夕ごはんをつくりながら、なんとなくテレビをみていると、
『エリン・ブロコビッチ』をやっていた。
ジュリア=ロバーツが主演している映画で、
彼女はこの作品でアカデミー主演女優賞をえたそうだ。
ジュリア=ロバーツは、ちいさな子ども3人をかかえるシングルマザー役で、
まずしい家庭にそだち、学歴もひくい。
作品のオープニングでは、わるいことがかさななり、
貯金はそこをつき、なんとしても仕事につかなければ
子どもたちの食事にもこまる生活だ。
わかくうつくしけれど、周囲の反感をかいやすく、
すこしのことにでも妥協せずたたかっている。
自分をみとめろと、社会とぶつかって生きる たたかう女。
ジュリア=ロバーツをみていると、
オープニングだけで、その後のストーリーがわかったような気がした。
食事中はべつの番組にチャンネルをうつし、
40分後にまたもとにもどすと、
だいたいおもったとおりのながれだ。
40分の空白にもかかわらず、とまどわないで筋についていけた。
わかりやすい、というより、すべてがみえみえで、おどろきがない。
ジュリア・ロバーツくらい圧倒的にきれいだと、
美貌はアドバンテージではなく、ハンディでもあるなー、とおもった。
こんなにきれいなひとが、そんなトホホな人生をあゆんでいるわけがない、と
どうしてもおもってしまう。
リアリティがない。あまりにも うつくしすぎる。
「美人論」でしられる井上章一さんが
梅棹忠夫さんとの対談で「美人の処理のしかた」について
はなしていたのをおもいだした。
(『女と男の最前線』におさめられている「群をぬく美貌の文明史」)
「美人というのは、美貌において社会的に突出した存在ですよね。
社会的に突出した存在というのは、
社会が何らかの方法で処理するわけなんです。
たとえば、常軌を逸した精神のもちぬしを処理するしかたは
社会によっていろいろあるわけです。
病院に収容するとか、聖人としてあがめるとか、
村から追い出すとか、ほおっておくとか。
では、美貌の面で突出した人間を社会はどのように処理するか」(井上)
とびきりの美貌のゆくさきとして
芸能界が位置づけられている社会はおおい。
うつくしすぎる女性は、
一般社会くらいだと、その美貌をいかしきれないので、
自然と芸能界、なかでも映画の世界にあつまってくる。
映画界はうつくしい男女があつまる世界であり、
美人を社会的に処理するための装置なのだ。
ジュリア=ロバーツはそのなかでも
とびきりの存在といっていいだろう。
問題は、ちゃんとそうやって処理したつもりなのに、
『エリン・ブロコビッチ』ではその処理が不適切で、
作品自体のリアリティがうしなわれていることだ。
ジュリア=ロバーツ目あてに劇場をおとずれたファンは別にして、
映画の内容にひたろうとした観客にとって、
ジュリア=ロバーツはまだうつくしすぎ、
そのうつくしさは映画にとって邪魔でしかなかった。
オープニングだけで映画の筋がわかってしまうようでは、
アカデミー主演女優賞がなくというものだ。
『エリン・ブロコビッチ』のなかで
ジュリア=ロバーツは突出してうつくしかった。
もっとまわりを美男美女でかためたら、
ジュリア=ロバーツの演技がひかったかもしれない。
ひからなかったかもしれないけど。