2015年01月31日

「うさぎたべるズ」松江公演がたのしみ

運転中にラジオをきいていたら、
「うさぎたべるズ」がなんとかといっている。
フランスのちいさなサーカス劇団で、
日本での公演が東京と大阪、そして松江にきまっているのだという。
なんで松江なのかというと、劇団の宣伝をつとめる女性(ハトさん)が
松江出身というつながりから、「ぜひ松江でも」となんとなくもりあがったらしい。
わたしがきいていた番組は、ハトさんが生出演し、
「うさぎたべるズ」について説明していたのだった。
はなしをきいてもどんなだしものなのか
なかなかイメージできない。
おもしろそうな気はする。
東京・大阪につづくのが、なぜか松江というノリもすきだ。
http://sigsan.blog121.fc2.com/blog-entry-185.html

「うさぎたべるズ」は「Les Mangerus de Lapin」の日本語訳という。
「レ・マンジュー・ドゥ・ラパン」なんていわれてもわけがわからないけど、
「うさぎたべるズ」でも やっぱりわからない。
そのわからいところを そのままほっておくテキトーさが わたしごのみでもある。
前売で3000円。配偶者をさそうことにして、さっそくチケットをもとめる。
彼女はなぜかサーカスがすきで、サーカスと名がつけばすごく協力的だ。

松江公演は、資金ぐりにくるしんでいるそうで、
クラウドファウンディングをブログでよびかけている。
とはいえ、わたしにできるのはチケットを2枚かうぐらいだ。
おなじフランスのサーカスでも、
「シルク・ドゥ・ソレイユ」は1万円ぐらいする。
値段だけをくらべてもしょうがないとはいえ
ずいぶんお手がるな設定なのが いいかんじだ。
このお手がる感こそ、こうした小劇団の魅力であり、
松江みたいなちいさな町で、
こうしたもよおしをたのしめるのはすごくありがたい。
東京・大阪、それにつづくなぜか松江公演に期待している。

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2015年01月30日

「合理的に組み合わせ」た結果がパターン化、というのがおもしろい

ブログ「OPINION & DIARY」の「マンネリズム」という記事が興味ぶかかった。
テレビドラマの『デート』がおもしろそうだ。自分自身、意識しているわけでも決めているわけでもないのに、なぜか曜日によって下着、シャツ、ハンカチ、靴から朝、昼、晩の食べるもの、飲むものまで決まってしまっている。パターンを変えなきゃと思うのだが、合理的に組み合わせて、昨日は日本酒だから今日は焼酎と変えていくうちに、パターン化してしまったようだ。走るコースも距離も、その日の気分もすべて曜日によって決まっている。問題だ。

http://sam-seki.at.webry.info/201501/article_19.html

無意識のうちに行動がパターン化するのではなく、
「合理的に組み合わせ」た結果がパターン化、というのがおもしろい。
しかし、かんがえてみれば、
すべてをかんがえたうえでパターン化するのは 当然なのかもしれない。

トイレにくとき、便器がいくつもあるのに、
たいていのひとは、いつもおなじところで用をたすらしい。
あたらしいことよりも、かわらない安定を無意識のうちにもとめるみたいだ。
しかし、記事でいう「マンネリズム」は、
「合理的に組み合わせ」た結果そうなったわけで、無意識ではない。
ゲンをかつぐ、ともまたちがうような気がする。
運にたよるのではなく、自分にとって最良な方法をつみかさねたら、
パターン化したというはなしだ。
わたしは、おなじ便器をつかったり、おなじ道をとおる傾向はあるけれど、
曜日によってすべてきめたりはしない。
そんなめんどくさいこと、自分にはできないとおもっていた。

ダスティン=ホフマンが自閉症の男性をえんじた『レインマン』では、
曜日によってたべる料理が完全に固定されていた。
自閉症のひとも、無意識のうちに行動を「合理的に組み合わせ」た結果、
パターン化させているのだろうか。
たまたまはじめてとった行動がパターンになったのではなく、
そこにちゃんと理由があり、
それがだんだんと複雑にからまっていくとすれば納得できる。
それだったら、自閉症でないひとのパターン化とおなじだ。
無意識とおもっている習慣も、
スタートしたときは、合理的に最善をもとめており、
そのつみかさねが生活習慣となっているのがおもしろい。

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2015年01月29日

『木暮荘物語』(三浦しをん)わたしのすきなふるいアパートもの

『木暮荘物語』(三浦しをん・祥伝社文庫)

ふるい木造アパート「木暮荘物語」をめぐる連作短編集。
この本のよさは、小暮荘をとりまくおだやかな風景と、
それがもたらす目先30センチくらいの世界観だ。
そこそこひろい庭があり、雑種犬のジョンがいごこちよさそうにすんでいる。
小暮荘はふるいたてものなので、夏はあつく、冬は当然さむい。
せまいシャワーしかなく、となりの部屋から音がつつぬけで、
とても彼女をつれてこれるようなつくりではない。
でも、なぜだかこんなアパートにすんでみたくなる。

無名でビンボーなわかものをえがくとき、
その舞台のおおくは必然的にふるい木造アパートになってくる。
『男おいどん』(松本零士)・『ワセダ三畳青春記』(高野秀行)
・『めぞん一刻』(高橋留美子)・『哀愁の街に霧が降るのだ』(椎名誠)など、
こうしたふるいアパートものがたりは、ひとつのジャンルになっており、
そしてわたしはこの世界によわい。

わたしがまだわかかったころ、
世界は自分と、ほんのちょっとのまわりだけでなりたっていた。
小暮荘は、そんな時代をおもいださせてくれる。
世界情勢や日本経済のさきゆきなどしったことではなく、
たいした心配ごともないけど、
それなりにあわただしく毎日がすぎてゆく。
『木暮荘物語』は、大局からみるとたいしたことない、
でもくらしているものからすれば切実な生活がちゃんとある。
生きるというのは、こんなささいなことのつみかさねなのが、
歳をくってくるとわかる。

連作短編であり、中心となるのは小暮荘にすむひとたちだけど、
なかの1編は、小暮荘のまえを たまたまとおりかかる女性・美禰(みね)のはなしだ。
小暮荘の庭にかわれているジョンは、
げんきにくらしながらも、これまでいちどもシャンプーされたことがない。
美禰はトリマーで、うすぎたないジョンをあらいたくてたまらなかった。
そのねがいをかなえたのが、前田という、とてもカタギにはみえない男だ。
前田は自分も犬をかっていることから彼女としたしくなる。
とおりかかるひとまでも作品にとりこんでしまう 三浦さんのうまさというか、
そんなことをしたら、小暮荘に関係なく、
だれでも作品に登場させられる調子のよさというか。

