間の旅行にでようとしたときに、
職場と家族の理解をえるのがもっともむつかしい。
でかけてしまえばこっちのものだから、
けっきょく問題は出発するまでといえる。
さいわいわたしは職場と家族に下ばなしをしたときに
あたたかい対応をえたので 安心して計画をたてることができた。
とおもっていたのに、きょう配偶者に出発とかえりの日をつたえると、
なんだか不機嫌だ。
旅行にいくはなしはしていたので、
ただ日程をつたえるだけ、とおもっていたら、
「どこにいくんですか?」なんてきいてくる。
あのひとは、不機嫌なとき ていねいなはなし方をするのだ。
そのあとなぜか職場でのわたしのポジションをきいてくる。
4時間なんてふざけた勤務が常勤とはおもえないらしい。
たしかにまわりからわたしの仕事をみたら、
いったいなにをやっているのだとおもうだろう。
そのテキトーな勤務のうえに、さらに旅行いくのが
まじめな会社員である配偶者からしたらおもしろくないのだろうか。
気づかないうちに、どこかで地雷をふんだのかもしれない。
サラリーマンが旅行にいくのは、いつだってたいへんなのだ。
今回は、ホーチミンにはいってラオスをまわり、バンコクからかえるコースだ。
12月14日に出発し、1月6日にかえってくる。
冬やすみをはさむとはいえ、3週間やすめるのはありがたいことだ。
計画をたててから すこしあたためたのち、きょう旅行会社に連絡して
チケット代と席のあきぐあいをしらべてもらった。
わたしがはじめにおもっていた日程と
すこしちがってきたけど、おおむね希望がかなう。
3年ぶりの旅行がこれでうごきだした。
このコースは、1957年に梅棹忠夫さんが大阪大学の探検隊をひきいてまわっている。
その旅行の記録は、のちに『東南アジア紀行』として出版された。
梅棹さんの隊は、バンコクからスタートし、
北部タイの森林地帯をまわって隊員の配置をおえたあと、
再スタートしてカンボジア・ベトナム・ラオスをたずねている。
わたしの旅行は、このベトナム以降とほぼおなじコースになる。
梅棹さんがおこなった旅行をなぞるわけではないけれど、
すこしくらいは意識して旅行さきにえらんだのかもしれない。
いまから50年以上まえに梅棹さんがとおった道は、
いまどんなふうにかわっただろうか。
サラリーマンが3週間の旅行にでようとしたときに、
職場と家族の理解をえるのがもっともむつかしい。
でかけてしまえばこっちのものだから、
けっきょく問題は出発するまでといえる。
さいわいわたしは職場と家族に下ばなしをしたときに
あたたかい対応をえたので 安心して計画をたてることができた。
とおもっていたのに、きょう配偶者に出発とかえりの日をつたえると、
なんだか不機嫌だ。
旅行にいくはなしはしていたので、
ただ日程をつたえるだけ、とおもっていたら、
「どこにいくんですか?」なんてきいてくる。
あのひとは、不機嫌なとき ていねいなはなし方をするのだ。
そのあとなぜか職場でのわたしのポジションをきいてくる。
4時間なんてふざけた勤務が常勤とはおもえないらしい。
たしかにまわりからわたしの仕事をみたら、
いったいなにをやっているのだとおもうだろう。
そのテキトーな勤務のうえに、さらに旅行いくのが
まじめな会社員である配偶者からしたらおもしろくないのだろうか。
気づかないうちに、どこかで地雷をふんだのかもしれない。
サラリーマンが旅行にいくのは、いつだってたいへんなのだ。
2014年11月12日
口内炎をわずらうネコにわたしたちができること
口内炎からピピが食事をとりにくくなって、4ヶ月になる。
人間もたべすぎたり栄養がかたよると口内炎ができるけど、
ネコのは それが口のなかじゅうにひろがるのだから、すごくいたそうだ。
ネコの口内炎は、ほかの病気(ウィルス感染)の症状としておこる場合がおおく、
たべられないうえに、からだがだんだんとよわっていく。
口のなかの状態に気をつけていても、口内炎になるときはなるし、
原因がわからないときもある。
いっしょにくらしているネコの口内炎に、
胸をいためているひとはおおいのではないか。
口のなかに炎症がひろがるので、
いたくてご飯がたべれなくなるし、
アクビをしただけで いたさになき声をあげることもある。
ネットをみると、歯みがきや薬による対応がかいてあるけれど、
いたがるのでとても歯みがきなんかさせてくれないし、薬もいやがる。
健康食品や奇跡の水などに たよらないとしたとき、
わたしはなにができるだろうか。
ピピの食事につきそっていて 気づいたことをかいてみる。
1 固形タイプ(カリカリ)より、カンヅメのほうがたべやすい
2 たべてくれるものをいろいろためす
3 いやがっても、しつこくお皿を口のほうにもっていく
4 たべるときはそばについて 声をかけたりなでたりして応援する
(じゃまにならない程度に)
それぞれについて説明すると、
1 カリカリは口のなかのいたいところにあたることがおおく、
いやがるようになる。
2 カンヅメにもいろいろな種類があり、
たべなくなったら たべてくれるものにかえる。
テリーヌ状態のものがピピはたべやすいようだ。
カンヅメでなくても、たとえば魚のゆでたものでも、
たべてくれるならなんでもいい。
3 ご飯がほしそうなそぶりをしているのに、
カンヅメをあけても そっぽをむいて たべないことがおおい。
いたみの記憶が場所やお皿とむすびついた二次障害なので、
場所やお皿をかえてみる。
いやがっても、しつこくなんどもお皿にむかうように うながしてみる。
病院では注射器から強制的に口にいれる「強制給餌」をすすめられるけど、
ひどくいたがるし、たいした量をとれるわけではないので、
自分でたべてくれるよう 気ながにつきあったほうがいいとおもう。
4 すこしたべただけで、お皿からはなれることがおおい。
そんなときもすぐにあきらめないで、しつこくすすめていく。
ネコは自分なりにいたくないたべ方を工夫しているので、
モンプチのようなちいさなカンヅメでも20分以上かかることがある。
それだけの時間 たべつづけるのはネコにとってもたいへんなことであり、
そばにいてくれるひとの存在が はげましになるような気がする。
もうこれ以上はたべられない、というときは、
お皿に関心をしめさなくなり、むこうへいこうとするので、
無理にすすめないで つぎの機会をまつ。
どこまでが ほんとはたべたいのに そっぽをむいているのか、
それとも、ほんとうにもうおなかがいっぱいなのかの
みきわめがすこしむつかしい。
まとめると、お皿にむかわないからとあきらめないで、
しつこくたべものを口にもっていく。
そして、そばについてはげますこと。
応援がうまくとどいて ひと缶ぜんぶをたべてくれたら どんなにうれしいか。
こうしたことができるのは、
ピピが自分のほうから食欲をしめしてくれるときだけで、
ベッドにまるまっているときに いくらお皿をもっていっても たべてはくれない。
からだがよわっているピピにしたら、
たべるだけでも大仕事のようで、
たべおえたあとは 満足そうに毛づくろいをしてから
ただひたすらねむっている(半日でも)。
お医者さんは、さいごの手段として歯をぬく方法をいわれたけど、
それはさすがにむごすぎて わたしにはおねがいできない。
口内炎ができているネコは、ほかの症状をかかえていることもおおいそうで、
ピピも腎臓の調子がよくないのか
水をよくのみ、おしっこをたくさんするようになった。
ひとりでたべたり のんだりできなくなったら、
その状態をうけいれて、しずかにすごすしかないとおもっている。
人間もたべすぎたり栄養がかたよると口内炎ができるけど、
ネコのは それが口のなかじゅうにひろがるのだから、すごくいたそうだ。
ネコの口内炎は、ほかの病気(ウィルス感染)の症状としておこる場合がおおく、
たべられないうえに、からだがだんだんとよわっていく。
口のなかの状態に気をつけていても、口内炎になるときはなるし、
原因がわからないときもある。
いっしょにくらしているネコの口内炎に、
胸をいためているひとはおおいのではないか。
口のなかに炎症がひろがるので、
いたくてご飯がたべれなくなるし、
アクビをしただけで いたさになき声をあげることもある。
ネットをみると、歯みがきや薬による対応がかいてあるけれど、
いたがるのでとても歯みがきなんかさせてくれないし、薬もいやがる。
健康食品や奇跡の水などに たよらないとしたとき、
わたしはなにができるだろうか。
ピピの食事につきそっていて 気づいたことをかいてみる。
1 固形タイプ(カリカリ)より、カンヅメのほうがたべやすい
2 たべてくれるものをいろいろためす
3 いやがっても、しつこくお皿を口のほうにもっていく
4 たべるときはそばについて 声をかけたりなでたりして応援する
(じゃまにならない程度に)
それぞれについて説明すると、
1 カリカリは口のなかのいたいところにあたることがおおく、
いやがるようになる。
2 カンヅメにもいろいろな種類があり、
たべなくなったら たべてくれるものにかえる。
テリーヌ状態のものがピピはたべやすいようだ。
カンヅメでなくても、たとえば魚のゆでたものでも、
たべてくれるならなんでもいい。
3 ご飯がほしそうなそぶりをしているのに、
カンヅメをあけても そっぽをむいて たべないことがおおい。
いたみの記憶が場所やお皿とむすびついた二次障害なので、
場所やお皿をかえてみる。
いやがっても、しつこくなんどもお皿にむかうように うながしてみる。
病院では注射器から強制的に口にいれる「強制給餌」をすすめられるけど、
ひどくいたがるし、たいした量をとれるわけではないので、
自分でたべてくれるよう 気ながにつきあったほうがいいとおもう。
4 すこしたべただけで、お皿からはなれることがおおい。
そんなときもすぐにあきらめないで、しつこくすすめていく。
ネコは自分なりにいたくないたべ方を工夫しているので、
モンプチのようなちいさなカンヅメでも20分以上かかることがある。
それだけの時間 たべつづけるのはネコにとってもたいへんなことであり、
そばにいてくれるひとの存在が はげましになるような気がする。
もうこれ以上はたべられない、というときは、
お皿に関心をしめさなくなり、むこうへいこうとするので、
無理にすすめないで つぎの機会をまつ。
どこまでが ほんとはたべたいのに そっぽをむいているのか、
それとも、ほんとうにもうおなかがいっぱいなのかの
みきわめがすこしむつかしい。
まとめると、お皿にむかわないからとあきらめないで、
しつこくたべものを口にもっていく。
そして、そばについてはげますこと。
応援がうまくとどいて ひと缶ぜんぶをたべてくれたら どんなにうれしいか。
こうしたことができるのは、
ピピが自分のほうから食欲をしめしてくれるときだけで、
ベッドにまるまっているときに いくらお皿をもっていっても たべてはくれない。
からだがよわっているピピにしたら、
たべるだけでも大仕事のようで、
たべおえたあとは 満足そうに毛づくろいをしてから
ただひたすらねむっている(半日でも)。
お医者さんは、さいごの手段として歯をぬく方法をいわれたけど、
それはさすがにむごすぎて わたしにはおねがいできない。
口内炎ができているネコは、ほかの症状をかかえていることもおおいそうで、
ピピも腎臓の調子がよくないのか
水をよくのみ、おしっこをたくさんするようになった。
ひとりでたべたり のんだりできなくなったら、
その状態をうけいれて、しずかにすごすしかないとおもっている。
2014年11月11日
むすこの誕生日におもうこと
20歳になったばかりの女性職員が、出勤簿をつけるときに
「今日って、何日でしたっけ?」とたずねてきた。
50代のわたしは、こわくてそんなこときけない。
サラッと口にだせるのがわかさの特権だと感心した。
「きょうは10日です」
わたしはすぐにこたえられた。
きのうはむすこの誕生日だったのだ。
17歳になった。
夕ごはんはいつもよりにぎやかなテーブルになるよう
ステーキやサンドイッチをならべる。
料理はできるけど、きれいなもりつけや、
ひとてまかけた こまやかなおいしさがわたしは苦手で、
とにかくおいわいの雰囲気になればいいとおもった。
誕生日だからといってだんらんがはずむわけではなく、
いつものようにテレビをみながら、しずかにたべる。
きょねんの誕生日には、フリースのプレゼントと、
あとからおもいついて村上春樹さん訳の
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』をすすめている。
あれからもう1年がすぎたのだ。
ありがたいことに、なにごともない1年だった。
高校生だというのに、むすこは毎日5時に学校からかえってくる。
ときどきは友だちがあそびにきてくれるし、
夕ごはんがおわってからそとにでかけることもある。
それなりにあそびながら、ぶじに1年をすごせたことを感謝する。
むすこをまじえた いまの平凡な日常が、
あと1年ちょっとしかつづかないことを すこしさみしくおもう。
「web本の雑誌」に連載されている杉江さんのブログ「炎の営業日誌」に、
中2のむすめさんの背がのびて、杉江さんとかわらなくなったとかかれている。
http://www.webdoku.jp/column/sugie/
「大きくなれ。
どんどん大きくなれ」
背のたかさがおいつかれてがっくり、ではなくて、
おおきくなれといえる 杉江さんのふところのひろさが いいかんじだ。
なにもおこらないようでいて、すこしずついろんなことがかわっていく。
「今日って、何日でしたっけ?」とたずねてきた。
50代のわたしは、こわくてそんなこときけない。
サラッと口にだせるのがわかさの特権だと感心した。
「きょうは10日です」
わたしはすぐにこたえられた。
きのうはむすこの誕生日だったのだ。
17歳になった。
夕ごはんはいつもよりにぎやかなテーブルになるよう
ステーキやサンドイッチをならべる。
料理はできるけど、きれいなもりつけや、
ひとてまかけた こまやかなおいしさがわたしは苦手で、
とにかくおいわいの雰囲気になればいいとおもった。
誕生日だからといってだんらんがはずむわけではなく、
いつものようにテレビをみながら、しずかにたべる。
きょねんの誕生日には、フリースのプレゼントと、
あとからおもいついて村上春樹さん訳の
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』をすすめている。
あれからもう1年がすぎたのだ。
ありがたいことに、なにごともない1年だった。
高校生だというのに、むすこは毎日5時に学校からかえってくる。
ときどきは友だちがあそびにきてくれるし、
夕ごはんがおわってからそとにでかけることもある。
それなりにあそびながら、ぶじに1年をすごせたことを感謝する。
むすこをまじえた いまの平凡な日常が、
あと1年ちょっとしかつづかないことを すこしさみしくおもう。
「web本の雑誌」に連載されている杉江さんのブログ「炎の営業日誌」に、
中2のむすめさんの背がのびて、杉江さんとかわらなくなったとかかれている。
http://www.webdoku.jp/column/sugie/
「大きくなれ。
どんどん大きくなれ」
背のたかさがおいつかれてがっくり、ではなくて、
おおきくなれといえる 杉江さんのふところのひろさが いいかんじだ。
なにもおこらないようでいて、すこしずついろんなことがかわっていく。