なにかの本で小田実さんが、
旅行にはほとんどなにもしらない状態ででかけ、
かえってからその土地についての本をよむ、
というようなことをかいておられた。
旅行にいってみて、興味・関心がわいたところで
くわしい情報にせっしたほうが頭にはいりやすい、
というかんがえ方だ。
梅棹忠夫さんは、『東南アジア紀行』のなかで
「移動図書室」を紹介している。
日本やバンコクでかった たくさんの本を自動車にもちこみ、
移動しながら 自分たちがとおりかかっている土地について
しらべるやり方だ。
「現地で、実物を見ながら本を読む。
わたしはまえから、これはひじょうにいい勉強法だと思っている。
本に書いてあることは、よく頭にはいるし、
同時に自分の経験する事物の意味を、
本でたしかめることができる」
わたしが今回の旅行にもっていった本は、
『東南アジア紀行』以外はぜんぶ小説であり、
あいた時間をたのしむことばかりかんがえていた。
ガイドブックでさえ、おもさとかさばりをきらって
必要とおもえるページをコピーするだけにとどめた。
10冊も小説をもっていくのなら、
旅行の情報に もっと気をくばればいいものを。
旅行からもどり、家の本棚にあった ラオスについての本をひっぱりだす。
『東南アジア四次元日記』(宮田珠己・幻冬舎文庫)
『メコン・黄金水道をゆく』(椎名誠・集英社文庫)
『モンキームーンの輝く夜に』(たかのてるこ・幻冬舎文庫)
3冊とも10年ほどまえにかかれた本で、
いまよりもずっと旅行しにくかっただろうに、
それぞれじゅうじつした毎日がかかれている。
なさけないはなしだけれど、これらをよんでいたら、
わたしはまたラオスにいきたくなった。
こんなことなら、ゴロゴロばかりせずに、
はじめからもっとみてまわればいいものを、
日本にかえってから「またいきたい」なんて ひどいはなしだ。
まあ、1回目はそれでよしとする。
凡人がする旅行は、いちどでは収穫があがらないのだ。
失敗が旅行のだいご味であるともいえる。
小田実さん流のやり方をみならって、
つぎにラオスをおとずれるときは
いっぽつっこんだ情報をしいれ、
2回目ならではの視点でみてまわろう。
2015年01月11日
2015年01月10日
ためこんだ古新聞はなぜおもしろくないのか
旅行中の新聞をまとめてよむ。
朝ごはんのときに、1時間くらいかけてゆっくり新聞をよむのがたのしみなので、
22日分の古新聞はさぞよみごたえがあるかとおもったら、
2時間もかからずに目をとおしおえた。
きりぬいた記事はたった3つ。
なにかのひょうしで たまたま目にする古新聞は
あっちにも こっちにもおもしろい記事があるのに、
どっさりためこんだ古新聞になると、
なんでこんなに興味がわかないのだろう。
たくさんあるという安心感がぞんざいな気分をよぶのか。
年末・年始にまたがる古新聞なので、
いちねんをまとめた記事や、
新年のスタートにあわせた記事がおおいせいかもしれない。
わたしの経験からいえば、
いちにちに新聞をよむ時間は、2時間が最大、という
法則みたいなものがあるような気がする。
どれだけながいあいだ新聞をためていても、
まとめよみをすると2時間ほどでおわってしまう。
1ヶ月分であっても、1週間分であっても、
たいていは2時間で用がたりる。
それなら新聞をよむのは週末にかぎれば、
平日の朝、毎日1時間が節約できるわけだけど、
それもまたまずしい生活におもえる。
必要なムダというのがあり、
効率的でないとはいえ、
わたしは毎朝の1時間をけずりたくない。
わたしはヒマをもてあまして新聞をひらくのではなく、
新聞をよみながらごはんをたべるのがすきだから
毎朝そうやってたくさんの時間をかけている。
そのほうがたのしいから。
かんがえてみると、朝ごはんのときに新聞をよむから時間がかかるわけで、
家族そろって朝ごはんをとれば、
行儀がわるいから、わたしだってさすがに新聞をひらかない。
朝よまないのなら、夜ざっと目をとおすくらいしかできず、
1時間もかけてよむのはかんがえられない。
子どもがおおきくなったいま、はなしがはずまない食事時間をさけ、
わたしはひとりで朝ごはんをたべるようになり、新聞をよむようになった。
けしてふるい習慣ではなかったのだ。
問題は、ひとりでの朝ごはんにある。
朝ごはんにひとりで新聞をひらくような状況は、
気らくな生活というよりも、
あまりよくない家族関係をあらわしているようにおもえてきた。
ひとりでたべるわたしがわるいのだけど、
わたしにそうさせる状況がそもそもよくない。
ためこんだ古新聞がおもしろくないのは、
朝ごはんのときによまないからで、
朝ごはんのときに新聞をよまないのは
ほんとうはいいことなのだ。
朝ごはんのときの新聞をたのしくかんじたら、
家族関係について、ふりかえってみたほうがいいかもしれない。
朝ごはんのときに、1時間くらいかけてゆっくり新聞をよむのがたのしみなので、
22日分の古新聞はさぞよみごたえがあるかとおもったら、
2時間もかからずに目をとおしおえた。
きりぬいた記事はたった3つ。
なにかのひょうしで たまたま目にする古新聞は
あっちにも こっちにもおもしろい記事があるのに、
どっさりためこんだ古新聞になると、
なんでこんなに興味がわかないのだろう。
たくさんあるという安心感がぞんざいな気分をよぶのか。
年末・年始にまたがる古新聞なので、
いちねんをまとめた記事や、
新年のスタートにあわせた記事がおおいせいかもしれない。
わたしの経験からいえば、
いちにちに新聞をよむ時間は、2時間が最大、という
法則みたいなものがあるような気がする。
どれだけながいあいだ新聞をためていても、
まとめよみをすると2時間ほどでおわってしまう。
1ヶ月分であっても、1週間分であっても、
たいていは2時間で用がたりる。
それなら新聞をよむのは週末にかぎれば、
平日の朝、毎日1時間が節約できるわけだけど、
それもまたまずしい生活におもえる。
必要なムダというのがあり、
効率的でないとはいえ、
わたしは毎朝の1時間をけずりたくない。
わたしはヒマをもてあまして新聞をひらくのではなく、
新聞をよみながらごはんをたべるのがすきだから
毎朝そうやってたくさんの時間をかけている。
そのほうがたのしいから。
かんがえてみると、朝ごはんのときに新聞をよむから時間がかかるわけで、
家族そろって朝ごはんをとれば、
行儀がわるいから、わたしだってさすがに新聞をひらかない。
朝よまないのなら、夜ざっと目をとおすくらいしかできず、
1時間もかけてよむのはかんがえられない。
子どもがおおきくなったいま、はなしがはずまない食事時間をさけ、
わたしはひとりで朝ごはんをたべるようになり、新聞をよむようになった。
けしてふるい習慣ではなかったのだ。
問題は、ひとりでの朝ごはんにある。
朝ごはんにひとりで新聞をひらくような状況は、
気らくな生活というよりも、
あまりよくない家族関係をあらわしているようにおもえてきた。
ひとりでたべるわたしがわるいのだけど、
わたしにそうさせる状況がそもそもよくない。
ためこんだ古新聞がおもしろくないのは、
朝ごはんのときによまないからで、
朝ごはんのときに新聞をよまないのは
ほんとうはいいことなのだ。
朝ごはんのときの新聞をたのしくかんじたら、
家族関係について、ふりかえってみたほうがいいかもしれない。
2015年01月09日
たし算よりもひき算で トレーニングメニューをくみたてる
体育館のジムでからだをうごかす。
週に2回のペースでいってたのが、
旅行のためほぼ1ヶ月ぶりのトレーニングとなる。
最初からもとのメニューにとりくむと、
全身が筋肉痛になりそうだから、
ベンチプレスとスクワット、それに懸垂と腹筋だけにした。
さいごに10キロはしる。
すこしまえまでは、これがすべてのメニューだった。
それが、だんだんよくばってしまい
あれもこれもとメニューをふやしてきた。
ベンチプレスとスクワットというのは、
この2つのメニューで胸と足をきたえておけば、
あとのちいさな筋肉も刺激をうけるので、
最小限の練習としては それでじゅうぶんだろう、というかんがえ方だ。
セット数をふやしたり、メニューをふやせば
それだけきたえられるだろうけど、
つかれるし、時間もかかる。
そうおもって、何年もそのすくないメニューでわりきっていたのに、
半年ほどまえからメニューがふえだした。
メニューをふやせば、それだけからだがきたえられる、
そんな欲望がわたしをくるわせてしまった。
練習の頻度・メニュー・セット数に上限はない。
へたをすると、毎日2時間もウェートトレーニングにとりくむような
スケジュールになってしまう。
オリンピックをめざすわけでもないのに、
どんどんメニューをふやしてどうしようというのだ。
わかいころならまだしも、50歳をこえたわたしは なにをもとめればいいのか。
健康は大切だけど、プロポーションの維持もまたみのがせない。
しかし、健康とプロポーションを同時にもとめるのが
そもそもまちがっているのかもしれない。
なにをもって適度なトレーニングとするかは
そうかんたんではない。
ジョギングと水泳だけでじゅうぶんかもしれないし、
水泳だけで用はたりるかもしれない。
それに毎日のうでたてふせをくわえると、
より効果がますというとき、やったほうがいいのか、
やらないですませるほうがかしこいのか。
勉強でも、はじめのとりくみをつづけていればいいものを、
ついいろいろとつけたしてしまい、
身うごきがつかなくなってすべてをほうりなげる、
という経験をもつひとは すくなくないのではないか。
たくさんやればそれだけ成果をあげられるというかんがえは、
仕事や勉強など、どこにでもみかけられる。
わたしたちはつい、つけたしてしまいがちだ。
大切なのは、ひくことではないのか。
福岡正信さんは、土をたがやさず、草もとらないで、肥料もやらず
作物をそだてる自然農法をあみだした。
土をたがやせば、根がふかくはるのではないか、
肥料をやれば、おおきくそだつのではないか、
農薬で病気や虫をおさえられるのではないか、
除草剤をつかえば、雑草にうもれないのではないか。
機械や化学肥料をつかった農法が 一般的におこなわれるなか、
福岡さんは、自然にまかせておけば、
すべてうまくやってくれることに気づいた。
土をたがやさなくてもいいのではないか。
肥料も必要ないのではないか。
雑草をとらないでもなんとかやれるのではないか。
たし算ではなく、ひき算のかんがえ方であり、
たどりついたのが無肥料・無農薬で、草もとらない不耕起栽培だ。
あれも必要ないのではないか、
これもやめて大丈夫なのではないかと、
できるだけけずったメニューが ベンチプレスとスクワットだったのに、
それをまたふやしてしまったのは
悪魔のささやきというよりない。
ひとによりトレーニングにもとめる効果はさまざまであり、
なにを目的とするかを はじめにおさえたほうがいいみたいだ。
わたしは、自分でそれがわかっているつもりだった。
時間の経過とともに、目的がゆらいでくるので
ときどき確認したほうがいい。
最少努力による最大効果をわたしはもとめているのではない。
楽ではないけれど、ウェートトレーニングはたのしいし、
ながい距離をはしる快感も しっているつもりだ。
わたしにおける自然農法的トレーニングとはなにか、
トレーニングの再開をきっかけにかんがえてみたい。
週に2回のペースでいってたのが、
旅行のためほぼ1ヶ月ぶりのトレーニングとなる。
最初からもとのメニューにとりくむと、
全身が筋肉痛になりそうだから、
ベンチプレスとスクワット、それに懸垂と腹筋だけにした。
さいごに10キロはしる。
すこしまえまでは、これがすべてのメニューだった。
それが、だんだんよくばってしまい
あれもこれもとメニューをふやしてきた。
ベンチプレスとスクワットというのは、
この2つのメニューで胸と足をきたえておけば、
あとのちいさな筋肉も刺激をうけるので、
最小限の練習としては それでじゅうぶんだろう、というかんがえ方だ。
セット数をふやしたり、メニューをふやせば
それだけきたえられるだろうけど、
つかれるし、時間もかかる。
そうおもって、何年もそのすくないメニューでわりきっていたのに、
半年ほどまえからメニューがふえだした。
メニューをふやせば、それだけからだがきたえられる、
そんな欲望がわたしをくるわせてしまった。
練習の頻度・メニュー・セット数に上限はない。
へたをすると、毎日2時間もウェートトレーニングにとりくむような
スケジュールになってしまう。
オリンピックをめざすわけでもないのに、
どんどんメニューをふやしてどうしようというのだ。
わかいころならまだしも、50歳をこえたわたしは なにをもとめればいいのか。
健康は大切だけど、プロポーションの維持もまたみのがせない。
しかし、健康とプロポーションを同時にもとめるのが
そもそもまちがっているのかもしれない。
なにをもって適度なトレーニングとするかは
そうかんたんではない。
ジョギングと水泳だけでじゅうぶんかもしれないし、
水泳だけで用はたりるかもしれない。
それに毎日のうでたてふせをくわえると、
より効果がますというとき、やったほうがいいのか、
やらないですませるほうがかしこいのか。
勉強でも、はじめのとりくみをつづけていればいいものを、
ついいろいろとつけたしてしまい、
身うごきがつかなくなってすべてをほうりなげる、
という経験をもつひとは すくなくないのではないか。
たくさんやればそれだけ成果をあげられるというかんがえは、
仕事や勉強など、どこにでもみかけられる。
わたしたちはつい、つけたしてしまいがちだ。
大切なのは、ひくことではないのか。
福岡正信さんは、土をたがやさず、草もとらないで、肥料もやらず
作物をそだてる自然農法をあみだした。
土をたがやせば、根がふかくはるのではないか、
肥料をやれば、おおきくそだつのではないか、
農薬で病気や虫をおさえられるのではないか、
除草剤をつかえば、雑草にうもれないのではないか。
機械や化学肥料をつかった農法が 一般的におこなわれるなか、
福岡さんは、自然にまかせておけば、
すべてうまくやってくれることに気づいた。
土をたがやさなくてもいいのではないか。
肥料も必要ないのではないか。
雑草をとらないでもなんとかやれるのではないか。
たし算ではなく、ひき算のかんがえ方であり、
たどりついたのが無肥料・無農薬で、草もとらない不耕起栽培だ。
あれも必要ないのではないか、
これもやめて大丈夫なのではないかと、
できるだけけずったメニューが ベンチプレスとスクワットだったのに、
それをまたふやしてしまったのは
悪魔のささやきというよりない。
ひとによりトレーニングにもとめる効果はさまざまであり、
なにを目的とするかを はじめにおさえたほうがいいみたいだ。
わたしは、自分でそれがわかっているつもりだった。
時間の経過とともに、目的がゆらいでくるので
ときどき確認したほうがいい。
最少努力による最大効果をわたしはもとめているのではない。
楽ではないけれど、ウェートトレーニングはたのしいし、
ながい距離をはしる快感も しっているつもりだ。
わたしにおける自然農法的トレーニングとはなにか、
トレーニングの再開をきっかけにかんがえてみたい。
2015年01月08日
『おすすめ文庫王国』を参考に本をえらぶ
今年はじめて本屋さんへゆく。
この時期は、なにをやっても「初◯◯」となり、
すこしながらおごそかなかんじがするし、
はじめてなのだからと、気前よくお金をつかいがちだ。
きょうは、『2015おすすめ文庫王国』を参考にみてまわった。
といっても、各ジャンルのベスト10を全部かうほど
大人がいはできないし、
わたしにあいそうもない本もおおいので、
かったのは5冊にとどまった。
『球団と喧嘩してクビになった野球選手』(中野渡進・双葉文庫)
『火星の人』(アンディ=ウィアー・ハヤカワ文庫)
『木暮荘物語』(三浦しをん・祥伝社文庫)
『駄作』(ジェシー=ケラーマン・ハヤカワ文庫)
『漁港の肉子ちゃん』(西加奈子・幻冬舎文庫)
はじめの4冊は、総合でのベスト10のほかに、
ジャンル別でもとりあげられている。
三浦しをんさん以外はよんだことのない作家の本で、
『おすすめ文庫』におしえてもらわなかったら
まずわたしは手にとらなかっただろう。
とはいえ、きょねんのベスト10は、
まったくわたしのこのみにあわなかった。
ベスト10は、参考にはなるけれど、絶対という保証はない。
どんな環境が読書をはかどらせるか。
わたしは旅行さきでのんびり、というシチュエーションを
いつも夢みてたきたけれど、
けっきょくそれは「夢」でしかないようで、
じっさいに読書がすすむのは もちろん日常生活である。
おおくの活動がそうであるように、読書においてもまた
いかに波風をたてず、平凡な日常生活をきずき、つづけることが、
もっとも大切な環境となる。
旅行というひとつのイベントがおわったいま、
気をゆるめないで、安定したリズムをたもち、
バリバリとたくさんの本をよんでいきたい。
「本の雑誌社」は、仕事や人生にいかすことを目的とするのではなく、
まったく役にたたなくても、おもしろいかどうかという価値観だけにたって、
実力のある本をおしえてくれる。
それを「仕事」としてなりたたせた目黒さんや椎名さんは
かんがえてみると すばらしい発見者だ。
この時期は、なにをやっても「初◯◯」となり、
すこしながらおごそかなかんじがするし、
はじめてなのだからと、気前よくお金をつかいがちだ。
きょうは、『2015おすすめ文庫王国』を参考にみてまわった。
といっても、各ジャンルのベスト10を全部かうほど
大人がいはできないし、
わたしにあいそうもない本もおおいので、
かったのは5冊にとどまった。
『球団と喧嘩してクビになった野球選手』(中野渡進・双葉文庫)
『火星の人』(アンディ=ウィアー・ハヤカワ文庫)
『木暮荘物語』(三浦しをん・祥伝社文庫)
『駄作』(ジェシー=ケラーマン・ハヤカワ文庫)
『漁港の肉子ちゃん』(西加奈子・幻冬舎文庫)
はじめの4冊は、総合でのベスト10のほかに、
ジャンル別でもとりあげられている。
三浦しをんさん以外はよんだことのない作家の本で、
『おすすめ文庫』におしえてもらわなかったら
まずわたしは手にとらなかっただろう。
とはいえ、きょねんのベスト10は、
まったくわたしのこのみにあわなかった。
ベスト10は、参考にはなるけれど、絶対という保証はない。
どんな環境が読書をはかどらせるか。
わたしは旅行さきでのんびり、というシチュエーションを
いつも夢みてたきたけれど、
けっきょくそれは「夢」でしかないようで、
じっさいに読書がすすむのは もちろん日常生活である。
おおくの活動がそうであるように、読書においてもまた
いかに波風をたてず、平凡な日常生活をきずき、つづけることが、
もっとも大切な環境となる。
旅行というひとつのイベントがおわったいま、
気をゆるめないで、安定したリズムをたもち、
バリバリとたくさんの本をよんでいきたい。
「本の雑誌社」は、仕事や人生にいかすことを目的とするのではなく、
まったく役にたたなくても、おもしろいかどうかという価値観だけにたって、
実力のある本をおしえてくれる。
それを「仕事」としてなりたたせた目黒さんや椎名さんは
かんがえてみると すばらしい発見者だ。
2015年01月07日
からだと頭を日常生活モードにきりかえる
旅行にでかけたからといって、
すぐにからだが旅行モードにきりかわらないのとおなじように、
旅行からかえったときも、
すぐにもとの生活リズムをとりもどせるわけではない。
理想をいうなら、休暇のすべてを旅行につかうのではなく、
もどってから2〜3日ゆっくりできる日があれば、
適応もスムーズにすすむだろう。
どうしても休暇をギリギリまでいかした日程をくんでしまいがちだし、
みじかい休暇ではそれもまたしかたないとはいえ、
職場には旅行の日数プラス2日を
休暇として はじめから申請したほうがいい。
かえってからすぐは、どうせつかいものにならないのだから、
会社としてもそのほうがたすかるはずだ。
きょうがわたしの仕事はじめだったけど、
からだも頭もシャッキリせず、自分の存在がなにか こころもとなかった。
仕事がいちばんのリハビリ、などと つまらないことをいってはいけない。
旅行期間プラス2日は、つまらないリスクをさけるうえで
必要な経費とわりきったほうがいい。
あたらしい環境に適応するためには、食事と睡眠が大切だと
旅行ちゅうのブログにかいた。
いまもまた、たくさんたべて・ねむっていれば、
そのうちもとのリズムをとりもどせるのだろう。
そしてもうひとつ。からだをうごかすのも
リハビリに すごく効果的だ。
きょうは仕事のあとにプールでおよいだ。
1ヶ月ちかくおよいでいなかったので、
これまでの経験からいえば、これくらい水泳からとおざかると、
およぐ筋肉がおちてしまい、ながい距離をおよげなくなる。
でも、きょうはすごく気もちよくおよげた。
毎日のようにマッサージにかよった成果が、
こういうところにあらわれたのだろうか。
タイムはいつもより50メートルで5秒もおそいけど、
ゆっくりおよいでいるうちに、だんだん気もちよくなってきた。
なにか快感を刺激する物質が分泌されたにちがいない。
といっても、ランニングハイとはまたちがう ここちよさだ。
定期的におよいでいるよりも、
1ヶ月ちかく練習をやめたほうが気もちいいなんて、
自分のからだながら、その反応は複雑だ。
元日本代表監督のオシムさんは、ながい距離を移動したときに、
たとえ夜おそく目的地についたとしても、
すぐに練習をはじめることでしられていた。
そうやってからだをうごかせば、
時差ボケになりにくいという理由のようだ。
嘉門達夫の名曲に『家族旅行』というのがある。
家族旅行からかえるたびに、
「やっぱり家がいちばんね」と
かならずいうお母さんに、
「ほな、はじめから 旅行に いくな」
と家族のだれかがつっこんでいる。
もちろん、旅行にでかけなければ、
家のよさはわからないと、わかったうえでのつっこみだ。
わたしもまた、家のよさを「お母さん」みたいにつよくかんじた。
とくにたべもの。
こんなにおいしいものを、
わたしは毎日たべていたのか。
朝ごはんの納豆、バターをぬったトーストなど、
あたりまえにたべていたものが すごくおいしい。
旅行ちゅうは、その土地のたべものをおいしくいただいていたのに、
自分の家にかえって、日本のたべものをたべると、
そのおいしさに、ほんとうにおどろいてしまった。
いまは、なにをしてもありがたいし、なにをたべてもおいしい。
有効期間はみじかいとはいえ、旅行の効用というべきだろう。
「お母さん」でなくても、旅行にでかけなければ わからないことはおおい。
すぐにからだが旅行モードにきりかわらないのとおなじように、
旅行からかえったときも、
すぐにもとの生活リズムをとりもどせるわけではない。
理想をいうなら、休暇のすべてを旅行につかうのではなく、
もどってから2〜3日ゆっくりできる日があれば、
適応もスムーズにすすむだろう。
どうしても休暇をギリギリまでいかした日程をくんでしまいがちだし、
みじかい休暇ではそれもまたしかたないとはいえ、
職場には旅行の日数プラス2日を
休暇として はじめから申請したほうがいい。
かえってからすぐは、どうせつかいものにならないのだから、
会社としてもそのほうがたすかるはずだ。
きょうがわたしの仕事はじめだったけど、
からだも頭もシャッキリせず、自分の存在がなにか こころもとなかった。
仕事がいちばんのリハビリ、などと つまらないことをいってはいけない。
旅行期間プラス2日は、つまらないリスクをさけるうえで
必要な経費とわりきったほうがいい。
あたらしい環境に適応するためには、食事と睡眠が大切だと
旅行ちゅうのブログにかいた。
いまもまた、たくさんたべて・ねむっていれば、
そのうちもとのリズムをとりもどせるのだろう。
そしてもうひとつ。からだをうごかすのも
リハビリに すごく効果的だ。
きょうは仕事のあとにプールでおよいだ。
1ヶ月ちかくおよいでいなかったので、
これまでの経験からいえば、これくらい水泳からとおざかると、
およぐ筋肉がおちてしまい、ながい距離をおよげなくなる。
でも、きょうはすごく気もちよくおよげた。
毎日のようにマッサージにかよった成果が、
こういうところにあらわれたのだろうか。
タイムはいつもより50メートルで5秒もおそいけど、
ゆっくりおよいでいるうちに、だんだん気もちよくなってきた。
なにか快感を刺激する物質が分泌されたにちがいない。
といっても、ランニングハイとはまたちがう ここちよさだ。
定期的におよいでいるよりも、
1ヶ月ちかく練習をやめたほうが気もちいいなんて、
自分のからだながら、その反応は複雑だ。
元日本代表監督のオシムさんは、ながい距離を移動したときに、
たとえ夜おそく目的地についたとしても、
すぐに練習をはじめることでしられていた。
そうやってからだをうごかせば、
時差ボケになりにくいという理由のようだ。
嘉門達夫の名曲に『家族旅行』というのがある。
家族旅行からかえるたびに、
「やっぱり家がいちばんね」と
かならずいうお母さんに、
「ほな、はじめから 旅行に いくな」
と家族のだれかがつっこんでいる。
もちろん、旅行にでかけなければ、
家のよさはわからないと、わかったうえでのつっこみだ。
わたしもまた、家のよさを「お母さん」みたいにつよくかんじた。
とくにたべもの。
こんなにおいしいものを、
わたしは毎日たべていたのか。
朝ごはんの納豆、バターをぬったトーストなど、
あたりまえにたべていたものが すごくおいしい。
旅行ちゅうは、その土地のたべものをおいしくいただいていたのに、
自分の家にかえって、日本のたべものをたべると、
そのおいしさに、ほんとうにおどろいてしまった。
いまは、なにをしてもありがたいし、なにをたべてもおいしい。
有効期間はみじかいとはいえ、旅行の効用というべきだろう。
「お母さん」でなくても、旅行にでかけなければ わからないことはおおい。
2015年01月06日
旅行をざっとふりかえって、まとめのようなもの
夕べは深夜0時のアシアナエアにのる。
ソウル・インチョン空港には現地時間の朝7時20分についた。
飛行機にのっていたのは、わずか5時間ちょっとだ。
これから12時30分発の米子ゆきをまつ。
バンコクからインチョンまでの時間と
おなじほどまち時間があるのはちょっとつらい。
夜行便での移動が2日つづいたので、さすがにつかれた。
今回の旅行で気づいたことをざっとあげてみる。
・マックエアー11インチでも不自由しなかった
ブログをかいたりネットをみたりというつかい方なので、
11インチの画面でも とくに不満をかんじなかった。
欧米の旅行者のなかには、15インチのぶあついノートパソコンと、
それにともなうたくさんのケーブル類をごっそりもってきているひとが
あたりまえにいる。荷物のかさばりやおもさについて、
彼らはあまり気にしないみたいだ。
わたしもできれば13インチのほうがみやすいけど、
こまらなかったのだから、11インチでじゅうぶんなのだろう。
・キンドルファイアをもってきて正解だったこと
タブレットとしてネットにはつながなかった。
ただ読書の友としてお世話になる。
くらいところでも本がよめるので、とてもたすかった。
これはキンドルのせいではないけれど、村上春樹の
『羊をめぐる冒険』と『ダンス・ダンス・ダンス』をよんだ影響で、
6ヶ月つづいていた禁酒がやぶれ、ビールをのんでしまった。
これもまたキンドルとは関係ないけれど、本の感想として、
『ダンス・ダンス・ダンス』の「僕」がおしゃべりすぎて、
よみながら鼻についてきた。
本のでだしは「僕」ひとりだったので、
ひとりごともまあしょうがないかとおもっていたら、
ユキがでてもあいかわらず軽口がとまらない。
なにをゴチャゴチャこねくりまわしているのだと、イライラする。
『ダンス・ダンス・ダンス』への印象が、すっかりかわってしまった。
ほかの本の「僕」とくらべても、『ダンス・ダンス・ダンス』の「僕」は
どうかしてるようにおもえる。
・いつもながら英語に苦労したこと
日本語をはなすときでも、どわすれでことばがでてこないのだから、
いわんや外国語においてをや。
単語からひっかかると、すごく不自由する。会話にならない。
たとえば。
むかえの車をまつあいだ、オランダ人の男性とはなす機会があった。
サッカーはすきか?とたずねると、すきだという。
Wカップ3位おめでとう、とオランダチームの健闘と、
代表監督のすぐれた戦術をたたえようとしたけれど、
ファン=ファール氏の名前がでてこない。
オランダでプレーする日本人選手の名前もでてこない。
これはまあ、英語の問題というよりも、
わたしの記憶力のかなしさというべきだけど、
すべてにおいて ことばがノドもとでとまってしまうのは
ほんとうにこまる。
・いい時期の旅行だったこと
12月・1月は、あつさもたいしたことないし、
ベトナムの中部地方以外では、ほとんど雨がふらず、
気もちよく旅行できた。
東南アジアを旅行するには、いき先の季節がとても大切だ。
・3週間旅行できて気がすんだこと
1~2週間ではなかなか味わえない「旅行した!」という気もちになれた。
わたしがやりたいのは、結局いごこちのいい場所をみつけ、
そこでゆっくりすごしたいだけだった。
今回の旅行では、ラオスのシーパンドンにあるコーン島がそれにあたる。
チェンマイやバンコクでくつろぐのもたのしみにしていたけど、
いまのわたしにはさわがしいだけで、もうおちつける場所ではなかった。
・物価はベトナムがいちばんたかく、タイ、ラオスの順
ラオスは、あんがい物価がたかいようにかんじていたけど、
計算してみると あまりお金がかかっていない。
食費でいうと、ひとしなの量がおおいので、
結果としてやすくあがっている。
宿泊費がやすく、カフェやマッサージ店もあまりないので、
よけいなお金をつかわなかったのかもしれない。
旅行中であったひとが、「あの国はやすい、たかい」
みたいなことばかりいって、はなしても つまらなかったことがある。
物価だけを ああだこうだいわないよう気をつけたい。
どの国ですごした時間も、それぞれわすれがたい体験となった。
わたしは気球とか川くだり、トレッキングなど、
ツーリスティックな活動に興味がないので、
移動や宿泊費をいれても いちにちに4000円くらいの出費だった
(とちゅうまでビールをのまなかったし)。
・ベトナム・ラオス・タイともWi−Fiがあたりまえにつかえた
もっとも、旅行者のおおくがスマホをつかっていたので、
これからはWi−Fiもまたすたれていくのかもしれない。
ひとりで旅行していると、「奥さんはいっしょじゃないのか?」
とよくきかれる。
ひとりでは間がもてないこともあり、
つぎの旅行では、できればだれかつれがほしいところだ。
配偶者はどうおもっているだろうか。
ソウル・インチョン空港には現地時間の朝7時20分についた。
飛行機にのっていたのは、わずか5時間ちょっとだ。
これから12時30分発の米子ゆきをまつ。
バンコクからインチョンまでの時間と
おなじほどまち時間があるのはちょっとつらい。
夜行便での移動が2日つづいたので、さすがにつかれた。
今回の旅行で気づいたことをざっとあげてみる。
・マックエアー11インチでも不自由しなかった
ブログをかいたりネットをみたりというつかい方なので、
11インチの画面でも とくに不満をかんじなかった。
欧米の旅行者のなかには、15インチのぶあついノートパソコンと、
それにともなうたくさんのケーブル類をごっそりもってきているひとが
あたりまえにいる。荷物のかさばりやおもさについて、
彼らはあまり気にしないみたいだ。
わたしもできれば13インチのほうがみやすいけど、
こまらなかったのだから、11インチでじゅうぶんなのだろう。
・キンドルファイアをもってきて正解だったこと
タブレットとしてネットにはつながなかった。
ただ読書の友としてお世話になる。
くらいところでも本がよめるので、とてもたすかった。
これはキンドルのせいではないけれど、村上春樹の
『羊をめぐる冒険』と『ダンス・ダンス・ダンス』をよんだ影響で、
6ヶ月つづいていた禁酒がやぶれ、ビールをのんでしまった。
これもまたキンドルとは関係ないけれど、本の感想として、
『ダンス・ダンス・ダンス』の「僕」がおしゃべりすぎて、
よみながら鼻についてきた。
本のでだしは「僕」ひとりだったので、
ひとりごともまあしょうがないかとおもっていたら、
ユキがでてもあいかわらず軽口がとまらない。
なにをゴチャゴチャこねくりまわしているのだと、イライラする。
『ダンス・ダンス・ダンス』への印象が、すっかりかわってしまった。
ほかの本の「僕」とくらべても、『ダンス・ダンス・ダンス』の「僕」は
どうかしてるようにおもえる。
・いつもながら英語に苦労したこと
日本語をはなすときでも、どわすれでことばがでてこないのだから、
いわんや外国語においてをや。
単語からひっかかると、すごく不自由する。会話にならない。
たとえば。
むかえの車をまつあいだ、オランダ人の男性とはなす機会があった。
サッカーはすきか?とたずねると、すきだという。
Wカップ3位おめでとう、とオランダチームの健闘と、
代表監督のすぐれた戦術をたたえようとしたけれど、
ファン=ファール氏の名前がでてこない。
オランダでプレーする日本人選手の名前もでてこない。
これはまあ、英語の問題というよりも、
わたしの記憶力のかなしさというべきだけど、
すべてにおいて ことばがノドもとでとまってしまうのは
ほんとうにこまる。
・いい時期の旅行だったこと
12月・1月は、あつさもたいしたことないし、
ベトナムの中部地方以外では、ほとんど雨がふらず、
気もちよく旅行できた。
東南アジアを旅行するには、いき先の季節がとても大切だ。
・3週間旅行できて気がすんだこと
1~2週間ではなかなか味わえない「旅行した!」という気もちになれた。
わたしがやりたいのは、結局いごこちのいい場所をみつけ、
そこでゆっくりすごしたいだけだった。
今回の旅行では、ラオスのシーパンドンにあるコーン島がそれにあたる。
チェンマイやバンコクでくつろぐのもたのしみにしていたけど、
いまのわたしにはさわがしいだけで、もうおちつける場所ではなかった。
・物価はベトナムがいちばんたかく、タイ、ラオスの順
ラオスは、あんがい物価がたかいようにかんじていたけど、
計算してみると あまりお金がかかっていない。
食費でいうと、ひとしなの量がおおいので、
結果としてやすくあがっている。
宿泊費がやすく、カフェやマッサージ店もあまりないので、
よけいなお金をつかわなかったのかもしれない。
旅行中であったひとが、「あの国はやすい、たかい」
みたいなことばかりいって、はなしても つまらなかったことがある。
物価だけを ああだこうだいわないよう気をつけたい。
どの国ですごした時間も、それぞれわすれがたい体験となった。
わたしは気球とか川くだり、トレッキングなど、
ツーリスティックな活動に興味がないので、
移動や宿泊費をいれても いちにちに4000円くらいの出費だった
(とちゅうまでビールをのまなかったし)。
・ベトナム・ラオス・タイともWi−Fiがあたりまえにつかえた
もっとも、旅行者のおおくがスマホをつかっていたので、
これからはWi−Fiもまたすたれていくのかもしれない。
ひとりで旅行していると、「奥さんはいっしょじゃないのか?」
とよくきかれる。
ひとりでは間がもてないこともあり、
つぎの旅行では、できればだれかつれがほしいところだ。
配偶者はどうおもっているだろうか。
2015年01月05日
旅行23日目 20年ぶりのバンコク・カオサンロード
ゆうべチェンマイを夜9時に出発する夜行バスにのる。
夜行バスといっても、ラオスでのったタタミ1枚のスペースに2人、
というやつではなく、ごくふつうの座席だ。
Wi−Fiがつかえ、トイレもついていて、
ペットボトルの水とクッキーがくばられた。
旅行については、タイのシステムのほうが、洗練されている。
バスは予定どおり朝7時にバンコクのカオサンロードちかくにつく。
どこに自分がいるのかわからなかったので、
バスのスタッフにカオサンロードをおしえてもらった。
ここは旅行者が各地へ移動するときの拠点としてつかう町で、
道路ぞいに旅行関係の事務所やおみやげ屋さんが
ずらっとならんでいる。
ラオスでみかけるバスチケットにも、
バンコクの到着地が「カオサン」となっていた。
旅行者がここにあつまるシステムができあがっている。
20年まえに、わたしは はじめてこのおとりにあるゲストハウスにとまり、
旅行をスタートさせた。
20年もたつと あたりの風景はすっかりかわっている。
カオサンロードのはずれにある「NAT2」ゲストハウスにはいった。
水シャワーだけど、トイレ・ながしがついたシングルルームで260バーツ(およそ780円)。
シャワーをあびたあと、ちかくの食堂で朝ごはんをとる。
すこしゲストハウスでやすんでから、
夜行バスでつかれたので、マッサージ店へ。
チェンマイでもバンコクでも1時間200バーツが相場みたいだ。
旅行のようすをこうしてブログにかいていて、
これは日記でしかないなー、よくおもう。
日記なんだからあたりまえだけど。
旅行についての情報だったら、
たとえば国境をこえるときに どうやって国境へゆき(相場はいくらで)、
イミグレのながれや位置関係、そして両替はできるのか。
むこうの国にはいったら、どうやって国境から町に移動するかなどが
具体的にかいてないとやくにたたない。
やくにたたなくて、いいのだ、というひらきなおりと、
ネットでいい記事にであい、つぎのうごきへと 背中をおされたときなど、
そういう記述こそがもとめられるのだとおもう。
いっぽうで、ヤフー知恵袋などが目にはいると、
あまりにもおんぶにだっこの質問に脱力し、頭にもくる。
わたしがすきなのは、旅行のガイドブックとしての訳にはたたないけれど、
ただひたすら 夕ごはんになにをたべ、いくらだったか、などの
こまかい情報がかいてある本だ。
なにをどうおもったかよりも、やったことの事実をくわしくしりたい。
いちにちくらい、そんな記述をしてもよかったかなと、
旅行のおわりになっておもった。
ひるごはんに、カオサンロードのレストランでチーズサンドイッチを注文する。
ずっとその土地のものばかりたべていたけど、
ついにこうした味がこいしくなってきたのか。
残念ながら、おいしかった。
夜行バスといっても、ラオスでのったタタミ1枚のスペースに2人、
というやつではなく、ごくふつうの座席だ。
Wi−Fiがつかえ、トイレもついていて、
ペットボトルの水とクッキーがくばられた。
旅行については、タイのシステムのほうが、洗練されている。
バスは予定どおり朝7時にバンコクのカオサンロードちかくにつく。
どこに自分がいるのかわからなかったので、
バスのスタッフにカオサンロードをおしえてもらった。
ここは旅行者が各地へ移動するときの拠点としてつかう町で、
道路ぞいに旅行関係の事務所やおみやげ屋さんが
ずらっとならんでいる。
ラオスでみかけるバスチケットにも、
バンコクの到着地が「カオサン」となっていた。
旅行者がここにあつまるシステムができあがっている。
20年まえに、わたしは はじめてこのおとりにあるゲストハウスにとまり、
旅行をスタートさせた。
20年もたつと あたりの風景はすっかりかわっている。
カオサンロードのはずれにある「NAT2」ゲストハウスにはいった。
水シャワーだけど、トイレ・ながしがついたシングルルームで260バーツ(およそ780円)。
シャワーをあびたあと、ちかくの食堂で朝ごはんをとる。
すこしゲストハウスでやすんでから、
夜行バスでつかれたので、マッサージ店へ。
チェンマイでもバンコクでも1時間200バーツが相場みたいだ。
旅行のようすをこうしてブログにかいていて、
これは日記でしかないなー、よくおもう。
日記なんだからあたりまえだけど。
旅行についての情報だったら、
たとえば国境をこえるときに どうやって国境へゆき(相場はいくらで)、
イミグレのながれや位置関係、そして両替はできるのか。
むこうの国にはいったら、どうやって国境から町に移動するかなどが
具体的にかいてないとやくにたたない。
やくにたたなくて、いいのだ、というひらきなおりと、
ネットでいい記事にであい、つぎのうごきへと 背中をおされたときなど、
そういう記述こそがもとめられるのだとおもう。
いっぽうで、ヤフー知恵袋などが目にはいると、
あまりにもおんぶにだっこの質問に脱力し、頭にもくる。
わたしがすきなのは、旅行のガイドブックとしての訳にはたたないけれど、
ただひたすら 夕ごはんになにをたべ、いくらだったか、などの
こまかい情報がかいてある本だ。
なにをどうおもったかよりも、やったことの事実をくわしくしりたい。
いちにちくらい、そんな記述をしてもよかったかなと、
旅行のおわりになっておもった。
ひるごはんに、カオサンロードのレストランでチーズサンドイッチを注文する。
ずっとその土地のものばかりたべていたけど、
ついにこうした味がこいしくなってきたのか。
残念ながら、おいしかった。
2015年01月04日
旅行22日目 チェンマイ観光
チェンマイ市内ですごす。
・サタデーマーケット
・マッサージ
・イヤホンをかう
・村山さんとの再会
チェンマイといえばナイトバザールが有名だ。
角田光代さんの『紙の月』ではオープニングの舞台となった。
ゲストハウスにちかいので、おみやげをかいにでかけようとおもってたけど、
土曜日だけのサタデーマーケットというのが
チェンマイ門ちかくでひらかれるとしり、
そっちにでかけた。
1キロほどの道に、ずらっとお店がならぶ。
身うごきがとれないほど たくさんのひとがあつまっている。
おなじようなものがならんでいるとはいえ、
みていてあきない。
むすこへのおみやげにとおもってTシャツをさがしたけど、
このみのデザインがなかったのでやめた。
チェンマイは観光地のせいか、マッサージ店をどこにいってもみかける。
わたしはマッサージがすきなので、旅行にいくと
その土地のマッサージをためしてみる。
わたしの経験では、ベトナム・カンボジア・ラオス・タイのなかで
タイ式マッサージがいちばん気もちがいい。
あとのはタイ式をまねているけど、いまひとつだったり、
ソフトすぎてものたりなかったり。
でも、タイ式マッサージならどこでもいっしょかというと、そうではなく、
プロレス技みたいなのをつかわないところもある。
ひどかったのはチェンライでのマッサージで、ゲストハウスのひとに
「どこかいいマッサージ店をおしえてもらえませんか?」
とたずねたら、
そのゲストハウスで部屋をかりているという女性を紹介された。
1時間が200バーツ(およそ600円)といっていたのに、
30分で「OK!フィニッシュ!」なんていう。
1時間といったじゃないか、と抗議すると、
いつからはじめたのか おぼえてない、といいわけし、
しぶしぶまたつづきをはじめた。まったくやる気がない。
チェンマイではじめてはいったお店は、いいかんじのスタートだったので、
「こりゃゴッドハンドか!」とよろこんでいたら、しりつぼみだった。
いいマッサージ師にであうのは、そう簡単ではない。
きのういったところは、愛想のないお店とひとだったけど、
期待どおりのタイ式で、こりをさぐりあててほぐしてくれる。
だらだらした生活をつづけ、ねすぎて腰がいたくなってるみたいなものなので、
マッサージをするほうはたいへんかもしれない。
きのうはコンビニでiPod用にイヤフォンをかった。
99バーツ(およそ300円)。
もってきたイヤホンの片方からしか音がでなくなっていて、
片方からだけきこえる音楽はまったくすてきではない。
落語だったらステレオでなくても平気なので、
こわれてからはずっと枝雀の落語ばかりきいていた。
300円のイヤホンにより、ひさしぶりに両方の耳からきく音楽は新鮮だった。
iPodって、こんなにすごい機械だったのか。
きのうゲストハウスちかくにあるネコカフェ
(とわたしがよんでるだけ)でくつろいでいたら、
自転車にのった村山さんがとおりかかった。
熟年バックパッカーとして、先日のブログに紹介したひとだ。
偶然の再会をよろこびあう。
村山さんは、夜行バスにのるまでのわずかな時間をおしんで
市内をまわっておられるところだった。
チェンマイについてから、ドーイステイプをたずねたし、
チェンマイ駅にも自転車でいってみたという。
ほんとうに、すこしもたちどまらずの、
かけぬけるような旅行だ。
わたしもすこしはみならおうと、ゲストハウスで自転車をかりてのってみた。
あつさはたいしたことないけど、
車がたくさんはしっていて、自転車がたのしい道路ではない。
2時間ほどであきらめ、またネコカフェにもどってフルーツシェイクを注文した。
・サタデーマーケット
・マッサージ
・イヤホンをかう
・村山さんとの再会
チェンマイといえばナイトバザールが有名だ。
角田光代さんの『紙の月』ではオープニングの舞台となった。
ゲストハウスにちかいので、おみやげをかいにでかけようとおもってたけど、
土曜日だけのサタデーマーケットというのが
チェンマイ門ちかくでひらかれるとしり、
そっちにでかけた。
1キロほどの道に、ずらっとお店がならぶ。
身うごきがとれないほど たくさんのひとがあつまっている。
おなじようなものがならんでいるとはいえ、
みていてあきない。
むすこへのおみやげにとおもってTシャツをさがしたけど、
このみのデザインがなかったのでやめた。
チェンマイは観光地のせいか、マッサージ店をどこにいってもみかける。
わたしはマッサージがすきなので、旅行にいくと
その土地のマッサージをためしてみる。
わたしの経験では、ベトナム・カンボジア・ラオス・タイのなかで
タイ式マッサージがいちばん気もちがいい。
あとのはタイ式をまねているけど、いまひとつだったり、
ソフトすぎてものたりなかったり。
でも、タイ式マッサージならどこでもいっしょかというと、そうではなく、
プロレス技みたいなのをつかわないところもある。
ひどかったのはチェンライでのマッサージで、ゲストハウスのひとに
「どこかいいマッサージ店をおしえてもらえませんか?」
とたずねたら、
そのゲストハウスで部屋をかりているという女性を紹介された。
1時間が200バーツ(およそ600円)といっていたのに、
30分で「OK!フィニッシュ!」なんていう。
1時間といったじゃないか、と抗議すると、
いつからはじめたのか おぼえてない、といいわけし、
しぶしぶまたつづきをはじめた。まったくやる気がない。
チェンマイではじめてはいったお店は、いいかんじのスタートだったので、
「こりゃゴッドハンドか!」とよろこんでいたら、しりつぼみだった。
いいマッサージ師にであうのは、そう簡単ではない。
きのういったところは、愛想のないお店とひとだったけど、
期待どおりのタイ式で、こりをさぐりあててほぐしてくれる。
だらだらした生活をつづけ、ねすぎて腰がいたくなってるみたいなものなので、
マッサージをするほうはたいへんかもしれない。
きのうはコンビニでiPod用にイヤフォンをかった。
99バーツ(およそ300円)。
もってきたイヤホンの片方からしか音がでなくなっていて、
片方からだけきこえる音楽はまったくすてきではない。
落語だったらステレオでなくても平気なので、
こわれてからはずっと枝雀の落語ばかりきいていた。
300円のイヤホンにより、ひさしぶりに両方の耳からきく音楽は新鮮だった。
iPodって、こんなにすごい機械だったのか。
きのうゲストハウスちかくにあるネコカフェ
(とわたしがよんでるだけ)でくつろいでいたら、
自転車にのった村山さんがとおりかかった。
熟年バックパッカーとして、先日のブログに紹介したひとだ。
偶然の再会をよろこびあう。
村山さんは、夜行バスにのるまでのわずかな時間をおしんで
市内をまわっておられるところだった。
チェンマイについてから、ドーイステイプをたずねたし、
チェンマイ駅にも自転車でいってみたという。
ほんとうに、すこしもたちどまらずの、
かけぬけるような旅行だ。
わたしもすこしはみならおうと、ゲストハウスで自転車をかりてのってみた。
あつさはたいしたことないけど、
車がたくさんはしっていて、自転車がたのしい道路ではない。
2時間ほどであきらめ、またネコカフェにもどってフルーツシェイクを注文した。
2015年01月03日
『人質の朗読会』(小川洋子)
『人質の朗読会』(小川洋子・中公文庫)
タイトルをしらなかったら、よみはじめてしばらくは、
これがまさか小川洋子さんの本だとおもわないだろう。
ニュースをよみあげるように、ある事件の全容がまず読者にしらされる。
地球のうらがわにある国で、
日本から観光におとずれた旅行者と、添乗員をあわせた8名が
反政府ゲリラの襲撃をうけ、拉致される。
3ヶ月以上も膠着状態がつづき、しかし最終的には
人質の8人全員が死亡した。
タイトルにある朗読会は、
拉致されているあいだに人質になったひとたちが、
ひとつずつの物語をかたったものだ。
はじめわたしはものたりなかった。
とくに起伏にとんだ内容がはなされるわけではなく、
どれもごく個人的な記憶にすぎない。
しかし、8つのはなしをよんでいるうちに、
不思議なしずけさとおちつきにひかれはじめる。
小川洋子さんならではの世界だ。
わたしはよく、いまがすべてとかんがえる。
さきのことはどうでもいい。
ましてや、すぎてしまったことなどに
おもいわずらう必要はない。そうおもってきた。
しかし、ここではかたられるのは、すべて過去のはなしである。
「いつになったら開放されるのかという未来じゃない。
自分の中にしまわれている過去、
未来がどうあろうと決して損なわれない過去だ」(p12)
過去はそこなわれない。
人質という特殊な状況では、それがおおきな意味をもつ。
過去にあったできごとを大切にすることによってのみ、
自分の存在をたしかめ、自分をまもることができる。
過去におきたひとつのできごとを、なぜだかわすれることができない。
だれもがそうしたものがたりをもっている。
そのことだけが自分をつくったわけではないけれど、
朗読により、いまの自分にとって、それがどれだけ大切なものだったかをしる。
自分でも理由はよくわからない。
過去にすがりつくのではない。
しかし過去は、けして否定しなければならないものではない。
『おすすめ文庫王国』に、この本は候補作として 名前があがっていた。
しかし杉江さんの
「小説でいうと『人質の朗読会』と『紙の月』は
別格でいいんじゃないですか。
あげるならノーベル文学賞か天皇賞ですよ。
文庫ベストテンは卒業してもらいましょう」
のひと声でリストからはずされた。
この1年に発行されたなかで、いちばんすぐれた文庫本をえらぶという趣旨からいえば、
「別格」あつかいをするのはどうかとおもうけど、
たしかにリストにあげていたらきりがないというひとがいる
(といいながら、2014年のベスト1は角田さんの作品だった)。
いましかない、なんていいながら、
わたしはちょっとさきのことばかりたのしみにする。
たとえば、チェンマイについたら美容室でシャンプーとひげそりを
やってもらおう、とか、
まえにお世話になったタイマッサージのお店へ、毎日かよおうとか。
人質になったひとたちは、そんなふうにさきをたのしみにできない。
すこしさきの将来をかんがえるには、自分たちのおかれた状況がシビアすぎる。
けしてそこなわれることのない 過去のものがたりだからこそ、
彼らは自分たちの存在を確認し、まもることができた。
タイトルをしらなかったら、よみはじめてしばらくは、
これがまさか小川洋子さんの本だとおもわないだろう。
ニュースをよみあげるように、ある事件の全容がまず読者にしらされる。
地球のうらがわにある国で、
日本から観光におとずれた旅行者と、添乗員をあわせた8名が
反政府ゲリラの襲撃をうけ、拉致される。
3ヶ月以上も膠着状態がつづき、しかし最終的には
人質の8人全員が死亡した。
タイトルにある朗読会は、
拉致されているあいだに人質になったひとたちが、
ひとつずつの物語をかたったものだ。
はじめわたしはものたりなかった。
とくに起伏にとんだ内容がはなされるわけではなく、
どれもごく個人的な記憶にすぎない。
しかし、8つのはなしをよんでいるうちに、
不思議なしずけさとおちつきにひかれはじめる。
小川洋子さんならではの世界だ。
わたしはよく、いまがすべてとかんがえる。
さきのことはどうでもいい。
ましてや、すぎてしまったことなどに
おもいわずらう必要はない。そうおもってきた。
しかし、ここではかたられるのは、すべて過去のはなしである。
「いつになったら開放されるのかという未来じゃない。
自分の中にしまわれている過去、
未来がどうあろうと決して損なわれない過去だ」(p12)
過去はそこなわれない。
人質という特殊な状況では、それがおおきな意味をもつ。
過去にあったできごとを大切にすることによってのみ、
自分の存在をたしかめ、自分をまもることができる。
過去におきたひとつのできごとを、なぜだかわすれることができない。
だれもがそうしたものがたりをもっている。
そのことだけが自分をつくったわけではないけれど、
朗読により、いまの自分にとって、それがどれだけ大切なものだったかをしる。
自分でも理由はよくわからない。
過去にすがりつくのではない。
しかし過去は、けして否定しなければならないものではない。
『おすすめ文庫王国』に、この本は候補作として 名前があがっていた。
しかし杉江さんの
「小説でいうと『人質の朗読会』と『紙の月』は
別格でいいんじゃないですか。
あげるならノーベル文学賞か天皇賞ですよ。
文庫ベストテンは卒業してもらいましょう」
のひと声でリストからはずされた。
この1年に発行されたなかで、いちばんすぐれた文庫本をえらぶという趣旨からいえば、
「別格」あつかいをするのはどうかとおもうけど、
たしかにリストにあげていたらきりがないというひとがいる
(といいながら、2014年のベスト1は角田さんの作品だった)。
いましかない、なんていいながら、
わたしはちょっとさきのことばかりたのしみにする。
たとえば、チェンマイについたら美容室でシャンプーとひげそりを
やってもらおう、とか、
まえにお世話になったタイマッサージのお店へ、毎日かよおうとか。
人質になったひとたちは、そんなふうにさきをたのしみにできない。
すこしさきの将来をかんがえるには、自分たちのおかれた状況がシビアすぎる。
けしてそこなわれることのない 過去のものがたりだからこそ、
彼らは自分たちの存在を確認し、まもることができた。
2015年01月02日
旅行20日目 チェンマイでのお正月
きのうはチェンライからチェンマイに移動する。
まえは5~6時間かかったような気がしてたけど、
トイレ休憩もなく、3時間でついてしまった。
バスステーションからバイクタクシーで「バディーゲストハウス」へ。
ここはゆうべネットで予約しておいた。
ターペー門からすこしはいったところにあり、
しずかにすごせそうだ。
チェンマイには、なんどかきたことがある。
土地勘があるので、バンコクへいくまでゆっくりしようとおもっていた。
でも、お正月のせいで、おおくの店がシャッターをおろしている。
仕事をしているのは、中国系のひとがやっている会社のようだ。
町にでると、車はすごい量だけど、お店はしまっている。
いつもいっていた食堂がやってないし、
お寺にあったなじみのマッサージ店もおやすみだ。
バンコクまでの移動を确保しておこうと、
電車のチケットを旅行社でたずねる。
どこも「フル」とか「ここではあつかってない」とそっけない。
駅できいてみたらあるかも、ともいわれたので、
トゥクトゥクにのり駅へいってみる。
駅でも「フル」といわれた。
ソンテク(のりあいトラック)で町にかえり、
こんどはバスのチケットを手にいれようと
旅行社をたずねる。
そこはあいそのいいおじさんがやっている会社で、
1月4日(日)の夜行バスを予約できた。
旅行をしていると、移動ができないことがいちばんこまる。
おまつや土地の祝日にかさなってうごけないと、旅行はお手あげだ。
まさかバンコクへいくチケットがとりにくいとはおもわなかった。
これで一安心し、そのあとゲストハウスにもどって、4日まで宿泊を延長する。
2日分の1030バーツ(およそ3000円)を現金ではらった。
ちかくの喫茶店でコーヒーとパンケーキを注文する。
ごついカップケーキみたいなのを予想していたら、
ホットケーキだった。なんでそんなことをおもったのだろう。
おいしかった。
ネコカフェみたいにネコがたくさんいるお店で、
イスにすわったり、仲間どおしであそんだりしている。
10匹いるそうだ。
だっこしたかったけど、ピピをおもいだし
せつなくなりそうだったので、おはなしするだけにした。
そのあと町をあるく。
美容室にはいり、シャンプーとひげそりをしてもらった。
ひらいているお店がすくないと、町をあるいてもたのしくない。
お正月に日本にきた外国人の旅行者は、ものすごく不自由しているのではないか。
まえは5~6時間かかったような気がしてたけど、
トイレ休憩もなく、3時間でついてしまった。
バスステーションからバイクタクシーで「バディーゲストハウス」へ。
ここはゆうべネットで予約しておいた。
ターペー門からすこしはいったところにあり、
しずかにすごせそうだ。
チェンマイには、なんどかきたことがある。
土地勘があるので、バンコクへいくまでゆっくりしようとおもっていた。
でも、お正月のせいで、おおくの店がシャッターをおろしている。
仕事をしているのは、中国系のひとがやっている会社のようだ。
町にでると、車はすごい量だけど、お店はしまっている。
いつもいっていた食堂がやってないし、
お寺にあったなじみのマッサージ店もおやすみだ。
バンコクまでの移動を确保しておこうと、
電車のチケットを旅行社でたずねる。
どこも「フル」とか「ここではあつかってない」とそっけない。
駅できいてみたらあるかも、ともいわれたので、
トゥクトゥクにのり駅へいってみる。
駅でも「フル」といわれた。
ソンテク(のりあいトラック)で町にかえり、
こんどはバスのチケットを手にいれようと
旅行社をたずねる。
そこはあいそのいいおじさんがやっている会社で、
1月4日(日)の夜行バスを予約できた。
旅行をしていると、移動ができないことがいちばんこまる。
おまつや土地の祝日にかさなってうごけないと、旅行はお手あげだ。
まさかバンコクへいくチケットがとりにくいとはおもわなかった。
これで一安心し、そのあとゲストハウスにもどって、4日まで宿泊を延長する。
2日分の1030バーツ(およそ3000円)を現金ではらった。
ちかくの喫茶店でコーヒーとパンケーキを注文する。
ごついカップケーキみたいなのを予想していたら、
ホットケーキだった。なんでそんなことをおもったのだろう。
おいしかった。
ネコカフェみたいにネコがたくさんいるお店で、
イスにすわったり、仲間どおしであそんだりしている。
10匹いるそうだ。
だっこしたかったけど、ピピをおもいだし
せつなくなりそうだったので、おはなしするだけにした。
そのあと町をあるく。
美容室にはいり、シャンプーとひげそりをしてもらった。
ひらいているお店がすくないと、町をあるいてもたのしくない。
お正月に日本にきた外国人の旅行者は、ものすごく不自由しているのではないか。
2015年01月01日
旅行19日目 ゲストハウスでの年こしバーティーにまぜてもらう
きのうはラオスからタイへの国境をこえ、
チェンコンという町へ、そのあとチェンライへとうごく。
チェンライで宿をさがすと、
こんなところでゆっくりできたらいいなー、という
しずかできれいで清潔そうなゲストハウスに
2軒つづけてことわられる。
もうすぐお正月なので、観光地にひとがうごいているのだろうか。
3軒目にたずねたゲストハウスは、まだひとつだけシングルルームがあいていた。
300バーツ(900円)で、部屋はひろいけど、きれいとはいいがたく、
シャワーも水しかでない。
ラオスで900円もだせば、しっかりした部屋にとまれたのとはだいぶちがう。
旅行のさいごになって水シャワーか、とめげながら、
それでもとまる場所を确保したかったので、
その「KULLA HOUSE」にはいった。
ゲストハウスの主人の「ド」さんが、
庭にあかりや風船のかざりつけをしている。
夜にパーティーをするのだという。
夕方の6時くらいから、ボチボチ、というかんじで会がはじまった。
年こしをおいわいするパーティーで、
ゲストハウスの関係者と客が参加しての気らくでささやかなあつまりだ。
炭火のバーベキューでおおきな魚やソーセージなどがやかれ、
ビールやウィスキーをのんでいる。
盛大にのみ・くいするのではなく、
イスにすわってだらだらとおしゃべりする。
ゲストがかってきた花火もたくさんうちあげられた。
きちんとしたホテルではまず味わえないゆるさが、わたしにピッタリだ。
家庭的な雰囲気はごめんだけど、仲間としてはうけいれられたいという、
わたしのビミョーな心理をうまくとらえる。
こうした雰囲気は演出してだせるものではなく、
「ド」さんを中心に、ここちよい関係があるから こんな気らくな会にできるのだろう。
パーティーをぬけて時計台のほうにいくと、
ひろい歩行者天国となっていて、
年こしを盛大にたのしもうとしている。
テーブルがたくさんならび、音楽の演奏をききながら
屋台でかった料理をたべている。
チェンマイでも3年まえに にたようなもよおしをやっていた。
広場やひろい会場にあつまって、
秒よみしながら年こしをおいわいする場面を
アメリカの映画やニュースでよくみるけど、
タイのひとたちもにたような形で年こしをたのしむようだ。
とおりすがりにみえる個人の家の庭をみると、
おおぜいがあつまって、バーベキューや鍋をつついている。
日本とはだいぶちがう年こしの雰囲気だ。
ゲストハウスにもどると、とうぜん会はまだつづいている。
ゲストハウスのおかげで、ひとりさみしい年こしではなく
仲間としてうけいれられ、ここちよくすごせる年こしとなった。
12時ちょうどをはさみ、ものすごい数の花火がうちあげられる。
チェンライをあげてのおまつりみたいだ。
チェンコンという町へ、そのあとチェンライへとうごく。
チェンライで宿をさがすと、
こんなところでゆっくりできたらいいなー、という
しずかできれいで清潔そうなゲストハウスに
2軒つづけてことわられる。
もうすぐお正月なので、観光地にひとがうごいているのだろうか。
3軒目にたずねたゲストハウスは、まだひとつだけシングルルームがあいていた。
300バーツ(900円)で、部屋はひろいけど、きれいとはいいがたく、
シャワーも水しかでない。
ラオスで900円もだせば、しっかりした部屋にとまれたのとはだいぶちがう。
旅行のさいごになって水シャワーか、とめげながら、
それでもとまる場所を确保したかったので、
その「KULLA HOUSE」にはいった。
ゲストハウスの主人の「ド」さんが、
庭にあかりや風船のかざりつけをしている。
夜にパーティーをするのだという。
夕方の6時くらいから、ボチボチ、というかんじで会がはじまった。
年こしをおいわいするパーティーで、
ゲストハウスの関係者と客が参加しての気らくでささやかなあつまりだ。
炭火のバーベキューでおおきな魚やソーセージなどがやかれ、
ビールやウィスキーをのんでいる。
盛大にのみ・くいするのではなく、
イスにすわってだらだらとおしゃべりする。
ゲストがかってきた花火もたくさんうちあげられた。
きちんとしたホテルではまず味わえないゆるさが、わたしにピッタリだ。
家庭的な雰囲気はごめんだけど、仲間としてはうけいれられたいという、
わたしのビミョーな心理をうまくとらえる。
こうした雰囲気は演出してだせるものではなく、
「ド」さんを中心に、ここちよい関係があるから こんな気らくな会にできるのだろう。
パーティーをぬけて時計台のほうにいくと、
ひろい歩行者天国となっていて、
年こしを盛大にたのしもうとしている。
テーブルがたくさんならび、音楽の演奏をききながら
屋台でかった料理をたべている。
チェンマイでも3年まえに にたようなもよおしをやっていた。
広場やひろい会場にあつまって、
秒よみしながら年こしをおいわいする場面を
アメリカの映画やニュースでよくみるけど、
タイのひとたちもにたような形で年こしをたのしむようだ。
とおりすがりにみえる個人の家の庭をみると、
おおぜいがあつまって、バーベキューや鍋をつついている。
日本とはだいぶちがう年こしの雰囲気だ。
ゲストハウスにもどると、とうぜん会はまだつづいている。
ゲストハウスのおかげで、ひとりさみしい年こしではなく
仲間としてうけいれられ、ここちよくすごせる年こしとなった。
12時ちょうどをはさみ、ものすごい数の花火がうちあげられる。
チェンライをあげてのおまつりみたいだ。