ジョンをシャンプーをしたつぎの日から
前田は美禰のまえにあらわれなくなった。
子分らしい男に前田のことをたずねると、

「出張中です」
「いつごろお戻りですか?」
「三年ほどです。
 そのあいだは、私がミネさんのお世話を仰せつかっております」

「ミネさん」とは、前田がかっている犬の名前だ。
犬だけど、兄貴分がかっている犬をよぶときは「ミネさん」。
なかせるはなしだ。
ほかの6編も、それぞれふかいおくゆきをもっている。

posted by カルピス at 22:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月28日

ファジアーノ岡山のサバイバルキャンプこそ、次世代サッカーの鍵かもしれない

アジアカップで日本代表は決勝トーナメントにのこったものの、
PK戦のすえUAEとの試合にまけ、ベスト8での敗退がきまった。
わたしはこの試合があった先週の金曜日、
まさかまけることはないだろうと、安心して試合を録画機能にまかせ、
新年会にでかけていた。

あとでこの試合をみると、組織されたUAEのうまさがめだち、
「まさかまけるはずが」というのは
わたしの失礼かつ勝手なおもいこみにすぎなかったことがわかった。
UAEは、かちのこるにあたいする いいチームであり、
中2日の日本はまけるべくしてまけたといえる。

UAEは2012年のロンドンオリンピック世代が中心メンバーで、
当時U-23の監督だったマフディ=アリ氏が、その後代表監督に就任されている。
中東といえば、きわめてみじかい期間で監督を交代させ、
一貫した育成にそっぽをむいた国がおおかったけれど、
UAEにおいては、継続した育成が成果をあげつつあるとみるべきだろう。

UAEだけでなく、韓国やオーストラリア、それに中国までも
あたらしい世代へのきりかえに配慮し、わかい選手がおおくなっているのに、
日本だけは昨年のWカップからあまりかわっていない印象をうける。
かたちとして日本はひとつまえのチームでアジアカップにいどんだ形となり、
いい・わるいはともかくとして、優勝にいちばんちかいところにいるチームと、
おおくのひとがおもっていたことだろう。
それがまさかのベスト8敗退だ。
A代表がアジアカップでやぶれたことにより、
日本はあらゆる世代の世界大会で ベスト8レベルにおちたのだという。
世界に通用しなくなったのが、A代表だけにとどまらず、
このさき数年にわたって 人材がでてこない可能性がたかいのは、
あまりたのしいはなしではない。

アギーレ監督は、大胆にわかい選手をためしたかとおもうと、
つぎはザックジャパン時代にもどったりして、
いまの代表は、つよいのか、そうでないのかわからないところがあった。
それが、グループリーグがはじまると、3戦を無失点できりぬけ、
決定機をなんどものがしたものの、あぶなげない試合はこびに
日本のつよさはほかの国より頭ひとつぬけているようにみえた。
わたしたちの代表もずいぶんつよくなったもんだ、と
安心して新年会にでかけたのに。
ザッケローニ監督時代より守備意識がたかく
これまでにないつよさを身につけたといわれながら、
あっけなくUAEにまけてしまったのは、
「運がなかった」ですまされるはなしではなさそうだ。

抜本的な改革を、すこしずつでも、ちゃくじつにすすめるために
日本サッカーはなにをどうとりくめばいいのだろう。

J2のファジアーノ岡山が、冬のキャンプでサバイバル体験をとりいれたという。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150118-00000047-dal-socc

「選手たちは6班に分かれてテントに宿泊。
 薪を集めて火をおこし、協力し合って食事を作った。
 食料など必要な物資は決められた予算の中で購入。
 島内でもマーケットが開かれ、架空通貨『FAGI』を使って調達するほか、
 島内探検や釣りなどでも食材を集めた」

ファジアーノ岡山は、今回だけとくにかわったことをしたわけではなく、
これまでも奇抜なキャンプでしられているそうだ。
なんだかすごくたのしそう。
サッカーのトレーニングらしくないけれど、
のびしろをおおきくひろげるには、これくらいのこころみが必要なのかもしれない。
まいた種が、今シーズンちゅうに芽をだしたり、
ましてや実をむすんだりはしないだろうけど、
数年さきをみこした土つくりとして おもしろいとおもう。

ファジアーノ岡山の成績をみてみると、
あまり上位に顔をだすチームではなく、
これまでのところ、奇抜なキャンプが成果をだしたとはいえない状況だ。
結果がともなわなければ批判もあびるだろうに、
この冬もまたぶれずに基本方針をつづけたのがすばらしい。
わたしとしては、まず選手ひとりひとりが無人島生活を体験したのちに、
チームでなにができるかを「キャンプ」してほしけど、
あんまり無人島生活だけになれしたしんでも どうかとおもうので、
今回のサバイバル体験は、これでよしと評価したい。

A代表がアジアカップでUAEにまけたことと、
ファジアーノ岡山のサバイバルキャンプは、本来まったく関係ない。
しかし、異質なもののくみあわせこそ革新をうみだす鍵ではなかったか。
A代表がファジアーノ岡山式のキャンプをとりいれたら、
50年くらいかかるかもしれないけど、
世界がまったく理解できないし、ついてこれない
斬新な日本スタイルのサッカーができあがっているかもしれない。
いまのやり方を50年つづけても 世界のトップレベルにたどりつけそうになく、
すべての年代がパッとしないいまこそ、
まったくあたらしい発想をためしてみるチャンスともいえる。
いそがばまわる、という手もある。

posted by カルピス at 20:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月27日

とんでもない質問を「とんでもない」とおもいたい

またまた「村上さんのところ」ネタ。

「小説を書こうと思うのですが、何か良いタイトルはありませんか? 
ちょっとしたあらすじなんかも返信してくださると嬉しいです!
(シラカバ、女性、35歳、派遣社員)」
http://www.welluneednt.com/entry/2015/01/26/213900

村上さんが「いったい何を考えているんですか?」と
あきれているように、
この手の「質問」がわたしもしんじられない。
ネットでは、こうした「質問」がごくふつうによせられており、
それにまたこたえるひとがいるから、どうなってるのだとおもう。
この女性は35歳なのだから、
わかいひとに特有のあまえとはいえないだろう。
社会全体で、こういう質問が「あり」という雰囲気になっているのだろうか。
すごい世界だ。それともこれは冗談なのか。

朝日新聞に連載中の『三四郎』をよんでいると、
佐々木与次郎さんの調子のよさがおもしろい。
むかしから、ああいうひとがいたのだ。
シラカバ氏みたいなひとも、ずっと存在していたのだろうか。

これまでで、わたしがいちばんすきな質問と回答は、
「ヤクルトにいる、あのペンギン?」だ。
http://www.welluneednt.com/entry/2015/01/26/203300
つば九郎という名前をはじめてしった。
同僚だった燕太郎のなさけない過去に、しんみりさせられる。

わたしはこっちの世界のほうがいい。

posted by カルピス at 10:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | 村上春樹 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月26日

『タイ国鉄4000キロの旅〜車窓風景完全記録〜』(渡邉乙弘)圧倒的な情報量におどろく

『タイ国鉄4000キロの旅〜車窓風景完全記録〜』
(渡邉乙弘・文芸社)

図書館の旅行本コーナーにあったので手にとってみた。
A5版2段ぐみの691ページ。
タイトルにあるとおり、タイ国鉄のすべてにのった記録だ。
あまりのくわしい記述に、わたしは ほんとうにおどろいてしまった。

たとえば

「今日の編成は、先頭の牽引機関車がアメリカ・ゼネラルエレクトリック・トランスポーテーション・システム社製GEA形四五五五号機で、電気式ディーゼル車です。1993年からアメリカ合衆国ペンシルベニア州エリー工場で製造が開始され、1995年に三十七両輸入されたうちの一両で、カミングス社製一二五〇馬力のディーゼルエンジン二基搭載しています。
 一号車は、荷物車BTC四六五号車です。新製時は食堂車として1957年に近畿車輌で製造されましたので、当時の形式はBBTでした・・・」(p56)

鉄道ファンは、こんなこまかいことに目がむくひとたちなのか。
「車窓風景完全記録」も、窓からみえる風景のうち、
印象にのこるものをとりあげるのではなく、
「完全」な描写がこころみられている。

「列車は左手に側線が分岐しても速度を緩めずにブーキット駅を通過しました。駅舎は右側にあり、ホームには駅長が一人立って列車を見送っています。(中略)
列車が軽快に走行を続けていると、左側の道路沿いに民家が数軒集まりだし学校が見えてきます。ここでアイサティア駅を通過しました。この駅は現在無人駅で・・・」(p82・83)

列車がとまっているあいだにみえた風景だけでなく、
窓からとおざかっていくすべてが観察の対象だ。
こんなにこまかな記述ができるのは、
ずっとノートパソコンをうちつづけるのか、
それともマイクをつかって情報を記録しているのか。
あるいは目にはいった風景のすべてを記憶できるひとなのか。
鉄道史的にどんな経緯でこの列車・駅が存在するのかも
もれなくおさえてあるし、
すれちがった列車についても、
それはどこそこの駅が始発で、
いまとおっているということは◯分おくれている、
みたいなことにまでふれてある。

「発車後、加速途中にアメリカ・ゼネラル・エレクトリック社製GEA形電気式ディーゼル機関車牽引のバッターワース発バンコク・フアランポーン行きの国際特急三六列車とすれ違いましたが、今日はおよそ二〇分遅れで運転されています」(p100)

列車をみただけで型やつくられた年までわかるなんて、
わたしにはしんじられない世界だ。
渡邉氏はタイ語もかなりはなせるようで、
タイ語から推察できる情報も紹介されている。

わたしは鉄ちゃんではなく、
かいてある数値や名前のほとんどが理解できないけれど、
これだけ徹底的にあらゆる情報がかきこまれると、
わからないなりにすべての文字を目でおっかけるようになる。
記録とはこうあるべきものなのだ。
リズムがよく、自分が列車にのっている気がしてくる。

じつはまだ100ページまでしかよんでおらず、
まだまださきはながい。
いちにちに50ページを目標に、2週間かけてよんでいくつもりだ。
この本をもってタイの鉄道にのったら
きっと風景が完璧に再現されていくようすにおどろくことだろう。
あまりにも圧倒的なと量と精密な描写に、
鉄道に関心がないわたしでも、
わからないなりにおもしろくよめる。

posted by カルピス at 11:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月25日

村上さんが連発する「がんばってください」に納得する

毎日たのしく「村上さんのところ」をよんでいる。
わかいひとはおもったことを率直に質問してくるし、
そこそこの年齢の方も、村上さんのまえではすごく素直だ。
不倫についての相談が なぜだかすごくおおい。

村上さんは「がんばってください」とよく回答にかいている。
わたしは基本的に「がんばって」がきらいだけど、
村上さんの「がんばって」は、
そうとしかいいようのないニュアンスがつたわってくる。
てきとうに返事をしているわけではなく、
努力でどうにかなるものではないときは
たしかに「がんばって」というしかないなー、とおもう。
うまくいかないことがわかっていても、
やらなければならないときもある。
にげるわけにいかないときは、まえにすすむしかない。
「がんばって」というのはそんなときなのだろう。
「村上さんなら」という限定つきで
「がんばってください」は含蓄のあることばだ。

浮気した夫が、ごきげんとりに『女のいない男たち』をかってきた、
というはなしがおかしかった。

「いやーなんていったらいいのやら。
ムラカミさんも浮気したんだね〜」

なんて、すごく調子がよくてにくめない「夫」だ。
さすがにこのときの回答は、「がんばってください」ではなかった。

いろいろな質問があり、村上さんらしい回答があり、
とてもたのしい。

posted by カルピス at 17:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 村上春樹 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月24日

「作家の読書道」をよみ、澤村凛さんとの共通点によろこぶ

「web本の雑誌」にあるわたしのすきなコンテンツ「作家の読書道」で、
澤村凛さんがとりあげられている。
http://www.webdoku.jp/rensai/sakka/michi156_sawamura/index.html
わたしは澤村さんの本をよんでいないけれど、
インタビューによると、共通点がいくつかあった。

・家に子供向けの、赤い箱に入った世界文学全集があり、
 そのなかにおさめられている『偉大なる王(ワン)』がすきだった
・松江でくらした経験がある
・松江にあった今井書店でアーサー・ヘイリーを買って読みまくった
・文章をかく参考に、本多勝一さんの『日本語の作文技術』をよんだ
・『大脱走』と『二十日鼠と人間』がすき

もちろん共通点がいくつあろうと
その後の経歴がかさなるわけではない。
わたしの体験は、ただ「よんだ」だったり「すき」くらいにすぎないけど、
澤村さんはたかい集中力で これらの体験を自分の血や肉にしてきたのだろう。
その後グァテマラでホームステイをしながらスペイン語をまなび、
これもまた自分のものにされている。
とはいえ、これだけの共通点に気づくと澤村さんの本をよんでみたくなった。

いまも松江にすむものとして、

「松江にいた頃に恵まれていたのは、
 家の近所に郊外型の大きな本屋さんがあったことです。
 そのお店の品ぞろえがとても良かった」

と近所の本屋さんを評価してもらえるのは、自分のことのようにほこらしい。
澤村さんの記憶によると「郊外型の大きな本屋さん」となっているが、
この本屋さん(今井書店)は、そうおおきなお店ではない。
大切なのは、お店の規模ではなく、
よい本をおさえることなのだ。
うり場のひろさがかぎられているので、
それだけ品ぞろえに工夫がもとめられるともいえる。
あたりまえにかよっていたお店が、
全国的にみてじつはたかいレベルにあるなんて、
どんな分野でもうれしいものだ。
そうした環境のすべてが、すぐれた人物がそだつ土壌となるだろう。

鷹の爪の吉田くんが連発する「島根県」や、
サイトでときどき目にする「松江」の文字に
こうしてすぐ反応してしまうのはわたしなりの郷土愛なのか。
むかしむかし、日本の辺境とよばれる土地に、
たかい文化をもつ民族がひっそりくらしていました、
なんてイメージを、松江がどんどんたかめていけたらいいけど。

posted by カルピス at 15:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本の雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月23日

習慣に優劣はあるか

体育館でトレーニングしてるとき、
わたしにもし財産があるとしたら、
からだをうごかさずにはおれない この生活習慣こそが それではないかとおもった。
なるべく運動したくないというひとはおおいし、
ダイエットはしたいけど、できればからだはうごかしたくないというはなしもよくきく。
運動は、あるひとにとっては、ずいぶんめんどくさいものなのだそうだ。
習慣の問題なのだろう。
たとえばエスカレーターではなく階段を、
自動車ではなくあるいたり自転車にのるのは
わたしにとって当然のことで、快感でもある。
からだをうごかす習慣が身についているおかげで、
体調はわるくないし、生活習慣病の心配もあまりしていない。
ありがたいことで、お金にはかえられない財産だ。

ある習慣があり、ながい期間にわたってとりくめば
その蓄積が財産となる。
読書もそうだ。義務や仕事だからよむのではなく、
たまたま本をよむ習慣が身につき、よみつづけた結果が
合計するとかなりの時間を本についやしたことになる。財産である。
財産はどれだけ時間をかけてきたか、とすれば、
財産のおおくは習慣ではないか。

では、マイナスとされる習慣はどうかんがえるべきか。
たとえば喫煙。
たばこをすう習慣も、つもりつもれば財産になっているのか。
ゴロゴロする習慣、というのはどうだろう。
ねっころがってテレビをながめたり、なにもしなかったり。
どれだけゴロゴロに時間をついやしても、
ゴロゴロだけではなにもうみださないような気がするけど、
ゴロゴロにもうまい・へたがあるだろうし、
洗練されたゴロゴロには、あなどりがたい効力がかくされているのかも。

けっきょく、人間がかっていい・わるいと とらえるだけで、
すべては対等で、なんにでも意味があり、どうじに意味がないのかもしれない。
わるい習慣とは、ある価値観から身勝手にきめつけただけで、
タバコをすって肺がよわくなったかもしれないけど、
それとひきかえにおちつけたり、緊張をやわらげたりできたのだ。
あらゆる文化は相対的で、優劣がないように、
習慣にもまたいい・わるいはないような気がしてきた。
運動は正の財産で、喫煙は負の財産なんてことはなく、
たまたまいまという時代にそうおもわれているにすぎない。

人類10万年のながい歴史からすれば、
このごろとくにすべてがどうでもよくおもえてきた。
あと100年もしたら、ジョギングなんてだれもしてないかもしれない。
なにもかもを、いっしょくたにしすぎているだろうか。

posted by カルピス at 13:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月22日

1.1リットルはいる アルミ製ドカベンがとどく

注文したアルミ弁当箱がちいさすぎたことを
すこしまえのブログにかいた。
http://parupisupipi.seesaa.net/article/412385251.html?1421905135
あれからまたネットをさがし、
サイズもたしかめたうえで べつのお弁当箱を注文する。
きのうそれがとどいた
(ものをかわない生活をこころざしたはずなのに・・・)。
「モードライン」という商品で、
ふたとしきりはアルミでないのが残念なのと、
パッキンもついてるのがわたしとしては余計だけど、
なによりも1.1リットルはいるドカベンぶりをたかく評価した。
186×127×71ミリと、じゅうぶんなふかさがあるので、
もし本気でぎゅうぎゅうにつめたら かなりの量がはいる。
さっそくつかってみた。

おかずとしてたまごやき・ソーセージ・塩さばをやく。
あとは冷蔵庫にあるのこりものだ。
たまごやき・ソーセージ・塩さば(塩シャケ)という3点セットは、
きっとちいさなころ、なにかの体験がわたしの脳にすりこまれたのだろう。
毎回かならずこの3品をつくるわけではないけれど、
わたしとしてはこの3つがあると それだけでお弁当のランクがあがり、
おひるがまちどおしくなる。
いわば、シンボルとしての3点セットだ。
ごはんは、いつもつかっているおちゃわん1.5杯分をいれた。
それでもスカスカで、たよりなくみえる。
おかずも、71ミリのふかさがあるとあんがいいれにくい。
でも、このふかさは自由でもあるのだ。
量の調整がすごくかんたんで、どうにでもつかえる。
ドカベン.jpg
わたしがワンボックスタイプをさがすのは、
おかずとごはんの量を、自由にかえられることと、
できたてのおかずと、冷蔵庫にあったおかずを
あまりこまかく気をつかわなくても いっしょにあつかえることだ。
朝つくったおかずは、ごはんとおなじ側にいれたらいいし、
つめたいおかずは、わざわざあたためなくても(ほんとうか?)
しきりであたたかいおかずとへだてられる。
プラスチック製よりもアルミのほうがあらいやすいし、
なによりも、お弁当らしい圧倒的な存在感がたのもしい。
ここらへんのかんじかたは、年代によってちがうかもしれない。
アルミ弁当箱がじっさいに活躍していた時代をしっているものと、
レトロとしてみなおされてきたいま、はじめてみるひとと。
高校2年生のむすこにお弁当をみせてきいてみたら、
とくにふるくさいとはおもわないそうで、
しつこく感想をもとめると「いいんじゃないの」だった。

配偶者は、レンジであたためられないのがいやみたいだ。
レンジをはじめから否定するいさぎよさを
アルミ弁当箱の魅力のひとつと わたしはとらえている。
余分な電気をつかわない覚悟がすてきだ。
あたたかい状態でたべようとおもえば、
むしたり保温器にいれたりと、ひと手間かけるのが またいとおしい
(それも余分なエネルギーではないのか、なんておもわないように)。

アルミはたべおわったあと、あらうのもかんたんだ。
プラスチック製だと、あぶらがなかなかおちないけど、
アルミはお湯をかけただけで あらかたきれいになっている。
さすがにドカベンだけあり、ぜんぶたべたら
しばらく休憩しないとうごく気になれない。
12時にたべはじめ、きっちり1時までやすむこと。
そとではたらくひとのためのお弁当箱、といっていいかもしれない。

posted by カルピス at 13:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | 食事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月21日

『旅はときどき奇妙な匂いがする』(宮田珠己) 再起動にむけて宮田さんがもとめた本格的でない旅

この本は、「アジア沈殿旅日記」として
webちくまに連載された記事をまとめたものだという。

宮田さんは、数年まえからみぎ足が謎の症状をおこすようになった。
「まるで右足だけが激しく日に焼けたように、
あるいは逆に冷やしすぎて厳しいしもやけに罹ったかのように、
熱くもある冷たくもあるヘンな感覚が毎晩私を襲う」そうで、
医者にいってもはっきりした原因がわからない。
宮田さんはこの症状に〈ペリー〉と名づける。
〈ペリー〉はあきらかに神経症であり、
旅作家としてこれからどう仕事をすすめたら、という
宮田さんの「まよい」に関係があるようだ。
この本は、もうわかくはなく、
自分のスタイルをもういちどみつめるときをむかえた宮田さんが、
〈ペリー〉とどうつきあったかの記録である。

仕事と〈ペリー〉との関係をよくかんがえたあげく、
宮田さんはふたつのテーゼにいきあたった。
・第1のテーゼ
 〈ペリー〉による苦痛を軽減するためにも旅を続ける
・第2のテーゼ
 しかしその旅を仕事にし、本格的なことを書こうとすれば
 その悩みによって神経が昂ぶり、〈ペリー〉が悪化する可能性がある

「そうすると、自動的に、
 このふたつの命題から導かれるのは、次のような解しかない。
 私には、もっともっと本格的でない旅が必要だ」

「だから今、私は高らかにこう宣言したい。
 『旅行に行くので、仕事休みます』
 それは昔サラリーマンだった頃、何度も口にしたセリフであり、
 自分を救う無敵の言葉であった」

「こうして私は、どこか好きな場所へ行って、
 ゆっくり休むことが決まった」

とかくと、宮田さんがまたふざけてそんなアホなこと、といいたくなるけど、
この本は、〈ペリー〉をなだめようと宮田さんが一貫して
「本格的でない旅」をした記録である。
宮田さんは、台湾・マレーシア・ラダック・熊本をおとずれる。
マレーシア編であきらかなように、
宮田さんはこの本で、ミッションとしての旅を否定している。

「読んでいる間、海で浮かんでいるような心地になり、
 いくら読んでも海に浮かんでいるばかりで
 他に何も起こらないが、
 それでもずっと気持ちよく読んでいられるというような、
 そういう本はありえないのだろうか。(中略)
 つまりそれは、何かについての旅、について書くのではなく、
 旅そのものについて、もしくは旅という状態について書くということと同義である。
 むしろ、それこそが本当の旅の本ではないのだろうか」

本書は、これまでのタマキング作品とずいぶんちがうテイストだ。
宮田さんは、台湾でなんのへんてつもない用水路をボーっとながめ、
コタバルについても、こころをおどらすことなく なんとなくすごす。
この「ふつう」のかんじに、
宮田さんは旅にむけた感情の再起動をかんじとる。

「四十にして惑わずとは、いったい誰のことであろうか。
 私も三十五ぐらいのときは惑っていなかった。
 いや、四十でも惑っていなかったかもしれない。
 それが、四十五を超えたぐらいから、
 みるみる惑うようになっていったのだ」

このとまどいは、わたしの実感とおなじだ。
宮田さんがつぎにかく旅の本をたのしみにしたい。

posted by カルピス at 14:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月20日

三谷幸喜版『オリエント急行の殺人』をたのしむ

録画しておいた三谷幸喜氏による『オリエント急行殺人事件』をみる。
ふたばんにわけて放送されたもので、
第1部は原作を忠実に映像化したもの、
第2部は過去にさかのぼり、第1部にいたる乗客たちのおもいがえがかれている。
こうやって、犯行にいたる経緯をしめされると、
たしかに原作では、米富豪にかかわりのあるひとたちによる、
復讐をくわだてる具体的なうごきが
はぶかれていたことに気づく。
誘拐事件からはじめると、膨大な量の作品になってしまうので、
犯行に焦点をあてた『オリエント急行の殺人』は
ミステリーとして当然の構成といえる。
ごくふつうのミステリーのなかに、
そこにいたる過去のものがたりをおもいついたことで
三谷氏の『オリエント急行殺人事件』はうごきだした。
原作を映像化するだけなら三谷氏はあまりうでのふるいようがない。
これまでになんども映画化された作品を
日本でドラマにしても いまさらなにをあらわすというのか。
しかし、犯行まで過去をどう料理するかなら、
三谷氏は自由にふでをすすめられる。
今回の2部構成は、三谷氏からみれば 必然であり、
第2部こそが三谷氏があそびまわれる舞台となる。

(以下ネタバレ)
すべての作品にリアリティがもとめられるように、
『オリエント急行殺人事件』も、誘拐事件の関係者が
どれだけ犯行への動機を切実にもったかをおさえてほしい。
その点では、慈善団体の事務局をしていた幕内氏が、
なくなった夫人にいかにお世話になったからといって、
ひとりで復讐をこころざすほどの動機をもつとはかんがえにくい。
おなじように、執事の増田氏が
(旦那さまは)「使用人おもいのじつにやさしいお方でした」というのや、
運転手だった保土田氏による
「わたしたちを家族同然にあつかってくださいました」
も無理がある。
無理ではない、というには、そこでまた膨大なサイドストーリーが必要だろう。
藤堂氏のうごきがなかなかつかめず、
作戦をたてられなかったのも、
「用心ぶかい男だから、生活のペースをかえようとしないのよ」
もおかしい。
おなじペースでくらしてくれたほうが、策をねりやすいのではないか。

三谷氏らしいあそびもある。
犯行にいたるまでに、「わたしもいれてください」と
だんだん仲間がふえていくようすは まるで「桃太郎」だし、
ヒゲをそって変装したはずの能登大佐なのに、
つぎのシーンではまたヒゲがはえていたり。
寝台列車のなかで「実行」をまつあいだ、
関係者たちの気もちがだんだんもりあがり、
ドタバタになったのもおかしかった。
あんなにおおぜいが通路をうろうろしたら、
だれかにみられやしないかと心配になる。
乗客がどんな関係にあるのかをしりながら第2部をみるのは、
三谷作品に特有のおかしさだ。

12人がひとりずつ、「ひとさし」する場面はかなりグロだ。
二宮和也氏がうまかった。
「奥さまのかたき」とつぶやき、犯人の顔をみながら
冷静にプスッとつきさす。
長年の計画を実行にうつすときはあんなかんじかも、
とおもわせるリアリティがあった。

はじめは名探偵勝呂尊(野村萬斎氏)の、
芝居がかったそぶりと奇妙な声に違和感があったけれど、
そのうちなれて作品をたのしめた。
とくに第2部は、過去のものがたりをおもいついた三谷氏のアイデアに拍手をおくりたい。
すべてのものがたりには、
その以前があり、それ以後があることを気づかせてくれた。

posted by カルピス at 11:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月19日

『ぴっころ流 ともに暮らすためのレッスン』(安井愛美)

著者の安井さんは、障害者を支援する事業所「ぴっころ」を旭川でたちあげ、
制度にとらわれない やわらかなとりくみを 根づかせてこられた方だ。

安井さんは入所施設の相談員として仕事をはじめられている。
1990年代は 福祉サービスがかぎられており、
入所をねがわないひとにも、家族の都合から
施設への入所をすすめるしかなかった。
そんな自分の仕事に安井さんは「悪徳商法のセールスマンみたい」と罪悪感をもち、
施設をでてくらしたいひとたちを支援する事業所として
ぴっころを仲間たちとたちあげる。

当時はまだ自閉症のかたへ適切な支援ができる事業所はあまりなく、
ぴっころは 発達障害に特化したような事業所として しられるようになる。
安井さんは、どうしたら発達障害をもつひとたちが こまらずにくらせるかに
地域づくり・ひとづくりとしてとりくみ、
仲間たちと実践をつみあげてゆく。

わたしはセミナーみたいなところで、
なんどか安井さんのおはなしをきいたことがある。
たいていの講師のはなしは、
わたしなどとはレベルがちがうのをみせつけられて、
感心しながら もうちのめされることがおおいけれど、
安井さんは自分のうまくいかなかった体験を
すこしこまったような笑顔をうかべながら
かくさずにはなされる。
介護を仕事にするものとして、
なれのはての職員になりつつあったわたしは、
安井さんのはなしには共感でき、安心して会に参加できた。
安井さんはただしさをおしつけない。
わたしのようにいたらない職員をも、
いっしょにやっていく仲間として ひきこんでくれる。

「専門業者はとても必要なのですが、
 この役回りは少し間違えると、
 『正しさをおしつける』ことになりかねない立場でもありました。
 『自閉症の正しい理解を』
 『自閉症支援を正しくしないと二次障害をつくることになる』と訴える活動は、
 正しいことをしていない人へのダメ出し宣言と
 表裏一体の危険がありました。(中略)
 正しいことを求めるあまりに、誰かを排除するというような生き方で、
 私は幸せにはなれないのです」

この、「私は幸せにはなれないのです」、が
わたしはこの本でいちばんすきなところだ。
安井さんのつよさとおもいが、ここにあらわれている。

安井さんは、ぴっころをはじめたときから、
ぴっころがなくなるのをねがっていた。

「NPO法人を立ちあげるメンバーに加わらないかとの話があったとき、
 私はちょうどぴっころの終わり方について考えていました。
 実は、ぴっころを終えるというのは、
 ぴっころを立ちあげたときからの夢でした。
 ぴっころがなくても困らない時代になることが、
 そもそもの願いだったのです」

介護サービスが必要なひとはだれで、どれだけの量を
そのひとはつかう権利があるかなんて、わかるわけがない。
なにがただしいかという正解はなく、
ひとつひとつの相談に、いっしょうけんめい耳をかたむけるしかない。
安井さんは、ときどきまよいながらも誠実に仕事をつづけ、
とうとうぴっころが必要ないところまで地域づくりをすすめている。
そしていまは、あたらしくつくったNPOで「共生サロン」をひらき
「ともに暮らすこと」をめざしているそうだ。

達人の域にたっした安井さんは、
「こまった」をなくそうなんて もうかんがえていない。

「『ともに暮らすためのレッスン』とは、
 『ともに困る作業』ともいえます。
 今では私に常にこのようなことを考えさせてくれる、
 悩みの種をもってきてくれる多くの困っている人たちに
 とても感謝しています。
 困りごとを解決してあげることはなかなかできないのですが、
 ともに困ることならいつでもできます。
 困る仲間がいることで、やがて困りごとが解決できたら、
 そんなすてきなことはありません」

この本は、こまかなノウハウがかいてあるわけではないのに、
すぐれたマニュアルとなっている。
この本にかかれているかんがえ方をはずさなければ、
事業所として、支援員として、へんなことにはならないだろう。
ふたたびなれのはての職員になりつつあるわたしなのに、
安井さんのすてきなとりくみに刺激され、
ひさしぶりに血がさわいだ。

posted by カルピス at 11:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月18日

「村上さんのところ」に わたしなら なにを相談するか

「村上さんのところ」がはじまった。
読者が質問をメールでおくると、
そのすべてを村上さんがよみ、
いくつかについては返事をくれるという。
サイトのトップページには村上さんとおもえるひとの絵がかいてある。
安西水丸さんの絵でないのが へんなかんじだ。
http://www.welluneednt.com/
ずいぶんまえにもおなじような企画があったけれど、
いつも本になってからそのおまつりに気づき、
わたしは質問をメールでおくったことがない。
質問と回答をまとめた本
(『ひとつ、村上さんでやってみるか』など)をよむと、
村上さんならではの 直球だったり変化球だったりの回答がよせられており、
どれもたのしいよみものにしあがっている。

わたしならどんな質問をおくるだろう。
あんまりかたぐるしくなくて、
村上さんの負担にならず、かつ、
村上さんがこたえたくなるような質問はなにか。
本についてよりも、どうでもいいはなしがよさそうだ。
ネコのことがいいかな?

「さむさきびしきおりから、村上先生には ますますお元気に・・・」と、
ただしい寒中みまい的にもっともらしくきりだし、
あまり数がおおくはないであろう
高齢者のファンをよそおったら(わたしは80歳ですじゃ)
返事がもらいやすいのでは。

「お元気ですか? ノーベル賞、残念でしたね!」では
さすがに 気やす すぎるし。

「わたしは水泳がとくいだから、
 村上さんが苦手な左腕のフォーム(テキトー)を修正してあげますよ」
というのはなんだかえらそうだ。
わたしだったらそんなやつとかかわりたくない。

やはり村上さんには
「近所においしいドーナツ屋さんがあります。
 こんどいっしょにどうですか」
がいいのでは。
でも、残念ながら、近所においしいドーナツ屋さんがない。

わたしにはとてもかけないような
おもいがけない質問がたくさんあつまって、
にぎやかなおまつりになるのを たのしみにしている。

posted by カルピス at 09:45 | Comment(2) | TrackBack(0) | 村上春樹 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月17日

『オリエント急行の殺人』(アガサ=クリスティー)ふるめかしさをたのしむ

『オリエント急行の殺人』(アガサ=クリスティー・ハヤカワ文庫)

これまでわたしはクリスティーの作品をよんだことがなく、
一般教養的な意味で、それはよくないのでは、とまえから気になっていた。
そう意識するからか、このごろクリスティーの名前がよく目につくようになり
ようやく超有名なこの作品をよみおえて、ほっとしている。

一般教養は、わかいころにたかめてこそ意味があるもので、
もうあまりのこり時間がすくなくなってから、
あわててつけたした「教養」は
あまり威力を発揮してくれないだろう。
この作品のひねり方は、もしわかいころによんでいたら
わたしの人生を もうすこしゆたかにしてくれたかも、とおもわせる。
人生は有限であり、おそすぎるクリスティーデビューによる
うしなわれた一般教養は とりかえしがつかない。

1934年に発表された本なのだから、
とうぜんずいぶんふるめかしいところがある。
それがまた、いまよむと味わいぶかい部分だろう。
なんにちもかけてイスタンブールからフランスへむかう。
ただ移動するだけでなく、豪華客船の列車版みたいな優雅な旅行だ。
貴族や実業家たちが、ととのった設備の寝台車や食堂車で
時間がとまったような旅行をたのしむ。

「小間使い」なんてことばがふつうにでてくるし
(いま「小間使い」という仕事はあるのだろうか)、
車掌に「ベッドの支度をさせる」なんてのも当然おこなわれる。
ベルをならせば車掌はなんでもいうことをきいてくれるのだ。
もちろんたっぷりとチップをわたしたうえだろうけど。

探偵のポアロは、絶対的な存在として登場しない。
ほかの名探偵にはないフツーさがいいのだろうか。
いたらないところもあるさえないおじさんにすぎなかったのが、
だんだんとするどい観察や推理をみせるようになり、
終盤にはいると、こんがらがった状況をきれいにときほぐす。

正直にいって、はじめはなかなか なじめなかった。
この本が、絶対的な評価をえたものであることをしらなかったら、
わたしはたいくつな序盤をやりすごし、さいごまでよみとおせただろうか。
しかし、事件がおき、乗客へのききとりがひととおりおわるころになると
だんだんひきつけられていく。
そして、さいごにくりひろげられる おどろきの結末。
なにかにつけおおさわぎするトホホな女性まで
一枚かんでいたなんて。
ポアロにひかれはしなかったけれど、
クリスティー作品のおもしろさがよくわかった。

『オリエント急行の殺人』をえらんだのは、
三谷幸喜さんが、この作品の設定を日本にうつし、
脚本をかいたことも意識していたからだ。
もちろん映画になっているのはしっており、それはまたみるつもりだけど
日本が舞台というのにも興味がわいてくる。
三谷さんの作品では、「みにくい」公爵夫人を
だれがえんじたのだろう。
ウィキペディアをみると、草笛光子さんだ。
どうやって出演をくどいたのだろう。

posted by カルピス at 11:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月16日

ドイツサッカーのとりくみにおどろく

サッカーのアジアカップがはじまり、
日本は決勝トーナメントをめざして きょうイラクと対戦する。
代表チームについてサイトをみていたら、
川端暁彦の記事が目にはいった。
といっても、アジアカップについてではなく、
『第9回フットボールカンファレンス』でおこなわれた
イゼケ氏の講演が「圧巻」だったというはなしだ。
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/sports/soccer/japan/2015/columndtl/201501140001-spnavi

このカンファレンスは、日本サッカー協会が主催する指導者の勉強会であり、
イゼケ氏は、前回のWカップで優勝したドイツチームの
アシスタントコーチをつとめたひとだという。
イゼケ氏が指摘した5のポイントは、
1〜3が戦術についてであり、おどろかされる内容というよりは、
あたりまえのことを どれだけしっかりできるかを
ドイツ的に追求したものだ。
4つ目のチームワークについても、よくいわれながら
こうしたポイントにいつもあげられるのは、
それだけよくまとめるのが、ほんとうにむつかしいからだろう。
イゼケ氏は、1枚の写真をみせ、ピッチをはなれたところで、
はばひろい分野のひとが真剣にチームのためにはたらかなければ
優勝できないとつたえている。
おかしかったのは、
「ドイツの専門家ですら顔を知らないような選手が混じっている」にもかかわらず、
「マニアックな人がいてほぼ正解を答えてしまったのだが(さすが日本!)」
というはなし。

「圧巻」なのは、Wカップにむけて どう準備をすすめたか、だ。

「『お金あるのねと言われるかもしれませんが、あるんです』
 とイゼケが笑いながら、
 通常フェリーでしか移動できない小さな島を借り切り、
 『いろいろな人たち をシャットアウト』。
 空港までは35分で、飛行機移動は全体で2時間くらい。
 決勝まで見据え、『どこに行くのにも便がいい』場所を選んで
 そこにコテージを 多数建てて、
 一個の『村』を作ってしまったというから筋金入りだ」

「たかだか」サッカーのために「村」をつくってしまうのだ。
ひとつの大会にむけて、これだけの準備をするのが当然であるという共通認識が、ドイツにはやしなわれている。たしかに「圧巻」というよりない。
わたしたちはよく、さいごまであきらめずにたたかいぬく、
不屈の精神を「ゲルマン魂」などというけれど、
この徹底的な準備もまた、きわめてドイツ的である。
ドイツ以外に、これだけの用意周到さで準備をすすめる国があるだろうか。
もし日本でこれだけの準備が必要だと関係者がうったえても、
あまりにもおおげさなとりくみだと、理解がえられそうにない。

彼らにとって、Wカップとはそれだけきわめて重要な大会なのであり、
このとりくみを日本が参考にできるかというと、
あまりにも価値観がちがいすぎるとおもってしまう。
おなじサッカーというスポーツでありながら、
いっぽうは国をあげてたたかっている。
これは、いい・わるいのはなしではなく、文化のちがいというよりない。

サッカーの試合で、得点後のよろこび方をみていると、
なにかとくべつな物質が分泌されたとしかおもえない
爆発的なエネルギーに圧倒される。
あの興奮のまえでは、どんなきらいなひととでも だきあうことができる。
そんな、よろこびの頂点をなんども体験すると、
麻薬のように その興奮がなくては生きられなくなるのだろうか。
さめた目でみると、まるで病気みたいだ。

イゼケ氏がはなすドイツの準備をきくと、
この方向からドイツにかつのはむつかしいことがわかる。
日本が参考にするのは その徹底さではなく
べつの角度からサッカーを理解し、日本のよさを発揮するよりない。
「日本的なサッカー」とは、戦術だけについてのものではなく、
日本ならではのつよみをいかした総合的な環境づくりである。
いくらかの経験をつんできた日本のサッカーは、
いま「日本的なサッカー」をきずく道をさぐってるのだろう。

posted by カルピス at 10:51 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月15日

注文していたアルマイト製お弁当箱の ちいささにおどろく

どうしてもほしくなって、アルマイト製の弁当箱を注文した。
「大」とかいてあるので安心していたら、
とどいたのは わたしがおもっていたおおきさの
半分くらいしかない。
ほぼ日カズンサイズがほしかったのに、
とどいたのは「オリジナル」よりも まだちいさかった。
ちゃんと寸法がかいてあったのだから、
よくたしかめなかったわたしがわるいとはいえ、
ダンボール箱をあけたら、でてきたのがミニチュアサイズだったので
はげしく脱力してしまった。
アルマイト弁当箱.jpg
山田洋次監督が、わらいについて
なにかの本にかいておられたのをおもいだす。
丼もののメニューを、なんでも50円でたべられるお店があったのだそうだ。
天丼でも親子丼でも、とにかく50円。
50円だから、とうぜん それなりの具しかはいっていない。
うな丼を注文したあるお客さんが、
ふたをあけたとき、あまりにもちいさなウナギのきれはしに
「アッ!」とおもわず声をあげたという。
50円のうな丼だと、覚悟していながら、
それでも おどろいてしまった残念な気もちが
「アッ!」にあらわれている。
みている側は、わらっては失礼だけど、でもすごくおかしい。
山田さんは、わらいの原点が、この「アッ!」にあるのでは、
とかかれていた。

わたしもまた、「アッ!」と声をあげたとおもう。
それくらいちいさなお弁当箱だった。
アルマイトのお弁当箱に、わたしのすきなおかず、
たまごやき・ソーセージ・塩シャケなどをぎっしりとつめ、
これこそが日本のただしいお弁当なのだと
ブログで紹介しようとおもっていたのに。
くやしいので、ほんもののドカベンをさがすことにする。
どっしりと、実力のあるドカベンに、
ただしいお弁当をつめて ほくそえむのだ。

posted by カルピス at 11:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 食事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月14日

ピピの食事量をグラフでみる

2時半に、ピピがきっちりわたしをおこす。
トイレ・ごはん・水のじゅんにつきあってから、またふとんにもぐる。
まえは、わたしをおこしながらも、
いちどにひとつのうごきしかしなかったので、
ひとりでできることでも、夜中に3ど
いちいちいっしょにうごかなければならなかった。
それにくらべたら、いちどおこされるくらい たいしたことない。

旅行ちゅう気がかりだったのは、ピピの健康についてで、
口内炎をわずらっているピピが、
はたしていつもどおりにたべてくれるかを心配していた。
「心配していた」なんていいながら、
ちゃっかり旅行にはでかけているわけだから、
わたしの心配もかるいというか、
あくまで自分の都合が大切なのがすけてみえる。
とはいえ、家にもどり、ずいぶんやせながらも、
元気そうなピピをみたときは ほんとうにうれしかった。
ピピのいない生活をかんがえれば、
夜中におこされるくらい、なんでもない。

きのうのブログに、なんでもエクセルのグラフにおこしたいひとのことをかいた。
わたしも、もちろんピピの食事量をグラフにしている。
いちにちに、モンプチのちいさなカンヅメを
1.5カンたべてくれれば、ピピはどうやら体力を維持できるようだ。
それなのに、わたしの旅行ちゅうは、1.03カンしかたべれなかったので、
やせて背骨のかたちがうきでていた。
わたしがかえってからは また食欲がもどって、
平均で1.8カンたべてくれている。
150114ピピ食事量グラフ.jpg
12月14日から1月5日がわたしの旅行期間であり、
グラフのまんなかへんは、ときどきたくさんたべる日がありながらも、
いちにちに1カンをしたまわる日が おおくなっている。

ピピの口内炎は、すこしよくなったり、
まったくたべられなくなったりをくりかえしながら
もう6ヶ月がすぎている。
たべられなくなるときは、死ぬときなので、
毎回ヒヤヒヤしながら、しつこくピピにお皿をすすめている。
いいかたちのグラフがこれからもつづけばいいけど。

posted by カルピス at 20:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月13日

旅行にかかった費用の国別平均をだしてみる

たしか宮田珠己さんの本だったとおもうけど、
数字のデーターを目にすると、ついエクセルでグラフをつくってしまう、
というはなしがのっていた。
つくってしまう、というよりも、
つくるのが当然だろう、つくらないほうがおかしい、と
つよ気にはなしが展開していく。

わたしも、このまえの旅行にかかった費用を エクセルにいれてみた
(めんどくさいので、グラフにはしない)。
国によって物価がたかい・やすいと
なんとなくの印象をもつけれど、
3つの国をくらべてどうなのかは 意外とわかりにくい。
もちろんどんなところで なにをたべたかなど、
ひとによってそれぞれだから、
あくまでもわたしが旅行したときのデーターだ。
表をうめていくのは あんがいたいへんな作業だったし、
ほかのひとにはまったく役にたたないけれど、
客観的な事実があきらかになるのはたのしい。

ベトナムとラオスはお金の単位が日本とずいぶんちがうので、
たかいのかやすいのか 旅行していてわかりにくかった。
たとえばベトナムでうどんをたべると2万ドンくらいして、
ずいぶんたかそうだけど、日本円ではおよそ100円だ。
ラオスのキープも10万キープ札なんてあり、
ゼロがたくさんならんでいるのにとまどった。

食事代と宿泊費、そしてぜんぶひっくるめた旅費の3つについて、
いちにちにかかった平均を紹介すると、

(単位:円)   ベトナム  ラオス  タイ
・食事代    809   1,582  1,495

・宿泊費    1,724   1,068  1,162

・費用合計   5,250   4,054   4,751

旅行しているときには、ラオスはあんがいお金がかかるような気がして、
ぜんぶ輸入にたよっているから、という ある旅行者のはなしに納得していた。
でも、平均するといちばんやすかったのはラオスだから
印象はあまりあてにならない。
ベトナムでの食事代がやすかったのは、
旅行をはじめて間がなかったから、
サイフのひもがかたかったのかもしれない。

やすいとおもうか、あんがいたかいとおもうかは、
旅行のスタイルによってちがうだろう。
わたしにとって、すきなようにたべた結果がこの数字となった。
もしできるだけお金を節約しようとするなら、
この半分か2/3くらいですごせるだろう
(わたしはそんなのいやだけど)。

posted by カルピス at 13:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月12日

わたしの町に競輪場と競輪場があった時代

わたしの家のすぐちかくに「競馬場」という地名の町がある。
なんで競馬場かというと、文字どおり
競馬場のあと地につくられた住宅地だからだ。
ぐるっとまわってみても、
いまとおっている道が競馬場と関係あるようにはおもえないけれど、
地図をみれば競馬のコースにそって
家がならんでいるのがよくわかる。
この競馬場あと地について、「デイリーポータルZ」の
「競馬場の形が残っている住宅地に行ってみた」(大山顕)
http://portal.nifty.com/kiji/141212165831_1.htm
という記事がくわしくとりあげている。
そっくり競馬場のコースがのこっているのは
めずらしい例なのだそうだ。
ウィキペディアによると、1929年から36年まで(昭和4年から12年)
じっさいに競馬がおこなわれていたらしい。
1929年といえば、世界恐慌がはじまった年で、
31年の満洲事変、37年の日中戦争と、くらい影をかんじてしまう。
そんな時代に、わたしのすむ町で競馬がたのしまれていた。

競馬場の形がのこっているからなんなんだ、といわれたらそれまでで、
大山顕さんも、その事実をおもしろがってくれるひとがいますように、
とずいぶん低姿勢だ。
ほんとうに、わたしもまず、その事実をおもしろいとおもうし、
すんでいないひとにとっては、まったくピンとこないことも よくわかる。
いまだからこそ住宅街になっているけれど、
競馬場ができたころは、なにもない町はずれだったはずだ。
わたしは当時の競馬場を、あらくれた男たちだけの
ガサツな雰囲気ではなくて、
イギリスの貴族たちがたのしんでいたような 社交としての場を想像し、
そうであったら おもしろいとおもう。

わたしの町には、競馬場のほかにも 競輪場があったらしい。
おおむかしのことかとおもったけど、
おおむかしに競輪があったわけはなく、
これまたウィキペディアによると、1950年にひらかれ、
3年後の53年にはもう廃止されている。
わたしが生まれるまえに競輪場がつくられ、
市民をあつくさせていたとおもうと、
なんだか活気のあるおもしろそうな時代におもえる。
戦後わずか5年しかたっていないときに、
だれが競輪場をつくろうなんて おもいたったのか。
それぐらいまえだと、規制緩和なんていわなくても
きまりはゆるゆるで、なんでもありの自由な雰囲気だったのだろうか。

日本にカジノをつくる案がでているそうで、
反対の意見をいくつか新聞でよんだ。
まともにかんがえたら、おおくのひとが拒否反応をしめすのは
無理からぬことにおもえる。
これがもし当時だったら、カジノくらい あんがいすんなりできたのではないか。
いまとなっては カジノどころか、
あたらしく競馬場や競輪場をつくるのもむつかしそうだ。
なにか社会が 根本的な部分でかわったのだろうか。
わたしは競馬や競輪に関心がなく、パチンコさえしないけれど、
日常的に競馬や競輪があった時代は
そうわるくないようにおもえる。
わたしのおじいさん・おばあさんの世代のひとが、
あたりまえのこととして競馬や競輪をたのしんでいたなんて、
いまよりずっとおしゃれな社会みたいだ。

posted by カルピス at 16:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする