2015年02月06日

10年ぶりの『世界の終わりとハードボイルド〜』 森の発電所ではたらく男性が気になる

ほぼ10年ぶりに『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』をよみかえしている。

森の発電所にすむ男が気になってくる。
森から一歩も外にでられない。
3日ごとにやってくる風をまつ人生って、
どんなものだろう。

ひとむかしまえのくらしは、
おおかれすくなかれ、あの男性とにたりよったりのはずで、
限定されているからといって、かんたんには不幸とはいえない状況だ。
ひとりぼっち、というさみしさはあるものの、
ものがすき、というこのひとにとって、
森でのくらしはわるくないような気がする。
そして、わたしもまたそんなくらしをもとめている部分がある。
もちろん自分の意思でそんな環境に身をおくのと、
はじめから固定された役割として発電所につとめるのは おなじではない。
こんなくらしもわるくないかも、とおもわせる村上さんの表現が、
なにかわたしの根源的なこのみを刺激するのだろう。

10代や20代のわかものに、森の発電所でくらせ、というのはたまらない役割だけど、
「世界の終わり」はうまくできた世界なので、
それなりのひとが自分にあった居場所をあたえられている。
どうにもやれなくなると、かわりのひとがその仕事にまわされてくる。
3日にいちどの風をまち、あいた日には畑で野菜をそだてる。
わるくない。
しかし、かんがえようによっては、現代を生きるわたしたちも、
全面的にはむりがあるとはいえ、
ある程度はにたようなとざされた世界を 自分でえらべることに気づく。

ずーっと森でくらすのは、さすがにいきぐるしいので、
いちねんにいちどはどこかに旅行にでかける。
ひとりっきりは精神衛生上このましくないので、
おしゃべりしたり、いっしょに食事をとれる仲間がすこしはいたほうがいい。
毎日きのこの煮こみ料理ではあきそうだから、
ときどきはパブにいってビールとハンバーグぐらいたべたいな。
それのどこが「森のくらし」か?
やはりわたしには「森のくらし」はむりなのか。
でも、わたしにとって「森のくらし」なら、それでいいような気もする。

posted by カルピス at 13:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 村上春樹 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする