2015年02月28日

たまごをめぐる表記法

すこしまえの朝日新聞で、「たまご」をどうかくかが紹介されていた。

NHK放送文化研究所の調査によると、
「生卵」「玉子焼き」と、漢字でつかいわけるひとが55%もいて、
わかい世代ほどその傾向がつよいということだ。
生物学的な意味でつかうときは「卵」で、
食材の場合は「玉子」、というつかいわけであり、
わりと一般的におこなわれているようだ。

日本語の奥ぶかさとして、
こういうつかいわけをたのしむぶんにはいいけれど、
どっちがただしいか、なんていいだすとややこしくなる。
はなし言葉ではこのふたつをつかいわけられないし、
「卵」や「玉子」を外国語に訳せば、
そのニュアンスはこぼれおちる。
こぼれても、たいしたことない、とわたしはおもっている。
わかい世代ほど「卵」と「玉子」をつかいわけているのは、
これから複雑な表記をこのむひとがふえるようで、
わたしにとってあまりたのしい状況ではない。

つかうひとの自由にまかせるしかない、とわたしはおもう。
けっきょく漢字があるばかりに
こうした問題が生まれてくるのだ。
漢字のつかい方にきまりがないのだから、
「卵」「玉子」のどっちがただしいかをいいだしても正解はきめられない。
テレビ局や新聞社は、それぞれの会社が自分たちマニュアルをもっているそうで、
たいへんだろうし、ご苦労さまだとおもう。
「たまご」にきめたら それですむはなしだけど、
なかなかそういうわけにはいかないのだろう。

漢字をつかわない表記法をとれば、
どんな場合も「たまご」ですむのだからなにも問題はない。
「卵」あるいは「玉子」をつかいわけたいひとはどうぞご自由に。
そして、つかうのは自由だけど、つかわない自由もみとめてほしい。

ネットをみるうちに、
「クルミノ コーボー」(しばざき・あきのり氏)のサイトにであった。
なかでも「ことばと文字についてのおぼえがき」がおもしろい。

あることばを漢字でかくのかひらがなでかくのか、
はたまたカタカナでかくのかアルファベットでかくのか……といった表記は、
みなさんがまさに感じているように、
ひとりひとりの“感覚”にまかされています。
こうした“感覚”は、“りくつ”(論理)であるルールとは、根本的にあいいれません
http://homepage1.nifty.com/akshiba/kotoba_mozi/hyookinotooitu01.html

おそらく、とおい将来であっても、日本語の表記から漢字をなくすことはできないでしょう
(それでもわたしは、漢字をなくすべきだとかんがえています。
このことは強調しておきましょう)。
だとしたら、“漢字をなくせない”現実のなかで、
日本語の表記を、さらには表記の統一を、具体的にどうしていけばいいの か……
http://homepage1.nifty.com/akshiba/kotoba_mozi/hyookinotooitu02.html

こうした問題意識をもつ方がおられるのは
たいへんこころづよい。
しばざき氏の上品で堂々とした文章に共感する。

posted by カルピス at 12:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 表記法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月27日

『エリン・ブロコビッチ』でのジュリア=ロバーツ うつくしすぎる美貌をどう処理するか

夕ごはんをつくりながら、なんとなくテレビをみていると、
『エリン・ブロコビッチ』をやっていた。
ジュリア=ロバーツが主演している映画で、
彼女はこの作品でアカデミー主演女優賞をえたそうだ。

ジュリア=ロバーツは、ちいさな子ども3人をかかえるシングルマザー役で、
まずしい家庭にそだち、学歴もひくい。
作品のオープニングでは、わるいことがかさななり、
貯金はそこをつき、なんとしても仕事につかなければ
子どもたちの食事にもこまる生活だ。
わかくうつくしけれど、周囲の反感をかいやすく、
すこしのことにでも妥協せずたたかっている。
自分をみとめろと、社会とぶつかって生きる たたかう女。
ジュリア=ロバーツをみていると、
オープニングだけで、その後のストーリーがわかったような気がした。

食事中はべつの番組にチャンネルをうつし、
40分後にまたもとにもどすと、
だいたいおもったとおりのながれだ。
40分の空白にもかかわらず、とまどわないで筋についていけた。
わかりやすい、というより、すべてがみえみえで、おどろきがない。
ジュリア・ロバーツくらい圧倒的にきれいだと、
美貌はアドバンテージではなく、ハンディでもあるなー、とおもった。
こんなにきれいなひとが、そんなトホホな人生をあゆんでいるわけがない、と
どうしてもおもってしまう。
リアリティがない。あまりにも うつくしすぎる。

「美人論」でしられる井上章一さんが
梅棹忠夫さんとの対談で「美人の処理のしかた」について
はなしていたのをおもいだした。
(『女と男の最前線』におさめられている「群をぬく美貌の文明史」)

「美人というのは、美貌において社会的に突出した存在ですよね。
 社会的に突出した存在というのは、
 社会が何らかの方法で処理するわけなんです。
 たとえば、常軌を逸した精神のもちぬしを処理するしかたは
 社会によっていろいろあるわけです。
 病院に収容するとか、聖人としてあがめるとか、
 村から追い出すとか、ほおっておくとか。
 では、美貌の面で突出した人間を社会はどのように処理するか」(井上)

とびきりの美貌のゆくさきとして
芸能界が位置づけられている社会はおおい。
うつくしすぎる女性は、
一般社会くらいだと、その美貌をいかしきれないので、
自然と芸能界、なかでも映画の世界にあつまってくる。
映画界はうつくしい男女があつまる世界であり、
美人を社会的に処理するための装置なのだ。
ジュリア=ロバーツはそのなかでも
とびきりの存在といっていいだろう。

問題は、ちゃんとそうやって処理したつもりなのに、
『エリン・ブロコビッチ』ではその処理が不適切で、
作品自体のリアリティがうしなわれていることだ。
ジュリア=ロバーツ目あてに劇場をおとずれたファンは別にして、
映画の内容にひたろうとした観客にとって、
ジュリア=ロバーツはまだうつくしすぎ、
そのうつくしさは映画にとって邪魔でしかなかった。
オープニングだけで映画の筋がわかってしまうようでは、
アカデミー主演女優賞がなくというものだ。
『エリン・ブロコビッチ』のなかで
ジュリア=ロバーツは突出してうつくしかった。
もっとまわりを美男美女でかためたら、
ジュリア=ロバーツの演技がひかったかもしれない。
ひからなかったかもしれないけど。

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2015年02月26日

『アメリカン・スナイパー』どうしても「なぜアメリカ軍がイラクに」にひっかかる

『アメリカン・スナイパー』
(クリント=イーストウッド監督・2014年・アメリカ合衆国)

すぐれた作品とはおもうものの、
どうしてもさいごには「なぜアメリカ軍がイラクにいるのか」に
ひっかかってしまう。

アメリカをテロからまもろうと
クリスは軍に志願する。
訓練ちゅう、「敵」をやっつける意識をたたきこまれ、
やがてじっさいに戦地への派遣となる。

はじめはたたかう意欲にあふれ
作戦に全力をかたむけていた兵士たちも、
そのうち自分たちの存在がはたしてただしいのか
自信がなくなってくる。
イラクで、イラクのひとたちにたいし、
アメリカはいったいなにをしているのか、というとまどい。
クリスも、テロ組織を一掃するという図式のもとに
敵にたちむかい、自分としてのベストをつくしながら、
妻との距離がひらいていくのを意識しはじめる。
たとえ派遣期間をおえ、アメリカにかえってきても
こころは家族のもとにもどらない。
安定した精神をたもっているようにみえても、
クリスのこころはつねにイラクの戦場にある。

クリスをみていておどろくのは、
戦場での彼と、アメリカにかえってきたときの彼とのギャップだ。
アメリカでは、ごくふつうの市民にしかみえない。
イラクにつくと、とたんにスイッチがはいり別のひとになる。
そのきりかえは、無意識なものであり、
自分ではバランスがとれているとおもっている。
しかし、妻からは、こころが家族といっしょにないと非難をあび、ふかくかなしませる。
4度目の派遣からもどり、帰還兵へのボランティアにとりくむことで、
クリスはようやく自分の居場所をみつけつつあった。
ふつうの生活がもどってきたと、
家族みんながよろこんでいたときに悲劇がおこる。

イラクでの戦場と、アメリカへもどった場面をくりかえす構成は、
『ハート・ロッカー』とおなじだ。
危険物処理班は、狙撃兵ほど目だつ役わりではない。
「伝説」とよばれ、味方からたたえられるクリスのほうが、
『ハート・ロッカー』のジェームスよりもわかりやすい。
クリスは軍からはなれようと決心するけど、
ジェームスは戦場に依存して、どうしてもイラクにもどってきてしまう。
みる側にとって、
『アメリカン・スナイパー』のほうが理解しやすい作品だ。

おおくのアメリカ兵が作戦でなくなり、ケガをおい、
こころのキズをかかえてイラクからもどってくる。
アメリカにとって悲劇だろうけど、
そもそものおこりをかんがえると、
アメリカがイラクにのりこんだのがはじまりだ。
アメリカを美化した作品ではないものの、
どうしてもアメリカ軍がイラクにいる矛盾につきあたってしまう。

posted by カルピス at 11:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月25日

バターづくりにとりくむ

バター不足がつづいているようで、
いつまでまってもスーパーの棚はスカスカだ。
無塩バターやちいさな箱いりのバターはあるけど、
いつもかっていた200グラムいりはしばらくみていない。
わが家のバターも、あとすこしでなくなりそうだ。

いくつかの対応がかんがえられる。
・バターのかわりにマーガリンで我慢する
・200グラム800円の高級バターをかう
・このさいジャムにきりかえる
(でも、バターはパンにぬるだけではなく、料理にもつかう)

はじめわたしは、バターがないのだからしょうがない、
このさいガラッとかえるのも経験だからと、
マーガリンをかうつもりだった。
でも、マーガリンにもいろいろあって、
バター風味とか、バター◯%いりとか、
バターににせようとしているのは
それだけ代用品としての限界をばらしているみたいで
できればかわずにすませたくなる。
ネットでしらべると、
生クリームをペットボトルにいれてしばらくふっていたら、
かんたんにバターができるという。
高級品をかわなくても、自分でつくるという手があったのだ。
さっそくためしてみた。

生クリームをふるだけのおおきさがあれば、
ペットボトルはなんでもいいそうだ。
おこのみで塩をすこしいれるといいらしい。
じっさいにペットボトルをふってみるとわかるけど、
そのあいだはごはんをたべるわけにもいかず、本もよめない。
ただ手をうごかすだけの、あんがいたいくつな10数分だ。
ジョギングのときに両手にひとつずつもてば、
1時間後に できたてのバターといっしょにかえってくる、
なんてちょっといいかも。
けっきょくわたしはテレビをみながら まじめにシャカシャカふりつづける。

ネパールを旅行したときに、牛乳を容器にいれて、
ひたすら棒でついているのをみたことがある。
バター茶をつくっているのだ。
牛乳からバターまでもっていくことをおもえば、
生クリームからバターなんておやすい仕事だろう、とおもってたけど、
これがおもうようにはかたまらない。
ネットの動画では、10分ほどで様子がかわってくるとあり、
たしかにねっとりはしてきたけど、
なかなかかたまりにまでもっていけない。
念のため、30分ほどふりつづけてから
ペットボトルをきってなかをみてみる。
とてもバターとはいえない状態で、
ゆるいクリームにしかみえない。
なにがよくなかったのかわからないけど、
どうやら失敗したみたいだ。
パンにつけてたべてみると、
あくまでも生クリームの味であり、バターにはなっていない。

なにが失敗の原因だろう。
ふりかたがあまかったのか、
つかったペットボトルに難があったのか。
そもそも生クリーム200cc(380円)をつかって
130グラムのバターができる、という方法なので、
うまくいったとしても高級バターなみの値段になるわけだ。
ネットでは「格別においしい」「フレッシュな風味」とあるのでそそられるけど、
つくるのがすごくむつかしいのであれば、実用にならない。

またまたネットをみると、
生クリームのなかには成分が分離しにくいように
乳化剤や安定剤をくわえたものがあるそうで、
わたしがかったメグミルクはどうもそっちのほうらしい。
はじめからそうした注意点をかいてくれたらいいのに。

基本的に、なんでも自分でつくるのは
ただしい方針だとおもう。
マヨネーズでもバターでも、
日頃から自分でつくっていたら、
国の施策にふりまわされずにすむ。
それに、今回みたいにかえないものがあるのは いい教訓ともいえる。
スーパーの棚にいつも食品がたっぷりそろってるなんて
ものすごくありがたいことなのだ。
これを機会に、自分たちの食生活をみなおして、
というほどマメな消費者ではないけど、
バターなしでもこまらないように、
材料をたしかめてから もういちどバターつくりに挑戦してみたい。

posted by カルピス at 14:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | 料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月24日

ものの名前をしらないこと

わたしのまわりには、さまざまな種類の草木がはえ、
鳥がなき、虫たちがうごめいている。
もちろん、そのどれもに名前がある。
しかしわたしの知識はあまりにもとぼしいので、
「花がさいている」「チョウチョがとんでる」くらいの認識しかない。

おなじように、世界にはさまざまな歌がある。
そのどれもに曲名があるわけだけど、
これまた残念なことに、わたしには
ほとんどの歌の名前をしらないので
「なにか音楽がながれている」としかかんじられない。

ファッションについても、わたしはほとんどなにもしらない。
デザイナーの名前くらいはきいたことがあっても、
その服をえらぶことが、どんなメッセージを意味するのかまでは気づかない。
本にでてくる人物について、服のくみあわせがかいてあっても、
そこから ひととなりを推測するだけの知識がない。

本についてなら、わたしにもある程度わかる。
世界にはたくさんの本があり、
あたりまえだけど、そのどれもに題名がついている。
よくしられている本なら、わたしもそのタイトルをきいたことがあり、
そのなかのいくつかは、よんだこともあるはずだ。
本にあまりしたしみをかんじないひとにとって、
世界にあふれるたくさんの本は、
わたしにとっての木や花みたいなものかもしれない。

河合隼雄さんだったら、ただ名前をしっているのと、
そのものの ほんとうのすがたをしっていることは、
おなじではないと、援護射撃をしてくれるかもしれない。
バラをみて、ただきれいな花だとおもうのと、
バラがさいている、と名前をみきわめるのとは
どちらがこのましいか、かんたんにはきめられない。
バラだとみとめたとたん、なにかわかったつもりになるこわさを
河合さんはたびたび指摘しておられた。

しかし、それはそれだ。
一般教養として、ある程度の動植物の名前や、
演奏者まではききわけられなくても、
なんという曲名くらいはわかっているのが
教養あるおとなというものだろう。
わたしが本をよんでたのしめたとおもっていても、
ずいぶんひくいレベルに とどまっているのかもしれない。
それなりの教養人とくらべたら、おなじ文章をよんでも、
わたしはかなりかぎられた情報しかうけとれていないわけで、
かいているひとからすれば、もうすこしちゃんとよみとれよ、
といいたくなる こまった読者なのではないか。
もっとも、「名もしれぬ花がさき」なんてかく小説家がいるくらいだから、
名前にどれだけ厳密さをもとめるかはひとそれぞれともいえる。

即効的な解決方法は おそらくないだろうから、
自分がなにもしらないことをみとめ、
謙虚でありたいとおもう。
たとえ名前をしっていても、それだけで安心してしまわず、
名前にかくされたふかい意味に耳をかたむけたい。

posted by カルピス at 20:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月23日

『これもまた別の話』『それはまた別の話』(三谷幸喜/和田誠) なぜその作品がおもしろいかの論理的うらづけ

『これもまた別の話』『それはまた別の話』
(三谷幸喜/和田誠・キネマ旬報社)

せんじつのブックオフめぐりの収穫として、
この2冊を手にいれた。
おふたりが「キネマ旬報」で かたってこられた連載がまとめられている。
和田さんは、戦後の映画史全般にあかるい関係者として、
三谷さんは監督・脚本家としての視点から、
1本の作品についてふかくはなしこんでいく。
ふたりの息がよくあって、たのしいよみものにまとまっている。

『ジョーズ』について。

和田 「アメリカで今サスペンス・ミステリーの『あご』っていう映画が
    製作されてるって記事を読んだ記憶があるんですよ。
    どんな映画だろうとずっと思ってた(笑)」
三谷 「『あご』じゃ何の話か分からない」

『ジョーズ』が『あご』っていうのがすごくおかしいけど、
それでも頭のすみにおいといた和田さんはさすがだ。
タイトルが『あご』のままでは
おそらくあまりヒットしなかっただろうから、
『ジョーズ』にあらためたのはよい判断だった。

『ジョーズ』といえば、まだむすこが小学生のころ、
家族旅行としてUSJへあそびにいった。
『ジョーズ』のアトラクションでは、
みえみえの「あぶない」しかけが お客さんをおそってくる。
わたしたちのすぐうしろにいた男性グループは、
その設定を子どもだましとばかにするのではなく、
じょうずにこわがって、まわりの気分までもりあげてくれた。
おかげでわたしたちもたのしく「恐怖」をあじわうことができ、
たのしいおもいでになった。
あのお兄さんたちがいなかったら、
わたしの『ジョーズ』体験は はるかにまずしいものとなり、
ハリウッドのお気楽作品と、的はずれなきめつけをして
『ジョーズ』としたしむ機会をうしなっただろう
(「こんなのただの『あご』じゃないか」くらい いったかもしれない)。

2冊をざっとよんだなかでは、
『ダイ・ハード』についてのはなしがいちばんおもしろい。
ブルース=ウィルス演じる警部が高所恐怖症という設定で、
それを克服するおまじないとして、くつしたをぬいではだしになればいいと、
となりの席のおじさんにおそわる。
その伏線が、あとのアクションシーンでいかされてくるわけで、
また、シャツをきてなかったから 銃を背中にはりつけるアイデアが効果的だった。
たまたまくつしたをぬいでいたり、ランニングシャツだったわけではなく、
よくねられたシナリオが、映画をおもしろくしている一例だ。
こういう指摘は和田さん・三谷さんならではのもので、
なぜおもしろいかの種あかしに納得できる。

警部がビルの屋上からとびおりるシーンについて、

三谷 「あれ、普通はできないですよね」
和田 「高所恐怖症だしね」
三谷 「結局おまじないは効いたのかも知れないですね(笑)」

がおかしい。
いいシナリオは、さいごまで作品に血をかよわせる。

1本の作品について、これだけほりさげられると、
みたことがない作品はみたくなるし、
もうみたことがあっても、もういちどみたくなる。
ひとつの作品をこれだけふかくよみこめるのは、
それまでにみてきた 膨大な数の映画が背景にあるからで、
さらっとよんでいるだけでも おふたりがどれほど映画ずきかなのかがわかる。

とくに三谷さんの発言をきいていると、
子どものときに、とにかくおもしろくてたくさんみてきたことが
あとになって財産としていきている。
なにかがすきでたまらないというのは、
そんな対象にであえただけで
ありがたいとおもったほうがいい。
その体験は、あとになっていろんなものをつれてきてくれる。

よむべき本もおおいけど、みておいたほうがいい映画もまたたくさんある。
この本でとりあげている作品は、一般教養として
どれもおさえておいたほうがよさそうだ。
でないと、ほかの作品でパロディとして登場しても、
そのおもしろさがわからずに さみしいおもいをする。
わたしのいまのペースでは、ぜんぜん数がこなせないので、
毎週1本はDVDをかりてきて、これまでの穴うめをしなければ。
わかいころにすませておくべき体験を、
不完全なままさきおくりしてきた。
そのツケのおおさを、このごろ実感することがおおい。

posted by カルピス at 21:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月22日

多崎つくるくんのクロールは、1500メートルがなぜ32分もかかるのか

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』には
つくるくんがプールでおよぐ場面がなんどもでてくる。
230ページでは、とくにペースについてふれてある。

「彼のクロールのペースは決まっていて、
 千五百メートルを三十二分から三十三分かけて泳ぐ」

1500メートルをクロールで 32〜33分のペースというのは、
まさにわたしの練習メニューであり、わたしのスピードだ。
つくるくんとおなじペースなのは、
うれしくもあり、なんだかふにおちないところもある。

中学から大学までずっと水泳部に所属し、
そのあとも定期的におよぎつづけていたわたしがいうのもなんだけど、
この1500mを32〜33分のペースは、
残念ながらそうたいしたスピードではない。
つくるくんのように、大学のころからおよぎつづけている36歳の男性なら、
そして 本に描写してあるような

「無駄のない美しい泳ぎだった。(中略)
 しぶきも立てないし、無駄な音も立てない。
 肘が美しくすらりと宙に持ち上がり、親指から静かに入水する」

ちからづよく、ムダのないフォームなら、
1500メートルを どうしても25分ほどでおよいでしまうだろう
(このフォームでおよいでいるのはつくるくんではないが、
それだけのスイマーについておよいでいたのだから、
つくるくんも にたようなタイムでまわっていた)。
わたしごときノロマなスイマーと、おなじレベルのスピードのはずがない。

村上さんはなぜ32〜33分というおそいペースを設定したのだろう。
ランニングでは、フォームとスピードが
どれだけ関係しているのかしらないけれど、
水泳において きれいなフォームは、あるレベルのスピードを約束してくれる。
へたなおよぎでは、いいタイムはまずでないし、
32分というスピードなら、それなりのおよぎでしかないはずだ。
1500メートルを一定のリズムで うつくしくおよぎつづける泳力があれば、
結果として32〜33分よりもはるかにはやいペースになる。
うつくしくおよいでの32分は、ありえないとまではいわないけれど、
おそすぎるタイム設定におもえる。

つくるくんのようにプールで1500メートルをおよぐのは、
長距離がすきなひとに特徴的なトレーニングだ。
きっと村上さんもそうやっておよいでいるのだろう。
一定のペースでよわい負荷をくりかえすうちに、いいかんじになってくる。
1500メートルというと、けっこうな距離に とうけとめられやすいけど、
ランニングになおしたら6キロほどであり、
みじかいジョギングに相当する。
ジョギングよりも水泳のほうが、
ここちよさを味わいやすいような気がする。

マスターズなど、水泳の大会に参加するひとは、
こうしたおよぎ方ではなく、
もっとスピードをあげてのインターバルトレーニングにとりくむ。
プールでの練習をみていると、
わかいひとや水泳経験者はみじかい距離をこのみ、
水泳を専門にしてるわけではないけど、
とにかくおよぐのがすきなひとは
たいていゆっくり・ながくおよいでいる。
かといって、つくるくんみたいに いつも1500メートルというひとは、
わたしのまわりではみかけない。

村上さんの短編小説『眠り』では、
主人公の女性がスポーツ・クラブのプールでおよいでいる。

「いつものように三十分泳いだ」

とあるだけで、ペースについてはふれられていないけど、
このひともまた30分をひとつのくぎりとしている。
ジョギングで30分はしっても、なんだかものたりないのに、
水泳だとちょうどいい時間となる。

多崎つくるくんは それなりのフォームでおよぎながら、
なぜ32分とゆっくりなのか わからない。
本をよむかぎり、村上さんは32分を
はやくはないけれど、わるくないタイムと とらえているようにみえる。
キレのあるおよぎをしているのだから、
つくるくんは、もっとはやくおよいでいるのではないか。
あるいは目にみえないところで 残念なフォームがじゃまをしているのか。

posted by カルピス at 22:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | 村上春樹 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月21日

本棚問題にどう対応するか

わたしのすんでいる町には3つのブックオフがあり、
だいたい月にいちどのわりあいでどの店にも顔をだすようにしている。
先週は、たまたまそんな日がつづき、
1週間で3ヶ所全部をたずねた。
あわせて40冊ほどをかう。どれも100円コーナーの本だ。

家の本棚がいっぱいになり、いれるところがなくなってきたので、
とりあえず本を床におく。
それを3回くりかえすと、さすがにじゃまなかたまりになってきた。
作家べつにわけても、どこにもひっかからない本がおおく、
かたまりはなくならない。
根本的に本棚をととのえないと
どうにもならなくなっているのだ。
せんじつのブログでかいた日下三蔵氏の書庫なんかをみると、
うちの本棚事情なんて問題ですらないわけだけど、
それでもいれる場所のない本はこまった存在だ。

いくつかの対応がかんがえられる。

・ながい人生のあいだに、このような体験をもつのは
 そうわるいことではない
・イスラム国やボコ・ハラムなどの問題をおもえば、
 たいしたことではない

など、おおげさにとらえたり、「すりかえ」たりの技だ。
あるいは「みなかったこと」「なかったこと」にするという、
むかしからの作戦もつかえないわけではない。
しかし、いずれにしても「いま」をやりすごすだけなので、
ちかいうちに なんらかの対応が必要なところまできた。

いまかんがえているのは
『ミニ書斎をつくろう』(杉浦伝宗・メディアファクトリー新書)
で提案されている、ブロックと板をつかった本棚だ。
これだったら大工仕事が苦手なわたしでもなんとかなるし、
かった本棚よりもたくさんの本をおさめられるだろう。
問題なのは、いまある本棚をどけて ブロックと板をもちこむに、
ある程度の労力をともなうことで、
めんどくささから、なかなか腰があがらない。

わたしの理想は、
・ざっと作家別・ジャンルべつにわけてあり、
・あたらしくかった本を「とりあえず」おさめるコーナーがある、
の2点をおさえてある本棚であり、スペースだ。
かった本をはじめは分類せずに、
かった順番にならべておくのはあんがいわかりやすい方法で、
そのうちおちつくところが自然とみつかる。
エバーノートでいうところの「Inbox」だ(えらそう)。
あんまりながいことほっておくと、
そのスペースだけで本棚が占領されてしまうので、
ときどきチェックする。
図書館でかりた本だけは、
これとはべつにならべておくコーナーがあったほうがいい。

と、おもっているのに、
この理想どうりにはなかなかいかない。
ジャンルわけが機能しなかったり、
あちこちに にたような分野の本がちらばっていたりと、
ごちゃまぜの状態がつづいている。
そもそも全体のスペースに余裕がないからこうなるわけで、
はやくブロックと板をつかって・・・(以下くりかえし)。

ほんとうに、本をついかってしまうひとは、
本のおき場所問題を、どうやりくりされているのだろうか。

posted by カルピス at 17:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月20日

「うさぎたべるズ」(Les Mangeurs de Lapin)の松江公演をたのしむ

フランスのコミックサーカス「うさぎたべるズ」の公演に 配偶者とでかける。
今回の日本公演では、松江のほかは東京と大阪だけでしかひらかれない。
関係者に松江出身の方がおられ、
その縁もあっての「なぜか松江」公演だ。
Matsue_recto.jpg
まさかの満席で、500人定員の1階は開場とともにうまったそうだ。
2階席にむかうよう案内される。
わたしは関係者でもないのに、
50人くらいしかあつまらなかったらどうしようと、なんて心配していた。
おそらく実行委員会の方々が、いろんな方面にうごいたのだろう。
SNSは、そうしたときにやくにたちそうだ。
子どもづれもおおく、ほとんどがわかいひとで、中高年の方はあまりみかけない。

19:25に、メンバーのひとりがでてきてピアノをひきだした。
いい雰囲気、とおもってきいていたけど、それが15分以上もつづくので、
「ピアノもいいけど、サーカスのほうはどうなってるんだ?」
とイライラしてきはじめたころ、ようやくだしものがはじまる。

フランスのサーカスときいて、配偶者は
フランス語ができないと、たのしめないのでは、と心配していた。
もちろんそんなことはなく、
「おかーさん、ごめんなさい!」みたいに、
日本語をじょうずにはなす(発音する)。
そういえば、外国からくるサーカスに、ふつうことばの心配なんかしない。

ささやかなギャグにも配偶者はわらい声をあげる。
ほんとにサーカスがすきなひとだ。
いつもこれくらい友好的だとありがたいけど。
もっとも、会場の雰囲気がとてもよく、ずっとわらいがたえない。
ちいさな子どもたちもおおよろこびだ。

ゾウ2頭がでてきての、「いかにもサーカス風」演技に 場内がもりあがった。
ゾウがうとうとするあやしげな雰囲気がなんだかおかしい。
間のとり方がうまく、ふしぎな世界をつくってしまう。
ほかにも、自分のスーツをないがしろにされ
「いじけるおじさん」がおかしかった。
ふつう、たかだかスーツをじゃけんにあつかわれたといって、
そんなにがっくりしないのに、
とんでもなくかなしい目にあった、みたいにえんじて、
みてる側もそんな気にさせてしまう。

指をつかった「スコットランド・マジック」にもわらった。
このひとは、ギャグ系のネタしかできないとおもわせて、
そして、この劇団はその路線だけだろうと油断させておいて、
あとですごいジャグリングをみせてくれる。
失敗するとポケットから花びら(みたいなもの)をさっとまいてごまかすひとも
なんとなくフランス的におしゃれだ。
出演者は4人しかいない。
みているうちに4人のキャラクターがだんだんわかってきて、
その共通理解のもとに4人があそびまくる。
こんなやり方があるんだ。
日本にはあまりないスタイルだろう。

テニスラケットとボールをつかってのジャグリングがみごとだった。
プロだ。
あんまりじょうずなので、どんなことをしても失敗しないから、
なんだかかんたんな演技にみえてしまうけど、
そんなわけはない。すごい技にきまっている。
ラケットが5本にふえるとさすがにむつかしくなり、
なんどかラケットをおとす。
でも、トライしつづけて、さいごにはきめた。すばらしい!

21時にすべてのだしものがおわる。
アンコールをもとめる手拍子にはこたえず、
4人が舞台にでてきてスポンサーの名前をよみあげる。
この公演に協力してくれた方へのお礼もつたえる。
ほんとうに、よくこれだけお客さんがきてくれた。
出演者と会場との一体感も、こうした会ならではの あたたかなものだった。

みおわったあとも、かるい興奮がつづいている。
こんなたのしい公演を、気がるにみにいけたら(月いちくらいで)とおもう。
「しばらくおまちいただけたら、
 ロビーで出演者が挨拶とパフォーマンスをします」、
と案内があったけど、
おなかがすいていたので会場をあとにする。たのしかった。

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2015年02月19日

やみあがりのリセット感は なかなかわるくない

38℃程度の熱をだしたくらいで
えらそうなことはいえないけれど、
いちど病気でねこんだあとの「リセット感」は
なかなかわるくない。
身のまわりのこと、世の中のことのすべてがどうでもいいかんじで、
欲がなく、すっからかんになった気がする。
修行僧は、もしかしたらこんな心境にたっしているのでは、
なんておもったりもする。

しかし、これで「おわり」にしてくれないのが
からだのしくみのおもしろいところだ。
わたしの場合、これから
鼻水→鼻づまり→ハグキのはれという
おきまりのコースをたどって だんだんと回復していく。
まえみたいにトレーニングがあたりまえという
ふつうの日常に体調がもどるのに、
なんだかんだで1ヶ月ちかくかかる。
いちどダウンした調子をもとにもどすのに、
からだの方もいろいろ無理をしているようで、
そのつじつまあわせがこうした「後遺症」として
あらわれるみたいだ。

10代のころは、もちろんこんなことはなかった。
回復までのややこしい道どりを覚悟するようになったのは、
30をすぎてからだ。
歳をとる意味、というか実感を、こんなところであじわってきた。
からだはまえとそんなにかわらずうごくのに、
回復など、そのあとの反応がイメージとちがい 呆然とするしかない。

先日のラオス旅行でいっしょになった村山さんから手紙がおくられてきた。
近況にあわせ、数枚の写真が同封されている。
旅行ちゅうはろくにシャンプーをしなかったせいか、
髪がべったりひたいにはりつき、
わたしだったらしたしくなりたいとおもえない、
すごくかっこわるいおじさんがうつっている。
わたしはこんなにもおじさんぶりを発揮してあるいているのか。
どうにもいいのがれができない、
あまりにも堂々としたおじさんそのものの写真に
かなりふかくがっかりする。

意識と体調と容姿が、自分のなかで
矛盾なくおちつくのはもうすこしさきみたいだ。
いまはまだ、「もうすこしまし」な自分をもとめて
なかなかうけいれられずにいる。
1週間くらいねこめば、そんなぼんのうはすっかりきえさって、
かっこわるい自分になじめるのだろうか。

posted by カルピス at 11:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月18日

『本の雑誌 3月号』の特集「本を処分する100の方法!」

『本の雑誌 3月号』の特集は「本を処分する100の方法!」

わたし程度の本ずきには、想像をぜっすることだけど、
本はある一線をこえたとたん 凶暴な性格をみせはじめ、
ひとのコントロールがおよばなくなる。
本の雑誌社の杉江さんは、1万冊がひとつの線ではないかと
なにかにかいていた。
わたしの家にあるのはおそらく2000冊くらいで、
この5倍あるとたしかにたいへんだろう。
たいへんというか、生活空間としての家が
本来の機能をうしなって、本のおき場所になってしまう。
おそろしいことに、たくさんの本は仲間をつれてくるようになり、
1万冊をこえたあとは一気にいきおいがついて
部屋や家をのみこんでいく。
たまってこまるのなら、古本屋さんにうったり、
フリーマーケットにだせばいいじゃないか、
なんて、悠長なことをいえる段階ではない。

『本の雑誌 3月号』の「本を処分する100の方法!」は、
そうした問題についての特集であり、
一般人むけではないけど、極端な例はなんにしてもおもしろい。
日下三蔵氏が本を処分するという情報に、
古本業者3名と、本の雑誌社3名プラスカメラマンが
日下氏宅をおとずれた記録だ。
写真で日下氏の書庫をみると、
本の山がなだれをおこし、まるでゲレンデみたいだ。
「足のふみ場もない」どころか、まったく部屋にはいりこめない。
日下氏は、自宅の1階すべてと、別宅の3LDKのマンション全室を書庫にあてており、
それでも「本の山脈」におびやかされている。
推定蔵書数はおよそ8万部になるらしい。
なんでまたそんなにかうの?というのが
ふつうの感覚だけど、
そんなのが通用する世界ではないのだ。
ものすごい量と、あちこちにあるお宝本に、
作業はなかなかはかどらない。

小野「いずれにしろ作業ができる状況じゃないですね」
日下「どういう手順でやればいいか、
   小野さんに全体像を把握してもらわないと」
浜本「本日は見学のみですね」
日下「じゃあ、マンションのほうに行きましょう」

けっきょく自宅のほうは手をだせない状態なのがわかり、
それではマンションへと、車をだそうとしたら、
車の座席全部に本やCDが山ほどつんであり、
シャコタン状態になっていたそうだ。
本をつむには まずそこの本をださなければならない。

けっきょくこの日は227冊がかいとられただけにとどまる。
それでも10万7000円になり、
「下駄箱の本を全部売っていただければ
プラス25万円くらいには」(古本業者)
というから、全体ではほんとうに宝の山なのだろう。
ただし、「砂漠で針をさがす」ほどではないにしても、
かなりの時間と労力をかけないと、お宝はすがたをみせてくれない。

大森望・茶木則雄・吉田伸子各氏による
「本を処分する100の方法を考える!」座談会では、
2つの重大な法則が確認されている。

・本当にやろうと思ったら人に任せるしかない
・すてられないのが問題なのだから、
 処分するときの罪悪感をなくす方法をかんがえる
 (神社でおかざりをもやすみたいに)

たしかに、自分の本はすてられないから
どうしても必要以上にたまってしまうのだ。
ある一線をこえないまえに、
なんとかする方法を自分なりにつくりあげないと、
さきのばしすればするほど、どうにもならなくなる。

「たもかく本の街」という企画も、ちょろっとはなしにのぼる。
http://www.tamokaku.com/page.php?i=system
「本やCDを定価の10%で評価、1750円につき只見の森1坪 と交換」
というしくみなのだそうだ。
これだけではなんのことかわからないけど、
とにかく罪悪感なしに本を処分できる点はおすすめだ。

posted by カルピス at 22:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本の雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月17日

ヘタレの病人

きのうからなんとなく調子がわるくなり、
今朝になると熱がでた。
おもいあたるのは、
トレーニングのつかれがたまっていたことと、
夜中になんどもピピにおこされて、
そのたびにさむい台所で10数分をつきあってきたことだ。
ひとりでたべればいいのに、ピピはどうしてもついてこいという。
わたしはタヌキねいりをするのだけど、
ネコにタヌキねいりは通用しない、
というかやめたほうがいい。
ふとんにおしっこのスプレーという、
しかえしをもらうことになるから。

熱といっても37℃台でおさまっており、
そうたいしたものではない。
症状からインフルエンザでないのが予想できたし、
病院でのみたても「カゼ」ということだった。
すこし熱がある状態で、トロトロとねるのは
そうわるいものではない。
職場に連絡してきょうは仕事をやすませてもらって家ですごす。
こういうとき、わたしはできるだけからだをあまやかす。
アイスクリームとシュークリームをたべた。
食欲はあり、みるからにたいしたことのない症状だ。

病院では4種類の薬を処方された。
たかがカゼなのに こんなにたくさん薬をだすなんてどうかしている。
そんなことをするから医療費があがりつづけるのだ。
わたしは粋がって薬局へまわらず、そのまま家にかえった。
わたしにはバファリンがいちばんあっており、それでじゅうぶんだ。
できるだけ薬なんてのまないほうがいいというのが
基本方針でもある。
『グッバイガール』でエリオット=グールドが
「わたしの肉体は神聖だ」といって、あやしげな食品をこばみ、
線香をたきお経をよみ、自然食品ばかりたべていた。
それ以来、「わたしの肉体は神聖だ」がすきなことばになる。
そうだ。神聖なからだに
わざわざ化学物質、とりわけ薬なんていれることはないのだ。
カゼなんて、からだをやすませれば それでなおる。

でも、ひるねからおきると症状はわるくなっており、
熱も最高の38℃まであがっている。
頭と関節がいたくて、セキをすると胸がヒリヒリする。
わたしはいっぺんに弱気になり、
自動車にのって薬局へむかった。
500円ばかりしはらって、4種類の薬をうけとる。
食前・食後にのむタイミングがずれて
へんなことになったけど、かまわずに処方された薬をぜんぶのむ。

なんというヘタレの病人だろう。
「わたしの肉体は神聖」ではなかったのか。
まえにもおなじことがあった。
ヒジを脱臼したときに、薬を処方され、
なんで脱臼ごときで薬なんかのまないといけないんだ、と
つっぱっていたら、熱がさがらないし、
ヒジのあたりがへんな色にかわってきた。
あわてて薬をのむ。
そのときの気分でカラ元気をよそおうし、
調子がわるくなると、あっという間にそれがへしゃげる。

今回わたしがえらんだ薬ののみ方は、
バファリンはやはりはずせないので、
それプラス、処方された漢方だけを食前にのむ、というアレンジだ。
セキや鼻水の薬は必要ないと「強気」に判断した。
あしたまたコロッとかわるかもしれないけど。

posted by カルピス at 21:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 健康 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月16日

『フランシス・ハ』(ノア=バームバック監督 )ハンパじゃないようでハンパなのがいいかんじ

『フランシス・ハ』(ノア=バームバック監督 2012年アメリカ合衆国)

フランシスはニューヨークのアパートで
友だちのソフィーといっしょにくらしている。
フランシスはダンサーをめざしているけど、なかなか芽がでない。
恋人がいたけど、恋人がいっしょにくらそうというのをことわり、ソフィーとの同居をえらんだ。
そのすぐあとで、ソフィーはべつの家にうつる、といいだす。
ここからフランシスは、なにをやってもうまくいかなくなる。

フランシスは背がたかく、がっしりしたからだつきで、そんなに美人ではない。
27歳だけど、みかけだけ大人で、おとなとしてふるまえない。
損得でさきのことをかんがえられず、不器用に生きている。
いわゆる「非モテ系」だ。
からだがでかいので、うまくいかないときは すごくにぶいやつにみえてしまう。
かっこわるい。
でかくてさえないという、自分のキャラをしっており、
へたに下をむいたりすると目もあてられないので、
前をむいてノシノシあるき、どこでも だれにでも堂々とふるまう。

コピーの「ハンパなわたしでいきていく!」がうまい。
どちらかというと「ハンパじゃないよ」とつっぱって生きているのに、
どうしてもハンパになってしまうのがフランシスだ。
ソフィーに恋人ができ、フランシスとちがう世界へ、どんどんさきをいってしまう。
まわりはうまくやっているのに、
自分だけおなじところをグルグルまわっている。

フランシスは、このままではダンサーとしての居場所がなくなるからと、
スタジオのオーナーに事務の仕事にうつるようすすめられる。
フランシスはダンサーとしてやっていくのにこだわり、
このもうしでをことわる。
ことわったらどんなにたいへんな状況か、フランシスはよくわかっている。
もうすこし じょうずにおよいだらいいのに、と自分でもおもっている。
でも彼女の生き方からは、ダンサーをあきらめるなんてできない。
自分に必要な仕事とわかっていても、事務職をことわらずをえない。

発作的にパリへでかけたりもする。お金はないのでクレジットばらいだ。
パリではあてにしていた友だちと連絡がとれず、
せっかく背のびしてパリへいったのに、
やったことといえばけっきょくアメリカにいるソフィーとはなしたことくらい。
その友だちからは、ニューヨークにかえると同時に連絡がはいった。
なにをやってもうまくいかないのだ。

生活費をかせぐために、母校で臨時の仕事につく。
わかい学生にまじっていっしょにやるのはさすがに違和感があり、
いつまでこんなことをやってるんだろうわたし、とトホホな毎日だ。
でも、自分をまげないフランシスがかっこよくみえる。

それがいちばん底のとき。
それからすこしずついい風がふきはじめ、
はったりでなくいきいきとした表情をフランシスがとりもどしていく。
そして、さいごにはアパートでのひとりぐらしができるまでにこぎつけた。
自分の家を手にいれたうれしさから、
「フランシス」と紙にかいて表札にはさむ。
全部の氏名は表示されなかったけど。
いいかんじだ。

フランシスみたいに生きたい女性は 世界じゅうにいそうだ。
でもフランシスは、どんなときでも 自分でありつづけた。
フランシスが手にしたあたらしいくらしは、
べつに大成功をおさめてのものではない。
自分の道をあるきつづけたおかげで、
ダンサーとしてではなくとも、演出の道で評価をうけた。
つっぱるのをやめ、事務としてスタジオとかかわったりもしはじめたようだ。
みおえたあとのここちよさがすばらしい。

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2015年02月15日

『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』(長谷川三郎 監督)

『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』
(2012年・長谷川三郎 監督)

『ニッポンの嘘』上映会にでかける。100席ほどの会場が満員となる。
福島菊次郎氏について、わたしはなにもしらなかった。
報道写真家として広島・三里塚闘争・日本の兵器産業の実態など、
権力がかくそうとする事実を とりつづけてこられた。
そして90歳をこえたいまもなお、現役のカメラマンだという。
とくにカメラをかまえると キビキビしたすばやい身のこなしで、とても90歳のうごきとはおもえない。
あまりシワがないせいか、わかくみえる。肌にツヤがある。
といって、何歳にみえるかというと・・・何歳だろう?
表情はすごくおだかやかだけど、
写真を説明することばのはしばしから
権力にくっしないつよい精神がつたわってくる。

福島さんが反権力の側にたつのは、
広島の被爆者を取材したことがスタートになっている。
原爆がおとされた当初から、被爆者は差別されていた。
必要な治療をうけられずに、くるしみながらなくなったひとたち。
そして、広島は原爆をおとされたと 被害者意識でうったえるけど、
その広島が、朝鮮の人にたいしては 差別する側にまわっている。
福島原発事故でも、おなじことがくりかえされた。
被爆者は差別され、権力側は責任をとらない。

福島さんは、そうした権力側の「嘘」をずっと告発しつづけてきた。
反権力の側にたつと、日本でも命の危険にさらされる。
兵器産業の写真を発表後、福島さんは暴漢におそわれて大ケガをする。
家も放火され、すむ場所をうしなった。
くさったやつといっしょにいたら、こっちもくさってくると、
無人島での自給自足の生活をはじめる。
いっしょにくらしていた女性が、
「あと7万円しかない、生活保護をうけよう」というと、
「この国を攻撃しながら、この国から保護をうけられるか」と
おいだしてしまう。

こんなひとが日本にいたのだ。
このひとはほんものだ。
自分のいのちをかけて事実をつたえようとする。
なぜわたしは、これまで福島さんの仕事をしらなかったのか。
ほかのお客さんたちも、映画をみているうちに 福島さんの迫力に圧倒されたようで、会場に一体感がうまれていた。

上映がおわると、この作品を監督された長谷川三郎氏が
どうして福島さんを取材しようとおもったのかをはなし、
そのあと質疑応答となった。
反骨の報道写真家、という噂から、
長谷川監督はビビりながら福島さんをたずね、
はなしをきくうちに、いっぺんで福島さんの魅力にはまったのだという。
福島さんを映画にすることは、
自分もまた反権力の側にたつ覚悟が必要で、
けしてかんたんな取材・撮影ではない。
自分はこわがりなので、と長谷川監督は わらっておられたけど、
はなしのおさえ方から、きちんと筋をとおそうとする誠実なひとがらがつたわってくる。
このひとだからこそ、こうした迫力のある作品となったのだ。
長谷川監督は、福島さんといっしょにすごすことで、

「自分のまわりでたたかっているひとをとりあげていきたい。
 自分もそういう(たたかう)ひとになりたい」

とおもうようになったという。
この作品をみて、わたしもまた、そうありたいとおもった。

福島さんはこの3月で94歳になられる。
目がよくみえなくなり、足もよわってきているという。
ただ、安部首相の「活躍」にエネルギーをかきたてられているので、
長谷川監によると、「まだしばらくは大丈夫」らしい。

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2015年02月14日

『タイ国鉄4000キロの旅』(渡邉乙弘)ふかい鉄道愛と、ゆたかな経験がいかされた 精密な記録

『タイ国鉄4000キロの旅』(渡邉乙弘・文芸社)

すこしまえのブログに、この本を図書館でかり、
あまりのこまかさにおどろいたとかいた。
いちにち50ページを目標によみすすめ、
先日ようやく さいごの691ページ目をむかえることができた。
これはもう、カラマーゾフをよみおえるのに匹敵する偉業ではないか。
すべてに目をとおしたと、ぜひ記録しておきたいので、
もういちどこの本をとりあげる。

わたしは鉄道ファンではないけれど、
このぶあつい本を興味ぶかくよむことができた。
わたしがタイの列車にのった経験があるのも
いくらかは関係してるかもしれない。
しかし、この本のおおきな魅力は
渡邉氏が鉄道にむける どこまでもふかい愛であり、
ページのいたるところに そのこまやかな愛がちりばめられている。

本の構成にしても、たとえば観光地として有名なアユタヤーは、
いちばん最後の章でたずねている(「小旅行ぶらりアユタヤーへ」)。
タイの中央駅であるフアランポーン駅も、
この章ではじめてくわしく紹介されている。
なんという余裕だろうか。
ふつうだったら、だれもがしっている有名な町をはじめに紹介して
読者の関心をつかみたくなるところだ。

タイトルにあるとおり、この本は渡邉氏がタイ鉄道の全路線をのった精密な記録だ。
タイの国鉄は、おもだった路線が6本と、盲腸線など、
みじかい線がいくつもあるので、ぜんぶをおさえるのはそう簡単ではない。
かんたんではないが、のるだけならわたしにもできるだろう。
渡邉氏はしかし、この本をかくためにあわてて
まだのっていない線にのりこんだわけではない。
それまでにやしなってきた鉄道についての圧倒的な知識をもとに、
ゆたかな経験と充実した実力をもって、
いわば満をじして 渡邉氏はこの本をかきあげたのであり、
けしてだいそれた企画を 背のびしてとりくんだわけではない。
成熟した渡邉氏の視線は、
目にした情報をひとつものがさない。
気になる点は推理をはたらかせ、
タイ鉄道のすべてを 歴史的な経緯とともに、
つまびらかな記録とするのに成功している。

前回のブログがそうであったように、
またもやわたしは、渡邉氏の圧倒的な鉄ちゃんぶりを、
おどろきとともに紹介するしかない。

たとえば、盲腸線にのるだけのために、
渡邉氏は飛行機で朝はやくでかけ、
いきとかえりでちがう風景をみられるよう、席をかえる。

列車がすきでたまらない渡邉氏は、
目的地についてもまだホームにのこって列車をみている。

「乗客がいなくなった列車を見ながら一服し、
 再び動くまでホームのベンチに腰かけて見ていました」

さんざんのったあとでも、まだ列車にこころをひかれている。
いったいどれだけ列車がすきなのだ。
路線へのこまかな観察だけでなく、
鉄道にむけた渡邉氏のおもいが ページのあちこちから ふとつたわってくる。

「どれだけすきなんだ」と、つっこみたくなる場面はおおい。
「究極のローカル線」の章では

「沿線には観光地はなく遺跡も何もありませんし、
 終点のキリラッタニコムも
 意味があって終着駅になっているわけではありません。(中略)
 タイ人に聞いても知っている人はこの近辺の出身者だけです。(中略)
 この路線は特徴がないだけに攻め方が難しいと思いますし、
 それだけ遠い駅なのです。
 逆に住民以外を拒むように運行されている路線ともいえます」

「カビンブリーにはこれまでに五回ほど列車で訪れたことがあり、
 これといって何があるわけではありませんが、
 列車に乗りたいと思ったときに
 適度な時間に発車して帰ってこれる気楽さがあって
 これまでに何度も乗車してきました。
 この区間程度の距離と時間を乗車すると列車に乗った気がします」

「左手に建っているホテルは、ワラブリホテルですが、
 アユタヤーで宿泊する場合は、
 客室の一部から列車が見やすいのでお薦めです」
(ホテルにはいってまで列車がみたい渡邉氏!)

「ガイドブックにも載っていない小さな港町。
 そんな田舎町にも人々の生活はあり、
 この地に移り住み長い年月をここで暮らしてきた
 華人の息吹が今も確かに息づいていて、
 ガンタンは南部タイで最も印象に残る町のひとつです」

知識がなければなんということのない田舎町でも、
渡邉氏の手にかかると みどころ満載だ。
タイは観光だけでなりたっている国ではない。

列車での旅行ちゅう、うすぐらい朝まだき、渡邉氏は、
シルエットだけで日本からもちこまれた列車がとまっているのに気づく。

「明け方なぜか目覚め、時計を見ると四時を回っています。
 どこを走っているのか窓の外を見ていると、
 田舎の駅で臨時停車をしていました。(中略)
 その時にふと、側線に見たことがあるシルエットが浮かび上がってきました。
 『DD51だ!』一瞬で分かりました」

このあと渡邉氏は、タイでみかけるはずのない
謎の「DD51」をもとめて探索の旅にでる。

鉄道の、なにがこれほど渡邉氏のこころをとらえるのだろう。
わたしは、きらいなことに理由はないが、
すきには説明できるちゃんとした理由がある、とかんがえているけど、
これだけうちこまれると、
ことばでは説明できない「なにか」が
渡邉氏をとらえたのだ、とおもえてくる。

鉄ちゃんは世界じゅうにいる。
多崎つくる氏のように、駅のたてものを専門にするひともいるし、
車両研究・のり鉄・とり鉄と、このみでこまかくわかれているそうだ。
渡邉氏の専門がなにかしらないけれど、
タイの歴史にもくわしいことから、
鉄道にまつわることだけでなく、
社会のうごき全般について、はばひろい好奇心をもつ方とみた。
渡邉氏の案内により、タイの鉄道と
タイという国への関心をひらかれた読者はしあわせだ。
ちかい将来、わたしはこの本の影響から、
タイの列車にのる旅行にでかけるだろう。
ずっとそばにおいておきたくなり、
図書館でかりるだけでは満足できないので、
アマゾンに注文した。
鉄道ファンではないわたしにとっても、魅力にあふれた本だ。

posted by カルピス at 21:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月13日

「クールジャパン」日本人と動物のつきあい方はクールか

先日の「クールジャパン」で 日本の犬事情をとりあげていた。
犬に服をきせたり、犬が人間といっしょに食事ができるカフェがあったり、
日本では「ふつう」でも、外国人ゲストにすれば かわった風習にみえるようだ。
すくなくとも、犬に服をきせるのは日本だけだった。
わたしは犬をかっていないけれど、
もし犬がいても 服をきせたりはしないだろう。
とはいえ、服をきせるひとがいるのは理解できる。

いつもだと、日本の「クール」をささえる たかい技術や精神性について、
素直におどろくゲストがおおいのに、
今回はつよい拒否反応をしめすひとがすくなくなかった。
犬はあくまでも動物であり、家族ではない、というのが
外国人ゲストの一致した意見だ。
ペットではあるけれど、家族ではない
(アメリカ人ゲストだけは、犬といっしょにねたりする、といっていた)。
主人のいうことをきくのが犬だ、というみかただ。
完全にそこには一線がひかれている。
文字どおり、人間があるじであり、犬はそれにつかえる家来でしかない。
家族とおなじ存在としてあつかう 日本的なしめった感情はそこになく、
あくまでもかわいた精神で、主と従がはっきりわけられている。

犬がおしっこをしたあとに ペットボトルにいれた水をかけて よごれをおとすとか、
フン用に特別な袋をもってあるくとかが紹介されると、
ゲストたちは「いいねー」とはいいながらも
自分はそこまでしないという。
動物とのつきあい方は、世界にふたとおりしかない。
ひとつが日本で、もうひとつはそれ以外の国々。日本だけが特殊なのだ。

犬に服をきせる日本的なかい方に批判的なゲストたちも、
秋田犬が紹介されると、
そのつよい忠誠心が魅力的にうつるようだ。
ある外国人は、秋田犬の魅力を「彼らはサムライ」と表現していた。
外国人にとって、主人が絶対であるという日本犬の忠誠心は特別であり、
ほかの国の犬たちは、こんなふうに人間につかえたりしないそうだ。
主人をまちつづけた忠犬ハチ公は、日本だけで成立する美談であり、
きわめて日本的な精神のもちぬしだったのだ。

日本犬が特別なのはわかった。
日本のネコたちはどうだろう。
彼らはとくに日本的な精神をまとうことなく、
ネコらしく生きているようにみえる。
日本でそだった犬たちは、きわめて日本的な性質をおびてくるのに、
ネコはそうしたしばりから自由だ。

そうした、世界のネコたちとおなじように
けだかく生きている日本のネコにたいし、
そんなことおかまいなしで、日本人はぐちゃぐちゃにかわいがる。
ちなみに、ネコかわいがりとは、
ネコをかわいがるように溺愛することであり、
ネコにたいしてはつかわないようだ。
「ネコかわいがり」という表現が
ほかのことばにあるかどうかしらないけれど、
外国人ゲストの反応をみていると、
動物をそこまで溺愛するのは
きわめて日本的な愛情表現におもえてくる。
犬やネコをまえにメロメロになってしまう日本人は、
世界的にみて、かなり特殊な存在だ。
わたしもまた犬やネコを日本的にかわがるタイプで、
なぜネコをこんなふうにネコかわいがりしたくなるのか、
自分の深層心理をしりたいとおもう。

posted by カルピス at 22:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月12日

『漁港の肉子ちゃん』(西加奈子)肉子ちゃんが世界をかえる

『漁港の肉子ちゃん』(西加奈子・幻冬舎文庫)

西加奈子さんの小説をよむのは、この本がはじめてだ。
『おすすめ文庫王国』のエンタメ部門で 2番目にあげられている。
西加奈子さんのなげる直球にしびれてしまった。
これからいいおつきあいをさせてもらえそうだ。

肉子ちゃんは、北陸のちいさな漁港にある焼肉屋さんではたらいている。
みかけでいうと、『めぞん一刻』にでていた一の瀬さんみたいなからだつきだ。
でも、性格はまるでちがう。単純で、げんきいっぱいで、なみだもろい。
38歳になる肉子ちゃんは、5年生のむすめ「キクリん」といっしょに
お店のはなれでくらしている。
ほんとの名前は菊子だけど、すごくふとっているから「肉子ちゃん」。
この本は、肉子ちゃんの純粋さが世界をかえるはなしだ。

肉子ちゃんのことを、どういいあらわしたらいいだろう。
いつも大声で大阪弁をはなし
(「◯◯やでっ!」と語尾にやたらとちからがはいる)、
やたらと漢字を分解して
「心に酉に己、と書いて心配と読むのやから!」
なんてあまり意味がないことを しょっちゅういっている。
こまかなことには気がまわらず、服装にも無頓着だ。
ひとのいい面ばかりをみるので、なんども男にだまされてきた。
アホみたい、と自分でもいうし、単純さにまわりのひとがあきれているけど、
ずるがしこいことは絶対にしない。
いつもまっすぐなひとで、まわりをあかるくし、
たいていのひとからかわいがられる。
男にだまされても、相手のことをこころの底からわるくおもったりできない。
ひとでも動物でも、まっすぐに相手のふところにはいっていく。
ただし、ぜんぜんかっこよくない。
キクリんにいわせると、「一番大きなマトリョーシカみたい」だ。

むすめのキクりんは、かわいくて、ほっそりしていて、
肉子ちゃんとはぜんぜんにてない。
本がすきで、5年生なのに
いまはサリンジャーの『フラニーとゾーイー』をよんでいる。
肉子ちゃんは、本なんかとはまったく縁のないひとなので、

「キクリん、何読んでるん?」
「サリンジャー」
「サリンジャーっ!なんとか戦隊の名前みたいやなっ!」

なんていったりする。
キクリんには、いろんなひとや動物の声がきこえる。
水族館にいるペンギンのカンコちゃんは、クエーッとなく。
キクリんには、「皆殺しの日ぃー!」と、さけんでいるようにきこえる。
セミがなくのは、
「長らく待ったけど こんなもんです!」ときこえる。

肉子ちゃんのとなりにいるから、
しっかりものにみえるけど、
キクリんもそうとうへんだ。
へんでもしかたない、へんでもいいんだ、とう本でもある。
肉子ちゃんはすばらしいひとではあるけれど、
肉子ちゃんといっしょにいることで、
キクリんは、5年生の女の子がかかえなくてもいいような荷物をせおっている。
肉子ちゃんのしんじられないような純粋さは、
まわりの人間をすくいもするけれど、
それとはひきかえに、キクリんにしっかりしたひとであることをもとめたりもする
(もちろん肉子ちゃんにそんな自覚はない)。
それでもなお、肉子ちゃんが相手にむけるふかい信頼感は、
キクリんを上等な人間にそだてた。

本をよんでいて、だんだんと肉子ちゃんにひかれるのは、
彼女のように損得なしでよりそったり なかなかできないからだ。
だから肉子ちゃんは男にだまされるし、
男にだまされた女をすくうこともできる。
肉子ちゃんのためにも、
キクリんがいい子にそだってほんとうによかった。

この本は、西加奈子さんにとっても
おもいいれのつよい作品であるという。
石巻の漁港がモデルで、雑誌に連載していたとき、地震がおきた。
西加奈子が想像してつくりあげた肉子ちゃんみたいなひとが、
ほんとうに石巻の焼肉屋さんのおかみさんとして はたらいていたという。
そして、その方は震災でなくなってしまった。

「言葉にすると絶対におこがましく、
 そしてドラマティックになってしまうことを覚悟して書きます。
 私にとって、小説を書くということは、
 世界中にいる、『肉子ちゃん』を書くことです」

西加奈子さんは直球で勝負してくる。
テクニックでかわそうなんておもってない。
器用さはないかもしれないが、
これからすごい球をなげてきそうだ。

世界中にいる肉子ちゃんとであったとき、
わたしは彼女がどれだけおおきなひとかに気づくだろうか。
肉子ちゃんのすばらしさを理解できる人間でありたい。

posted by カルピス at 22:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月11日

ある種のサプリメントは、なにをつたえようとしているのか

今朝の新聞に、「漲る自信」として
「マカ」(ダイドードリンコ)の広告がのっていた。
・50代・60代でもまだまだ現役
・”いざ”という時のあふれる自信
とある。
利用者の声もとどけられている。
・「これからという時に、自分を後押ししてくれるんです」
・「すごく実感できました」
なのだそうだ。

おなじような商品の、にたような広告もおおい。
「エディケア」は「生涯現役。男の自信、取り戻す」とあるし、
「コレで「男」の元気が!?」という商品もあった。
おもわせぶりな表情で、女性がふりむいていたりもする。
「妻も喜ぶ力強さ」「朝から元気に!」「生涯現役!」
「男の逞しさを!」「ピンとくるパワー!」など、
これらの広告は、必死になってなにかをつたえようとしている。
いったいこれはなんの効果をうたった広告だろう。

なんてとぼけたくなるほど、
歯をくいしばっても、これらの広告は 具体的にそれがなんであるかをかかない。
輪郭をなぞるだけで、核心にはふれない。
ほかの健康サプリメントが
「どっさりでる」「首や肩のコリにきく」と
きわめて具体的なのとはえらいちがいだ。
かといって、広告をきりとったりすると、なにかかんちがいされそうで、
へんに気をつかったりするから、広告の方向性はあきらかにつたわっている。
具体的にかかないでおいて、商品の本質をつたえるスタイルがおもしろい。

新聞の広告として、あまりリアルな表現はできないことから、
こんなふうにもどかしくてじれったい方法におちついたのだろう。
よんで意味がよくわからない文章は悪文だけど、
これらの広告はまわりをこまかくあらわすことで、
本体をうきぼりにしているから、用はたりているのだ。
いつごろから この手の広告が このような表現で のるようになったのだろう。
中高年がげんきをもてあましている、と
このごろよくいわれており、
これらの広告をたびたびみかけるのは、
それをうらづけているのかもしれない。

テレビのCMは、商品がうれるのをめざしながら
「かってください」とは まずいわないのとよくにている。
仲畑貴志さんのキャッチコピー、
「ベンザエースをかってください」は、
これを正面からやったのがとやったのがすごい。
マカなどの商品も、いつの日か
「◯◯◯」「×××」と、堂々とうったえるのだろうか。

わたしが気づいていないだけで、
ほかにも、たとえば政府の発表など、
具体的にはかかれていなくても、
当然あることがらをしめすという「お約束」がありそうだ。
「マカ」がのったのと おなじけさの新聞に、
「ODA『国益』重視へ」とあった。
まるでこれまでがそうでなかったかのようなかきかたが
大胆というか、しらじらしいというか。
これも、ODAは途上国への支援のため、という「お約束」にそった記事であり、
ODAが本質的に「国益」を目的におこなわれているとはかかれない。
「ベンザエースをかってください」みたいに、
正面からかいてくれたら わかりやすくてたすかる。

posted by カルピス at 11:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月10日

『ハンニバル』のドラマシリーズ マッツ=ミケルセンのレクター博士がすごく不気味

『ハンニバル』のドラマシリーズ1が、週末にスカパーで無料放送された。
全部で13話あり、録画をふくめて そのいくつかをみる。
映画版でレクター博士をえんじたアンソニー=ホプキンスほど、
はまり役はないだろうとおもっていたけれど、
ドラマ版のマッツ=ミケルセンもそうとう不気味だ。
じっとみつめられただけで、わたしは背中がゾクゾクしそうだ。

レクター博士は、直接手をふれなくても、
ことばのつかい方だけで相手を自由にあやつれる。
ひとは、あんがい自分のことをわかっていないもので、
レクター博士がたくみに誘導すると、
だんだん自分がやったことに確信がもてなくなってくる。
レクター博士は、犯罪者や自分の患者の意識につよい影響をあたえていく。

原作では、クラリスをさんざんいたぶったいやな男を
レクター博士がつかまえて食事に招待する。
その男を局部麻酔にかけ、頭蓋骨をひらいて 脳をむきだしにしたまま
レクター博士・クラリス・その男と、3人がテーブルにつき、
エレガントに料理しながらの食事がはじまる。
こまかくそのさきをかこうとおもったけど、
かなりえげつないのでやめたほうがよさそうだ。
映画をみたときは、残酷さにおどろくよりも、
クラリスをくるしめた男にしかえしができ、
わたしは溜飲をさげたように記憶している。
ありえない場面をレクター博士はスマートにみせる。
残虐さに洗練されたうつくしさをもちこんだのは、
レクター博士をつくりだしたトマス=ハリスの功績ではないか。
そこにきわめてたかいリアリティをかんじさせた
アンソニー=ホプキンスの演技も、もちろんすばらしい。

ドラマ版は、原作とはだいぶちがうようだけど、
でてくるひとたちの心理がどうゆれるかを
ていねいにおいかけている。
自分がはなつことばのひとことひとことが、
相手にどんな作用をおよぼすのかを
レクター博士は計算しつくしており、どこまでも気味がわるい。

レクター博士をはじめ、猟奇的な事件をひきおこす犯人たちほど
日本人の自己はつよくないので、
日本はこうした事件と無縁だとおもっていたけど、
このごろはありえないような事件がいくつもおき、
しんじがたい動機がかたられている。
常識ではかんがえられない世界であり、
なぜこういうひとたちがうみだされるのかわからない。
どんなふうにそだてられたかが
そのひとの人格に影響するとおもっていたのに、
それほど単純なはなしではないようだ。
『ハンニバル』をみていると、そうしたひとたちがすくなからずいて、
ありえない世界が存在するのを意識させられる。

posted by カルピス at 23:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月09日

村上さんからの最高のアドバイス「亀におへそをなめられますよ」

ありがたいことに、「村上さんのところ」をよむたのしみが いまもつづいている。
ひんぱんに更新されているので、
いちにちに3回くらいまめにのぞかないと、すぐに相談がたまってしまう。
質問のうけつけは、1月31日でおわっているけれど、
それからもずっと村上さんは回答をかきつづけている。
全部で3万通以上もメールがよせられたといい、
このまえの回答で「あなたのメールが3500通目になりました」とあった。
すべてのメールに村上さんが目をとおす「おまつり」なので、
とうぶんはこのコーナーをたのしめそうだ。

なかには「そんなことをきいてどうするんだ」という質問があるけれど、
あんがいそんなときこそ、村上さんならではの回答がよせられる。
座右の銘として、いつもこころがけたい方針をいくつもいただいたし、
なんだかおかしかったり、人生をかんじさせる含蓄のある回答を、
これまでに200以上エバーノートにクリップした。

ときどき意味不明の、だじゃれですらない回答もある。
「文句ばかりいっていると、亀におへそをなめられますよ」という忠告は、
いったいなんのことだろう。
http://www.welluneednt.com/entry/2015/02/07/173700
このことばは、
奥さんの実家に同居してもいい、といっていた夫が、
結婚したとたん「そんなことできるわけがない」といいだした、
という相談によせられたものだ。
亀がおへそをなめる場面を想像してみると、たしかにおっかないけれど、
なによりもすごいのは、一連の語句がつくる完璧なリズムだ。

「亀におへそをなめられると、あとの人生はかなり下り坂です」

「亀におへそをなめられると、あとの人生はかなり下り坂」
かどうかはともかくとして、
ほかのどのことばをもってきても このトホホ感はたもてない。
そして、どんなことわざよりも、
ひとりよがりな不満を いましめる迫力にみちている。
そんなひどい目にあうくらいなら、
すこしくらいおもったのとちがっていても
我慢しようという気に わたしはなった。

「お互いに気をつけましょう」と
さいごにむすばれているのも配慮がいきとどいている。
ただたしなめているだけでなく、
そうした不幸をまねかないように
わたしも気をつけます、とあたたかくよりそわれると、
いわれたほうも「しゃあないか」とあきらめられる。

「亀におへそをなめられると、あとの人生はかなり下り坂です」

村上さんの底力を、さりげなくみせつけられ、うちのめされた。
こういう気分を、村上さんならどう表現するだろう。

posted by カルピス at 11:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 村上春樹 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする