ほぼ10年ぶりに『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』をよみかえしている。
森の発電所にすむ男が気になってくる。
森から一歩も外にでられない。
3日ごとにやってくる風をまつ人生って、
どんなものだろう。
ひとむかしまえのくらしは、
おおかれすくなかれ、あの男性とにたりよったりのはずで、
限定されているからといって、かんたんには不幸とはいえない状況だ。
ひとりぼっち、というさみしさはあるものの、
ものがすき、というこのひとにとって、
森でのくらしはわるくないような気がする。
そして、わたしもまたそんなくらしをもとめている部分がある。
もちろん自分の意思でそんな環境に身をおくのと、
はじめから固定された役割として発電所につとめるのは おなじではない。
こんなくらしもわるくないかも、とおもわせる村上さんの表現が、
なにかわたしの根源的なこのみを刺激するのだろう。
10代や20代のわかものに、森の発電所でくらせ、というのはたまらない役割だけど、
「世界の終わり」はうまくできた世界なので、
それなりのひとが自分にあった居場所をあたえられている。
どうにもやれなくなると、かわりのひとがその仕事にまわされてくる。
3日にいちどの風をまち、あいた日には畑で野菜をそだてる。
わるくない。
しかし、かんがえようによっては、現代を生きるわたしたちも、
全面的にはむりがあるとはいえ、
ある程度はにたようなとざされた世界を 自分でえらべることに気づく。
ずーっと森でくらすのは、さすがにいきぐるしいので、
いちねんにいちどはどこかに旅行にでかける。
ひとりっきりは精神衛生上このましくないので、
おしゃべりしたり、いっしょに食事をとれる仲間がすこしはいたほうがいい。
毎日きのこの煮こみ料理ではあきそうだから、
ときどきはパブにいってビールとハンバーグぐらいたべたいな。
それのどこが「森のくらし」か?
やはりわたしには「森のくらし」はむりなのか。
でも、わたしにとって「森のくらし」なら、それでいいような気もする。