2014年11月03日

『わたしの旅になにをする。』(宮田珠己)記録には、ノートとという手もある

宮田珠己さんの『わたしの旅になにをする。』(幻冬舎文庫)をよんでいたら、
「旅の記録」というはなしがあり、
旅行中にどうやって記録をつけるかが、あかされていた。
冗談が基本の宮田さんの本にあって、
うっかりまじめにかいてしまったような めずらしい記述だ。

「長旅に持っていくノートは無印良品のものがいいことが
 最近の私の研究でわかってきた。(中略)
 日記に書く内容は、誰もだいたい同じかと思うが、
 最近の私は心境などを詳しく書くよりも、
 なるべく数字や服装などの細かい情報を書くように心掛けている。(中略)
 細かい情報を書くと今度はどうしても日記が遅れていくので、
 週に一度じっくり腰を据えて日記をつける
 日記デーをとったりすることもある」

というからかなり本格的な記録であり、
ただの日記というよりも、最終的に雑誌や本で発表することを目的とした記録、
あるいは取材ノートといえる。

記録にノートをつかうのが、すごく新鮮におもえた。
「知的生産」では、メモや手帳をどういかすかに 話題があつまりやすく、
ノートはアナログのなかのアナログというかんじで、
あまりつかわれていない印象がある。

本多勝一さんは『ルポルタージュの方法』で、
取材のときに大学ノートをつかうとかかれていた。
取材から執筆までの時間が比較的みじかいので、
たとえノートにつけていても、どこになにをかいたのかが
だいたい把握できており、不都合はないそうだ。
もちろんメモやカードを否定しているわけではなく、
あくまでもわたしの場合、とことわっておられる。

わたしも以前、卒論の調査で本多さんの記録方法をまねたことがある。
本多さん流のノートは、左側だけにしらべたことをかきこんで、
右側はあとから気づいたことをかくためにあけておく。
たしかにつかいやすく、あとから文章をおこすにはいいやり方だとおもった。

カードのよさは、まったくちがう内容がかかれたカードをくみかえるうちに、
あたらしい発見に気づくことであり、
ノートでこれはやりにくい。
わたしは「くみかえ」がへたくそなので、
あまりノートのデメリットをかんじないのかもしれない。

宮田さんは、

「前回ユーラシアを横断したときには
毎日いっぱい書き過ぎて右手首が腱鞘炎になった。
日記が書けなくても、旅は旅で楽しめればいいのだが、
もはや私にとって旅日記をつけることは
旅とは切っても切れないものなあんだ(ママ)」

というほど日記にこまかくかきこむらしい。
宮田さんのかるいエッセイは、
しっかりした記録が基本にあるから あんなにおもしろいのだろう。

本書は、ご本人が「あとがき」でかいているように、

「たいした将来の見通しもなく会社を辞め、
 とりあえず旅行しまくりたいと考えた
 軽薄なサラリーマンのその後」

といったおもむきのつよいエッセイ集だ。
しかしその背景には、膨大で正確な記録があることを
読者はこころしてよんだほうがいい。
でないと、まさかそれだけたいそうな記録の集大成とはおもえない。
ここまで脱力に気をくばれるのは、
それだけ事実の把握に自信があるからだろう。
緻密な日記をつけることで、
宮田さんはこまやかさとの決別をすませているのだ、きっと。

posted by カルピス at 20:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする