この本は、「アジア沈殿旅日記」として
webちくまに連載された記事をまとめたものだという。
宮田さんは、数年まえからみぎ足が謎の症状をおこすようになった。
「まるで右足だけが激しく日に焼けたように、
あるいは逆に冷やしすぎて厳しいしもやけに罹ったかのように、
熱くもある冷たくもあるヘンな感覚が毎晩私を襲う」そうで、
医者にいってもはっきりした原因がわからない。
宮田さんはこの症状に〈ペリー〉と名づける。
〈ペリー〉はあきらかに神経症であり、
旅作家としてこれからどう仕事をすすめたら、という
宮田さんの「まよい」に関係があるようだ。
この本は、もうわかくはなく、
自分のスタイルをもういちどみつめるときをむかえた宮田さんが、
〈ペリー〉とどうつきあったかの記録である。
仕事と〈ペリー〉との関係をよくかんがえたあげく、
宮田さんはふたつのテーゼにいきあたった。
・第1のテーゼ
〈ペリー〉による苦痛を軽減するためにも旅を続ける
・第2のテーゼ
しかしその旅を仕事にし、本格的なことを書こうとすれば
その悩みによって神経が昂ぶり、〈ペリー〉が悪化する可能性がある
「そうすると、自動的に、
このふたつの命題から導かれるのは、次のような解しかない。
私には、もっともっと本格的でない旅が必要だ」
「だから今、私は高らかにこう宣言したい。
『旅行に行くので、仕事休みます』
それは昔サラリーマンだった頃、何度も口にしたセリフであり、
自分を救う無敵の言葉であった」
「こうして私は、どこか好きな場所へ行って、
ゆっくり休むことが決まった」
とかくと、宮田さんがまたふざけてそんなアホなこと、といいたくなるけど、
この本は、〈ペリー〉をなだめようと宮田さんが一貫して
「本格的でない旅」をした記録である。
宮田さんは、台湾・マレーシア・ラダック・熊本をおとずれる。
マレーシア編であきらかなように、
宮田さんはこの本で、ミッションとしての旅を否定している。
「読んでいる間、海で浮かんでいるような心地になり、
いくら読んでも海に浮かんでいるばかりで
他に何も起こらないが、
それでもずっと気持ちよく読んでいられるというような、
そういう本はありえないのだろうか。(中略)
つまりそれは、何かについての旅、について書くのではなく、
旅そのものについて、もしくは旅という状態について書くということと同義である。
むしろ、それこそが本当の旅の本ではないのだろうか」
本書は、これまでのタマキング作品とずいぶんちがうテイストだ。
宮田さんは、台湾でなんのへんてつもない用水路をボーっとながめ、
コタバルについても、こころをおどらすことなく なんとなくすごす。
この「ふつう」のかんじに、
宮田さんは旅にむけた感情の再起動をかんじとる。
「四十にして惑わずとは、いったい誰のことであろうか。
私も三十五ぐらいのときは惑っていなかった。
いや、四十でも惑っていなかったかもしれない。
それが、四十五を超えたぐらいから、
みるみる惑うようになっていったのだ」
このとまどいは、わたしの実感とおなじだ。
宮田さんがつぎにかく旅の本をたのしみにしたい。