2015年02月24日

ものの名前をしらないこと

わたしのまわりには、さまざまな種類の草木がはえ、
鳥がなき、虫たちがうごめいている。
もちろん、そのどれもに名前がある。
しかしわたしの知識はあまりにもとぼしいので、
「花がさいている」「チョウチョがとんでる」くらいの認識しかない。

おなじように、世界にはさまざまな歌がある。
そのどれもに曲名があるわけだけど、
これまた残念なことに、わたしには
ほとんどの歌の名前をしらないので
「なにか音楽がながれている」としかかんじられない。

ファッションについても、わたしはほとんどなにもしらない。
デザイナーの名前くらいはきいたことがあっても、
その服をえらぶことが、どんなメッセージを意味するのかまでは気づかない。
本にでてくる人物について、服のくみあわせがかいてあっても、
そこから ひととなりを推測するだけの知識がない。

本についてなら、わたしにもある程度わかる。
世界にはたくさんの本があり、
あたりまえだけど、そのどれもに題名がついている。
よくしられている本なら、わたしもそのタイトルをきいたことがあり、
そのなかのいくつかは、よんだこともあるはずだ。
本にあまりしたしみをかんじないひとにとって、
世界にあふれるたくさんの本は、
わたしにとっての木や花みたいなものかもしれない。

河合隼雄さんだったら、ただ名前をしっているのと、
そのものの ほんとうのすがたをしっていることは、
おなじではないと、援護射撃をしてくれるかもしれない。
バラをみて、ただきれいな花だとおもうのと、
バラがさいている、と名前をみきわめるのとは
どちらがこのましいか、かんたんにはきめられない。
バラだとみとめたとたん、なにかわかったつもりになるこわさを
河合さんはたびたび指摘しておられた。

しかし、それはそれだ。
一般教養として、ある程度の動植物の名前や、
演奏者まではききわけられなくても、
なんという曲名くらいはわかっているのが
教養あるおとなというものだろう。
わたしが本をよんでたのしめたとおもっていても、
ずいぶんひくいレベルに とどまっているのかもしれない。
それなりの教養人とくらべたら、おなじ文章をよんでも、
わたしはかなりかぎられた情報しかうけとれていないわけで、
かいているひとからすれば、もうすこしちゃんとよみとれよ、
といいたくなる こまった読者なのではないか。
もっとも、「名もしれぬ花がさき」なんてかく小説家がいるくらいだから、
名前にどれだけ厳密さをもとめるかはひとそれぞれともいえる。

即効的な解決方法は おそらくないだろうから、
自分がなにもしらないことをみとめ、
謙虚でありたいとおもう。
たとえ名前をしっていても、それだけで安心してしまわず、
名前にかくされたふかい意味に耳をかたむけたい。

posted by カルピス at 20:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする