2014年11月27日

河合隼雄さんの「人殺し以外だったら、なんでもやりまっせー」にしびれる

河合隼雄さんというと おもいだすのが
「人殺し以外だったら、なんでもやりまっせー」だ。
こまかいところまではおぼえていないけど、
だいたいそんないい方だったとおもう。
たしか村上春樹さんの本に紹介されていた。
たくさんの仕事をかかえ、めちゃくちゃいそがしいだろうに、
「なんでもやりまっせー」とわらっていえるのがいいかんじだ。
心理学者として、ひとのこころの
こまやかなうごきをさぐるひとが
いうことばとは、とてもおもえない。

気力・体力が、充実していると自分にいいきかせ、
たとえカラ元気でも、
そうやってあかるくふるまえるひとは いっしょにいてたのしい。
河合さんの真意がどこにあるのか、ほんとうはわからないけど、
「なんでもやりまっせー」なんていってもらえたら、
だれでも河合さんをすきになってしまう。

べつのところで、やはり河合隼雄さんが
「めんどくさい」なんていっていたら、死ぬしかない、
みたいなことをかいておられた。
きっとこのふたつは、おなじことをいわれているのだ。
河合さんだって、まえむきな気もちになれるときばかりではないだろうけど、
河合さんは、「めんどくさい」といわないことにしてるのだろう。
生きていくうえで、「めんどくさい」ことはきりもなくある。
そんなことをいちいち「めんどくさい」といってたら、
なにもできず、死ぬしかない。

このごろのわたしは、なにかにつけ
「どうせもうすぐ死ぬんだし」みたいなかんがえが頭をかすめる。
50歳をすぎたのだから まったくまちがっているわけではないにしても、
なにもいまから「死ぬ」ことをつよく意識しなくてもいい年齢ではある。
まえもかんがえなかったわけではないけど、
40歳のころよりずっとリアルになった。
うかんでくるのは「のこり時間」のことだ。
たとえばあの「1万時間の法則」では、
一流のレベルにたっするには、1万時間かかる、といわれている。
ちがういいかたをすれば、
1万時間かければ だれでも一流になれるわけで、
ところがわたしには、なにかにその1万時間をついやす余裕は、もうない。
うしろむきな発想というよりも、
事実の確認であり、ここが再スタート地点だ。
わかいころには、そんなこと おもってもみなかった。

ところが、そんなふうに さきがそうながくない現実も、
河合さんのことばをおもいだすと どうでもよくなってくる。
こまかいことをゴチャゴチャいってないで、
「なんでもやりまっせー」という姿勢は究極にポジティブだ。
「でもー」「だってー」「だけど」、なんていいわけをはさまず
「やりまっせー!」とまえをむいたほうがぜったいたのしい。
1万時間かけて一流になれなくても、
初心者レベルであそべばいいではないか。

深刻な顔をしてかんがえこむよりも、
「なんでもやりまっせー」と
からだをうごかすことで ものごとはまえにすすみだす。
どうせ死ぬんだから、なにをしてもいっしょ、というのは
たしかにただしいけど、
それをいったらすべてがどうでもよくなってしまうので、
とりあえず どこかへしまっておく。
どうせ死ぬんだから、いまのうちにやっておこう、
のほうがおもしろそうだ。
さきのことをかんがえると めんどくさくなってしまう。
めんどくさいとおもっていると、死ぬしかない。
「人殺し以外はなんでも」やるつもりで、
よけいなことをかんがえずにからだをうごかす。
河合さんの処方箋はきっとただしい。

posted by カルピス at 20:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする