いくつかのサイトでWork Flowyがとりあげてあり、
どれどれと、おくればせながら わたしもためしてみる気になった。
アウトラインソフトは、ずいぶんまえに、専用のソフトとしてではなく、
ワープロソフトなどについている ひとつの機能としてつかっていた。
そのソフトが販売されなくなってからは、
もう10年以上アウトライン機能からごぶさたしている。
Work Flowyにおもいついたことをうちこんでみる。
すごくかるい。これだけキビキビうごくと生理的な快感がある。
スムーズにつかえるようになれば 便利そうだ。
すこしいじってから、
「で、どうやってつぎのあたらしいファイルをひらくんだ?」と、
いかにもわたしらしい疑問にぶつかって、
かなりの時間をついやしてしまった。
どこにもそれらしいメニューがない。
サイトでしらべてみると、どうもWork Flowyは
ひとつだけのファイルでやりくりするソフトのようだ。
ファイルがひとつというのは、いわれてみると、画期的な発想におもえてくる。
人間のあたまのなかは、そんなふうにできているのかもしれない。
これをおもいついたひとはえらいなー、と素直に感心する。
シンプルなだけに、アイデアを整理したり、必要な仕事をかきだしたりと、
いろんなことにつかえそうだ。
つぎの日に、メールでバックアップがおくられてくるのも
必要にしてじゅうぶんなサービスとなっており、
あちこちにファイルを保存しなくても、
身がるにアイデアとつきあい、そだてられそうだ。
なんて調子のいいことをかいたけれど、
アイデアをそだてるのはそうかんたんではない。
エバーノートにしても、たすかっているのはまちがいないけれど、
いまだに便利な整理箱の域にとどまっている。
梅棹さんがいわれるように、情報は整理・分類するのが大切なのではなく、
くみかえて活用しなければあまり意味がない。
エバーノートをつかっている気分だけはいちにんまえで、
それに安心して、肝心のくみかえ操作がなおざりになっている。
ノートブックにちらばるさまざまな異質な情報をくみあわすのが、
いまだにへたくそなままだ。
きのうのブログは(きょうも)Work Flowyでかいてみた。
いつもより、かんがえをひろげやすかったような気がする。
これからはじまるWork Flowyとのつきあいが、うまくいきますように
(神だのみのレベルなのだ)。
2015年02月08日
2015年02月07日
「オーストラリア700キロ」選手たちの充実した表情にしびれる
NHK-BSでやっていた「オーストラリア700キロ」をみる。
クロコダイル・トロフィーとよばれるマウンテンバイクのレースだ。
山のなかや荒野を舞台に、
9日間で700キロをマウンテンバイクではしる。
オリンピック選手やプロだけでなく、
完走を目標にするアマチュアの参加もおおい。
43歳の女性タニさんはマウンテンバイクをはじめてまだ3年目だ。
60歳の女性も参加している。レースの服装をしてると、
そんな年齢にはとてもみえない。
番組は、日本人選手の池田祐樹さん(35歳)のうごきを中心に
9日間にわたるレースをおいかける。
マウンテンバイクのレースは、
ロードレースとくらべれば、手づくり感がある。
ロードレースをみていると、システムがすでにできあがっており、
ものものしくて、ちかよりがたい。
その点、マウンテンバイクはシンプルだ。
気力と体力の限界に挑戦するマウンテンバイクの魅力にひかれ、
わたしもあんなふうにはしりたくなった。
池田さんはプロとして参加してるのに、
外国人選手にちからまけしてしまい、自信をうしなってくる。
「コテンパにやられている」とさえない表情だ。
レースにつきそって池田さんをサポートしている奥さんは、
「たのしー」「すごい景色!」「きたぜ!オーストラリア!」と、
池田さんに気もちをきりかえてほしいという。
そうだよなー。スタート時(8時)の気温がすでに33℃だろうが、
コースがどんなにきびしかろうが、
まえむきにかんがえないとレースはつらいだけだ。
でも、レースの終盤で、池田さんは挑戦する気もちをとりもどす。
8ステージの途中からは、わきあがるようなエネルギーがおとずれたそうで、
自分でもおどろいていた。
最後まで全力をつくせたことに、池田さんは手ごたえをつかむ。
自転車のトラブルがうまくなおらず、いらついてわめきちらす選手もいた。
それだけ過酷で、極限状態においこまれるレースだ。
自転車がこわれ、50キロの距離をあるいた選手に
「あきらめないんですか?」と番組スタッフがたずねていた。
「あきらめない。このレースでは、かならずゴールしなけりゃダメなんだ」
とその選手はこたえている。
絶対にあきらめずに完走することだけをめざしている。
レース中に車で病院にはこばれたタニアさんは、
それでもつぎの日はまたはしろうとしていた。
「わたしは完走をこころからのぞんでいるのよ」
と、つよい気もちをうしなわない
(じっさいにはドクターストップがかかる)。
105人が参加して、16人がリタイアというタフなレースだった。
参加した選手たちのじゅうじつした表情がうらやましい。
なにかに挑戦してるひとたちはうつくしい。
「日常からすこしはなれて生きられる」
とレースの魅力をはなしている選手がいる。
彼らにしても、日常生活をつみかさねた成果として
このレースに参加しているはずだ。
日常で成果をつみかさね、すこし日常をはなれる、というサイクルがすてきだ。
わたしもまた、彼らのように全力をつくしてたたかいたいとおもった。
そうやって体力しょうぶの体験ができるうちに、
生きている充実感をあじわいたい。
クロコダイル・トロフィーとよばれるマウンテンバイクのレースだ。
山のなかや荒野を舞台に、
9日間で700キロをマウンテンバイクではしる。
オリンピック選手やプロだけでなく、
完走を目標にするアマチュアの参加もおおい。
43歳の女性タニさんはマウンテンバイクをはじめてまだ3年目だ。
60歳の女性も参加している。レースの服装をしてると、
そんな年齢にはとてもみえない。
番組は、日本人選手の池田祐樹さん(35歳)のうごきを中心に
9日間にわたるレースをおいかける。
マウンテンバイクのレースは、
ロードレースとくらべれば、手づくり感がある。
ロードレースをみていると、システムがすでにできあがっており、
ものものしくて、ちかよりがたい。
その点、マウンテンバイクはシンプルだ。
気力と体力の限界に挑戦するマウンテンバイクの魅力にひかれ、
わたしもあんなふうにはしりたくなった。
池田さんはプロとして参加してるのに、
外国人選手にちからまけしてしまい、自信をうしなってくる。
「コテンパにやられている」とさえない表情だ。
レースにつきそって池田さんをサポートしている奥さんは、
「たのしー」「すごい景色!」「きたぜ!オーストラリア!」と、
池田さんに気もちをきりかえてほしいという。
そうだよなー。スタート時(8時)の気温がすでに33℃だろうが、
コースがどんなにきびしかろうが、
まえむきにかんがえないとレースはつらいだけだ。
でも、レースの終盤で、池田さんは挑戦する気もちをとりもどす。
8ステージの途中からは、わきあがるようなエネルギーがおとずれたそうで、
自分でもおどろいていた。
最後まで全力をつくせたことに、池田さんは手ごたえをつかむ。
自転車のトラブルがうまくなおらず、いらついてわめきちらす選手もいた。
それだけ過酷で、極限状態においこまれるレースだ。
自転車がこわれ、50キロの距離をあるいた選手に
「あきらめないんですか?」と番組スタッフがたずねていた。
「あきらめない。このレースでは、かならずゴールしなけりゃダメなんだ」
とその選手はこたえている。
絶対にあきらめずに完走することだけをめざしている。
レース中に車で病院にはこばれたタニアさんは、
それでもつぎの日はまたはしろうとしていた。
「わたしは完走をこころからのぞんでいるのよ」
と、つよい気もちをうしなわない
(じっさいにはドクターストップがかかる)。
105人が参加して、16人がリタイアというタフなレースだった。
参加した選手たちのじゅうじつした表情がうらやましい。
なにかに挑戦してるひとたちはうつくしい。
「日常からすこしはなれて生きられる」
とレースの魅力をはなしている選手がいる。
彼らにしても、日常生活をつみかさねた成果として
このレースに参加しているはずだ。
日常で成果をつみかさね、すこし日常をはなれる、というサイクルがすてきだ。
わたしもまた、彼らのように全力をつくしてたたかいたいとおもった。
そうやって体力しょうぶの体験ができるうちに、
生きている充実感をあじわいたい。
2015年02月06日
10年ぶりの『世界の終わりとハードボイルド〜』 森の発電所ではたらく男性が気になる
ほぼ10年ぶりに『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』をよみかえしている。
森の発電所にすむ男が気になってくる。
森から一歩も外にでられない。
3日ごとにやってくる風をまつ人生って、
どんなものだろう。
ひとむかしまえのくらしは、
おおかれすくなかれ、あの男性とにたりよったりのはずで、
限定されているからといって、かんたんには不幸とはいえない状況だ。
ひとりぼっち、というさみしさはあるものの、
ものがすき、というこのひとにとって、
森でのくらしはわるくないような気がする。
そして、わたしもまたそんなくらしをもとめている部分がある。
もちろん自分の意思でそんな環境に身をおくのと、
はじめから固定された役割として発電所につとめるのは おなじではない。
こんなくらしもわるくないかも、とおもわせる村上さんの表現が、
なにかわたしの根源的なこのみを刺激するのだろう。
10代や20代のわかものに、森の発電所でくらせ、というのはたまらない役割だけど、
「世界の終わり」はうまくできた世界なので、
それなりのひとが自分にあった居場所をあたえられている。
どうにもやれなくなると、かわりのひとがその仕事にまわされてくる。
3日にいちどの風をまち、あいた日には畑で野菜をそだてる。
わるくない。
しかし、かんがえようによっては、現代を生きるわたしたちも、
全面的にはむりがあるとはいえ、
ある程度はにたようなとざされた世界を 自分でえらべることに気づく。
ずーっと森でくらすのは、さすがにいきぐるしいので、
いちねんにいちどはどこかに旅行にでかける。
ひとりっきりは精神衛生上このましくないので、
おしゃべりしたり、いっしょに食事をとれる仲間がすこしはいたほうがいい。
毎日きのこの煮こみ料理ではあきそうだから、
ときどきはパブにいってビールとハンバーグぐらいたべたいな。
それのどこが「森のくらし」か?
やはりわたしには「森のくらし」はむりなのか。
でも、わたしにとって「森のくらし」なら、それでいいような気もする。
森の発電所にすむ男が気になってくる。
森から一歩も外にでられない。
3日ごとにやってくる風をまつ人生って、
どんなものだろう。
ひとむかしまえのくらしは、
おおかれすくなかれ、あの男性とにたりよったりのはずで、
限定されているからといって、かんたんには不幸とはいえない状況だ。
ひとりぼっち、というさみしさはあるものの、
ものがすき、というこのひとにとって、
森でのくらしはわるくないような気がする。
そして、わたしもまたそんなくらしをもとめている部分がある。
もちろん自分の意思でそんな環境に身をおくのと、
はじめから固定された役割として発電所につとめるのは おなじではない。
こんなくらしもわるくないかも、とおもわせる村上さんの表現が、
なにかわたしの根源的なこのみを刺激するのだろう。
10代や20代のわかものに、森の発電所でくらせ、というのはたまらない役割だけど、
「世界の終わり」はうまくできた世界なので、
それなりのひとが自分にあった居場所をあたえられている。
どうにもやれなくなると、かわりのひとがその仕事にまわされてくる。
3日にいちどの風をまち、あいた日には畑で野菜をそだてる。
わるくない。
しかし、かんがえようによっては、現代を生きるわたしたちも、
全面的にはむりがあるとはいえ、
ある程度はにたようなとざされた世界を 自分でえらべることに気づく。
ずーっと森でくらすのは、さすがにいきぐるしいので、
いちねんにいちどはどこかに旅行にでかける。
ひとりっきりは精神衛生上このましくないので、
おしゃべりしたり、いっしょに食事をとれる仲間がすこしはいたほうがいい。
毎日きのこの煮こみ料理ではあきそうだから、
ときどきはパブにいってビールとハンバーグぐらいたべたいな。
それのどこが「森のくらし」か?
やはりわたしには「森のくらし」はむりなのか。
でも、わたしにとって「森のくらし」なら、それでいいような気もする。
2015年02月05日
はずれてもいいから大胆な天気予報を歓迎する
きのうの天気予報は「はれのち雨」だった。
午後3時から雨になるという。
くもりから雨へ、ではなく、はれからいきなり雨だ。
なかなかこうきっぱりといいきるのはむつかしいのに、
あえてこの予報でとおしたのは
よほど自信があったのだろう。
こういう予報はだいたいあたる、とおもっていたら、
みごとにはずれた。
じっさいは、「はれのちくもり」で、
雨がふりだしたのは0時をすぎていた。
予測したよりも、あまぐもがゆっくり発達したのだろうか。
予報は はずれたけれど、わるい気はしなかった。
「はれのちくもり、ときどき雨」などと無難な線をついて、
あたらずといえども とおからずな結果よりも、
「はれのち雨」をつよ気に主張した根性やよし。
結果がたとえはずれたとしても、
その勇気をたたえたくなる。
10年以上まえのこと、全国的にどの地域もはれが予測された日があり、
それにもかかわらず、島根県だけ「はれのち雨」と大胆に予報しているのが、
新聞の気象欄にのったことがある。
このときは、ほんとうにそのとおりの天気となり、
気象庁島根県支部のスタッフをたたえたくなった
(おいわいのビールかけをやってたりして)。
よほどわかりやすい気圧配置だったのか、
それともだれか予報名人がいたのか。
ほかの県がのきなみ「はれ」を予想しながら
まわりにまどわされず、
島根だけ雨をいいはれたのはすばらしい。
世界じゅうにしられているジョークとして、
日本人を船から海にとびこむよう説得するには
「みんなとびこみましたよ」が効果的、というのをよんだことがある
(国によって「紳士はこういうときとびこむものです」「規則では・・・」などいろいろ)。
それくらいまわりをみやすい日本人、
そのなかでもとびきりうしろむきという島根県で
自分たちだけちがう予報をとおしたのは画期的なできごとだった。
きのうは 夕方から雨を覚悟していたのに、
くもり空のまま夜までもってくれたので、
自転車で体育館にいき、夜の水泳をたのしめた。
かえりもまだ雨はきていない。
つめたい雨のなか、レインコートでトボトボかえるのとはえらいちがいだ。
予報がはずれても どってことないし、
雨を覚悟してふらないのは むしろ歓迎できる誤報とうけとれる。
ビミョーな気圧配置のときは、ためらわずにつよ気にせめたらいい。
今回の「はれのち雨」は残念ながらはずれたけれど、
これにめげることなく大胆に、おもったとおりを予報してもらいたい
(してるだろうけど)。
午後3時から雨になるという。
くもりから雨へ、ではなく、はれからいきなり雨だ。
なかなかこうきっぱりといいきるのはむつかしいのに、
あえてこの予報でとおしたのは
よほど自信があったのだろう。
こういう予報はだいたいあたる、とおもっていたら、
みごとにはずれた。
じっさいは、「はれのちくもり」で、
雨がふりだしたのは0時をすぎていた。
予測したよりも、あまぐもがゆっくり発達したのだろうか。
予報は はずれたけれど、わるい気はしなかった。
「はれのちくもり、ときどき雨」などと無難な線をついて、
あたらずといえども とおからずな結果よりも、
「はれのち雨」をつよ気に主張した根性やよし。
結果がたとえはずれたとしても、
その勇気をたたえたくなる。
10年以上まえのこと、全国的にどの地域もはれが予測された日があり、
それにもかかわらず、島根県だけ「はれのち雨」と大胆に予報しているのが、
新聞の気象欄にのったことがある。
このときは、ほんとうにそのとおりの天気となり、
気象庁島根県支部のスタッフをたたえたくなった
(おいわいのビールかけをやってたりして)。
よほどわかりやすい気圧配置だったのか、
それともだれか予報名人がいたのか。
ほかの県がのきなみ「はれ」を予想しながら
まわりにまどわされず、
島根だけ雨をいいはれたのはすばらしい。
世界じゅうにしられているジョークとして、
日本人を船から海にとびこむよう説得するには
「みんなとびこみましたよ」が効果的、というのをよんだことがある
(国によって「紳士はこういうときとびこむものです」「規則では・・・」などいろいろ)。
それくらいまわりをみやすい日本人、
そのなかでもとびきりうしろむきという島根県で
自分たちだけちがう予報をとおしたのは画期的なできごとだった。
きのうは 夕方から雨を覚悟していたのに、
くもり空のまま夜までもってくれたので、
自転車で体育館にいき、夜の水泳をたのしめた。
かえりもまだ雨はきていない。
つめたい雨のなか、レインコートでトボトボかえるのとはえらいちがいだ。
予報がはずれても どってことないし、
雨を覚悟してふらないのは むしろ歓迎できる誤報とうけとれる。
ビミョーな気圧配置のときは、ためらわずにつよ気にせめたらいい。
今回の「はれのち雨」は残念ながらはずれたけれど、
これにめげることなく大胆に、おもったとおりを予報してもらいたい
(してるだろうけど)。
2015年02月04日
「鷹の爪2015年自虐カレンダー」が540円に値さげされていた
本屋さんをぶらついていたら、
「鷹の爪2015年自虐カレンダー」がやすうりされていた。
本来なら1512円の壁かけ用が、税こみ540円と 1/3ほどの値段だ。
あたらしい年にはいったのだから 値さげは当然とはいえ、
売場のダンボールにぎっしり在庫がつめこまれていたので、
今回はさすがにつくりすぎたのかもしれない。
鷹の爪の人気がだんだんとたかまり、
いくらすってもうりきれの年がつづいていたから、
2015年版は、めちゃくちゃたくさん用意したのだろう。
熱心な鷹の爪ファンのわたしは、
2013・2014年と、壁かけ用カレンダーをかったけど、
もったいなくてめくれずに せっかくかったカレンダーが用をなさなかった。
今年はさすがにこりて卓上版しかかわず、
壁にはほかのカレンダーをかけている。
でも、540円ならコアなファンとして、当然おつきあいすべきだろう。
壁かけ版は、2ヶ月で1枚という構成なので、
2月からつかっても、致命的な損失とはいえず、まだ間にあう期間だ。
よくかんがえてみれば、1512円はもったいなくてめくれないくせに、
540円だと大丈夫というのは、
ファン心理というよりも、たんなるケチなだけということがわかる。
そもそもカレンダーごときが1500円というのはたかすぎるのだ。
500円だと安心してちぎれるというのは、
わたしにとって1500円が、たかい・やすいの
ひとつのくぎりになっているのかもしれない。
ちなみに壁かけ用の1・2月の自虐ネタは
「クラス対抗戦とかしてみたい」で
卓上版は
「消費税がまだ5%のところがある」だ。
「クラス対抗戦とかしてみたい」の切実感は、
じっさいに島根でくらしたことのあるひとでないとわからないだろう。
わかるひとには胸につきささり冗談にならなくて、
わからないひとには なんのことか意味がつたわらない。
ということで、卓上版の
「消費税がまだ5%のところがある」に軍配をあげたい。
鷹の爪といえば、番組のなかで
「3つのねがい」をとりあげていたことがある。
3つのねがいをききいれてくれるかわりに、
悪魔に魂をうりわたす、というアレだ。
番組では吉田くんが
「3つのねがいに、100をたして、103にして」
とさきのばし作戦にでたので感心してしまった。
あれからわたしも効果的な「3つのねがい」をすこしかんがえてみた。
「おもったとおりにサッカーがプレーできるようになる」
はどうだろう。
わたしが「おもったとおり」にボールをあつかえるので、
とんでもないところにけったようにみえても、
仲間への絶妙なパスになったり、
あたりそこないのコロコロキックであっても
キーパーのタイミングをビミョーにはずして
なぜかゴールにすいこまれる。
サッカーは体力・テクニックがそのままあらわれるスポーツとはいえ、
かなりのところ運も左右する。
ぽっかりあいたスペースに、なぜかわたしがいて、
「おもったとおり」にキックすれば
たとえバルセロナやレアルが相手でも
だれもわたしのスーパープレーをとめられないはずだ。
冷静にかんがえると、こういう理づめでおもしろみのない「ねがい」は
もし実現されたとしても そのさきがスカスカだ。
体力もなく、ヘタなのに得点をかさねるわたしが
たとえWカップでMVPにえらばれても、
ではそれでしあわせになれるかというと、
それほど人生は単純ではない。
悪魔に魂をうりわたしてもしあわせになれる「3つのねがい」とはなにか。
たくさんこたえがありそうでいて、なかなか奥のふかいといかけであり、
だからこそいまだに寓話としてすたれないのだろう。
「鷹の爪2015年自虐カレンダー」がやすうりされていた。
本来なら1512円の壁かけ用が、税こみ540円と 1/3ほどの値段だ。
あたらしい年にはいったのだから 値さげは当然とはいえ、
売場のダンボールにぎっしり在庫がつめこまれていたので、
今回はさすがにつくりすぎたのかもしれない。
鷹の爪の人気がだんだんとたかまり、
いくらすってもうりきれの年がつづいていたから、
2015年版は、めちゃくちゃたくさん用意したのだろう。
熱心な鷹の爪ファンのわたしは、
2013・2014年と、壁かけ用カレンダーをかったけど、
もったいなくてめくれずに せっかくかったカレンダーが用をなさなかった。
今年はさすがにこりて卓上版しかかわず、
壁にはほかのカレンダーをかけている。
でも、540円ならコアなファンとして、当然おつきあいすべきだろう。
壁かけ版は、2ヶ月で1枚という構成なので、
2月からつかっても、致命的な損失とはいえず、まだ間にあう期間だ。
よくかんがえてみれば、1512円はもったいなくてめくれないくせに、
540円だと大丈夫というのは、
ファン心理というよりも、たんなるケチなだけということがわかる。
そもそもカレンダーごときが1500円というのはたかすぎるのだ。
500円だと安心してちぎれるというのは、
わたしにとって1500円が、たかい・やすいの
ひとつのくぎりになっているのかもしれない。
ちなみに壁かけ用の1・2月の自虐ネタは
「クラス対抗戦とかしてみたい」で
卓上版は
「消費税がまだ5%のところがある」だ。
「クラス対抗戦とかしてみたい」の切実感は、
じっさいに島根でくらしたことのあるひとでないとわからないだろう。
わかるひとには胸につきささり冗談にならなくて、
わからないひとには なんのことか意味がつたわらない。
ということで、卓上版の
「消費税がまだ5%のところがある」に軍配をあげたい。
鷹の爪といえば、番組のなかで
「3つのねがい」をとりあげていたことがある。
3つのねがいをききいれてくれるかわりに、
悪魔に魂をうりわたす、というアレだ。
番組では吉田くんが
「3つのねがいに、100をたして、103にして」
とさきのばし作戦にでたので感心してしまった。
あれからわたしも効果的な「3つのねがい」をすこしかんがえてみた。
「おもったとおりにサッカーがプレーできるようになる」
はどうだろう。
わたしが「おもったとおり」にボールをあつかえるので、
とんでもないところにけったようにみえても、
仲間への絶妙なパスになったり、
あたりそこないのコロコロキックであっても
キーパーのタイミングをビミョーにはずして
なぜかゴールにすいこまれる。
サッカーは体力・テクニックがそのままあらわれるスポーツとはいえ、
かなりのところ運も左右する。
ぽっかりあいたスペースに、なぜかわたしがいて、
「おもったとおり」にキックすれば
たとえバルセロナやレアルが相手でも
だれもわたしのスーパープレーをとめられないはずだ。
冷静にかんがえると、こういう理づめでおもしろみのない「ねがい」は
もし実現されたとしても そのさきがスカスカだ。
体力もなく、ヘタなのに得点をかさねるわたしが
たとえWカップでMVPにえらばれても、
ではそれでしあわせになれるかというと、
それほど人生は単純ではない。
悪魔に魂をうりわたしてもしあわせになれる「3つのねがい」とはなにか。
たくさんこたえがありそうでいて、なかなか奥のふかいといかけであり、
だからこそいまだに寓話としてすたれないのだろう。
2015年02月03日
『駄作』(ジェシー=ケラーマン)めちゃくちゃややこしいけど たくみなプロット
『駄作』(ジェシー=ケラーマン・ハヤカワ文庫)
うれない作家、ブフェファコーンは、
わかいころ本を1冊だしたきりで、あとはなかずとばず。
もう、あたらしい小説をかくちからはなく、
いまはちいさな大学で創作をおしえている。
ブフェファコーンの友人であり、
ベストセラー作家のビルが事故でなくなった。
ブフェファコーンは、追悼会に出席したおり、
ビルがかきかけていた原稿をたまたま手にいれる。
すこし手なおしして出版社にもちこんだところ、
これがとんでもないヒット作になってしまった・・・。
ネタばれだけど、これぐらいばらしてもぜんぜん大丈夫なくらい、
この作品は複雑にはなしがからまっていく。
ビルの奥さんといっしょに食事をしたとき、
「これはなんだ?チキンサラダ?」ブフェファコーンが尋ねた。
「フォアグラよ」
がおかしい。
ブフェファコーンは、そんなショボい中年男性なのだ。
そこそこの正義感があり、わるいやつではなく、
作家としての実力はない。
ただあまりにもフツーな男であるだけ。
そんなブフェファコーンが、ヒット作をうんだがばかりに
ややこしい状況にまきこまれていく。
本編だけで559ページもある あつい本なのに、
ほんの数ページでつぎつぎと章がかわり、あたらしい展開にうつっていく。
正直いって、はなしのながれをおいかけるのがせいいっぱいで、
全体を把握できない。
あまりのへんてこさに、とちゅうからずっとあきれていた。
まえにでてきた登場人物が、あとになって とんでもない役で顔をだす。
翻訳者である林香織氏は、ものすごくはなしが二転三転するので、
正確に訳しているかどうか、不安にならなかったろうか。
そんなめちゃくちゃなストーリーなのに、
さいごまでおもしろくよませるのだから すごい。
ラストはまた、それまでとはまったくちがう世界にはいる。
なんなんだ、この本は。
冒頭にあげられている「ニューヨーク・タイムズ」のブックレビューに
「ド・ヴァレーのプロットは、いつもひねりが効いていて・・・」とあった。
ひさしぶりにプロットということばを意識する。
そうだ。プロットとしかいいようがない。
この本は、プロットでよませる本なのだ。
うれない作家、ブフェファコーンは、
わかいころ本を1冊だしたきりで、あとはなかずとばず。
もう、あたらしい小説をかくちからはなく、
いまはちいさな大学で創作をおしえている。
ブフェファコーンの友人であり、
ベストセラー作家のビルが事故でなくなった。
ブフェファコーンは、追悼会に出席したおり、
ビルがかきかけていた原稿をたまたま手にいれる。
すこし手なおしして出版社にもちこんだところ、
これがとんでもないヒット作になってしまった・・・。
ネタばれだけど、これぐらいばらしてもぜんぜん大丈夫なくらい、
この作品は複雑にはなしがからまっていく。
ビルの奥さんといっしょに食事をしたとき、
「これはなんだ?チキンサラダ?」ブフェファコーンが尋ねた。
「フォアグラよ」
がおかしい。
ブフェファコーンは、そんなショボい中年男性なのだ。
そこそこの正義感があり、わるいやつではなく、
作家としての実力はない。
ただあまりにもフツーな男であるだけ。
そんなブフェファコーンが、ヒット作をうんだがばかりに
ややこしい状況にまきこまれていく。
本編だけで559ページもある あつい本なのに、
ほんの数ページでつぎつぎと章がかわり、あたらしい展開にうつっていく。
正直いって、はなしのながれをおいかけるのがせいいっぱいで、
全体を把握できない。
あまりのへんてこさに、とちゅうからずっとあきれていた。
まえにでてきた登場人物が、あとになって とんでもない役で顔をだす。
翻訳者である林香織氏は、ものすごくはなしが二転三転するので、
正確に訳しているかどうか、不安にならなかったろうか。
そんなめちゃくちゃなストーリーなのに、
さいごまでおもしろくよませるのだから すごい。
ラストはまた、それまでとはまったくちがう世界にはいる。
なんなんだ、この本は。
冒頭にあげられている「ニューヨーク・タイムズ」のブックレビューに
「ド・ヴァレーのプロットは、いつもひねりが効いていて・・・」とあった。
ひさしぶりにプロットということばを意識する。
そうだ。プロットとしかいいようがない。
この本は、プロットでよませる本なのだ。
2015年02月02日
ひとりでうつくしくたべるのは、あんがいむつかしい
ひるごはんなど、台所でのこりものをたべているときによくおもうけど、
ひとりできれいに食事するのは、あんがいむつかしい。
たべているとちゅうでいろんなこと、
たとえばおかずをレンジであたためたり、
とりわすれたおかずをおもいだして冷蔵庫をあけたり、
たべおえたお皿を、まだほかのものをたべているのに ながしにはこんだり、
そのときにお皿のよごれを、ついでに紙でふきとったり。
ひとりでたべているのに、やたらとあわただしい。
たべながら、腰をあげるのがおおすぎるのだ。
ひとりでたべるときくらい、
すきにやればいいようなものだけど、
ひとりのときこそ おちついてうつくしくたべたくもある。
自閉症の障害特性のひとつとして、視覚優位があげられる。
耳からはいる情報よりも、目にはいるもののほうへ 敏感に反応するという特性だ。
しかしこれは、自閉症にかぎらず おおくのひとにいえることで、
目にはいると だれでもついおもってなかったことをやってしまう。
よごれたお皿をみるとながしにもっていきたくなるし、
レンジのフタがあいているとすぐにしめたくなる。
冷蔵庫におかずをしまうとちゅうに テーブルのうえにだしてあるバターをみると、
手がふさがっているのに、それもついでにかたづけたくなる。
あんがいわたしはかなり視覚優位な人間かもしれない。
目にはいらなければ気にならないのだから、
調教のとき馬につけるような道具(ブリンカーというのだそうだ)をつかい、
目にはいる範囲をせまくかぎってしまえば たべることに集中できるだろう。
しかし、もちろんそんなものにたよりたくはない。
これらをすべて解決できるのがお弁当だ。
どれだけたべたらいいのかに なやむことがないし、
いろんなお皿がまわりにちらかりもしない。
お弁当箱にはいっているのがすべてなのだから、
すごくわかりやすい。
箱にいれる手間をいとわなければ、
お弁当くらいすばらしい方法はない。
おちついてテーブルにつくというのとはべつに、
おはしのつかい方やちゃわんのもち方など、
きれいにたべるためのハードルはたかい。
「わたしばし」はよくないというけれど、
そもそもわたしのうちには はしおきがない。
これらの「作法」もおおきな問題ではあるけれど、今回は そこまでふれない。
よく、ひとりでくらすときにも、
手をぬかずに食事や身のまわりをととのえる大切さを指摘される。
ひとり分でも わたしはおそうざいにたよらずに
自分でかいものをして料理する自信がある。
でも、せっかくそうやってつくっても、
きれいにたべられなかったら なんだかピントをはずしているみたいだ。
これからさき、なんにんかでテーブルにつき、
おしゃべりしながらたべられるときばかりではないだろう。
ひとりのときにでも、だれにみられてもはずかしくない食事は
わたしにとってすごくむつかしい。
ひとりできれいに食事するのは、あんがいむつかしい。
たべているとちゅうでいろんなこと、
たとえばおかずをレンジであたためたり、
とりわすれたおかずをおもいだして冷蔵庫をあけたり、
たべおえたお皿を、まだほかのものをたべているのに ながしにはこんだり、
そのときにお皿のよごれを、ついでに紙でふきとったり。
ひとりでたべているのに、やたらとあわただしい。
たべながら、腰をあげるのがおおすぎるのだ。
ひとりでたべるときくらい、
すきにやればいいようなものだけど、
ひとりのときこそ おちついてうつくしくたべたくもある。
自閉症の障害特性のひとつとして、視覚優位があげられる。
耳からはいる情報よりも、目にはいるもののほうへ 敏感に反応するという特性だ。
しかしこれは、自閉症にかぎらず おおくのひとにいえることで、
目にはいると だれでもついおもってなかったことをやってしまう。
よごれたお皿をみるとながしにもっていきたくなるし、
レンジのフタがあいているとすぐにしめたくなる。
冷蔵庫におかずをしまうとちゅうに テーブルのうえにだしてあるバターをみると、
手がふさがっているのに、それもついでにかたづけたくなる。
あんがいわたしはかなり視覚優位な人間かもしれない。
目にはいらなければ気にならないのだから、
調教のとき馬につけるような道具(ブリンカーというのだそうだ)をつかい、
目にはいる範囲をせまくかぎってしまえば たべることに集中できるだろう。
しかし、もちろんそんなものにたよりたくはない。
これらをすべて解決できるのがお弁当だ。
どれだけたべたらいいのかに なやむことがないし、
いろんなお皿がまわりにちらかりもしない。
お弁当箱にはいっているのがすべてなのだから、
すごくわかりやすい。
箱にいれる手間をいとわなければ、
お弁当くらいすばらしい方法はない。
おちついてテーブルにつくというのとはべつに、
おはしのつかい方やちゃわんのもち方など、
きれいにたべるためのハードルはたかい。
「わたしばし」はよくないというけれど、
そもそもわたしのうちには はしおきがない。
これらの「作法」もおおきな問題ではあるけれど、今回は そこまでふれない。
よく、ひとりでくらすときにも、
手をぬかずに食事や身のまわりをととのえる大切さを指摘される。
ひとり分でも わたしはおそうざいにたよらずに
自分でかいものをして料理する自信がある。
でも、せっかくそうやってつくっても、
きれいにたべられなかったら なんだかピントをはずしているみたいだ。
これからさき、なんにんかでテーブルにつき、
おしゃべりしながらたべられるときばかりではないだろう。
ひとりのときにでも、だれにみられてもはずかしくない食事は
わたしにとってすごくむつかしい。
2015年02月01日
アジアカップ決勝戦、オーストラリアが韓国をやぶって初優勝
NHK-BSでの放送は、山本昌邦さんと早野宏史さんが解説を担当された。
山本さんがチームの継続性について強調すると、
早野さんは「ただくりかえせばできるというものじゃないから」と、
それにたいして否定的なことをいう。
お、このふたりはうまくいかないかも、
あいだにはいるアナウンサーはたいへんかな、と期待する。
山本さんは、どの試合もけっきょく精神論だ。
「ギリギリのところでどこまでやれるか」
「あと数センチというところを、どれだけ足をのばせるか」
なんてことを延々といいつづける。
早野さんにきびしくつっこんでもらういい機会だとおもっていたら、
それが、ほんとうに気もちのはいったすごい試合になってしまった。
テクニックや戦術うんぬんではなく、これはもう、死闘といっていい。
試合については宇都宮徹壱さんのコラム
「日々是亜州杯2015」にくわしい。
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/sports/soccer/japan/2015/columndtl/201502010002-spnavi?page=2
「『面白い』とか『スリリング』というよりも、
むしろ『壮絶』という表現が最もふさわしかったように思う」
にわたしもふかく共感する。
決勝の場に、日本代表がいないさみしさとともに、
日本代表がみせる内容では、ここにいるのがふさわしくないという
かなしい事実をかみしめる。
オーストラリアと韓国は、ほんとうにすばらしい試合をみせてくれた。
ちからのかぎりをつくしてたたかっているようすが、みるものの胸をうつ。
アナウンサーのいう
「どのような結果になろうとも、
両チームにとってこの試合はおおきな財産となるはずです」
という発言に納得する。
解説で山本さんはつぎの2つを指摘されている。
・予選リーグをふくめ、決勝戦にでるまでに
6試合あることをみすえた選手起用
・世代交代をどうすすめるか
決勝にのころうとおもったら 6試合たたかうわけで、
ベテランにたよったり、おなじスタメンを4試合つづけたりしていては、
とても決勝まで コンディションを維持できない。
W杯は決勝戦までさらにもう1試合あるから、
それを固定したメンバーでたたかうのは あきらかに無理がある。
ベンチにいる23人全員がはたらくようなチームでなければ、
と山本さんはいわれる。
韓国とオーストラリアは、両チームともけが人をかかえながらも
かわってはいるひかえの選手がおぎなっていた。
また、韓国とオーストラリアだけでなく、
中国やUAEなど、おおくのチームでわかい選手が活躍する機会をえて、
彼らがこれからチームの顔となることを予感させている。
国際大会を経験したからといって、それで世代交代がすすむわけではなく、
今回の決勝みたいな、ギリギリの試合をどれだけくぐりぬけてきたかが財産となる。
日本はUAEとの試合にまけたことで、
死闘をえんじ、世代交代をすすめる機会をうしなってしまった。
日本はアジアの強国だと安心していたら、
あっという間にとりのこされてしまったかのようだ。
サッカーにおいて、人口とつよさは比例しない。
このさきどんどん人口がへるからといって、
サッカーもつきあって元気をなくす必要はなく、
気もちをきりかえて W杯予選にのぞんでもらいたい。
アジア枠の4.5が、それほど余裕のあるにおもえなくなってきた。
優勝したオーストラリアと、
すばらしいタフな試合をみせてくれた韓国の健闘をたたえたい。
山本さんがチームの継続性について強調すると、
早野さんは「ただくりかえせばできるというものじゃないから」と、
それにたいして否定的なことをいう。
お、このふたりはうまくいかないかも、
あいだにはいるアナウンサーはたいへんかな、と期待する。
山本さんは、どの試合もけっきょく精神論だ。
「ギリギリのところでどこまでやれるか」
「あと数センチというところを、どれだけ足をのばせるか」
なんてことを延々といいつづける。
早野さんにきびしくつっこんでもらういい機会だとおもっていたら、
それが、ほんとうに気もちのはいったすごい試合になってしまった。
テクニックや戦術うんぬんではなく、これはもう、死闘といっていい。
試合については宇都宮徹壱さんのコラム
「日々是亜州杯2015」にくわしい。
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/sports/soccer/japan/2015/columndtl/201502010002-spnavi?page=2
「『面白い』とか『スリリング』というよりも、
むしろ『壮絶』という表現が最もふさわしかったように思う」
にわたしもふかく共感する。
決勝の場に、日本代表がいないさみしさとともに、
日本代表がみせる内容では、ここにいるのがふさわしくないという
かなしい事実をかみしめる。
オーストラリアと韓国は、ほんとうにすばらしい試合をみせてくれた。
ちからのかぎりをつくしてたたかっているようすが、みるものの胸をうつ。
アナウンサーのいう
「どのような結果になろうとも、
両チームにとってこの試合はおおきな財産となるはずです」
という発言に納得する。
解説で山本さんはつぎの2つを指摘されている。
・予選リーグをふくめ、決勝戦にでるまでに
6試合あることをみすえた選手起用
・世代交代をどうすすめるか
決勝にのころうとおもったら 6試合たたかうわけで、
ベテランにたよったり、おなじスタメンを4試合つづけたりしていては、
とても決勝まで コンディションを維持できない。
W杯は決勝戦までさらにもう1試合あるから、
それを固定したメンバーでたたかうのは あきらかに無理がある。
ベンチにいる23人全員がはたらくようなチームでなければ、
と山本さんはいわれる。
韓国とオーストラリアは、両チームともけが人をかかえながらも
かわってはいるひかえの選手がおぎなっていた。
また、韓国とオーストラリアだけでなく、
中国やUAEなど、おおくのチームでわかい選手が活躍する機会をえて、
彼らがこれからチームの顔となることを予感させている。
国際大会を経験したからといって、それで世代交代がすすむわけではなく、
今回の決勝みたいな、ギリギリの試合をどれだけくぐりぬけてきたかが財産となる。
日本はUAEとの試合にまけたことで、
死闘をえんじ、世代交代をすすめる機会をうしなってしまった。
日本はアジアの強国だと安心していたら、
あっという間にとりのこされてしまったかのようだ。
サッカーにおいて、人口とつよさは比例しない。
このさきどんどん人口がへるからといって、
サッカーもつきあって元気をなくす必要はなく、
気もちをきりかえて W杯予選にのぞんでもらいたい。
アジア枠の4.5が、それほど余裕のあるにおもえなくなってきた。
優勝したオーストラリアと、
すばらしいタフな試合をみせてくれた韓国の健闘をたたえたい。