『家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。』
(作:K.Kajunsky / 漫画:ichida / PHP研究所)
「ヤフー知恵袋」にのった相談が話題になり、
マンガ化されたもの、らしい。
わたしは「ヤフー知恵袋」がだいきらいで、
そんなこと質問せずに 自分でかんがえろ、といらついてしまう。
しかしこの相談は、たしかにひとりでかかえこむには難問すぎる。
わたしも「必ず死んだふり」をする奥さんについてかんがえさせられた。
かんがえたのは、もちろん配偶者のことだ。
「ちえさん」が、死んだふりをする奥さんの名前だ。
彼女がなぜそんなことをするのか、夫にもよくわからない。
相手にしないでいると、首になわをつけたり、
口から血をたらしたりと 演出がエスカレートしていく。
わからなくても 夫はいらだったり といつめたりはせず、
基本はスルーしながらおだやかにつきそっている。
わたしの配偶者は、死んだふりはしないまでも、
この「よくわからなさ」がとてもよくにているとおもった。
ことばにだして説明してくれない。
なんかよそよそしいし、距離感がとりにくい。
不機嫌なわけではない。
用がなければなにもはなさないし、
用があっても よほどでないと自分からは口をひらかない。
無口なのかもしれないけど、職場ではふつうにやっているようだ。
わたしと家のなかでであわないように、
ビミョーに時間をずらしてうごく。
わたしがひっこんだところに彼女がはいってきたり、
その逆だったり。
なんだかすこしずつみごとにずれるなー、と感心していたら、
彼女がタイミングをコントロールしているみたいなのだ。
わたしがきらいだからではなく、これが彼女のやり方なのだと
ずいぶんしてから気づいた。
それで夫婦といえるのか、といわれそうだけど、
わたしはこれでいいとおもうようになった。
あまり一般的とはいえないにしても、これもまたひとつの形であり、
そういうひともいるのだ。
ちえさんのはなしをよんでいると、
配偶者もまた彼女なりのやり方で、
おだやかな日常をたのしんでいるとおもえてきた。
どうでもいいようなことをはなしかけてきてこまる、とか
いつも長電話で、とかいう男性側の苦情をよくきくけど、
わたしと配偶者との関係にはあてはまらない。
わたしたちが特殊なのかとこれまでおもってたけど、
このマンガをみると、あんがいこういう女性はおおいのかもしれない。
波風があってあたりまえだろう、それが生活というものだ、
というのが一般的にはいわれている。
それもまたひとつの形にすぎないわけで、
わが家が絵にかいたような家族でないとしても、
ひとつの家族であることはまちがいない。
それでじゅうぶんだ。
ちえさんは、にぎやかなおしゃべりはきっと苦手だろう。
ほかのひとがもりあがっていても、
それをとなりでしっかりきいているだけで、
自分から輪にはいったりしない。
それがいいというわけではないけれど、
そういうひともいることが
このマンガによってひろくうけいれられたのではないか。
電車にのったとき、老婦人に席をゆずったちえさんは、
てれくささから つつつーと、となりの車両にうつってしまう。
「いいことをしましたね」と家にもどってから夫がほめると
ちえさんはまだはずかしがっていて、むこうへにげてしまった。
そして、つぎの日には、ウルトラマンのお面をかぶっている。
それならはずかしくないようで、
夫がなにをはなしかけても「ゼアッ」と
ウルトラマン語でかえすだけだから 会話にならない。
会話にしたくないことを、ちえさんはお面をかぶってつたえている。
ひとはつい、自分を基準にものごとをかんがえがちで、
それからはずれると「かわっている」「ふつうじゃない」と
拒否反応をしめしがちだ。
一般的でないちえさんは、まちがっているのではなく、
それが彼女のスタイルというだけのことだ。
「家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています」という
ありえない相談が たくさんのひとにうけいれられたのは、
ちえさん的な人間への共感からだろう。
「必ず死んだふり」をする奥さんがいるくらいだから、
これからの相談ごとは、たしょうのことではおどろけない。
なんでもありだし、それでいいのだ。
ちえさんがはたしたやくわりはおおきい。
2014年11月10日
2014年11月09日
老後に月30万円も必要だなんて
朝日新聞土曜日版の連載「続・お金のミカタ」で
老後にかかる費用をとりあげている。
きのうは「施設タイプで負担も変わる」として、
「住宅型有料老人ホーム」にすむ新井さんの例が紹介されていた。
1ヶ月にかかる費用は、
・家賃 10万4000円(1LDK)
・共益費 3万1500円
・基本サービス(安否確認など)3万2400円
・厨房管理費(自炊をしているので)2万8000円
これに光熱水費をくわえて、10月の請求は約20万円だったという。
それ以外に、
・食費 約3万円
・電話代(固定と携帯)1万円
・医療費・交際費など 4〜5万円
が必要なので、あわせると月に30万円弱の支出になる。
週刊誌の広告に、「老後には3千万円が必要」などとあるのは、
これらの支出をもとに計算しているのだろう。
それにしても、「有料」となのっているとはいえ、
老人ホームにはいっていながら月に30万円も必要だとはしらなかった。
基本サービスや厨房管理費でこれだけしっかり請求できれば
経営する事業者としてはおいしい「サービス」だろう。
介護が必要になれば、このうえに介護保険料やおむつ代などがかかってくる。
新井さんは、年金が月に17万円あり、
そのうえに貯金を毎月11〜12万円とりくずしているそうで、
貯金が3千万円あるから、いまの生活でも20年はつづけられる。
これだけのお金をはらえるひとはいいとして、
たくわえがなければどうなるのか。
介護保険制度の施設として、要介護度がたかくなれば
特別養護老人ホームがあるけれど、
待機者が全国で52万人というから、
だれでもはいれるとはおもわないほうがいい。
今朝の新聞には、制度外のホームで 拘束があたりまえにおこなわれている状況が報告されている。
記事になったシニアマンションは、
「家賃、介護費、医療費、食費などを含めて月約15万円」で、
敷金や一時金もいらないといい、
ヘルパーが介護におとずれるやり方だ。
15万円がやすいとはおもわないし、
それだけはらっても 快適な生活は保障されないのだ。
制度外のサービスなので、行政からの指導ははいらず、
法的に責任がとわれることはない。
老人がくらせる施設は不足しており、
いいホームはたかくてはいれないし、
やすいところは拘束されるでは、
歳をとってから 安心してくらせる場所がない。
うけいれる側も、数がたりないのはわかっているので、
あしもとをみるように法外な値段をつける。
団塊の世代が高齢化をむかえる2025年にむけて、
老人やその家族のよわみにつけこんだ えげつないビジネスが
これからはつくられていくのではないか。
それにしても、あたりまえの生活をもとめているだけなのに、
老後を安心できなかったり、
かなりたくわえがなければ まともなサービスをうけれないのは、
なにかがおかしい。
せっかくながいきしたのに残念すぎる。
人生のさいごが拘束だなんて、あまりにも悲惨だ。
わたしにこまかな老後の計画はないけれど、
とても老人ホームにはいったり、介護をうけるお金はなさそうだ。
けっきょく健康に気をつけて、
死ぬすこしまえまで げんきに生きるしかない。
健康をたもち、自分の家でくらすことが
わたしにはどうしても必要な老後の条件となる。
ひとりで死ぬのはさみしいかもしれないけど、
拘束されるより はるかにましだ。
わたしがひごろとりくんでいるジョギングや水泳は、
トレーニングというより
死ぬまでげんきでいるための、切実で かかすことのできない準備におもえてきた。
老後にかかる費用をとりあげている。
きのうは「施設タイプで負担も変わる」として、
「住宅型有料老人ホーム」にすむ新井さんの例が紹介されていた。
1ヶ月にかかる費用は、
・家賃 10万4000円(1LDK)
・共益費 3万1500円
・基本サービス(安否確認など)3万2400円
・厨房管理費(自炊をしているので)2万8000円
これに光熱水費をくわえて、10月の請求は約20万円だったという。
それ以外に、
・食費 約3万円
・電話代(固定と携帯)1万円
・医療費・交際費など 4〜5万円
が必要なので、あわせると月に30万円弱の支出になる。
週刊誌の広告に、「老後には3千万円が必要」などとあるのは、
これらの支出をもとに計算しているのだろう。
それにしても、「有料」となのっているとはいえ、
老人ホームにはいっていながら月に30万円も必要だとはしらなかった。
基本サービスや厨房管理費でこれだけしっかり請求できれば
経営する事業者としてはおいしい「サービス」だろう。
介護が必要になれば、このうえに介護保険料やおむつ代などがかかってくる。
新井さんは、年金が月に17万円あり、
そのうえに貯金を毎月11〜12万円とりくずしているそうで、
貯金が3千万円あるから、いまの生活でも20年はつづけられる。
これだけのお金をはらえるひとはいいとして、
たくわえがなければどうなるのか。
介護保険制度の施設として、要介護度がたかくなれば
特別養護老人ホームがあるけれど、
待機者が全国で52万人というから、
だれでもはいれるとはおもわないほうがいい。
今朝の新聞には、制度外のホームで 拘束があたりまえにおこなわれている状況が報告されている。
記事になったシニアマンションは、
「家賃、介護費、医療費、食費などを含めて月約15万円」で、
敷金や一時金もいらないといい、
ヘルパーが介護におとずれるやり方だ。
15万円がやすいとはおもわないし、
それだけはらっても 快適な生活は保障されないのだ。
制度外のサービスなので、行政からの指導ははいらず、
法的に責任がとわれることはない。
老人がくらせる施設は不足しており、
いいホームはたかくてはいれないし、
やすいところは拘束されるでは、
歳をとってから 安心してくらせる場所がない。
うけいれる側も、数がたりないのはわかっているので、
あしもとをみるように法外な値段をつける。
団塊の世代が高齢化をむかえる2025年にむけて、
老人やその家族のよわみにつけこんだ えげつないビジネスが
これからはつくられていくのではないか。
それにしても、あたりまえの生活をもとめているだけなのに、
老後を安心できなかったり、
かなりたくわえがなければ まともなサービスをうけれないのは、
なにかがおかしい。
せっかくながいきしたのに残念すぎる。
人生のさいごが拘束だなんて、あまりにも悲惨だ。
わたしにこまかな老後の計画はないけれど、
とても老人ホームにはいったり、介護をうけるお金はなさそうだ。
けっきょく健康に気をつけて、
死ぬすこしまえまで げんきに生きるしかない。
健康をたもち、自分の家でくらすことが
わたしにはどうしても必要な老後の条件となる。
ひとりで死ぬのはさみしいかもしれないけど、
拘束されるより はるかにましだ。
わたしがひごろとりくんでいるジョギングや水泳は、
トレーニングというより
死ぬまでげんきでいるための、切実で かかすことのできない準備におもえてきた。
2014年11月08日
『家族の灯り』と、しまね映画祭からえた教訓について
『家族の灯り』をみる。
予告編をみたときから、いやな予感がしていたのだ。
あたった。
わたしには、この手の「芸術作品」を評価するちからがない。
なかでも「巨匠」とよばれるひとがつくったものは、まず理解できない。
わたしは本がすきだけど、純文学作品はなんのことかわからないものがおおく、
映画についてもおなじような傾向がある。
わたしによさがわからなかったから、
その作品がつまらないときめつけるつもりはないけれど、
これはそうとうなものだった。
もちろんあくまでも個人的な感想として。
とちゅうで席をたったひとがひとりいて、
つまらないという理由ではないかもしれないが、
もし30人ぐらいのひとがとちゅうでかえったら、
上映会の主催者は作品をえらぶときに
観客がこのむ作品の傾向を かんがえてくれるだろうか、とふとおもった。
わたしも席をたって、「たいくつ」「理解できない」の
意思表示をするべきだろうか。
まよいつつも、いったいどんなラストをむかえるのか、
こわいものみたさでみつづけていたら、
さいわいみじかい90分ほどの作品だったので、
そのあとじきにおわった。
まったくあっけない幕ぎれで、やはりわたしには
なんのことかわからない。
わからない、とマイナスの感想をいくらかいてもしょうがいないけど、
「巨匠」だったらそうした評価をうけるリスクも
当然かんがえたうえの製作だろう。
あえてわかったふりはやめ、
全面的にわたしにはあわなかったことを記録しておく。
この作品は、しまね映画祭の一貫として上映されたものだ。
23回目となるこの映画祭は、年ごとのテーマにそって
いくつかの作品を上映する。
日本一ながい期間の映画祭というわりには、
入場者数がだんだんへってきている状況を
きょねんのブログにかいたことがある。
http://d.hatena.ne.jp/guriguripipi/searchdiary?word=%A4%B7%A4%DE%A4%CD%B1%C7%B2%E8%BA%D7
「おまつり」として、ことしの上映作品はどううけとめられただろうか。
わたしは2本みて、1本はとちゅうでみるのをやめ、
もう1本がきょうの『家族の灯り』なので、
ことしもまた「あたり」とはいえない企画だった。
映画祭でない期間のほうがわたしにはたのしめる作品がおおく、
こうなってくると映画祭にはいったら
映画をみないほうがいいという、おかしなおまつりになってしまう。
映画祭はできればさけること、
芸術作品は、90分ていどがありがたいというのが、
きょうの作品からえた教訓だ。
予告編をみたときから、いやな予感がしていたのだ。
あたった。
わたしには、この手の「芸術作品」を評価するちからがない。
なかでも「巨匠」とよばれるひとがつくったものは、まず理解できない。
わたしは本がすきだけど、純文学作品はなんのことかわからないものがおおく、
映画についてもおなじような傾向がある。
わたしによさがわからなかったから、
その作品がつまらないときめつけるつもりはないけれど、
これはそうとうなものだった。
もちろんあくまでも個人的な感想として。
とちゅうで席をたったひとがひとりいて、
つまらないという理由ではないかもしれないが、
もし30人ぐらいのひとがとちゅうでかえったら、
上映会の主催者は作品をえらぶときに
観客がこのむ作品の傾向を かんがえてくれるだろうか、とふとおもった。
わたしも席をたって、「たいくつ」「理解できない」の
意思表示をするべきだろうか。
まよいつつも、いったいどんなラストをむかえるのか、
こわいものみたさでみつづけていたら、
さいわいみじかい90分ほどの作品だったので、
そのあとじきにおわった。
まったくあっけない幕ぎれで、やはりわたしには
なんのことかわからない。
わからない、とマイナスの感想をいくらかいてもしょうがいないけど、
「巨匠」だったらそうした評価をうけるリスクも
当然かんがえたうえの製作だろう。
あえてわかったふりはやめ、
全面的にわたしにはあわなかったことを記録しておく。
この作品は、しまね映画祭の一貫として上映されたものだ。
23回目となるこの映画祭は、年ごとのテーマにそって
いくつかの作品を上映する。
日本一ながい期間の映画祭というわりには、
入場者数がだんだんへってきている状況を
きょねんのブログにかいたことがある。
http://d.hatena.ne.jp/guriguripipi/searchdiary?word=%A4%B7%A4%DE%A4%CD%B1%C7%B2%E8%BA%D7
「おまつり」として、ことしの上映作品はどううけとめられただろうか。
わたしは2本みて、1本はとちゅうでみるのをやめ、
もう1本がきょうの『家族の灯り』なので、
ことしもまた「あたり」とはいえない企画だった。
映画祭でない期間のほうがわたしにはたのしめる作品がおおく、
こうなってくると映画祭にはいったら
映画をみないほうがいいという、おかしなおまつりになってしまう。
映画祭はできればさけること、
芸術作品は、90分ていどがありがたいというのが、
きょうの作品からえた教訓だ。
2014年11月07日
デイリーポータルZでのハロウィンパーティー
デイリーポータルZでハロウィンパーティーを企画していた。
http://portal.nifty.com/kiji/141106165548_1.htm
この数年でハロウィンは日本でもすっかりおなじみの行事となり、
わたしのすむ町でさえ「トリック・オア・トリート」
なんて子どもたちがやってくる。
すこしまえまでは、かぼちゃでおきものをつくるくらいがせいぜいのところで、
なりゆきをうかがいながら、とおまきにながめていた行事なのに、
この数年の定着ぶりはすごい、というかひどい。
なにが「トリック・オア・トリート」だ。
しかし、違和感をもっているのはわたしだけではなかった。
ただそっぽをむいたり無視したりはおとなげないけど、
デイリーポータルZは行事としての距離感に気をくばりながら、
本質的な精神をたくみにとりこんでいる。
「ゾンビのメイクして渋谷でイエー!とかやるのはどうなんだ。
でもなんだかちょっと楽しそうではないか。
混じりたい、恥ずかしい。
そこで自分でルールを決めたパーティを開催することにした」
ルールは、
・通常はコスプレの対象になってないコスチュームを着てくる
・説明されてようやくわかるものでもOK
(高校の現国の山本先生、とか説明されてもわからないものでもOK)
・場所はスナック
参加者がどんな変装をして会場にきたかというと、
・本社から現場に来た人
・区役所で戸籍だしてくれるひと
・キャバクラのチラシ配り
・バスケ部のコーチ
・ヤンキー
・日本好きの外国人
・実はビールが好きな酒造の娘
・身代金受け渡し現場で男子高生になりすましている刑事
と、それぞれにわかりにくい「ひと」の格好をしている。
とはいえ、奇抜なコスチュームではないので、
変装してスナックにいても、そんなにへんなかんじはしない。
みなさん、あたりまえにおしゃべりやカラオケをたのしんでいる。
なにしろ、パーティーなのだから。
わたしだったらなにに変装しただろう。
あこがれ、というほどつよくはないけれど、
ちょっとやってみたい仕事に
・古本屋の店主
・旅行者
・ネコカフェの店員
・私立探偵
などがあり、たとえ変装したとしても
どれもなんの仕事のひとか、わかってもらえないだろう。
この、日常性に目をつけたデイリーポータルZはさすがだ。
ゾンビやガイコツに変装してはめをはずすのは あたりまえすぎるので、
どこにでもいそうだけど、自分とはちがうひとになることによって、
非日常的な空間をめざしたのだ。
もうひとつ大切なのは、ハロウィンとは変装パーティーときめこむことであり、
発祥の地で、もともとどんな意味をもつ行事なのかは関係ない。
わたしのすきなギャグに、
クリスマスに教会のまえをとおりかかったよっぱらいが、
「おいみろよ、教会でもクリスマスをやってるぞ」
というのがある。
ハロウィンもだんだんと換骨奪胎がすすみ、
なんのことかわからなくなったらたのしい。
というより、いまでもなんのことはわたしはよくわかっていない。
そこらへんにいそうなひとに変装、というのは、
日本的なただしいハロウィン理解のような気がする。
http://portal.nifty.com/kiji/141106165548_1.htm
この数年でハロウィンは日本でもすっかりおなじみの行事となり、
わたしのすむ町でさえ「トリック・オア・トリート」
なんて子どもたちがやってくる。
すこしまえまでは、かぼちゃでおきものをつくるくらいがせいぜいのところで、
なりゆきをうかがいながら、とおまきにながめていた行事なのに、
この数年の定着ぶりはすごい、というかひどい。
なにが「トリック・オア・トリート」だ。
しかし、違和感をもっているのはわたしだけではなかった。
ただそっぽをむいたり無視したりはおとなげないけど、
デイリーポータルZは行事としての距離感に気をくばりながら、
本質的な精神をたくみにとりこんでいる。
「ゾンビのメイクして渋谷でイエー!とかやるのはどうなんだ。
でもなんだかちょっと楽しそうではないか。
混じりたい、恥ずかしい。
そこで自分でルールを決めたパーティを開催することにした」
ルールは、
・通常はコスプレの対象になってないコスチュームを着てくる
・説明されてようやくわかるものでもOK
(高校の現国の山本先生、とか説明されてもわからないものでもOK)
・場所はスナック
参加者がどんな変装をして会場にきたかというと、
・本社から現場に来た人
・区役所で戸籍だしてくれるひと
・キャバクラのチラシ配り
・バスケ部のコーチ
・ヤンキー
・日本好きの外国人
・実はビールが好きな酒造の娘
・身代金受け渡し現場で男子高生になりすましている刑事
と、それぞれにわかりにくい「ひと」の格好をしている。
とはいえ、奇抜なコスチュームではないので、
変装してスナックにいても、そんなにへんなかんじはしない。
みなさん、あたりまえにおしゃべりやカラオケをたのしんでいる。
なにしろ、パーティーなのだから。
わたしだったらなにに変装しただろう。
あこがれ、というほどつよくはないけれど、
ちょっとやってみたい仕事に
・古本屋の店主
・旅行者
・ネコカフェの店員
・私立探偵
などがあり、たとえ変装したとしても
どれもなんの仕事のひとか、わかってもらえないだろう。
この、日常性に目をつけたデイリーポータルZはさすがだ。
ゾンビやガイコツに変装してはめをはずすのは あたりまえすぎるので、
どこにでもいそうだけど、自分とはちがうひとになることによって、
非日常的な空間をめざしたのだ。
もうひとつ大切なのは、ハロウィンとは変装パーティーときめこむことであり、
発祥の地で、もともとどんな意味をもつ行事なのかは関係ない。
わたしのすきなギャグに、
クリスマスに教会のまえをとおりかかったよっぱらいが、
「おいみろよ、教会でもクリスマスをやってるぞ」
というのがある。
ハロウィンもだんだんと換骨奪胎がすすみ、
なんのことかわからなくなったらたのしい。
というより、いまでもなんのことはわたしはよくわかっていない。
そこらへんにいそうなひとに変装、というのは、
日本的なただしいハロウィン理解のような気がする。
2014年11月06日
「脳卒中をどうふせぐか」高血圧や高コレステロールでも心配ないという本におどろく
本屋さんをぶらついていたら、
「血圧がたかくても、ほっておいて大丈夫」
「健康診断をうける必要はない」
みたいなタイトルの本がいくつもならんでいる。
たちよみしてみると
「血中脂質がたかい方が脳卒中はおきにくい」
「コレステロールはたかくても問題ない」
「血圧のために塩分をひかえなくてもいい」
など、一般にいわれているのとずいぶんちがうことがかかれているので おどろいてしまった。
この手の本は、ことしの4月に
日本人間ドック学会と健康保険組合連合会が、
健康診断の基準値をゆるめると発表してから
おおくなったようにおもう。
たとえば血圧は、それまで129以下でないと「たかい」といわれていたのが、
この発表では147までが基準値というのだから
ずいぶんゆるくなった。
よくかんがえてみれば、
基準のみなおしを数字ではなくことばであらわすと、
本がいっているような内容になるのだから、
おどろくほうがどうかしている。
これまでの基準がおかしかったのだ。
脳卒中といえば、ふつうは高血圧や高脂血症が指摘され、
たかければそれをさげるために薬が処方される。
それなのに、危険因子といわれているそれらが関係ないばかりか、
薬をのむことで、かえって発症をまねいているといわれれば、
治療をうけているひとや、
予防に気をつけようとおもっているひとは、まよってしまうのではないか。
ガンのおそろしさとはまたちがい、
高卒中はいっぺんに命をうしなったり、
死なないまでも、からだにマヒがのこったりするので、
だれにとってもおそろしい病気・症状だ。
血圧に気をつけているひと、
コレステロール値をさげようとしているひとはおおいだろうし、
医者のいうままに薬をのんだり塩分をひかえたりというはなしもよくきく。
もしわたしが脳卒中をおこし、これからの生活に気をつけなければならないとしたら、
いったい本にかいてあることと、医者のいうことの
どちらをしんじたらいいのか まよってしまうだろう。
まよいながらも我慢はしたくないから
それまでにたべていたものをたべつづけるかもしれないし、
マヒがのこるのをおそれ、いわれることをできるだけまもるかもしれない。
からだにわるいかもしれないとおもいつつ、ほしいものをたべていても
おちつかない精神状態だろうし、
いわれたことをきっちりまもろうとするのも つよいストレスになりそうだ。
ある本には、外国では健康診断のときに、血圧やコレステロールをしらべもしない、とかいてある。
しらべても、その値からはなにもわからないので、無駄だからだという。
それがほんとうだとすると、なぜ日本だけはたくさんの薬が処方され、
いまもなお血圧やコレステロールが問題視されたままなのか。
脳卒中をおこしたひとの予後は、
血中脂質がたかくても、治療をうけなかったひとのほうがかえっていい、
という本もあった。
肉のたべすぎや、あぶらっこいものをこのむ食生活のみなおしという、
よくきく注意事項はいったいなんなのだ。
ひとむかしまえに脳卒中でなくなるひとがおおかったのは、
まずしい食生活で血管がもろかったからなのだそうで(いわゆる脳出血)、
平均寿命がこんなにながくなった日本人の血管は、
そうかんたんにはやぶれないから心配しなくても大丈夫です、ともある。
何冊かをたちよみしていえるのは、
タバコとストレスがからだによくないということだけであり、
運動さえ条件つきでしかみとめられていない。
歳をとったら動脈硬化がすすむこと、
それによって血圧があがるのは自然現象であり、
それを薬によって無理にさげようとするから 脳卒中をおこしてしまうという。
以前もてはやされていた健康法や食事の注意点は、
時間がたてばかんたんにひっくりかえる。
いまは炭水化物がやりだまにあがっているけど、
これがこのまま常識として定着するかどうかはわからない。
何冊かの要点をざっとまとめると、
けっきょくのところ、脳卒中の原因は動脈硬化であり、
血圧がたかくても、コレステロール値がたかくても、
動脈硬化をおこしてなければ問題ないようだ。
そして、ある程度の動脈硬化は老化による必然なのだから、
健康診断なんかうけないほうがいいし、
それでなにかおこったら、運命としてうけいれるしかなような気がしてくる。
薬をのむから脳卒中がおきる、
中性脂肪やコレステロールがたかくても心配ない、
というかんがえ方は説得力がある。
「血圧がたかくても、ほっておいて大丈夫」
「健康診断をうける必要はない」
みたいなタイトルの本がいくつもならんでいる。
たちよみしてみると
「血中脂質がたかい方が脳卒中はおきにくい」
「コレステロールはたかくても問題ない」
「血圧のために塩分をひかえなくてもいい」
など、一般にいわれているのとずいぶんちがうことがかかれているので おどろいてしまった。
この手の本は、ことしの4月に
日本人間ドック学会と健康保険組合連合会が、
健康診断の基準値をゆるめると発表してから
おおくなったようにおもう。
たとえば血圧は、それまで129以下でないと「たかい」といわれていたのが、
この発表では147までが基準値というのだから
ずいぶんゆるくなった。
よくかんがえてみれば、
基準のみなおしを数字ではなくことばであらわすと、
本がいっているような内容になるのだから、
おどろくほうがどうかしている。
これまでの基準がおかしかったのだ。
脳卒中といえば、ふつうは高血圧や高脂血症が指摘され、
たかければそれをさげるために薬が処方される。
それなのに、危険因子といわれているそれらが関係ないばかりか、
薬をのむことで、かえって発症をまねいているといわれれば、
治療をうけているひとや、
予防に気をつけようとおもっているひとは、まよってしまうのではないか。
ガンのおそろしさとはまたちがい、
高卒中はいっぺんに命をうしなったり、
死なないまでも、からだにマヒがのこったりするので、
だれにとってもおそろしい病気・症状だ。
血圧に気をつけているひと、
コレステロール値をさげようとしているひとはおおいだろうし、
医者のいうままに薬をのんだり塩分をひかえたりというはなしもよくきく。
もしわたしが脳卒中をおこし、これからの生活に気をつけなければならないとしたら、
いったい本にかいてあることと、医者のいうことの
どちらをしんじたらいいのか まよってしまうだろう。
まよいながらも我慢はしたくないから
それまでにたべていたものをたべつづけるかもしれないし、
マヒがのこるのをおそれ、いわれることをできるだけまもるかもしれない。
からだにわるいかもしれないとおもいつつ、ほしいものをたべていても
おちつかない精神状態だろうし、
いわれたことをきっちりまもろうとするのも つよいストレスになりそうだ。
ある本には、外国では健康診断のときに、血圧やコレステロールをしらべもしない、とかいてある。
しらべても、その値からはなにもわからないので、無駄だからだという。
それがほんとうだとすると、なぜ日本だけはたくさんの薬が処方され、
いまもなお血圧やコレステロールが問題視されたままなのか。
脳卒中をおこしたひとの予後は、
血中脂質がたかくても、治療をうけなかったひとのほうがかえっていい、
という本もあった。
肉のたべすぎや、あぶらっこいものをこのむ食生活のみなおしという、
よくきく注意事項はいったいなんなのだ。
ひとむかしまえに脳卒中でなくなるひとがおおかったのは、
まずしい食生活で血管がもろかったからなのだそうで(いわゆる脳出血)、
平均寿命がこんなにながくなった日本人の血管は、
そうかんたんにはやぶれないから心配しなくても大丈夫です、ともある。
何冊かをたちよみしていえるのは、
タバコとストレスがからだによくないということだけであり、
運動さえ条件つきでしかみとめられていない。
歳をとったら動脈硬化がすすむこと、
それによって血圧があがるのは自然現象であり、
それを薬によって無理にさげようとするから 脳卒中をおこしてしまうという。
以前もてはやされていた健康法や食事の注意点は、
時間がたてばかんたんにひっくりかえる。
いまは炭水化物がやりだまにあがっているけど、
これがこのまま常識として定着するかどうかはわからない。
何冊かの要点をざっとまとめると、
けっきょくのところ、脳卒中の原因は動脈硬化であり、
血圧がたかくても、コレステロール値がたかくても、
動脈硬化をおこしてなければ問題ないようだ。
そして、ある程度の動脈硬化は老化による必然なのだから、
健康診断なんかうけないほうがいいし、
それでなにかおこったら、運命としてうけいれるしかなような気がしてくる。
薬をのむから脳卒中がおきる、
中性脂肪やコレステロールがたかくても心配ない、
というかんがえ方は説得力がある。
2014年11月05日
のらりくらりとブログをかく
倉下忠憲さんがブログR-styleに、
http://rashita.net/blog/?p=14743
「普通の知的生産がある生活」として、
「日常的に考えたこと、気になったこと、
調べたこと、思いついたこと。
それらを気負わずに書いてみる、
というのは案外大切なことです。
それは自分の関心に敏感になるということですし、
鏡を覗き込むことでもあります」
とかいておられ、すくわれるおもいがした。
これは、ブログをかいている側からすると すごくあたたかいとらえ方で、
しがない内容でも、なんだか意味のあるような気がしてくる。
そうか、ブログはそれくらいに かるくとらえたらいいんだ。
それくらいだったら、あんまり りきまずに、
かるい気もちでむかいやすい。
ブログをかいていると、
こんなことをしてなんになるのかと、
自分でもおもうし、ひとにもいわれることがある。
自己満足でいいとひらきなおりつつ、それにしてもずいぶん時間をとられる。
どうでもいいような内容なのに、
いちにちの空白ができるのをきらって、
なんだかんだと文字をうちこむ。
だれかにむかって、というわけではなく、
かんじたことを表現する場があるとたのしいので、
なんとなくこれまでつづいてきた。
たいしていいたいことがないときでも、
これは日記みたいなものだからと
無意味な内容とみとめつつ、とにかくなにかをかく。
さすがにきょうはかくことがないなーという日でも、
パソコンにむかっているとあんがいなんとかなるもので、
でもそれが意味のある行為とはおもいにくい。
そんなときに倉下さんのようにいってもらえると、
これはこれで いいのだ、という気になってくる。
とにかくわたしはその日いちにちを生きるうちに、
なんらかのことに気づいたりかんじたわけだから、
それを記録するのは自分にしかできない。
意味をもとめると、たいていのことが無意味におもえてくる。
そんなときは頭をかかえずに、肯定的な意見ばかりをみるようにする。
ブログをかいていておもうのは「のらりくらり」だ。
なにもおもいつかなくても ギブアップしないで「のらりくらり」とやりすごす。
たいしたことのないできごとを、あっちやこっちにひっぱって、
ある程度のはなしにしてしまう。
気をつけないと、ただつづけることだけが目的の記事になりやすいけれど、
だんだんと芸の域にはいっていくかんじがきらいではない。
さすがにこれは無理だろーとつっこみながら とにかくかく。
むかしの兵隊さんに、死んでもラッパを口からはなしませんでした、
という有名なひとがおられたそうだ。
にたような精神が、21世紀になったいまもなお
日本人にいろこくひきつがれており、
ぜんぜん内容がともなわないのに、
とにかく「ブログ」といいはるのをやめませんでした、
という「無理やり」ブログだ。
文章をいじくるうちに、はじめにおもっていたことと
ぜんぜんちがう結論にたどりついたり、
意外な展開にすくわれたりもする。
自分の頭のなかなのに、ひろげてみないと わからないものだ。
先日のブログに紹介した宮田珠己さんは
http://parupisupipi.seesaa.net/article/408266794.html
「もはや私にとって旅日記をつけることは
旅とは切っても切れない」
とかいておられた。
ブログもまた、生きていることと、きりはなせなくなればいいとおもう。
http://rashita.net/blog/?p=14743
「普通の知的生産がある生活」として、
「日常的に考えたこと、気になったこと、
調べたこと、思いついたこと。
それらを気負わずに書いてみる、
というのは案外大切なことです。
それは自分の関心に敏感になるということですし、
鏡を覗き込むことでもあります」
とかいておられ、すくわれるおもいがした。
これは、ブログをかいている側からすると すごくあたたかいとらえ方で、
しがない内容でも、なんだか意味のあるような気がしてくる。
そうか、ブログはそれくらいに かるくとらえたらいいんだ。
それくらいだったら、あんまり りきまずに、
かるい気もちでむかいやすい。
ブログをかいていると、
こんなことをしてなんになるのかと、
自分でもおもうし、ひとにもいわれることがある。
自己満足でいいとひらきなおりつつ、それにしてもずいぶん時間をとられる。
どうでもいいような内容なのに、
いちにちの空白ができるのをきらって、
なんだかんだと文字をうちこむ。
だれかにむかって、というわけではなく、
かんじたことを表現する場があるとたのしいので、
なんとなくこれまでつづいてきた。
たいしていいたいことがないときでも、
これは日記みたいなものだからと
無意味な内容とみとめつつ、とにかくなにかをかく。
さすがにきょうはかくことがないなーという日でも、
パソコンにむかっているとあんがいなんとかなるもので、
でもそれが意味のある行為とはおもいにくい。
そんなときに倉下さんのようにいってもらえると、
これはこれで いいのだ、という気になってくる。
とにかくわたしはその日いちにちを生きるうちに、
なんらかのことに気づいたりかんじたわけだから、
それを記録するのは自分にしかできない。
意味をもとめると、たいていのことが無意味におもえてくる。
そんなときは頭をかかえずに、肯定的な意見ばかりをみるようにする。
ブログをかいていておもうのは「のらりくらり」だ。
なにもおもいつかなくても ギブアップしないで「のらりくらり」とやりすごす。
たいしたことのないできごとを、あっちやこっちにひっぱって、
ある程度のはなしにしてしまう。
気をつけないと、ただつづけることだけが目的の記事になりやすいけれど、
だんだんと芸の域にはいっていくかんじがきらいではない。
さすがにこれは無理だろーとつっこみながら とにかくかく。
むかしの兵隊さんに、死んでもラッパを口からはなしませんでした、
という有名なひとがおられたそうだ。
にたような精神が、21世紀になったいまもなお
日本人にいろこくひきつがれており、
ぜんぜん内容がともなわないのに、
とにかく「ブログ」といいはるのをやめませんでした、
という「無理やり」ブログだ。
文章をいじくるうちに、はじめにおもっていたことと
ぜんぜんちがう結論にたどりついたり、
意外な展開にすくわれたりもする。
自分の頭のなかなのに、ひろげてみないと わからないものだ。
先日のブログに紹介した宮田珠己さんは
http://parupisupipi.seesaa.net/article/408266794.html
「もはや私にとって旅日記をつけることは
旅とは切っても切れない」
とかいておられた。
ブログもまた、生きていることと、きりはなせなくなればいいとおもう。
2014年11月04日
「鷹の爪スーパーデラックス自虐カレンダー2015(卓上用)」をかう
「スーパーデラックス自虐カレンダー2015(卓上用)」をかう。
鷹の爪のメンバーが、月ごとにはなつ自虐ギャグをたのしめる。
すこしまえのブログに、こまかなミスがあったため、
発売がのびたとかいたのは、このカレンダーのことだ。
壁かけ用が1512円、卓上用が864円。
一見すると、おおきな壁かけ用のほうが
迫力があってカレンダーらしいけど、
2ヶ月で1枚という構成なので、
自虐ギャグは表紙をいれて7枚しかない。
なによりも致命的なのは、
カレンダーとして ものすごくみづらく、
実用にならないことだ。
キャラクターと自虐ギャグにじゃまされて、
カレンダーの部分がテキトーにあつかわれている。
「カレンダーなのに、カレンダーの役にたたない」
と、自虐ギャグ的につっこみたくなる。
その点 卓上用は、表紙をいれると13枚のカードがあるわけで、
圧倒的にお得なかいものだ。
ただ、あいかわらず祝日に色をかえてないので、
曜日を確認するためだけのカレンダーであり、
いつが祝日なのかまではわからない(それがカレンダーといえるのか)。
卓上用(壁かけ用もいっしょ)をみながら行事予定をくむと
祝日があるのをわすれて、おもわぬ失敗をすることになる。
おまけに、2014年のものはカレンダーも自虐ギャグも活字だったのが、
2015年からはすべてが手がきになっており、
ますますよみにくくなった。
わたしがこのカレンダーをかったのは、
市内にある本屋さんだ。
吉田くんの出身地である島根県ということで、
コーナーがもうけられ、山づみになっていた。
うれゆきに気をよくして 大量に印刷したのかもしれない。
おととしは、予約してやっと手にいれたことをおもうと
ファンとしてはよろこびたいところではあるが、
俗になりすぎて残念な気もしてくる。

自虐ギャグのできはわるくない。
9月の「神話も、ここでは実話。」は
ギャグではなく、ほんとうに実話
(「ほんとうに実話」はかさね言葉?)。
表紙にある
「お昼にまだ『いいとも!と言っている』は、
はじめなんのことかわからなかった。
でも、たしかにありえる。
いちばん気にいったのは
「パソコンどころかパソコン教室だってある」
だ。
そうか、さすがだ島根県。
パソコン教室は、いまや島根にしかないのか。
島根ではよくあることだけど。
鷹の爪のメンバーが、月ごとにはなつ自虐ギャグをたのしめる。
すこしまえのブログに、こまかなミスがあったため、
発売がのびたとかいたのは、このカレンダーのことだ。
壁かけ用が1512円、卓上用が864円。
一見すると、おおきな壁かけ用のほうが
迫力があってカレンダーらしいけど、
2ヶ月で1枚という構成なので、
自虐ギャグは表紙をいれて7枚しかない。
なによりも致命的なのは、
カレンダーとして ものすごくみづらく、
実用にならないことだ。
キャラクターと自虐ギャグにじゃまされて、
カレンダーの部分がテキトーにあつかわれている。
「カレンダーなのに、カレンダーの役にたたない」
と、自虐ギャグ的につっこみたくなる。
その点 卓上用は、表紙をいれると13枚のカードがあるわけで、
圧倒的にお得なかいものだ。
ただ、あいかわらず祝日に色をかえてないので、
曜日を確認するためだけのカレンダーであり、
いつが祝日なのかまではわからない(それがカレンダーといえるのか)。
卓上用(壁かけ用もいっしょ)をみながら行事予定をくむと
祝日があるのをわすれて、おもわぬ失敗をすることになる。
おまけに、2014年のものはカレンダーも自虐ギャグも活字だったのが、
2015年からはすべてが手がきになっており、
ますますよみにくくなった。
わたしがこのカレンダーをかったのは、
市内にある本屋さんだ。
吉田くんの出身地である島根県ということで、
コーナーがもうけられ、山づみになっていた。
うれゆきに気をよくして 大量に印刷したのかもしれない。
おととしは、予約してやっと手にいれたことをおもうと
ファンとしてはよろこびたいところではあるが、
俗になりすぎて残念な気もしてくる。

自虐ギャグのできはわるくない。
9月の「神話も、ここでは実話。」は
ギャグではなく、ほんとうに実話
(「ほんとうに実話」はかさね言葉?)。
表紙にある
「お昼にまだ『いいとも!と言っている』は、
はじめなんのことかわからなかった。
でも、たしかにありえる。
いちばん気にいったのは
「パソコンどころかパソコン教室だってある」
だ。
そうか、さすがだ島根県。
パソコン教室は、いまや島根にしかないのか。
島根ではよくあることだけど。
2014年11月03日
『わたしの旅になにをする。』(宮田珠己)記録には、ノートとという手もある
宮田珠己さんの『わたしの旅になにをする。』(幻冬舎文庫)をよんでいたら、
「旅の記録」というはなしがあり、
旅行中にどうやって記録をつけるかが、あかされていた。
冗談が基本の宮田さんの本にあって、
うっかりまじめにかいてしまったような めずらしい記述だ。
「長旅に持っていくノートは無印良品のものがいいことが
最近の私の研究でわかってきた。(中略)
日記に書く内容は、誰もだいたい同じかと思うが、
最近の私は心境などを詳しく書くよりも、
なるべく数字や服装などの細かい情報を書くように心掛けている。(中略)
細かい情報を書くと今度はどうしても日記が遅れていくので、
週に一度じっくり腰を据えて日記をつける
日記デーをとったりすることもある」
というからかなり本格的な記録であり、
ただの日記というよりも、最終的に雑誌や本で発表することを目的とした記録、
あるいは取材ノートといえる。
記録にノートをつかうのが、すごく新鮮におもえた。
「知的生産」では、メモや手帳をどういかすかに 話題があつまりやすく、
ノートはアナログのなかのアナログというかんじで、
あまりつかわれていない印象がある。
本多勝一さんは『ルポルタージュの方法』で、
取材のときに大学ノートをつかうとかかれていた。
取材から執筆までの時間が比較的みじかいので、
たとえノートにつけていても、どこになにをかいたのかが
だいたい把握できており、不都合はないそうだ。
もちろんメモやカードを否定しているわけではなく、
あくまでもわたしの場合、とことわっておられる。
わたしも以前、卒論の調査で本多さんの記録方法をまねたことがある。
本多さん流のノートは、左側だけにしらべたことをかきこんで、
右側はあとから気づいたことをかくためにあけておく。
たしかにつかいやすく、あとから文章をおこすにはいいやり方だとおもった。
カードのよさは、まったくちがう内容がかかれたカードをくみかえるうちに、
あたらしい発見に気づくことであり、
ノートでこれはやりにくい。
わたしは「くみかえ」がへたくそなので、
あまりノートのデメリットをかんじないのかもしれない。
宮田さんは、
「前回ユーラシアを横断したときには
毎日いっぱい書き過ぎて右手首が腱鞘炎になった。
日記が書けなくても、旅は旅で楽しめればいいのだが、
もはや私にとって旅日記をつけることは
旅とは切っても切れないものなあんだ(ママ)」
というほど日記にこまかくかきこむらしい。
宮田さんのかるいエッセイは、
しっかりした記録が基本にあるから あんなにおもしろいのだろう。
本書は、ご本人が「あとがき」でかいているように、
「たいした将来の見通しもなく会社を辞め、
とりあえず旅行しまくりたいと考えた
軽薄なサラリーマンのその後」
といったおもむきのつよいエッセイ集だ。
しかしその背景には、膨大で正確な記録があることを
読者はこころしてよんだほうがいい。
でないと、まさかそれだけたいそうな記録の集大成とはおもえない。
ここまで脱力に気をくばれるのは、
それだけ事実の把握に自信があるからだろう。
緻密な日記をつけることで、
宮田さんはこまやかさとの決別をすませているのだ、きっと。
「旅の記録」というはなしがあり、
旅行中にどうやって記録をつけるかが、あかされていた。
冗談が基本の宮田さんの本にあって、
うっかりまじめにかいてしまったような めずらしい記述だ。
「長旅に持っていくノートは無印良品のものがいいことが
最近の私の研究でわかってきた。(中略)
日記に書く内容は、誰もだいたい同じかと思うが、
最近の私は心境などを詳しく書くよりも、
なるべく数字や服装などの細かい情報を書くように心掛けている。(中略)
細かい情報を書くと今度はどうしても日記が遅れていくので、
週に一度じっくり腰を据えて日記をつける
日記デーをとったりすることもある」
というからかなり本格的な記録であり、
ただの日記というよりも、最終的に雑誌や本で発表することを目的とした記録、
あるいは取材ノートといえる。
記録にノートをつかうのが、すごく新鮮におもえた。
「知的生産」では、メモや手帳をどういかすかに 話題があつまりやすく、
ノートはアナログのなかのアナログというかんじで、
あまりつかわれていない印象がある。
本多勝一さんは『ルポルタージュの方法』で、
取材のときに大学ノートをつかうとかかれていた。
取材から執筆までの時間が比較的みじかいので、
たとえノートにつけていても、どこになにをかいたのかが
だいたい把握できており、不都合はないそうだ。
もちろんメモやカードを否定しているわけではなく、
あくまでもわたしの場合、とことわっておられる。
わたしも以前、卒論の調査で本多さんの記録方法をまねたことがある。
本多さん流のノートは、左側だけにしらべたことをかきこんで、
右側はあとから気づいたことをかくためにあけておく。
たしかにつかいやすく、あとから文章をおこすにはいいやり方だとおもった。
カードのよさは、まったくちがう内容がかかれたカードをくみかえるうちに、
あたらしい発見に気づくことであり、
ノートでこれはやりにくい。
わたしは「くみかえ」がへたくそなので、
あまりノートのデメリットをかんじないのかもしれない。
宮田さんは、
「前回ユーラシアを横断したときには
毎日いっぱい書き過ぎて右手首が腱鞘炎になった。
日記が書けなくても、旅は旅で楽しめればいいのだが、
もはや私にとって旅日記をつけることは
旅とは切っても切れないものなあんだ(ママ)」
というほど日記にこまかくかきこむらしい。
宮田さんのかるいエッセイは、
しっかりした記録が基本にあるから あんなにおもしろいのだろう。
本書は、ご本人が「あとがき」でかいているように、
「たいした将来の見通しもなく会社を辞め、
とりあえず旅行しまくりたいと考えた
軽薄なサラリーマンのその後」
といったおもむきのつよいエッセイ集だ。
しかしその背景には、膨大で正確な記録があることを
読者はこころしてよんだほうがいい。
でないと、まさかそれだけたいそうな記録の集大成とはおもえない。
ここまで脱力に気をくばれるのは、
それだけ事実の把握に自信があるからだろう。
緻密な日記をつけることで、
宮田さんはこまやかさとの決別をすませているのだ、きっと。
2014年11月02日
「世界ふれあい街歩き」でのラハイナ(マウイ島)がいいかんじ
「世界ふれあい街歩き」で
マウイ島にあるラハイナという町をたずねていた。
ハワイというと、観光客だらけのリゾート地とおもいこんでいたけど、
地元のひとがゆったりくらしているようすは とても居心地がよさそうだ。
むしあつくなく、もちろんあたたかで、
水着でとおりをあるいていても違和感がなく、
かといって はしゃぎすぎたあかるさでもなく、
ただ自分のやりたいことをたのしんでいる。
すんでいるひとが自分の町に満足し、
おちついてくらしているようすがつたわってくる。
ハワイにいきたいなんて おもったことがなかったけど、
ずっとくらすのなら、あたたかくてこんなおちついた町がいいなーと、
コロッとまいってしまった。
旅番組をみると、わたしはすぐに影響をうける。
ハワイはありきたりすぎるとか、
観光客だらけなんてわたしのおもいこみにすぎない。
たとえありきたりだとしても、ぜんぜんかまわないではないか。
こういうのはベストセラー本をかわない心理といっしょで、
ひととおなじことをしたくないといいつつ、
そのこと自体が すでにひととおなじ発想なのだ。
ハワイといえば、村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』をおもいだす。
あの本ではオアフ島のホノルルにあるビーチですごしていた。
ハワイのホノルルなんて、小説の舞台にするには
まんなかすぎてかえって意外におもえてくる。
もっとも、よんでいるときは そんなことに関係なく、
ユキがのんでいたピナコラーダが印象にのこっている。
「『だってハワイでしょ?』と彼女は怪訝そうな顔をして言った。
『そんなの大磯に行くのとたいして変わらないわよ。
カトマンズに行くわけじゃないもの』」
わたしもまたハワイにいくのを あまりたいしたことない旅行先ときめつけており、
ちがうたのしみ方もできるなんて かんがえたことがなかった。
気のきいたひとは、どこにいっても気のきいたすごし方ができる。
気のきかないひとは、どこにいってもおなじだ。
短編作品『ハナレイ・ベイ』にでてくるのはカウアイ島のハナレイだ。
ひさしぶりによみかえしてみる。
サチという名のタフなおばさんと、日本人青年 2人組とのやりとりがおかしかった。
緊急の場合にもってきているカードについて、
「『これはほんとに非常の場合にしか使うなって、
親父に釘をさされてんです。
使い出すときりないからって』(中略)
『アホ』とサチは言った。
『今が非常の場合なの。
命が惜しかったら、さっさとカード使ってここに泊まりなさい』」
しばらくしてサチは また青年たちとであう機会があり、
「『ところあんたたち、
ハナレイで気楽にサーフィンしまくって楽しかった?』
『すげえ楽しかった』とずんぐりが言った。
『サイコーだったす』と長身が言った。
『人生がころっと変わったような気がしますよ。ほんとの話』
『それは何より。楽しめるときにめいっぱい楽しんでおくといい。
そのうちに勘定書きがまわって来るから』
『大丈夫っすよ。こっちにはカードがありますから』と長身が言った」
わかいころって、これくらいアホで気楽にやれたほうがいい。
でないと、なんのためのわかさなのか、みたいにおもえてくる。
歳をとったわたしには、そのいきおいも、
そもそもなんでもかなえてくれるカードもないけど
さいわいまだ体力だけはまだのこされている。
ハワイのどこかのビーチで、サーフィンをならったり、
ピナコラーダでくつろげるのはいまのうちだ。
それとも、いまはまわってきた勘定がきを しはらうときなのだろうか。
マウイ島にあるラハイナという町をたずねていた。
ハワイというと、観光客だらけのリゾート地とおもいこんでいたけど、
地元のひとがゆったりくらしているようすは とても居心地がよさそうだ。
むしあつくなく、もちろんあたたかで、
水着でとおりをあるいていても違和感がなく、
かといって はしゃぎすぎたあかるさでもなく、
ただ自分のやりたいことをたのしんでいる。
すんでいるひとが自分の町に満足し、
おちついてくらしているようすがつたわってくる。
ハワイにいきたいなんて おもったことがなかったけど、
ずっとくらすのなら、あたたかくてこんなおちついた町がいいなーと、
コロッとまいってしまった。
旅番組をみると、わたしはすぐに影響をうける。
ハワイはありきたりすぎるとか、
観光客だらけなんてわたしのおもいこみにすぎない。
たとえありきたりだとしても、ぜんぜんかまわないではないか。
こういうのはベストセラー本をかわない心理といっしょで、
ひととおなじことをしたくないといいつつ、
