きのうの朝日新聞に掲載された三谷幸喜さんの
『ありふれた生活』で、バットマンがとりあげられていた。
バットマンといっても映画版ではなく、
47年前に放送されたアメリカのテレビシリーズのことだ。
三谷さんの記憶では「コメディ色が強い」シリーズだったらしく、
47年ぶりにみると、その記憶よりもさらに輪をかけてあそんでいたようで、
「ここまでふざけているとは」と三谷さんはおどろいている。
わたしは映画版もテレビシリーズもみたことがなく、
みたことがないものについて、ああだこうだいえないけれど、
どうもかなりかわったシリーズだったみたいだ。
三谷さんは、ふるい作品をふたたびみてなつかしかったわけではなく、
自分の記憶とずいぶんちがうバットマンに
おもってもみなかったおもしろさを発見している。
三谷さんがシリーズのコンセプトを 以下のようにまとめている。
「バットマンのコスチュームが、まずチープ過ぎる。
全身タイツに近いおっさん
(体型も決して若々しくはない)」
「そもそもバットマンは超能力もなければ、
ものすごく力が強いわけでもない。
一般人と違うのは、お金持ちということくらい。
様々な発明品を駆使して、悪人と戦うバットマンだが、
基本的に普通の人なので、すぐに窮地にたたされる。
それを頭脳と圧倒的な運の良さで毎回、切り抜けていく」
すごい。わたしがイメージしていたバットマンとぜんぜんちがう。
「基本的に普通の人なので、すぐに窮地にたたされる」
バットマンをわたしもみてみたい。
つよくもない金もちのおじさんが、
仮面をつけ、タイツをはき、
悪とたたかってすぐにおいこまれるなんて(なにしにでてくるのだ?)、
ソフィスティケートされたいまふうの美意識ではないか。
アメリカ人が「よわいバットマン」をうけいれたのが意外だし、
よくそんな企画がテレビシリーズになったものだとおもう。
よわいロボットやよわい関係など、
いまはよわさが注目をあつめているけれど、
たたまたなにかの拍子にはやっているのではなく、
人間は基本的によわさにひかれるのかもしれない。
つよさはコミュニケーションを必要としないが、
よわければ たくさんのひとにささえられて やっていくしかない。
圧倒的なつよさにへきえきしていたひとたちが、
そうした「よわいバットマン」に溜飲をさげたのだろう。
そういえば、「鷹の爪団」もダメなひとたちだ。
正義の味方も悪役も、つよさだけではひとびとの共感を得られない。
なにかひとひねりが必要であり、バットマンの場合、それがよわさだった。
というのは わたしの想像にすぎず、
どんな事情で「よわいバットマン」のシリーズがつくられたのか、
ほんとうのところはわからない。
そもそも三谷さんは「よわいバットマン」なんてひとこともかいていない。
でもまあ、そんなふうに 「よわいバットマン」だからこそ、
みんなに愛されていた、ととらえたほうがおもしろいし、
「よわいバットマン」が「つよいアメリカ」の時代につくられたのも
なにかの必然におもえてくる。
わたしもまたよわさにひかれるほうで、
きっぱりとつよく・ただしい正義の味方では
みていてつかれてしまう。
「よわいロボット」のなにもできないよさをみとめるし、
反対に『水戸黄門』や『大岡越前』の
ゆるぎないつよさは いまではまったく魅力的でない。
なんてかいておきながら、でも、かんがえてみれば
アメリカ映画のひとつのおおきなながれとして、
ふつうのひとが努力してつよいものをやっつける、というのもあきらかにある。
『ロッキー』にしても『がんばれベアーズ』にしても、
つよいものがつよいのではなく、
よわいものがつよくなる過程がこのまれているのだ。
そうした視点でみると、「よわいバットマン」は、
いかにもアメリカ的な発想であり、
アメリカンドリームを体現した作品だったともいえる。
チープなコスチュームに身をつつんだバットマンこそが
アメリカ人の基本的な価値観をあらわしているのかもしれない。