そのこと自体が すでにひととおなじ発想なのだ。
ハワイといえば、村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』をおもいだす。
あの本ではオアフ島のホノルルにあるビーチですごしていた。
ハワイのホノルルなんて、小説の舞台にするには
まんなかすぎてかえって意外におもえてくる。
もっとも、よんでいるときは そんなことに関係なく、
ユキがのんでいたピナコラーダが印象にのこっている。
「『だってハワイでしょ?』と彼女は怪訝そうな顔をして言った。
『そんなの大磯に行くのとたいして変わらないわよ。
カトマンズに行くわけじゃないもの』」
わたしもまたハワイにいくのを あまりたいしたことない旅行先ときめつけており、
ちがうたのしみ方もできるなんて かんがえたことがなかった。
気のきいたひとは、どこにいっても気のきいたすごし方ができる。
気のきかないひとは、どこにいってもおなじだ。
短編作品『ハナレイ・ベイ』にでてくるのはカウアイ島のハナレイだ。
ひさしぶりによみかえしてみる。
サチという名のタフなおばさんと、日本人青年 2人組とのやりとりがおかしかった。
緊急の場合にもってきているカードについて、
「『これはほんとに非常の場合にしか使うなって、
親父に釘をさされてんです。
使い出すときりないからって』(中略)
『アホ』とサチは言った。
『今が非常の場合なの。
命が惜しかったら、さっさとカード使ってここに泊まりなさい』」
しばらくしてサチは また青年たちとであう機会があり、
「『ところあんたたち、
ハナレイで気楽にサーフィンしまくって楽しかった?』
『すげえ楽しかった』とずんぐりが言った。
『サイコーだったす』と長身が言った。
『人生がころっと変わったような気がしますよ。ほんとの話』
『それは何より。楽しめるときにめいっぱい楽しんでおくといい。
そのうちに勘定書きがまわって来るから』
『大丈夫っすよ。こっちにはカードがありますから』と長身が言った」
わかいころって、これくらいアホで気楽にやれたほうがいい。
でないと、なんのためのわかさなのか、みたいにおもえてくる。
歳をとったわたしには、そのいきおいも、
そもそもなんでもかなえてくれるカードもないけど
さいわいまだ体力だけはまだのこされている。
ハワイのどこかのビーチで、サーフィンをならったり、
ピナコラーダでくつろげるのはいまのうちだ。
それとも、いまはまわってきた勘定がきを しはらうときなのだろうか。
2014年11月01日
ブカブカのくつにも「ピッタリだよ!」とコナンはいった
あたらしくジョギングシューズをかった。
わたしは町あるきも仕事も、
ジョギングシューズだけですませており、
いつものようにスポーツ店でえらんだ。
きめたのはアディダスのシューズで、
かなりハデなオレンジ色を基調としている。
こんな色をえらぶ男はなにをかんがえているのだ、と
わたしなら警戒するようなシューズだ。
でも、けっきょくそれにした。
わたしは足が27.5センチとわりにおおきくて、
あまり注文をつけていると、はけるシューズがなくなってしまう。
つぎの日 職場にはいていくと やはりかなりハデ目で、
いかにもういてみえる。
よく、ひとをみるときは足元を、なんていうけど、
わたしなら、こんなバカげた色のシューズをはいてくる人間に、
あまりいい評価はしないだろう。
なによりも わたしがすっきりしない気もちをひきずっているのは、
いちばんだいじなはきごこちがいまひとつ、ということにある。
ちゃんとたしかめたつもりなのに、なんとなくしっくりこない。
おおきさはよくても、それだけでは足との相性がつかめないところに
くつのかいものの むつかしさがある。
ちょっとためしに店のなかをあるいたぐらいでは、
ほんとうに自分の足にあっているのかはわからない。
ある程度、こんなものだ、という妥協が必要になってくる。
それにしても、このところたてつづけに かいものがうまくいかず
がっかりしてしまった。
くつというと、『未来少年コナン』をおもいだす。
つらかったインドストリアでのたたかいのあと、
ハイハーバーについたコナンたちは、
それまできていた服をきがえ
心機一転、町での生活をはじめる。
朝おきると、コナンの服をラナが用意してくれていた。
シャツとズボンはよかったけど、
くつはあきらかにおおきすぎて すぐにぬげてしまう。
「ちょっとおおきかったかしら?」と心配するラナにコナンはいった。
「ピッタリだよ!」
男たるもの、くつのおおきさなんかを気にせずに、
「ピッタリだよ!」といえるようでなくては、と
わかかったわたしはおもったものだ。
自分のためにだれかがえらんでくれたものなら、
「ピッタリだよ!」とまよわずいえる人間になろう。
今回のシューズえらびは、そもそも自分がえらび、ずっこけただけだけど、
シューズくらいのことでモンモンとした時間をすごすよりは、
「こんなものだろう」と手をうって、ほかのことに頭をつかったほうがいい。
「タラ・レバ」をかんがえてみてもきりがないので、
オレンジ色のシューズとおりあいをつけてやっていくしかない。
「ピッタリだ」と自分にいいきかせる。
わたしは町あるきも仕事も、
ジョギングシューズだけですませており、
いつものようにスポーツ店でえらんだ。
きめたのはアディダスのシューズで、
かなりハデなオレンジ色を基調としている。
こんな色をえらぶ男はなにをかんがえているのだ、と
わたしなら警戒するようなシューズだ。
でも、けっきょくそれにした。
わたしは足が27.5センチとわりにおおきくて、
あまり注文をつけていると、はけるシューズがなくなってしまう。
つぎの日 職場にはいていくと やはりかなりハデ目で、
いかにもういてみえる。
よく、ひとをみるときは足元を、なんていうけど、
わたしなら、こんなバカげた色のシューズをはいてくる人間に、
あまりいい評価はしないだろう。
なによりも わたしがすっきりしない気もちをひきずっているのは、
いちばんだいじなはきごこちがいまひとつ、ということにある。
ちゃんとたしかめたつもりなのに、なんとなくしっくりこない。
おおきさはよくても、それだけでは足との相性がつかめないところに
くつのかいものの むつかしさがある。
ちょっとためしに店のなかをあるいたぐらいでは、
ほんとうに自分の足にあっているのかはわからない。
ある程度、こんなものだ、という妥協が必要になってくる。
それにしても、このところたてつづけに かいものがうまくいかず
がっかりしてしまった。
くつというと、『未来少年コナン』をおもいだす。
つらかったインドストリアでのたたかいのあと、
ハイハーバーについたコナンたちは、
それまできていた服をきがえ
心機一転、町での生活をはじめる。
朝おきると、コナンの服をラナが用意してくれていた。
シャツとズボンはよかったけど、
くつはあきらかにおおきすぎて すぐにぬげてしまう。
「ちょっとおおきかったかしら?」と心配するラナにコナンはいった。
「ピッタリだよ!」
男たるもの、くつのおおきさなんかを気にせずに、
「ピッタリだよ!」といえるようでなくては、と
わかかったわたしはおもったものだ。
自分のためにだれかがえらんでくれたものなら、
「ピッタリだよ!」とまよわずいえる人間になろう。
今回のシューズえらびは、そもそも自分がえらび、ずっこけただけだけど、
シューズくらいのことでモンモンとした時間をすごすよりは、
「こんなものだろう」と手をうって、ほかのことに頭をつかったほうがいい。
「タラ・レバ」をかんがえてみてもきりがないので、
オレンジ色のシューズとおりあいをつけてやっていくしかない。
「ピッタリだ」と自分にいいきかせる。